第35話 帰る場所
肩紐へ腕を通そうとしたとき、遠くで爆発の音がした。
私は包みを抱えたまま、地面へ屈んだ。おばちゃんも隣で身体を低くした。さっき横になったばかりの女の人を、ゲンさんたちが囲むように伏せた。
音は続いたが、今いる畑へ何か落ちたのかは分からなかった。
私は額を腕へ押しつけた。
煙の匂いがする。土は乾いていて、指で掴むと崩れる。背中の上に屋根はなく、空から来るものを遮るものもなかった。
壕にいたときは、土の天井が落ちてくるのが怖かった。
外へ出れば、今度は何もないことが怖かった。
どこなら安心して息を吸えるのか、私はもう分からなかった。
*
飛行機の音が遠ざかったあとも、しばらく誰も立たなかった。
先に顔を上げたのはゲンさんだった。空を見てから道の方へ目を向け、もう少し向こうへ行こう、と言った。
「畑の下に、身を寄せられるところがある」
私はおばちゃんと一緒に荷物を持った。
歩き始めると、膝が痛んだ。さっき転んだところの布が突っ張り、裾を持ち上げて見ると、土に混じって血がついていた。
おばちゃんが足を止めた。
「痛む?」
「歩ける」
そう答えると、おばちゃんは私の膝を見たあと、頷いた。
「着いたら見ようね」
歩けると言ったのは、嘘ではなかった。
けれど、一歩出すたび、痛みが来るのを待つようになった。足を出す前に力が入り、そのせいで別のところまで疲れた。
前では、怪我をした女の人が二人に支えられていた。
自分の足を庇って歩ける私は、まだいいのだと思った。そう思っても、痛みは小さくならなかった。
*
畑の縁から少し下がったところに、地面の窪みがあった。
すでに何人かが身を寄せていた。私たちは隙間へ入り、荷物を置いた。頭の上は開いていたが、座ると道から身体が隠れた。
おばちゃんが私の膝を確かめた。
布を持ち上げると、傷へ貼りついていたところが引かれ、私は息を止めた。
「ごめんね」
おばちゃんは手を止め、残っていた水を少しだけ使った。
水が触れた瞬間、痛みが強くなった。
私は唇を噛み、横を向いた。
家なら、蛇口を開けて流せた。母なら、洗面所の棚から薬を出してきた。転んだくらいなら大丈夫と、自分で言っていたと思う。
ここでは、水を使うことにも迷わなければならなかった。
おばちゃんは汚れを落とせるだけ落とし、布を当てた。
「あとで、きちんと見てもらおう」
私は頷いた。
あとで、という言葉がありがたかった。
この先にも、何かできる時間があるように聞こえた。
*
食べ物を分けたころには、朝なのか昼なのか分からなくなっていた。
おばちゃんは包みから芋を取り出し、私へ渡した。朝食べたものより冷たく、表面に布の跡がついていた。
私は少しずつ口へ入れた。
飲み込むたび喉が痛んだ。煙を吸ったからなのか、口が乾いているからなのか分からなかった。
隣の子どもが母親の膝で眠っていた。泣き疲れたのか、時々、息が小さく引っかかった。
足を怪我した女の人は、食べ物を受け取らなかった。
ゲンさんが声をかけても、首を振った。目は開いていたが、私たちの方を見ていなかった。
その人の名前を、誰かがキヨさんと呼んだ。
私は初めて、名前を知った。
血のついた裾や、子どもを呼ぶ声ばかり覚えていた。さっきまで、その人にも毎朝の支度があり、家の中で名前を呼ばれる暮らしがあったことを、私は考えられずにいた。
「少しだけでも」
おばちゃんが芋を持って近づいた。
キヨさんは顔を上げた。
「うちの子、食べてないんです」
おばちゃんの手が止まった。
「朝、急いでて。あとで食べようって言って……」
キヨさんはそこで口を閉じた。
私は手の中の芋を見た。
もう半分以上食べていた。
残りを包みへ戻そうとしたとき、おばちゃんがこちらを見た。
「理恵ちゃんは、食べて」
私は小さく頷いた。
口へ入れたが、しばらく噛めなかった。
*
午後も、音がするたび身体を伏せた。
近いと思った音が遠くへ抜けることもあれば、もう行ったと思ったあとで、また爆発が聞こえることもあった。
私は空を見続けられなくなった。
見ていれば、何か分かると思っていた。けれど、飛行機を見つけても、そのあと自分のいる場所がどうなるのかは分からなかった。
目を閉じると、かえって音が大きくなった。
おばちゃんの手が触れるたび、私はそこへ身体を寄せた。
途中で、トメさんが荷物を開き、ゲンさんへ布を渡した。ゲンさんは顔を拭いてから、少し離れたところへ座った。
いつも家の前で仕事をしているときより、背中が小さく見えた。
「店の辺り、見えた?」
おばちゃんが尋ねた。
ゲンさんは少し黙った。
「煙で、よく分からん」
おばちゃんは頷いた。
私は、その返事を疑わなかった。分からないのなら、まだ残っているかもしれない。
そう思う一方で、ゲンさんがこちらを見なかったことを、ずっと覚えていた。
*
空の明るさが変わってきたころ、人が道へ出始めた。
