↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

31/124

第31話 本を置いていく日



 九月の半ば、黒板の隅に書かれていた授業の予定が消された。


 島袋先生は布で拭いた場所へ、集合の時刻と持ち物を書き直した。作業のできる服装、弁当、水。翌日は学校へ集まってから、皆で農作業の手伝いに行くという。


「数学の続きは、いつやるんですか」


 前の席の子が尋ねた。


「次に時間が取れたときにします」


 先生はそう答え、本を閉じるように言った。


 私は途中まで解いた問題の横へ、小さく印をつけた。続きから始められるようにしたのだが、印をつけた頁は、すでに何枚もあった。


 翌朝、鞄から本を抜いた。


 空いたところへ弁当を入れると、学校へ行く荷物なのに、机へ向かうものがほとんどなくなった。


     *


 畑に着いたころには、背中に汗をかいていた。


 先生が持ち主の人と話し、私たちは幾つかの組に分けられた。私は千代と一緒に、畝の間の草を取ることになった。


 腰を屈め、根元を握って引く。すぐ抜けるものもあれば、土を掴んだまま離れないものもあった。指で周りを掘り、もう一度引くと、爪の間へ細かい土が入った。


「葉を傷めないでね」


 畑の女の人が声をかけた。


 私は返事をして、隣の株から手を離した。


 以前にも農作業をしたことはあった。それでも、教室で過ごす一日とは疲れ方が違った。少し動いただけで喉が渇き、腰を伸ばすと、今まで屈めていたところが鈍く痛んだ。


 千代は私より手が早かった。抜いた草を脇へ寄せ、手を動かしながら、小さいころ弟と畑へ来た話をした。


「弟は草を取るより、虫を捜す方が長かったけど」


 私は笑いかけた。


 そのとき、向こうから文子の声がした。


「これ、草じゃない?」


 春子が振り返った。


「それ、抜かないで」


 文子は慌てて手を離し、土を寄せ直した。そばにいた女の人が確かめて、大丈夫、まだ根は切れてない、と言った。


「先生になる前に、芋を全部なくすところだった」


 文子が小声で言うと、千代が、先生になっても畑はあるよ、と返した。


 春子も少しだけ口元を緩めた。


 私はその顔を見て、また手元へ目を戻した。


 笑ったからといって、奈々のことが片づいたわけではなかった。春子は休憩のたび、学校の方から誰か来ていないか、道へ目を向けていた。


 昼になると、木陰へ寄って弁当を開いた。


 足を伸ばした文子が、土のついた手を見て溜息をついた。


「帰ったら数学、理恵に聞こうと思ってたんだけど、今日は寝ちゃいそう」


「明日でもいいよ」


「明日も、何か作業ある?」


 誰もすぐには答えなかった。


 予定を知らないというより、今ある予定が、そのまま続くとは思えなくなっていた。


     *


 その後も、授業の予定は何度か変わった。


 半日だけ教室で勉強する日もあれば、朝から作業へ出る日もあった。縫い物をする時間が長くなり、家へ持ち帰って続きを仕上げることも増えた。


 夕方、食堂の仕事を終えて本を開くと、机へ置いた腕が重かった。数字を追っているうちに目が閉じ、鉛筆の先が紙の上を滑った。


 文子に説明するつもりだった問題を、自分でも途中から読み直さなければならなかった。


 勉強が嫌いになったわけではなかった。


 ただ、机へ向かうころには、もう一日の力を使ってしまっていた。


 ある帰り道、直樹たちと会った。


 健一は肩に掛けた荷物を持ち替え、私たちの足元を見た。


「そっちも土仕事?」


「今日は違う。まだ昨日のが落ちてないだけ」


 文子が答えると、健一は自分の裾を見て、それなら俺も同じだ、と言った。


 直樹の指には、擦れて赤くなったところがあった。


「痛くない?」


 私が尋ねると、直樹は掌を内側へ向けた。


「持つときだけ」


「それ、ほとんどずっとじゃない」


 千代が言った。


 修が隣で頷いた。


「休むと、今度は立つのが嫌になる」


 健一が笑ったが、声には以前ほど勢いがなかった。


 直樹は鞄の口から見えていた私の本へ目を向けた。


「数学、進んだ?」


「少しだけ」


「そっか」


 前なら、どこまで、と続いたと思った。直樹はそれ以上聞かず、道の先に来た車を見て、端へ寄ろう、と言った。


 私たちは石垣のそばへ移った。


 車が通り過ぎるまで、誰も話さなかった。私は直樹の背中の向こうに、もう一台来ないか確かめながら立っていた。


     *


 文子と千代に十月十日のことを話したのは、家へ向かう道が分かれる手前だった。


 春子へ伝えた日から、何日も経っていた。


 私は何度か話しかけようとしたが、周りに人がいると、言葉を変えてしまった。壕を見たか、家では荷物をまとめているか。二人には、私が前から空襲を怖がっていることしか伝わっていなかった。


