第34話 火の向こうへ
「火が近いぞ」
その声が聞こえてから、壕の中の人たちが動き始めた。
すぐには立てなかった。膝の上の荷物を抱える人と、子どもを起こす人が同時に身体を起こし、肩や肘が触れ合った。入口へ向かおうとした人が前の人に止められ、奥にいた私たちには、何が起きているのか見えなかった。
煙の匂いだけが強くなった。
おばちゃんが私の包みを押さえた。
「背負える?」
私は頷き、紐へ腕を通した。さっきより軽いはずなのに、肩をぶつけたところへ紐が当たると痛んだ。
おばちゃんが反対の肩へ寄せてくれた。
入口では、ゲンさんが外と中を行き来していた。
「ここに煙が入ってきてる。出られる人から、向こうへ回って」
「向こうって、どこだ」
「家の並んでる道へ戻るな。畑の方へ」
私はおばちゃんを見た。
逃げる道は見ておいた。
けれど、その先が燃えたときにどうするかまでは、歩いて確かめていなかった。
*
足を怪我した女の人が、立とうとして座り込んだ。
支えていた男の人が腕を取ったが、女の人は首を振り、裾を握った。血のついた布がずれ、私は膝を寄せた。
「先に、この人を」
おばちゃんが言った。
そばにいた人が荷物を抱え直し、通れるだけの隙間を作った。男の人が女の人の腕を自分の肩へ回し、もう一人が反対側を支えた。
女の人の足が、地面を擦った。
痛いという声が聞こえたが、二人は止まれなかった。後ろから人が寄り、入口の方では、早く、と声がしていた。
私は女の人が落とした布を拾った。
湿っていた。
血が指へつき、私は一瞬、手を引きそうになった。けれど、おばちゃんが受け取ってくれたので、渡してから自分の掌を見た。
拭く場所が見つからず、指を曲げたまま入口へ進んだ。
暗いところから外へ出ると、目が痛かった。
朝に見た空とは違っていた。
屋根の向こうに煙が広がり、どこまでが雲なのか分からなかった。風が吹くと煙の薄いところができ、その隙間に明るい空が見えたが、すぐに隠れた。
私は咳をした。
息を吸おうとして、また咳が出た。
「立ち止まらないで」
おばちゃんに引かれ、私は入口から離れた。
*
道の向こうで、男の人が桶を持って走っていた。
家の脇へ回り、水を投げた。白いものが一瞬立ち上がり、屋根の下からまた火が見えた。別の人が空の桶を受け取り、どこかへ走っていった。
私はその動きを見ていた。
水をかければ、消える。
家で鍋の火を止めるのと同じように、どこかで終わるものだと思っていた。
けれど、男の人が二度目の水を投げたときには、最初に火のなかったところまで明るくなっていた。
「もう離れろ」
ゲンさんが叫んだ。
男の人は桶を下ろさず、家の奥へ何か呼びかけた。返事は聞こえなかった。もう一人に肩を掴まれ、引かれても、一度振り返った。
屋根の端から、燃えたものが落ちた。
私はおばちゃんの腕を引いた。
おばちゃんはその家を見ていたが、私の方へ顔を戻し、歩き始めた。
「店は……」
尋ねかけると、おばちゃんの足が一瞬遅くなった。
私は続きを言えなかった。
*
細い道へ入ると、煙が少し薄くなった。
トメさんが、子どもを抱いた女の人の荷物を持っていた。女の人は何度も後ろを見ながら歩き、子どもは母親の首へ腕を回していた。
私たちの前には、足を怪我した女の人がいた。両側から支えられ、一歩進むたびに身体が沈んだ。
追い越せる場所はなかった。
私は足元を見ながら、その速さに合わせた。
後ろで、飛行機の音がした。
私は顔を上げた。
煙の中に機体は見えなかった。音がどちらから来るのかも分からず、後ろを見たあと、今度は前を見た。
「伏せろ」
誰かが言った。
私は屈もうとしたが、膝が曲がる前に、おばちゃんの手が肩を押した。道の端へ倒れるように身を寄せ、両手をついた。
土に小さな石が混じっていた。
掌へ食い込み、私は顔を下げた。
近くで大きな音がした。
胸の下の地面が震え、背負った包みが頭の方へずれた。私は口を開けていたのか、舌に土の味がした。
