第31話 本を置いていく日
九月の半ば、黒板の隅に書かれていた授業の予定が消された。
島袋先生は布で拭いた場所へ、集合の時刻と持ち物を書き直した。作業のできる服装、弁当、水。翌日は学校へ集まってから、皆で農作業の手伝いに行くという。
「数学の続きは、いつやるんですか」
前の席の子が尋ねた。
「次に時間が取れたときにします」
先生はそう答え、本を閉じるように言った。
私は途中まで解いた問題の横へ、小さく印をつけた。続きから始められるようにしたのだが、印をつけた頁は、すでに何枚もあった。
翌朝、鞄から本を抜いた。
空いたところへ弁当を入れると、学校へ行く荷物なのに、机へ向かうものがほとんどなくなった。
*
畑に着いたころには、背中に汗をかいていた。
先生が持ち主の人と話し、私たちは幾つかの組に分けられた。私は千代と一緒に、畝の間の草を取ることになった。
腰を屈め、根元を握って引く。すぐ抜けるものもあれば、土を掴んだまま離れないものもあった。指で周りを掘り、もう一度引くと、爪の間へ細かい土が入った。
「葉を傷めないでね」
畑の女の人が声をかけた。
私は返事をして、隣の株から手を離した。
以前にも農作業をしたことはあった。それでも、教室で過ごす一日とは疲れ方が違った。少し動いただけで喉が渇き、腰を伸ばすと、今まで屈めていたところが鈍く痛んだ。
千代は私より手が早かった。抜いた草を脇へ寄せ、手を動かしながら、小さいころ弟と畑へ来た話をした。
「弟は草を取るより、虫を捜す方が長かったけど」
私は笑いかけた。
そのとき、向こうから文子の声がした。
「これ、草じゃない?」
春子が振り返った。
「それ、抜かないで」
文子は慌てて手を離し、土を寄せ直した。そばにいた女の人が確かめて、大丈夫、まだ根は切れてない、と言った。
「先生になる前に、芋を全部なくすところだった」
文子が小声で言うと、千代が、先生になっても畑はあるよ、と返した。
春子も少しだけ口元を緩めた。
私はその顔を見て、また手元へ目を戻した。
笑ったからといって、奈々のことが片づいたわけではなかった。春子は休憩のたび、学校の方から誰か来ていないか、道へ目を向けていた。
昼になると、木陰へ寄って弁当を開いた。
足を伸ばした文子が、土のついた手を見て溜息をついた。
「帰ったら数学、理恵に聞こうと思ってたんだけど、今日は寝ちゃいそう」
「明日でもいいよ」
「明日も、何か作業ある?」
誰もすぐには答えなかった。
予定を知らないというより、今ある予定が、そのまま続くとは思えなくなっていた。
*
その後も、授業の予定は何度か変わった。
半日だけ教室で勉強する日もあれば、朝から作業へ出る日もあった。縫い物をする時間が長くなり、家へ持ち帰って続きを仕上げることも増えた。
夕方、食堂の仕事を終えて本を開くと、机へ置いた腕が重かった。数字を追っているうちに目が閉じ、鉛筆の先が紙の上を滑った。
文子に説明するつもりだった問題を、自分でも途中から読み直さなければならなかった。
勉強が嫌いになったわけではなかった。
ただ、机へ向かうころには、もう一日の力を使ってしまっていた。
ある帰り道、直樹たちと会った。
健一は肩に掛けた荷物を持ち替え、私たちの足元を見た。
「そっちも土仕事?」
「今日は違う。まだ昨日のが落ちてないだけ」
文子が答えると、健一は自分の裾を見て、それなら俺も同じだ、と言った。
直樹の指には、擦れて赤くなったところがあった。
「痛くない?」
私が尋ねると、直樹は掌を内側へ向けた。
「持つときだけ」
「それ、ほとんどずっとじゃない」
千代が言った。
修が隣で頷いた。
「休むと、今度は立つのが嫌になる」
健一が笑ったが、声には以前ほど勢いがなかった。
直樹は鞄の口から見えていた私の本へ目を向けた。
「数学、進んだ?」
「少しだけ」
「そっか」
前なら、どこまで、と続いたと思った。直樹はそれ以上聞かず、道の先に来た車を見て、端へ寄ろう、と言った。
私たちは石垣のそばへ移った。
車が通り過ぎるまで、誰も話さなかった。私は直樹の背中の向こうに、もう一台来ないか確かめながら立っていた。
*
文子と千代に十月十日のことを話したのは、家へ向かう道が分かれる手前だった。
春子へ伝えた日から、何日も経っていた。
