第33話 外へ出られない
音が遠ざかっても、私は顔を上げられなかった。
膝に額を近づけた姿勢でいると、首の後ろが痛くなった。少し動こうとしても、隣の人の肩へ触れ、足を伸ばす先には誰かの荷物があった。私は身体を元の形へ戻し、おばちゃんの袖を握ったまま、息を吐いた。
入口の方で、人が話していた。
「もう行ったか」
「まだ出るな」
その声を聞いてから、私はようやく目を開けた。
暗さに慣れた目に、屈んでいる人たちの輪郭が見えた。すぐ隣に、小さな子を抱いた女の人がいた。子どもは母親の胸へ顔を埋め、時々、息を詰まらせるように泣いた。女の人は背中を撫でながら、同じ言葉を何度も繰り返していた。
「ここにいるよ。ここにいるから」
おばちゃんが私に言ったのと同じ言葉だった。
私は袖から指を一本ずつ離した。
握っていたところが、深く皺になっていた。
「水、飲める?」
おばちゃんに尋ねられ、頷いた。
包みの紐を解こうとしたが、指先に力が入らなかった。結び目を引くと、違うところが締まった。おばちゃんが手を添え、ゆっくりでいい、と言った。
ようやく瓶を取り出したとき、私はその重さに驚いた。
何度も持って歩いた水だった。それなのに、膝の上へ置くまで、両手で支えなければならなかった。
少し飲むと、口に入っていた土の味がした。
私は飲み込んでから、おばちゃんへ瓶を渡した。おばちゃんは一口だけ飲み、栓をした。
*
トメさんが入ってきたのは、その少し後だった。
入口から奥へ声が伝わり、おばちゃんが顔を上げた。
「こっち。ここにいるよ」
トメさんは人の間を通り、私たちのそばへ屈んだ。肩で息をしていて、持っていた包みには土がついていた。
「ゲンさんは?」
「入口のところにいる。あとから来る人を入れてる」
トメさんはそう答え、私の顔を見た。
「理恵ちゃん、大丈夫?」
私は頷いた。
大丈夫と言っていいのか分からなかった。身体はここにあり、血も出ていない。けれど、さっきから指が勝手に震え、飛行機の音が聞こえなくても、耳の奥ではまだ続いていた。
トメさんは私の肩へ触れ、それから自分の履物を脱いだ。
踵に擦れた跡があった。指で触れると痛かったのか、顔をしかめ、また履物を引っかけた。
「表に出てた人も、慌てて戻ってきたよ」
おばちゃんが頷いた。
「みんな入れた?」
「分からない。家の方へ走った人もいたから」
私はトメさんを見た。
家へ走る。
店に置いてきたものが頭に浮かんだ。元の服、机の上の鉛筆、棚の本。今ここで思い出しても、持ちに戻れるわけではなかった。
文子たちは、家にいただろうか。
千代の弟は、母親と一緒に逃げただろうか。
春子は十月十日という日付を、今、思い出しているだろうか。
私は膝へ手を置き、爪の間の土を親指で擦った。
*
音のしない時間が続くと、入口へ身体を向ける人が増えた。
外がどうなっているのか見たいという声がした。家へ戻って火の始末を確かめたい人もいた。誰かが、朝の支度の途中で出てきたのだと言った。
おばちゃんは、火を入れなくてよかったね、と私へ小さく言った。
私は頷いた。
その一つだけは、準備したとおりになった。
入口の方から入る光が、人の動きに合わせて見えたり隠れたりした。私はそこへ目を向け、今のうちに遠くへ逃げた方がいいのではないかと考えた。
この壕にいた人が助かったという記録を、私は知らない。
ここが安全だと確かめて来たわけではなかった。ただ、家から歩ける場所を見ておいただけだった。
「おばちゃん」
「うん?」
「ここから、ほかのところへ……」
言いかけたとき、入口の近くにいた人が振り向いた。
「また来るぞ」
私は息を止めた。
しばらくして、音が聞こえた。
さっき遠ざかっていったものと同じ音なのか、別の飛行機なのか分からなかった。低い響きが大きくなり、私は両手を耳へ持っていった。
おばちゃんの袖を離したことが急に怖くなり、片方の手を戻した。
爆発が起きた。
誰かが短く叫んだ。
土が落ち、頭へ当たった。細かい粒だけではなかった。硬い塊が肩へ落ち、私は息を吸ったまま身体を丸めた。
おばちゃんの腕が、私の頭の上へ来た。
その腕に何か当たる音がした。
「おばちゃん」
呼んだが、続く爆発に声が消えた。
私はおばちゃんの腰へしがみついた。耳を塞げなくなり、音がそのまま身体へ入った。足元が揺れたように感じ、座っているのに、どこかへ落ちると思った。
歯が触れ合った。
止めようとして口を閉じると、顎に力が入り、今度は息ができなくなった。
隣の子どもが泣き叫んだ。
