第27話 送り出す朝
翌朝、私はおばちゃんに、空襲があったらどこへ逃げるのか尋ねた。
おばちゃんは朝の支度をしながら、近所で使うことになっている壕の場所を教えてくれた。私は行ったことがなかった。途中までの道は分かったが、その先は、説明を聞いても頭の中でつながらない。
「一度、行っておきたい」
そう言うと、おばちゃんは私の顔を見た。
「今日、店が落ち着いたら見に行こうか」
私は頷いた。
それから、水や着替えをまとめておいてもいいか尋ねた。おばちゃんは、持って歩けるだけにするんだよ、と言った。
船が沈むと話したときとは違って、理由を何度も説明しなくてよかった。私はそのことに少し救われ、棚から使っていない布を出した。
けれど、学校へ向かう頃には、また奈々のことを考えていた。
*
春子とは、ほとんど話せないまま日が過ぎた。
挨拶をすれば返事はあった。必要なものを渡すと、ありがとうとも言ってくれた。それでも、私の机へ来て話すことはなくなった。
私は春子が帰るたびに立ち上がりかけ、座り直した。
文子も千代も、無理に仲直りをさせようとはしなかった。ただ、私が一人で帰ろうとすると、文子は鞄を持って隣へ来た。千代は春子と話したあと、妹の支度で忙しいみたい、と教えてくれた。
出発の日が近づいていた。
私は先生にもう一度話すことも考えた。けれど、何を付け足せばよいのか分からなかった。誰から聞いたのかと尋ねられれば、同じところで黙ることになる。
奈々の家へ行こうと思った日もあった。
春子の両親に、船へ乗せないでほしいと頼む。聞いてもらえるまで話す。
道の途中まで行ってから、私は立ち止まった。何を理由にするのだろう。春子にさえ説明できなかったことを、両親なら信じてくれると思えるのだろうか。
帰ってきて、誰にも会わなかった自分に腹が立った。
それでも翌日には、また学校へ行った。何もしなくても、日にちは進んだ。
*
八月二十一日、春子は学校へ来なかった。
妹を送りに行くのだと、前の日に千代が聞いていた。
私はその話を聞いた瞬間、鞄を持った。
「理恵、どこへ行くの」
文子が尋ねた。
「港」
「今から?」
私は頷いた。まだ間に合うかもしれない。奈々が船へ乗る前に、会えるかもしれない。
文子は私の鞄へ手を伸ばしかけ、止めた。
「先生に言ってからにしよう」
私は入口を見た。誰かに止められる前に出てしまいたかった。けれど、文子まで一緒に叱られることになると思うと、そのまま走れなかった。
先生に呼ばれ、理由を聞かれた。妹さんのことは家族と学校で決めたことです、と言われた。
「分かってます。でも、会いたいんです」
先生は私の顔を見ていた。
許してもらえるまでの間にも、時間が過ぎていった。
*
港に近づくと、人と荷物が増えた。
大人の声に混じって、子どもを呼ぶ声がした。風呂敷を抱えた人、背中へ荷を負った人、手をつないで歩く親子がいる。私はその間を通り、春子を探した。
文子も一緒に来ていた。
急いで歩く私に何度も追いつき、人へぶつかりそうになると腕を引いた。私は謝るたびに足を止め、そのたび、早くしなければと思った。
船が見えた。
大きかった。
画面で見た写真とは違い、目を動かさなければ全体が分からない。乗り込もうとする人たちの身体が、その脇で小さく見えた。
私は足を止めた。
名前を知っている船が、目の前に浮いていた。
「春子」
文子が呼んだ。
その声の方を見ると、春子がこちらを向いていた。隣には母親らしい女の人がいて、その前に奈々が立っている。
奈々は私たちを見つけると、春子の袖を引いた。
「理恵も来た」
私は近づいた。
春子の顔が強張った。
「何しに来たの」
返事をする前に、奈々が私の手へ触れた。小さな荷物を肩に掛けている。紐が首の方へ寄っていたので、私は直した。
「重くない?」
奈々は首を振った。
「春子が入れてくれた」