私は何度か話しかけようとしたが、周りに人がいると、言葉を変えてしまった。壕を見たか、家では荷物をまとめているか。二人には、私が前から空襲を怖がっていることしか伝わっていなかった。
その日は道が空いていた。
「十月十日、気をつけてほしい」
二人が足を止めた。
私は続けた。
「空襲が来るかもしれない。春子には、もう言った」
千代が私の顔を見た。
「その日って、どうして?」
私は鞄の紐を握った。
「覚えてるの。でも、説明できるものがなくて」
千代は眉を寄せた。文子は私を見てから、道の両側へ目を向けた。
「ここで、詳しく話さない方がいいね」
私は頷いた。
それが気遣いなのか、私の言葉を危ないと思ったのか、分からなかった。
「朝から、家の人と逃げられるようにしておいて。何もなければ、それでいいから」
千代は少し黙り、それから答えた。
「荷物は、母さんがまとめてる。弟にも、どこへ行くかは言ってある」
「うん」
「でも、その日だけ準備して、ほかの日は大丈夫ってことじゃないでしょう」
私は顔を上げた。
千代は責めるようには言わなかった。
「分かることは教えて。でも、分からないところは、分からないって言って」
「……うん」
文子が、私の鞄の紐へ触れた。
「理恵も、一人でどこかへ行かないでね」
私は頷いた。
二人と別れたあと、足が少し震えていることに気づいた。誰も私を非国民とは呼ばなかった。それでも、口にした日付が誰かへ伝わっていくことを考えると、振り返らずにはいられなかった。
*
十月に入ると、私は店の荷物をまとめ直した。
最初の包みには、着替えも布も入れすぎていた。背負って裏の道を歩いてみると、肩へ食い込み、坂の途中で息が上がった。
おばちゃんは戻った私を見て、床へ風呂敷を広げた。
「これも、あれもって入れたくなるね」
私が頷くと、おばちゃんは中身を一つずつ取り出した。
「持って走れなかったら困るから、分けよう」
水は私が持ち、食べるものと小さな包みはおばちゃんが持つことにした。使った水は入れ替え、食べ物も傷まないように確かめた。
奈々の絵は、布に包んだまま、私の着替えの間へ挟んだ。
おばちゃんが紙の端を見て、これは、と尋ねた。
「春子から預かってるの」
「大事なものなんだね」
私は頷いた。
日記は、まだ部屋に隠してあった。
逃げるときに持っていくつもりだったが、昼間から包みへ入れておくと、おばちゃんが中身を確かめたときに見つかるかもしれなかった。毎晩書いたあと、いつもの場所へ戻し、出る前に取ればいいと考えた。
その一冊を持ち出すために、部屋へ戻る時間が必要になる。
私はそれに気づきながら、隠す場所を変えられなかった。
*
十月九日の夕方、おばちゃんに翌朝のことを頼んだ。
「明日は、火を入れるの、少し待ってほしい」
おばちゃんは洗った鍋を置いた。
「どうして?」
私は店の戸口を見てから、声を落とした。
「空襲が、心配で」
「理恵ちゃんは、毎日心配してるね」
「明日は、特に」
おばちゃんは私を見ていた。
理由を尋ねられる前に、私は続けた。
「朝、明るくなったら、一度、外の様子を見よう。包みも入口の近くへ置いておきたい。何もなければ、そのあと支度を手伝うから」
おばちゃんは布巾を畳み、鍋の横へ置いた。
「分かった。先に火をつけないで、待ってるよ」
私は息を吐いた。
大きな空襲になると、言い切れなかった。それでも、おばちゃんが明日の朝を私と一緒に待ってくれることが、ありがたかった。
その夜は、いつもより早く布団へ入った。
眠れなかった。
店を閉める音がし、おばちゃんが廊下を歩き、隣の部屋の戸を閉めた。外で犬が鳴いた。遠くの車の音が近づいて、また離れていった。
私は起き上がり、暗い中で机へ手を伸ばした。
日記を取り出して、包みの上へ置いた。
もう、明日の朝まで隠しておく必要はなかった。
元の服が入った風呂敷も見た。ここへ来たときの上着と、繕ってもらったズボンが、その中にあった。持ち出す荷物には入れていなかった。
私は風呂敷へ触れたあと、手を離した。
全部は持っていけない。
そう決めたはずなのに、部屋の中を見ると、置いていくものばかり目に入った。机も、箪笥も、短い鉛筆を置いてあった場所も、ここで暮らした時間と一緒に残っていた。
私は戸の方を見た。
おばちゃんは、隣にいる。
そのことを確かめてから、日記を包みへ挟み、もう一度布団へ戻った。
朝になったら、すぐ起こそう。
目を閉じたまま、私は何度も、その順番を考えた。