母親が抱き直し、私の腕へ子どもの足が当たった。私は身を引こうとしたが、壁しかなかった。
壁へ押しつけた手の下で、土が崩れた。
この上にも土がある。
ここにいる全員の頭の上にある。
その重さを考えた途端、私は顔を上げられなくなった。
*
次に音が途切れたとき、私は自分の呼吸がうるさいことに気づいた。
短く吸って、すぐ吐いていた。深く吸おうとすると胸が引っかかり、途中でまた吐いてしまった。
「私の方を見て」
おばちゃんが言った。
私は顔を上げた。
薄暗い中で、おばちゃんの頬に土がついていた。髪にもついていた。いつも台所で結び直している髪が、耳の横へ落ちていた。
「吐いてごらん。少しずつ」
私はおばちゃんを見ながら、口から息を出した。
途中で震えた。
「そう。急がなくていい」
おばちゃんは自分でも息を吐き、私が同じようにするのを待った。
何度か繰り返すうちに、胸の詰まりが少し緩んだ。
私はおばちゃんの腕を見た。
袖に土がつき、手首の少し上が擦れていた。
「血……」
おばちゃんは腕を見て、それから指を動かした。
「少し擦っただけだよ」
私は包みから布を出そうとした。今度は、さっきより紐を触れた。畳んだ布を取り出し、おばちゃんへ渡すと、受け取って手首へ当てた。
何かを手渡せたことに、私はひどく安心した。
ずっと、おばちゃんに掴まれているだけだった。
*
入口の方が騒がしくなった。
人が入ってくるという声に続いて、場所を空けてほしいと誰かが言った。屈んでいた人たちが少しずつ身体を寄せ、私は包みを膝へ引き上げた。
男の人が二人で、女の人を支えて入ってきた。
足を引きずっていた。片方の履物がなく、裾の色が濃くなっていた。暗い中へ来て初めて、それが血だと分かった。
女の人は入口から少し入ったところで座り込んだ。支えていた男の人も膝をつき、手についていた血を見た。
「布、ないか」
声がした。
トメさんが自分の包みを開いた。おばちゃんも着替えの間を探り、布を一枚取り出した。
私は受け取り、人の間から差し出した。
前の人がそれを渡してくれた。
女の人の膝の下へ布が当てられた。本人が手を伸ばそうとしたが、男の人に止められた。痛い、と言う声は小さく、そのあと何度も、子どもの名前を呼んだ。
「一緒だったの?」
誰かが尋ねた。
女の人は頷いたのか、顔を伏せたのか、私の場所からは分からなかった。
「道で、離れて……」
それだけ聞こえた。
私は入口を見た。
さっき、おばちゃんとの間へ人の腕が入ったときのことを思い出した。あの手を離していたら、私もどこかで名前を呼んでいたかもしれなかった。
女の人は、もう一度子どもの名前を呼んだ。
返事はなかった。
*
時間が分からなくなっていた。
お腹が空いた気がしたが、食べたいとは思わなかった。喉は渇き、飲んでもすぐ口の中が乾いた。
瓶を取り出すと、隣の子どもがそれを見た。
私は母親へ、水はありますか、と尋ねた。
女の人は首を振り、手に持っていた小さな包みを見た。
「家へ取りに戻れなくて」
私は瓶を差し出した。
おばちゃんが黙って頷いた。
母親は少しだけと言って受け取り、子どもの口へ慎重に当てた。子どもは両手で瓶を掴もうとし、女の人が支えた。
戻ってきた瓶は、まだ水が残っていた。
私は栓を閉めた。
持ってきてよかったと思った。同時に、この水がなくなるまでここにいるのかもしれないと思い、残りの重さを掌で確かめた。
入口の方から、焦げた匂いがした。
私は顔を上げた。
最初は誰かの服についているのかと思った。けれど、外の風が入るたび強くなり、やがて入口にいた人が咳をした。
「煙が来てる」
ゲンさんの声だった。
おばちゃんが私の肩へ手を置いた。
私はその手の下で動かず、入口を見つめた。
光の中に、薄い靄のようなものがあった。誰かが外を覗き、すぐ身体を引いた。壕の中で、人が家の方角を尋ね始めた。
食堂は、どちらだっただろう。
道を曲がり、石垣を通り、ここへ来た順番を思い出そうとした。覚えているはずなのに、今いる場所から見た店の方向が、すぐには浮かばなかった。
おばちゃんは入口へ目を向けていた。
私はその横顔を見た。
この家に来てから、おばちゃんが帰る場所を迷うところを、一度も見たことがなかった。
今は、そのおばちゃんも立ち上がれずにいた。
私は瓶を包みへ戻し、紐を引き寄せた。指に結び目が触れ、練習したとおりに結ぼうとしたが、途中でまた震えた。
外から、誰かが叫んだ。
「火が近いぞ」
壕の中の人たちが、一斉に入口へ顔を向けた。