私はその結び目を見た。ほどけないよう、きつく結ばれていた。
春子の母親が、私へ頭を下げた。私は慌てて挨拶を返した。船のことを言った子だと、知っているのだろうか。顔を見ても分からなかった。
「奈々、そろそろだよ」
母親が言った。
奈々の指に力が入った。
「春子」
姉を呼ぶ声が小さくなった。
春子がしゃがみ、妹と目の高さを合わせた。
「叔母さんの言うこと、ちゃんと聞くんだよ。困ったら黙ってないで、言うこと」
奈々は返事をしなかった。春子の肩へ両手を置き、そのまま身体を寄せた。
春子は妹を抱いた。
私は二人の横に立っていた。今なら、まだ言える。行かないでと。乗せないでと。
春子の母親も、船の方へ顔を向けながら、何度も奈々の背中を撫でていた。娘を手放したい人の手ではなかった。
それでも、ここから送り出す。
生きてほしいから。
私は喉の奥を押されるような痛みを感じた。
「奈々ちゃん」
呼ぶと、奈々が春子の肩越しにこちらを見た。
「……行かないで」
声が出た。
春子が顔を上げた。
「理恵」
「お願い。今日だけでも——」
「もう、やめて」
春子は立ち上がり、奈々を自分の脇へ寄せた。
私は手を伸ばした。奈々の荷物の紐に触れる前に、春子が私の手首をつかんだ。
「この子の前で言わないで」
その手が震えていた。
私は春子を見た。
春子の目に涙があった。怒っているのに、唇を噛んで、声を抑えようとしていた。
「私だって、行かせたくないよ」
私は動けなくなった。
「でも、どうしたらいいの。ここへ置いておけば大丈夫だって、誰が言えるの」
春子の母親が二人の間へ入った。文子の手が、私の背中へ触れた。
奈々が泣き始めた。
春子は私の手首を離し、すぐに妹へ向き直った。もう一度しゃがみ、顔を拭いてやる。自分の涙は拭かなかった。
私は文子に支えられて、一歩後ろへ下がった。
奈々がこちらを見ていた。
その子まで怖がらせたのだと、分かった。
*
それからのことは、一つずつは覚えているのに、順番が曖昧になった。
母親が荷物を確かめたこと。奈々が春子の手を離さなかったこと。迎えに来た先生が腰をかがめ、何か話したこと。
私は何度も口を開き、何も言えずに閉じた。
奈々が歩き出した。
春子は立って見送っていた。妹が振り返るたび、手を上げた。奈々も手を上げたが、すぐに隣の子へぶつかりそうになり、先生に肩を支えられた。
私はその背中を追おうとした。
文子が私の腕を握った。
「理恵、ここまでだよ」
私は首を振った。
ここまでにしたら、終わってしまう。
けれど、前にはほかの人たちがいて、その向こうには家族がいる。私が一人で走っていっても、船を止められるわけではなかった。
奈々の姿が、人の間に隠れた。
私は船を見上げたまま、息を吸った。
春子が、隣で何度も妹の名前を呼んでいた。
*
港を離れる頃、私の脚は重くなっていた。
春子は母親と先に帰った。最後まで、こちらを見なかった。
文子と歩きながら、私は何度も振り返った。もう船の見えない道へ入っても、振り返るのをやめられなかった。
「理恵」
文子に呼ばれた。
「どうして、あの船なの?」
私は足を止めた。
文子は私の顔を見ていた。
「ほかの船も怖いって話じゃないんでしょう。あの名前を聞いてから、理恵、変わった」
私は頷いた。
「知ってるの」
「どこで?」
また、その質問だった。
私は文子の顔を見た。言えば信じてくれるかもしれない。信じてもらえなくても、今までとは違う話ができるかもしれない。
それなのに、港で聞いた春子の声が、まだ耳に残っていた。
そんなこと、言わないでよ。
「……今は、うまく話せない」
答えると、文子は目を伏せた。
少し間を置いて、また歩き始めた。私も隣へ並んだ。
船は、私が説明できるようになるまで待ってくれなかった。
対馬丸は1944年8月21日に那覇港を出港し、翌22日に撃沈されました。




