第32話 十月十日の朝
目が覚めたとき、窓の外はまだ薄暗かった。
眠った覚えはなかったのに、布団から起き上がると、頬に畳の跡が残っていた。いつの間にか枕から頭が落ちていたらしい。首を動かすと痛みがあり、私は手で押さえながら、戸の向こうへ耳を澄ませた。
おばちゃんの足音はしなかった。
私は着替え、昨夜まとめた包みを背負った。水の瓶が腰へ当たり、肩紐を引き直すと、間に挟んだ日記の角が背中へ触れた。
戸を開ける前に、一度部屋を見た。
机も箪笥も、まだ昨日と同じ場所にあった。
*
「もう起きたの」
台所にいたおばちゃんが振り返った。
鍋には水が入っていたが、火はついていなかった。昨日頼んだことを覚えていてくれたのだと分かり、私は少し息を吐いた。
「外、見てくる」
「その荷物を持って?」
「うん」
おばちゃんは私の肩を見てから、気をつけて、と言った。
戸を開けると、朝の空気が顔へ触れた。道にはまだ人が少なく、隣の家では戸を開ける音がしていた。
空を見上げた。
何もなかった。
私は屋根の切れ目から見える空を順に確かめた。薄い雲があるだけで、飛行機は見えなかった。しばらく立っているうちに、包みの重さが肩へかかり、紐を持ち上げた。
今日ではなかったら。
その考えが浮かんだ。
日付を間違えて覚えていたのかもしれない。十月十日は合っていても、私がここにいることで、何かが変わっているのかもしれない。
何も起きないなら、それでよかった。
春子に責められても、先生に呼び出されても、この空が変わらなければよかった。
「理恵ちゃん」
おばちゃんが戸口へ来た。
「少し食べておこう。お腹が空いたままじゃ、動けないよ」
私は空を見たまま頷いた。
店へ戻り、包みを足元へ置いて腰を下ろした。おばちゃんが出してくれた芋を割ると、指へまだ温かさが伝わった。
一口を飲み込むのに時間がかかった。
おばちゃんは向かいへ座り、私が食べるのを待った。自分の分を取りながら、今日は学校へどうするの、と尋ねた。
「少し、待ちたい」
「先生には、あとで話そうね」
私は頷き、もう一口食べた。
そのとき、遠くで音がした。
*
最初は、道を走る車だと思った。
低い音が途切れず、少しずつ大きくなった。私は芋を持ったまま顔を上げた。おばちゃんも入口の方を見ていた。
車なら、近づいて、通り過ぎる。
けれど、その音は頭の上へ広がっていった。
私は椅子から立ち上がった。
足元の包みへ手を伸ばす前に、外で誰かが声を上げた。何と言ったのかは聞き取れなかったが、おばちゃんが戸口へ向かったので、私はその腕を掴んだ。
「出ないで」
自分の声が、思ったより大きかった。
おばちゃんが私を見た。
次の瞬間、遠くで爆発が起きた。
床から足の裏へ、短い震えが伝わった。棚の椀が触れ合い、乾いた音を立てた。
私は腕を掴んだまま動けなかった。
爆発の音は、映像で聞いたものと違った。耳へ入ってくるだけではなく、胸を押し、腹の中へ響いた。身体が音を受けたあとで、空襲だという言葉が遅れて浮かんだ。
「理恵ちゃん、荷物」
おばちゃんに言われ、私は足元を見た。
包みがあった。
持つだけだった。
それなのに、屈もうとすると膝が硬くなり、手が空を掴んだ。
また音がした。
今度は続けて、幾つも。
私は卓の縁へ指をかけた。椀が滑り、床へ落ちて割れた。白い欠片が足元へ広がったのを見たが、拾おうとは思わなかった。
「こっちを見て」
おばちゃんの手が、私の頬へ触れた。
私は顔を上げた。
「裏から行くんでしょう」
頷こうとして、顎が震えた。
「一緒に行こう。理恵ちゃんが見ておいた道、教えて」
私はおばちゃんの袖を握り直した。
「裏……裏から」
「うん」
おばちゃんが私の包みを持ち上げ、肩へ掛けてくれた。自分の荷物も取り、裏口の方へ身体を向けた。
私はその背中へついていった。
*
裏へ出ると、空が急に広くなった。
頭の上に何もないことが怖かった。私は軒の下へ寄り、屋根の端から空を見た。
飛行機がいた。
一機ではなかった。
見上げている間にも、小さな形が進んでいった。どの機体が何をしているのか分からず、私には、ただ空の中を動くものが全部こちらへ向かってくるように見えた。
「理恵ちゃん」
おばちゃんが呼んだ。
私は顔を下げ、道へ出た。
隣の裏口からトメさんが出てきた。片手に包みを持ち、もう一方の手で戸を押さえていた。