 その日は道が空いていた。


「十月十日、気をつけてほしい」


 二人が足を止めた。


 私は続けた。


「空襲が来るかもしれない。春子には、もう言った」


 千代が私の顔を見た。


「その日って、どうして?」


 私は鞄の紐を握った。


「覚えてるの。でも、説明できるものがなくて」


 千代は眉を寄せた。文子は私を見てから、道の両側へ目を向けた。


「ここで、詳しく話さない方がいいね」


 私は頷いた。


 それが気遣いなのか、私の言葉を危ないと思ったのか、分からなかった。


「朝から、家の人と逃げられるようにしておいて。何もなければ、それでいいから」


 千代は少し黙り、それから答えた。


「荷物は、母さんがまとめてる。弟にも、どこへ行くかは言ってある」


「うん」


「でも、その日だけ準備して、ほかの日は大丈夫ってことじゃないでしょう」


 私は顔を上げた。


 千代は責めるようには言わなかった。


「分かることは教えて。でも、分からないところは、分からないって言って」


「……うん」


 文子が、私の鞄の紐へ触れた。


「理恵も、一人でどこかへ行かないでね」


 私は頷いた。


 二人と別れたあと、足が少し震えていることに気づいた。誰も私を非国民とは呼ばなかった。それでも、口にした日付が誰かへ伝わっていくことを考えると、振り返らずにはいられなかった。


     *


 十月に入ると、私は店の荷物をまとめ直した。


 最初の包みには、着替えも布も入れすぎていた。背負って裏の道を歩いてみると、肩へ食い込み、坂の途中で息が上がった。


 おばちゃんは戻った私を見て、床へ風呂敷を広げた。


「これも、あれもって入れたくなるね」


 私が頷くと、おばちゃんは中身を一つずつ取り出した。


「持って走れなかったら困るから、分けよう」


 水は私が持ち、食べるものと小さな包みはおばちゃんが持つことにした。使った水は入れ替え、食べ物も傷まないように確かめた。


 奈々の絵は、布に包んだまま、私の着替えの間へ挟んだ。


 おばちゃんが紙の端を見て、これは、と尋ねた。


「春子から預かってるの」


「大事なものなんだね」


 私は頷いた。


 日記は、まだ部屋に隠してあった。


 逃げるときに持っていくつもりだったが、昼間から包みへ入れておくと、おばちゃんが中身を確かめたときに見つかるかもしれなかった。毎晩書いたあと、いつもの場所へ戻し、出る前に取ればいいと考えた。


 その一冊を持ち出すために、部屋へ戻る時間が必要になる。


 私はそれに気づきながら、隠す場所を変えられなかった。


     *


 十月九日の夕方、おばちゃんに翌朝のことを頼んだ。


「明日は、火を入れるの、少し待ってほしい」


 おばちゃんは洗った鍋を置いた。


「どうして?」


 私は店の戸口を見てから、声を落とした。


「空襲が、心配で」


「理恵ちゃんは、毎日心配してるね」


「明日は、特に」


 おばちゃんは私を見ていた。


 理由を尋ねられる前に、私は続けた。


「朝、明るくなったら、一度、外の様子を見よう。包みも入口の近くへ置いておきたい。何もなければ、そのあと支度を手伝うから」


 おばちゃんは布巾を畳み、鍋の横へ置いた。


「分かった。先に火をつけないで、待ってるよ」


 私は息を吐いた。


 大きな空襲になると、言い切れなかった。それでも、おばちゃんが明日の朝を私と一緒に待ってくれることが、ありがたかった。


 その夜は、いつもより早く布団へ入った。


 眠れなかった。


 店を閉める音がし、おばちゃんが廊下を歩き、隣の部屋の戸を閉めた。外で犬が鳴いた。遠くの車の音が近づいて、また離れていった。


 私は起き上がり、暗い中で机へ手を伸ばした。


 日記を取り出して、包みの上へ置いた。


 もう、明日の朝まで隠しておく必要はなかった。


 元の服が入った風呂敷も見た。ここへ来たときの上着と、繕ってもらったズボンが、その中にあった。持ち出す荷物には入れていなかった。


 私は風呂敷へ触れたあと、手を離した。


 全部は持っていけない。


 そう決めたはずなのに、部屋の中を見ると、置いていくものばかり目に入った。机も、箪笥も、短い鉛筆を置いてあった場所も、ここで暮らした時間と一緒に残っていた。


 私は戸の方を見た。


 おばちゃんは、隣にいる。


 そのことを確かめてから、日記を包みへ挟み、もう一度布団へ戻った。


 朝になったら、すぐ起こそう。


 目を閉じたまま、私は何度も、その順番を考えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。