第28話 届かない手紙
奈々を見送った翌朝、私は店の暦を見上げた。
八月二十二日。
覚えていたのは八月ということだけだった。対馬丸という名前と、海に沈んだ子どもたちのことは思い出せるのに、それが出航した夜だったのか、次の日だったのか、どうしてもはっきりしなかった。
店の入口を掃きながら、私は何度も道の向こうを見た。昨日の船が戻ってきたという話を、誰かが持ってくるような気がした。故障でも、予定の変更でもよかった。いったん港へ引き返したのだと聞ければ、それだけで息ができると思った。
けれど、朝の道を行く人は、いつもと同じように荷物を抱え、私に挨拶をして通り過ぎた。
「そこ、もうきれいだよ」
おばちゃんに言われて、私は箒を止めた。同じところばかり掃いていて、石の隙間にあった土まで掻き出していた。
「春子ちゃんの妹さんのこと?」
私は箒の柄を握ったまま頷いた。
おばちゃんは入口の敷居へ目を落としてから、私の隣に立った。
「向こうへ着いて、落ち着いたら知らせが来るだろうね」
「……うん」
来るだろうか。
その言葉を口に出す代わりに、私は集めた塵を拾った。屈むと、昨日、春子に掴まれた手首が袖口から出た。もう跡はなかったが、あのときの指の強さは、まだ身体に残っていた。
*
春子は学校へ来ていた。
席に着く前、鞄から布を取り出し、机の内側へしまうのが見えた。奈々が描いた家の絵も、あの中にあるのかもしれなかった。
声をかけようとした私より先に、文子が春子の机へ寄った。
「昨日、お母さん、大丈夫だった?」
「帰ってからも忙しかったよ。奈々の荷物を揃えるのに、家の中、ひっくり返したから」
春子はそう答えて、鞄の口を閉めた。
「いなくなったら、少し静かになると思ったんだけどね。朝も、つい起こしに行っちゃった」
文子が何か言いかけたとき、春子は私を見た。
私はその視線を受け止めたまま、何も言えなかった。昨日のことを謝れば、船へ乗せないでほしかったという願いまで取り消してしまう気がした。けれど、謝らずに立っているのも、春子を責めているようだった。
「昨日は……」
そこまで言うと、春子は机の上の本を開いた。
「もういいよ」
声は低かったが、怒鳴るような言い方ではなかった。
「奈々は行ったんだから」
私は頷いて、自分の席へ戻った。
授業が始まると、先生の声に合わせて皆が本をめくった。窓から入る風が紙の端を揺らし、隣の席で千代が鉛筆を削った。私は黒板を写していたが、行の途中で同じ言葉を二度書いていることに気づいた。
消そうと手を止めた瞬間、暗い海が頭に浮かんだ。
それは見たことのある海ではなかった。資料で読んだ言葉や写真を、勝手に繋ぎ合わせたものだった。そこへ、昨日こちらを振り返った奈々の顔が入り込んでくる。
私は鉛筆を置き、机の下で両手を握った。
奈々がどうなったかは知らない。
それだけは、自分の記憶と混ぜてはいけなかった。
*
その日の夕方、おばちゃんと近所の壕を見に行った。
店を出る前、私は水の入った瓶と着替えを包んで持った。おばちゃんはその包みを見て、今日は道を確かめるだけだよ、と言ったが、私は持っていくと答えた。
手ぶらで歩くと、何もしていない気がした。
いつも使う道から脇へ入り、家々の間を抜けた先に、土を掘った入口があった。近所の人たちが手を入れている場所だと、おばちゃんが教えてくれた。
入口のそばではゲンさんが土を運んでいた。
「理恵も見に来たのか」
「はい」
「今はまだ、足元に気をつけなさいよ」
私はおばちゃんの後ろから中へ入った。
外の明るさが背中に遠ざかると、湿った土の匂いが強くなった。目が慣れるまで立ち止まり、それから低いところを避けて進んだ。包みが壁に触れ、肩を引くと、今度はおばちゃんの腕へ当たった。
ここへ人が大勢入ったら、どうなるのだろう。
入口に集まれば、奥へ進めなくなる。子どもやお年寄りが転んだら、後ろの人は止まれるだろうか。私は出口を振り返り、外の光が見える位置を確かめた。
「店から、別の道でも来られる?」
尋ねると、おばちゃんは少し考えた。
「裏の方から回っても来られるけど、遠くなるね」
「そっちも歩いておきたい」
おばちゃんは私を見た。理由を尋ねられると思ったが、入口の方へ身体を向け、じゃあ帰りはそちらを通ろう、と答えた。
家へ戻る途中、私は曲がり角や石垣の切れ目を何度も見直した。
十月十日。
その日は覚えている。