おばちゃんが隣にいるのか確かめようと、横を向いた。
袖が見えた。
私はそこへ手を伸ばした。
その先にある身体を見つけるまで、音のことも、火のことも、何も考えられなかった。
*
立ち上がると、掌に血が滲んでいた。
おばちゃんが私の手を取り、指を動かせるか確かめた。動かすと擦れたところが痛み、私は頷いた。
「歩けるね」
私はもう一度頷いた。
道の先へ目を向けると、怪我をした女の人を支えていた二人が、まだ屈んでいた。女の人は地面へ座り、頭を下げたまま動かなかった。
ゲンさんが近づき、声をかけた。
「もう少し先まで行こう」
女の人は顔を上げた。
「うちの子が」
ゲンさんは答えず、男の人と一緒に身体を起こした。
「うちの子、あっちに……」
女の人の手が、戻ってきた方を指した。
煙で道が見えなくなっていた。
私はその指を見たまま、動けなかった。
もし、おばちゃんがあの向こうにいたら。
行くなと言われても、私はここを離れられるだろうか。
「理恵ちゃん」
おばちゃんの声で顔を上げた。
私はその手を握った。
握れる手が隣にあることを、誰にも申し訳なく思わずに喜べたのは、朝までだった。
*
家並みを離れたところで、道が少し広くなった。
人が何組も歩いていた。背中に大きな荷を載せた人が、何度も足を止めた。そのたび後ろの人が脇を通り、荷物の角を避けて進んだ。
道端に布団が置かれていた。
括っていた紐がほどけ、端が土に触れていた。少し先には木の箱があり、中身が散らばっていた。
持って出てきた人は、今どこにいるのだろう。
私は自分の包みを引き上げた。
水と着替えと日記と、奈々の絵。
何度も中身を考えたのに、今は重さだけがはっきり分かった。背中へ当たる瓶の形が気になり、肩紐を直すたび、擦れた掌が痛んだ。
おばちゃんが私を見た。
「少し持とうか」
私は首を振った。
「持てる」
おばちゃんの手首には、まだ布が当ててあった。私はそこを見ないようにして、前へ進んだ。
*
畑の縁へ辿り着いたとき、ゲンさんが足を止めた。
ここで一度休もうと言われ、私は道から少し離れたところへ屈んだ。おばちゃんも隣に座り、トメさんが荷物を置いた。
怪我をした女の人は、男の人たちに支えられて身体を横にした。目を閉じたが、眠ったのかは分からなかった。時々、唇だけが動いた。
私は包みを下ろした。
背中が急に軽くなり、それと一緒に、身体のあちこちが痛み始めた。肩、膝、掌。どこへ触れても、自分がさっきまで何をしていたのか、少しずつ戻ってきた。
瓶の栓を開け、おばちゃんへ渡した。
おばちゃんは飲んでから、私へ返した。
「少し残しておこうね」
私は頷いた。
遠くに煙が見えた。
何本も別々に上がっているようで、途中から大きな一つになっていた。その下に、食堂があるのかもしれなかった。
朝、芋を食べた卓。
火を入れなかった鍋。
持って出なかった、私の服。
私は煙から目を離せなくなった。
「戻れない?」
尋ねると、おばちゃんはすぐには答えなかった。
自分の膝へ手を置き、その指についた土を見ていた。
「今は、戻らない」
やがてそう言った。
「理恵ちゃんと、ここにいるよ」
私は頷いた。
おばちゃんは煙を見ていた。私の方へ顔を向けなかったので、私はその横顔を見ず、隣へ座り直した。
店のことを心配している。
部屋のことも。
私が来る前から、ずっと暮らしていた家だった。娘の鉛筆も、服も、あそこにあった。
私は自分の包みへ掌を置いた。
その中には、私が大事だと決めたものが入っていた。
おばちゃんのものを、もっと持ってくればよかったと思った。
けれど今、それを口にしても、おばちゃんに私を慰めさせるだけだった。
私は何も言わず、隣に座っていた。
また、遠くで飛行機の音がした。
周りの人たちが一斉に空を見上げた。私も顔を上げたが、煙の向こうに何がいるのか見えなかった。
おばちゃんが、私の包みを引き寄せた。
休むために下ろした荷物を、私はもう一度背負わなければならなかった。