誰かが、もう飛行機は来ていないと言った。
別の人は、まだ分からない、と答えた。
私たちはすぐには動かなかった。戻る人たちを見送り、ゲンさんが道の先を確かめてから、おばちゃんへ声をかけた。
「途中まで行ってみるか」
おばちゃんは私を見た。
「歩けそう?」
私は荷物へ手を伸ばした。
ここに残るより、一緒に行きたかった。
キヨさんは、支えていた男の人とトメさんの知り合いに付き添われ、別の場所へ向かうことになった。誰かが手当てを受けられるところを捜すと言った。
キヨさんは運ばれる前、ゲンさんへ子どもの特徴を伝えた。
名前と、年と、朝着ていた服。
私はその言葉を聞いたが、全部は覚えられなかった。
何度も聞き直すゲンさんの横で、自分には覚えることさえできないのだと思った。
*
戻る道には、出てきたときより物が落ちていた。
荷物だけではなかった。瓦の欠片や、板や、どこから飛んできたのか分からない金物があった。私は足元を見ながら歩き、少しずつ進む方向がずれた。
いつもの道へ戻ったはずなのに、知っている角が見つからなかった。
家がなくなると、道の形まで変わって見えた。
壁に沿って曲がっていたところが、ただの空いた場所になっていた。向こうの家の屋根が見え、こんなに近かったのかと思った。
道端に、人が横になっていた。
私は足を止めた。
顔には布がかけられていた。足先だけが出ていて、片方の履物がなかった。
眠っているのではないと分かった。
おばちゃんが私の手を握った。
「こっちを通ろう」
私は引かれるまま歩いた。
振り返りそうになったが、できなかった。顔を見なければ、その人を知っているかどうか分からない。
知っている人だったら、と思うと怖かった。
知らない人であってほしいと思った自分のことも、怖かった。
*
食堂のあった道へ入ると、おばちゃんの歩き方が変わった。
それまで足元を見ていたのに、顔を上げ、先を確かめながら進んだ。私も同じ方を見た。
看板が見つからなかった。
入口の脇に置いてあった鉢も、卓も、開いた戸の向こうの台所も、見えなかった。
おばちゃんが止まった。
私はその隣まで来て、ようやく場所が分かった。
石の敷居が残っていた。
初めてここへ来たとき、おばちゃんの後ろから跨いだところだった。
その奥に、黒くなった木が重なっていた。屋根は落ち、瓦の間からまだ煙が上がっていた。風が吹くと灰が動き、赤いところが少し見えた。
おばちゃんは荷物を下ろさなかった。
立ったまま、店の奥を見ていた。
私は口を開けた。
何か言わなければと思った。けれど、どの言葉を選んでも、ここにあったものを小さくしてしまう気がした。
助かってよかった。
また建てればいい。
そんなことを、今のおばちゃんへ言えなかった。
おばちゃんが一歩進んだ。
ゲンさんが腕を出した。
「まだ熱い。入るな」
おばちゃんは足を止めた。
「奥の部屋に」
それだけ言って、口を閉じた。
私はおばちゃんの横顔を見た。
娘の部屋。
私が眠った部屋。
おばちゃんが入っていいか尋ねてから、水を持ってきてくれた部屋。
どこからが廊下で、どこからが畳だったのか、もう分からなかった。
*
私たちは、少し離れたところへ座った。
ゲンさんは近所の家を確かめに行き、トメさんがその後を追った。私も立とうとしたが、おばちゃんに、ここにいて、と言われた。
私は隣へ座り直した。
おばちゃんは膝へ置いた手を見ていた。布を巻いた手首が汚れていたので、私は包みを開いた。
取り出した着替えの間から、日記が滑った。
私はすぐに拾い、布の下へ戻した。
その動きに、おばちゃんが顔を上げた。
私は何も言わず、別の布を探した。
奈々の絵も、持っている。
日記も、持っている。
それを確かめて安心した直後、目の前にある家を見て、喉が詰まった。
私の荷物は、ここにある。
おばちゃんが娘のために残していたものは、あの中にある。
「ごめん」
声が出た。
おばちゃんが私を見た。
「何が?」
私は首を振った。
何に謝ったのか、自分でも説明できなかった。十月十日を知っていたことにも、家が燃えるかもしれないともっと強く言わなかったことにも、自分のものを先に選んだことにも、謝りたかった。
おばちゃんは私の膝へ手を置いた。
「理恵ちゃん」
私は顔を上げられなかった。
「今日は、あそこへ戻らないよ」
おばちゃんの声は掠れていた。
「泊まれるところ、捜そうね」
私は頷いた。
戻らないという言葉で、初めて今夜のことが分かった。
あの布団で眠れない。
隣の部屋へ呼びかけることもできない。
私は包みを閉じようとした。結び目の途中で手が止まり、俯いたまま息を吸った。
おばちゃんの手が背中へ触れた。
私はその手に寄りかかった。
泣き始めると、喉が痛かった。声を抑えようとしても、うまくできなかった。
おばちゃんは何も言わず、背中へ手を置いていた。
しばらくして、その手も震えていることに気づいた。