奈々の船を止められなかったことと、次に備えることが、頭の中でうまく分かれなかった。今こうして歩いている間にも、奈々が助けを待っているのではないかと思った。けれど、私には船を追う方法も、捜しに行く場所もなかった。
店へ着くと、持っていた水を一口飲んだ。喉が渇いていたのに、飲み込むと胸の奥が痛くなった。
*
八月が終わっても、奈々からの手紙は来なかった。
春子の家では、九州の親戚へ問い合わせの手紙を出したという。返事を待っていることを、私は文子から聞いた。
学校では、疎開したきょうだいの話をする子がいた。向こうの暮らしを心配する声に混じって、船のことを小さな声で話す人もいたが、誰の話なのか、どこまで確かなのかは分からなかった。
私はそのたび顔を上げた。
けれど、近づいて尋ねようとすると、相手は、私も人から聞いただけだから、と口を閉じた。私が前に船は沈むと言ったことを、覚えている子もいた。
春子は、奈々の話をしなくなった。
授業中に当てられれば答え、作業のときはいつもどおり手を動かした。糸の始末が悪い子には、そこはすぐほどけるよ、と注意したし、文子が針へ糸を通せずにいると、貸して、と手を出した。
けれど、作業が終わればすぐに帰った。
ある日、門を出たところで、私は春子に追いついた。
「何か、知らせは」
春子は歩く速さを変えなかった。
「まだ」
「私にも、できることがあったら……」
言い終わる前に、春子が足を止めた。
「何ができるの?」
私は答えられず、道の端に立った。春子の顔は日に焼けていたが、目の下には薄い影があった。
「ごめん。今、そういうこと考えられない」
春子は私から目を逸らした。
「母さんも毎日聞くの。学校で何か言われなかったかって。何もないって答えると、じゃあ明日は先生に聞いておいでって」
風が吹き、道の埃が足元を流れた。
「先生も、分かったら知らせるって。それ、何回も聞いた」
私は春子の横顔を見た。
船が沈むことを知っている私は、春子より多くのことを知っているはずだった。なのに、いちばん知りたいことには答えられなかった。奈々が海へ出られたのか、誰かに救われたのか、今どこにいるのか。
「……奈々が、手紙を書くの難しくても」
私は言葉を選びながら口を開いた。
「一緒にいる大人の人が、知らせてくれるかもしれない」
春子はしばらく黙っていた。
「うん」
それから鞄を抱え直した。
「あの子、自分で書くって言ってたけどね。分からない字は、先生に聞くからって」
私は、食堂で袖を掴んできた小さな手を思い出した。
春子が歩き出したので、今度は追わなかった。
*
九月に入ったある夕方、春子が食堂へ来た。
私は椀を拭いていて、戸口に立った姿を見つけると、布巾を置いた。春子は中へ入らず、空いている卓を一度見た。
「少し、いい?」
「うん」
私はおばちゃんに声をかけ、店の外へ出た。
春子は鞄から、折った紙を取り出した。手紙かと思って身を乗り出したが、宛名も切手もなかった。端が少し擦れ、折り目が白くなっていた。
奈々が描いた家の絵だった。
「これ、預かってくれない?」
私は春子を見た。
「私が?」
「家で出しておくと、母さんがずっと見るから。しまっても、どこに入れたって聞くし」
春子は紙の角を指で押さえた。
「奈々のもの、荷物に入れなかったのを、毎日探してるんだよね。着られなくなった服まで出してきて」
私は両手を出した。
春子はすぐには渡さず、紙を広げて絵を見た。屋根の下に並んだ人の顔を、私は横から見た。大きさも形も違っていて、その中に小さな奈々がいた。
「帰ってきたら、返して」
「うん」
「汚さないでね」
「ちゃんとしまっておく」
春子は頷き、ようやく私の手へ紙を載せた。
それが、仲直りなのかは分からなかった。春子はほかに何も言わず、また鞄を持った。
「お母さん、一人で待ってるの?」
「父さんも、もう帰ってると思う」
私は分かった、と答えた。
春子を見送ってから部屋へ戻り、机に絵を広げた。奈々が描いた線には、何度もなぞったところがあった。窓の中には誰かの顔があり、庭には、花なのか木なのか分からないものが並んでいた。
この家へ帰るつもりで描いたのだと思った。
私は乾いた布で包み、箪笥の上の段へ入れた。日記と一緒にはしなかった。あの子の絵を、まだ起きていない死のことまで書いた紙に触れさせたくなかった。
その夜、日記には短く書いた。
――奈々の絵を預かった。帰ってきたら返す。
鉛筆を置いてから、もう一度読み返した。
その下へ、何も書き足さなかった。