「ゲンさんは?」
おばちゃんが尋ねた。
「表を見に行った。すぐ来るから、先に行って」
トメさんの声が、最後まで聞こえなかった。
爆音が重なり、私は首を竦めた。身体を低くしようとして、包みの重さに引かれ、石垣へ肩をぶつけた。
痛かった。
初めて、今自分が外にいるのだと分かった。
おばちゃんが腕を引いた。
私は足を出した。いつもは何でもない段差を跨ぐのに、履物の先が引っかかった。つまずいた身体をおばちゃんに支えられ、謝ろうとしたが、息しか出なかった。
道の先で、人が走っていた。
子どもを抱いた女の人が、荷物を落とした。布がほどけ、着替えらしいものが地面へ広がった。女の人は一度振り返ったが、子どもが泣き出すと、そのまま走った。
私は散らばった布を避けた。
拾って渡せばいいと思った。
けれど、屈むことができなかった。
おばちゃんの手を離せなかった。
*
曲がり角へ来たとき、先の方からゲンさんが走ってきた。
「早く入れ。外で見てるな」
ゲンさんは私たちを見て、壕の方を指した。
私はその指の先へ進もうとしたが、いつもと景色が違って見えた。人が道を塞ぎ、背負った荷物が揺れ、誰かの呼ぶ声が重なっていた。
見ておいた石垣が、人の肩で隠れていた。
何度も歩いたのに、私は曲がる場所を確かめられなかった。
「ここだよ」
おばちゃんが言った。
私が教えるはずだった道を、おばちゃんが先に曲がった。
壕の入口には、もう人が集まっていた。前の人が入るのを待ちながら、後ろの人が身体を寄せてくる。私はおばちゃんの手を両手で握った。
背中の包みが押された。
身体だけが前へ進み、足が追いつかなかった。履物を踏まれ、踵が抜けかけた。直そうと下を見ると、人の足しか見えなかった。
「押さないで」
誰かが言った。
「奥へ行って。入口を空けて」
中から声がした。
私は顔を上げ、おばちゃんの肩を捜した。
すぐ前にいた。
見えているのに、間へ別の人の腕が入り、おばちゃんの身体が遠くなった。
「待って」
私は手を引いた。
おばちゃんが振り返り、私の手首を握った。
「離さないよ」
その言葉を聞いた直後、地面が震えた。
誰かが叫び、入口へ人が一度に詰めかけた。私は前の人の背中へ顔を押しつけられ、息を吸えなくなった。
土の匂いと、汗の匂いがした。
肩紐が首へ食い込み、私は口を開けた。声を出そうとしても、身体が潰されるように押され、喉から短い音しか出なかった。
おばちゃんの手が動いた。
引かれるまま、私は入口の低いところを潜った。背中の包みが引っかかり、一度止まった。後ろから押され、布が擦れる音がした。
次の瞬間、足元が暗くなった。
*
中へ入っても、すぐには座れなかった。
奥へ進むように言われ、私はおばちゃんに引かれて歩いた。外から来たばかりの目には、誰がどこにいるのか分からなかった。
つま先が何かへ当たった。
「足、気をつけて」
低い声がして、私は謝った。
壁へ手をつくと、指の下の土が崩れた。爪の間へ湿ったものが入り、私はそのまま手を滑らせながら進んだ。
ようやく空いたところへ屈んだとき、膝が自分のものではないように震えていた。
おばちゃんが包みを下ろしてくれた。
「怪我は?」
私は首を振った。
肩は痛かったが、どこをどうぶつけたのか、順番を思い出せなかった。
「手を見せて」
私は掌を開いた。
土がついていた。指は震え続け、おばちゃんが握ると、その手まで小さく動いた。
「ここにいるよ」
私は頷いた。
外で、また爆発が起きた。
頭の上から細かい土が落ち、髪へ触れた。私は反射的に身体を丸めた。おばちゃんの腕が背中へ回り、顔を下にして、と言った。
膝へ額を近づけると、息の熱さが頬へ戻ってきた。
隣で子どもが泣いていた。
誰かが名前を呼んでいた。
私は自分の手がおばちゃんの袖を握っていることだけを確かめた。
十月十日。
その日付は知っていた。
けれど、次の爆弾がどこへ落ちるのか、この土の天井が耐えるのか、おばちゃんと夕方まで生きていられるのかは、何も分からなかった。
私は口を動かした。
「おばちゃん」
呼んだ声は、すぐそばへ届くほどの大きさしかなかった。
「うん」
返事がした。
私は袖を握ったまま、次の音を待った。
十・十空襲は1944年10月10日の早朝に始まり、最初の攻撃は主に飛行場へ向けられました。その後も攻撃が繰り返されます。




