第30話 口にしてはいけないこと
翌朝、春子へ話すつもりで、いつもより早く家を出た。
日記は部屋に置いてきた。持っていけば、そこに書いた日付を見せられる。けれど、その先の頁まで誰かに読まれたらどうなるのかと思うと、鞄へ入れられなかった。
日本は戦争に負ける。
鉛筆で書いたその一行が、閉じた表紙の向こうにある。
学校へ向かう道で、私は何度も言い方を考えた。十月十日は気をつけて。大きな空襲が来るかもしれない。朝から逃げられるようにしておいて。
どの言葉にも、どうして分かるの、と尋ねる春子の声が続いた。
昨日は、その問いに答えられなかった。
今日は、せめて日付だけでも伝えようと思った。
*
教室には、もう何人か来ていた。
春子の席は空いていた。私は鞄を置き、入口に目を向けながら本を出した。
後ろの方で、疎開した弟から便りが来たという子が、二人の友達と話していた。向こうは朝晩が涼しく、食事も皆で一緒に取るのだという。
「うちも、早く行かせればよかった」
誰かが言った。
そのあと、別の声が小さく続いた。
「でも、船は……」
そこで言葉が途切れた。
私は本を持ったまま振り返った。話していた子は、隣の友達に腕を触られ、入口の方を見ていた。
先生が来たのだと思った。
けれど、戸口に立っていたのは春子だった。
春子は三人の顔を見たあと、自分の席へ歩いた。誰も続きを言わず、便りを持っていた子が紙を畳んだ。
私は立ち上がりかけたが、春子が鞄から本を出すのを見て、また腰を下ろした。
昨日、船のことを知っていると認めた私まで黙っている。
それが、あの子たちの沈黙とどう違うのか、分からなかった。
*
朝の話の中で、島袋先生は噂について触れた。
「確かめられないことを、人から人へ伝えないように」
先生は教卓へ両手を置いた。
「家族と離れて、心配している人もいます。聞いたことをそのまま口にすれば、余計に不安にさせることがあります」
私は膝の上で指を握った。
先生は私の名前を出さなかった。それでも、船が沈むと言って呼び出された日のことを、皆が思い出しているように感じた。
「心配なことがあれば、先生に相談してください。自分たちだけで話を大きくしないこと」
先生の声は厳しかったが、疲れてもいた。
春子は教卓を見ていた。私はその横顔を見ようとして、途中で黒板へ視線を戻した。
先生に相談する。
その方法を、私はもう一度選べるだろうか。
前に尋ねられたのは、誰から聞いたのか、何を根拠に言っているのかということだった。私は答えを持っていなかった。未来の記録を覚えていると話しても、先生がそれを信じる理由は、ここには何もなかった。
もし日記を見せれば、十月の空襲だけでは済まない。
軍艦が沈むことも、戦争が終わることも、まだ生きている人たちが大勢死ぬことも、同じ紙に書いてある。
その中の「日本は負ける」という文字を、先生が見つけるところまで想像して、私は背筋を伸ばした。
*
昼休み、春子を廊下へ呼んだ。
春子は私の顔を見てから、黙ってついてきた。昨日話した窓のそばには、ほかの生徒がいたので、階段の手前まで歩いた。
「昨日のことなんだけど」
「奈々のこと?」
私は首を振った。
春子の目が、わずかに伏せられた。
「空襲のこと」
「……うん」
私は階段の下を確かめた。足音は聞こえなかった。
「十月十日」
声が小さくなり、もう一度言い直した。
「その日は、気をつけてほしい」
春子は動かなかった。
「空襲が来るの?」
「来ると思う。大きな空襲」
「どこに?」
「那覇も。ほかにも……全部は、覚えてない」
春子が私を見た。
また、覚えていないと言ってしまった。
私は袖口を指で押さえた。
「朝から、すぐ逃げられるようにしておいて。お母さんにも言って。荷物を取りに戻らなくていいように、水とか、必要なものをまとめて」
「理恵は、どうするの」
「おばちゃんと逃げる。場所は見てきた」
春子はしばらく黙っていた。
「今度は、私に言うんだね」
私は頷いた。
「遅くなって、ごめん」
春子は手すりへ目を向けた。
「十月十日って、誰かから聞いた日じゃないんでしょう」
「……うん」
「でも、理由は話せない」
私は何か答えようとしたが、階段の下から声が聞こえた。
「そんなことを言うもんじゃない」
身体が先に固まった。
下の踊り場に、上級生が二人いた。一人がもう一人へ顔を近づけ、低い声で言っていた。
「兵隊さんが聞いたらどうするの。非国民だって言われるよ」
何の話をしていたのかは分からなかった。
私たちの話を聞かれたのかと思い、私は壁へ寄った。春子も口を閉じた。
二人はそのまま下へ向かい、足音が遠ざかった。それでも、私はしばらく息を深く吸えなかった。
非国民。
誰かにそう呼ばれる自分を、はっきり想像した。
