第29話 どうして知っていたの?
春子が学校を休んだ日、文子は昼休みに一度だけ、その空いた席を見た。
「昨日、帰りに会ったんだけど」
持っていた針を布へ刺したまま、文子が言った。
「お母さんと、出かけるところだった」
「どこへ?」
「聞かなかった。急いでたから」
千代が、縫い終えた布を膝の上で裏返した。
「何か、分かったのかもしれないね」
私は手元を見た。
針の先へ通した糸が、指の汗で張りついていた。引こうとしても滑らず、力を入れると布に小さな皺が寄った。
春子はこのところ、先生に呼ばれて廊下へ出ることがあった。戻ると席に着き、鞄の中を確かめてから、皆と同じ作業へ戻った。何を話していたのか、私は聞けなかった。
「理恵」
千代に呼ばれ、顔を上げた。
「そこ、同じところ縫ってる」
布を見ると、縫い目の途中に糸が重なっていた。私は針を戻し、細かく絡んだところをほどいた。
*
翌日の春子は、いつもより遅く来た。
先生が教室へ入る少し前だった。文子が声をかけたが、春子は短く返事をしただけで、席に座った。
授業の間、一度もこちらを見なかった。
私はそのことに、かえって落ち着かなくなった。奈々のことが分かったのなら、何か言われると思っていた。けれど春子は、黒板を書き写し、先生に言われて本を読み、昼になると持ってきた包みを開いた。
何も変わらないように見える手つきが、怖かった。
放課後、片づけを終えて廊下へ出ると、春子が窓のそばで待っていた。
「理恵、先に帰らないで」
私は足を止めた。
文子と千代も振り返ったが、春子は二人に、少し話があるから、と言った。文子は私の顔を見てから頷き、千代と一緒に階段を下りていった。
その足音が遠ざかっても、春子はすぐには話さなかった。
窓の外では、数人の生徒が並んで歩いていた。一人が落とした物を拾い、もう一人が待っている。私はその姿を見たまま、春子が口を開くのを待った。
「昨日、帰ってきた子に会った」
胸の奥が縮んだ。
「どこから……」
尋ねかけて、やめた。
春子は私を見ていた。
「奈々と同じ船に乗った子」
私は窓枠へ置きかけた手を引いた。
「お母さんと行ったの。その子が帰ってきたって、人から聞いて」
春子の声は平らだった。昨日のことを順番に話そうとしているようで、言葉の間に、短い息が入った。
「家の前まで行ったら、ほかにも人がいた。うちの子は見なかったかって、聞きに来てた」
私は何も言わなかった。
「その子のお母さんが、もう帰ってくださいって言ってた。まだ具合が悪いからって。でも、うちの母さん、帰れなくて」
春子は鞄の持ち手を握り直した。
「奈々の名前を言った。七つで、髪をこうやって結んでて、荷物に名前を縫ってあるって。私も、顔を見れば思い出すかもしれないと思ったけど、奈々の写真、持ってなくて」
そこまで話してから、春子は唇を閉じた。
私は、春子があの子の名前を縫いつけていた手元を思い出した。針を引くたび布を伸ばし、ほどけないよう確かめていた。
「会えたの?」
「少しだけ」
春子は頷いた。
「座ってた。私たちが入っていったら、お母さんの方ばかり見てた」
廊下の奥で戸が閉まり、春子の肩がわずかに動いた。
「船のこと、話しちゃいけないんだって」
私は息を吸った。
「誰に言われたのか聞いても、答えなかった。ただ、言っちゃいけないって。そればっかり」
春子の指が、持ち手に食い込んでいた。
「母さんが、奈々が生きてるかだけでも教えてって頼んだら、その子、泣き出した」
私は俯いた。
その子が何を見たのか、どれほど怖かったのか、ここからは分からなかった。奈々を捜す春子たちが悪いわけでもなかった。聞かずに帰れるはずがない。それでも、助かって帰ってきた子に、もう一度あの海のことを尋ねなければならなかった。
「お母さんに止められて、帰ったよ」
春子は言った。
「奈々のことは、分からなかった」
私は頷いたが、それを見た春子の顔が変わった。
「どうして、驚かないの」
顔を上げると、春子が一歩近づいていた。
「あの船から、助かって帰ってきたんだよ」
「……うん」
「助かったって、何から?」
私は口を開いた。
言葉は出なかった。
春子は私の顔を見つめ、声を落とした。
「理恵、言ったよね。その船、沈むって」
*
窓から入った風で、春子の髪が頬へかかった。春子はそれを払わず、私の返事を待った。
「どうして知ってたの?」
私は自分の指を握った。
「前に……読んだことがあって」
「何を?」
私は答えられなかった。
教科書。資料館の記録。画面の中に並んだ証言。
ここにはまだないものばかりだった。
「どこで読んだの。新聞?」
「違う」
「じゃあ、何?」
春子の声が少し強くなり、私は廊下の奥を見た。誰かに聞かれたらと思ったその動きを、春子は見逃さなかった。
「私にも、話しちゃいけないの?」
「そうじゃなくて」
「じゃあ、言ってよ」
春子が私の袖を掴んだ。
布越しに指の力が伝わった。港で手首を掴まれたときとは違い、今度は私がどこかへ行かないように押さえているようだった。
「奈々、どうなったの?」
私は首を振った。
「奈々のことは、分からない」
「船が沈むことは知ってたのに?」
「船のことは覚えてる。でも、乗ってた一人一人のことまでは……」
言いながら、その説明が春子にどう聞こえるか分かった。
たくさんの人が亡くなったという記録を読んだ。その中の一人が、あなたの妹なのかは知らない。
そんな言葉で、春子を納得させられるはずがなかった。
「奈々の名前は、知らなかった」
私は続けた。
「春子の妹だって、ここで会ってから知ったの」
春子は眉を寄せた。
「何の話してるの」
私は唇を噛んだ。
自分では本当のことを話しているつもりなのに、一つ答えるたび、説明できないことが増えた。
「私にも、分からないことがいっぱいある」
「でも、あの船は分かったんでしょう」
「うん」
春子の手が、袖から離れた。
「じゃあ、もっと言ってくれればよかったのに」
私は顔を上げた。
「言ったよ。乗らないでって」
「沈むって言うだけじゃ、分からないよ」
春子の目に涙が溜まっていた。
「母さんも父さんも、奈々を死なせたくて乗せたんじゃない。向こうに行けば、食べるものもあって、空襲もここより少ないかもしれないって。みんなで考えて……」
声が詰まり、春子は息を吸い直した。
「理由があったなら、ちゃんと言ってよ。私たちが、やめようって思えるように」
私は何も返せなかった。
もっと早く、両親のところへ行けばよかった。先生に叱られても、説明をやめずにいればよかった。未来から来たと口にして、信じてもらえなくても、ほかの誰かに話せばよかった。
どれを思いついても、今から奈々を港へ戻すことはできなかった。
「ごめん」
春子は目元を拭いた。
「謝ってほしいんじゃない」
私は頷いた。
「奈々が帰ってくるか、知りたいの」
私は、知っている日付を一つずつ思い出した。
十月十日。四月一日。六月。八月十五日。
そのどこにも、奈々が帰ってくる日はなかった。
「……分からない」
春子はしばらく私を見ていた。
それから、窓の外へ顔を向けた。
「母さん、もう一度行くって言ってる。昨日は思い出せなかっただけかもしれないからって」
私は口を開きかけ、閉じた。
やめてとも、行ってとも言えなかった。
*
階段へ向かう途中、春子が立ち止まった。
「ほかにも、知ってるの?」
私は動けなくなった。
「船のことだけ?」
春子の視線が、私の顔から手元へ落ちた。
「理恵、最近ずっと、何か怖がってるでしょう」
夕方の光が廊下へ差していた。窓の向こうには家の屋根が重なり、その間を、人が歩いていた。
あの屋根が燃える。
道が塞がる。
その先には、海から飛んでくる砲弾があり、暗い壕があり、学校へ帰れなくなる私たちがいる。
「この島も、危ないの?」
私は春子を見た。
ここで答えれば、次は、いつ、どこが、誰が、と聞かれる。分かることもあれば、分からないこともある。私の曖昧な記憶を頼りに逃げた人が、その先で亡くなるかもしれない。
それでも、何も言わずにいたらよかったとは、もう思えなかった。
「春子」
声が掠れた。
「逃げる場所だけは、確かめておいて」
春子の顔が強張った。
「それ、答えになってない」
「お母さんたちとも。すぐ持って出られるものを……」
「何が起きるの」
私は十月十日という日付を、喉のところまで押し上げた。
けれど、春子の目を見た途端、また声が止まった。奈々の船を見送る前と同じことを、私はしていた。
春子は長く待った。
やがて鞄を持ち直し、階段を下り始めた。
「今日は、もういい」
追いかけようとした私に、春子は振り返らずに言った。
「絵は、まだ預かってて」
私は手すりのそばに立ったまま、その背中を見送った。
*
家へ戻ると、おばちゃんが鍋のそばに立っていた。
「遅かったね」
「春子と、話してた」
おばちゃんは火を見てから、私の方を向いた。
「妹さんのこと?」
私は頷いた。
何か分かったの、と尋ねられ、奈々のことはまだ分からない、と答えた。それ以上は声にならず、おばちゃんも、台所の真ん中で立ち尽くす私を急かさなかった。
「先に顔を洗っておいで。水、替えてあるから」
私は裏へ出た。
水を両手ですくうと、指の間から零れた。顔を濡らしても、春子の問いが頭から離れなかった。
理由があったなら、ちゃんと言ってよ。
私は濡れた顔のまま、壁へ手をついた。
未来から来たと言うのが怖かった。信じてもらえず、学校へ通えなくなったり、おばちゃんの家から離されるのが怖かった。先生に問い詰められたときも、春子に掴まれたときも、その怖さが身体を止めた。
奈々を助けたいと思っていた。
それと同時に、私は今の自分の居場所を失いたくなかった。
そのことを、日記にも書いていなかった。
部屋へ戻り、隠していた日記を開いた。十月十日のところに挟んだ紙が、少し曲がっていた。
私はその頁を机の上で押さえた。
春子に会ったら、日付を言おう。
信じてもらえる言い方が見つかるまで待っていたら、また、その日が先に来てしまう。
店の方で、おばちゃんが私を呼んだ。
私は返事をして、日記を閉じた。しまう前に、明日のこととして、春子の名前を一行だけ書き加えた。