皆がこちらを向く。隣にいた人が離れる。先生に連れられ、また同じことを尋ねられる。おばちゃんまで呼び出され、どこの子を家に置いているのかと言われる。
実際にどこまで起きるのか、私は知らなかった。
知らないから、どこで止まるのかも分からなかった。
「怖いの?」
春子に尋ねられ、私は顔を上げた。
否定できなかった。
「うん」
春子は私を見ていた。
「私も、昨日怖かったよ」
その言葉に、私は何も返せなかった。
「帰ってきた子のお母さんも、ずっと外を気にしてた。うちの母さんが船のことを聞くと、声を小さくしてって」
春子は鞄を持っていない方の手を握った。
「奈々を捜してるだけなのに、どうして、こっそり聞かなきゃいけないんだろうって思った」
私は俯いた。
奈々のことを尋ねる春子も、答えを持っているかもしれない子も、怖がっている。
私が口を閉じていれば、その怖さから誰かを守れるわけではなかった。
「十月十日」
春子が小さく繰り返した。
「覚えておく。でも、理恵」
私は顔を上げた。
「私、まだ納得してないから」
「うん」
「その日に何もなかったら、それでいい。でも、ほかにも分かることがあるなら、もう黙らないで」
私は頷こうとして、すぐには動けなかった。
春子はそれを見て、唇を結んだ。
何でも言うと約束すれば、沖縄戦のことまで話さなければならない。けれど、守れない約束をして、その場だけ安心させることもできなかった。
「言えるように、考える」
やっと答えると、春子は目を伏せた。
「考えてる間に、何かあったら困るよ」
私は手すりの冷たいところへ触れた。
春子は先に教室へ戻った。私は少し遅れて歩き始め、入口の前で一度だけ立ち止まった。
*
その日の夕方、食堂で男の人たちが戦況を話していた。
私は卓を拭きながら聞いていたが、話の細かいところまでは分からなかった。島へ来た兵隊の数や、飛行場の仕事のことが、酒のない食事の間を行き来していた。
「これだけ守りを固めてるんだから、大丈夫だろう」
一人が言った。
私は空いた椀を重ねた。
隣の人が、そうだな、と答えたあと、少し間を置いた。
「ただ、船が来なけりゃ、食い物も……」
その人は、言い終わる前に私を見た。
私は椀を持って台所へ戻った。背中の方で話題が変わり、次に聞こえたのは、畑の芋の出来についてだった。
言いかけてやめる人は、私だけではなかった。
おばちゃんが流しのそばへ来て、私の持っていた椀を受け取った。
「今日は、どうしたの。朝から顔が固いよ」
私は水を出す手を止めた。
「……非国民って、言われたら」
おばちゃんが私を見た。
「どうなるの?」
店の方では、まだ人が話していた。
おばちゃんは少しだけ私へ近づいた。
「誰かに言われた?」
「私じゃない。学校で、聞こえたの」
おばちゃんは頷いたが、すぐには答えなかった。受け取った椀を流しへ置き、濡れた手を布で拭いた。
「人を、そういう言葉で責める人はいるね」
私はおばちゃんの顔を見た。
「心配してるだけでも?」
「何を言ったかより、誰がどう受け取ったかで、話が変わってしまうこともあるから」
おばちゃんは店の方を一度見た。
「怖かったんだね」
私は頷いた。
そこで安心してしまいたかった。怖いなら話さなくていいと、言ってもらいたかった。
けれど、春子の母親も、帰ってきた子の母親も、同じように誰かの耳を気にしていた。
「でも、黙ってても……」
声が詰まった。
「黙ってても、危ないものは、危ないままだよね」
おばちゃんは私の手元を見てから、静かに答えた。
「うん」
その返事を聞いて、私は目を閉じた。
おばちゃんは私を急かさず、しばらく隣に立っていた。それから、冷えてしまう前にご飯にしよう、と言った。
*
夜、私は日記の十月十日の頁を開いた。
空襲の規模も、一つ一つの場所も、私は正確には覚えていない。食堂がどうなるかも、おばちゃんがどこへ逃げれば必ず助かるかも分からなかった。
それでも、その日が来ることは覚えていた。
――春子に十月十日のことを話した。
書いてから、鉛筆を止めた。
その下へ、もう一行続けた。
――非国民と言われるのが怖い。おばちゃんにも迷惑がかかるのが怖い。
紙へ書くと、朝から胸にあったものが、少しだけ形になった。
私は読み返し、さらに書いた。
――でも、春子も怖かった。奈々のことを聞くだけでも。
遠くで車の音がした。私は顔を上げ、音が通り過ぎるまで待った。
十月十日まで、まだ日がある。
明日はおばちゃんに、店の荷物をまとめておきたいと言おう。文子と千代にも、家から逃げる道を見てほしいと伝えよう。
日記を閉じる前に、私は頁の端へ指を置いた。
昼間、春子へ言った日付を、小さな声でもう一度口にした。部屋の戸は閉まっていて、誰にも聞こえないはずだったが、それでも廊下の気配を確かめずにはいられなかった。




