第26話 覚えていること
学校からおばちゃんと帰った夜、私は日記を引き出しへ戻せずにいた。
対馬丸と書いた頁を開いたまま、何度もその名前を見た。春子に言った言葉も、先生に尋ねられたことも、頭の中で繰り返していた。
誰から聞いたのですか。
根拠があるのですか。
私は机の隅へ置いた、短い鉛筆を見た。ここへ来たばかりの頃、触るのをためらった鉛筆だった。今はその隣に、自分が毎日使う鉛筆がある。どちらも短くなっていた。
この部屋で、もう二年以上暮らしている。
現代で読んだものを、初めの頃より忘れていた。覚えているつもりでも、いざ必要になると日にちが出てこない。船を止めたいのに、何を話せば信じてもらえるのか分からない。
私は日記の新しい頁を開いた。
忘れる前に、もう一度書いておこうと思った。
*
初めに、昭和十九年、と書いた。
その横へ、1944年、と数字を添える。この時代の人に見られれば、それだけでも不思議に思われるかもしれなかった。
『八月。対馬丸。疎開する子どもたちを乗せた船が沈む。』
日にちは書けなかった。思い出そうとすると、調べた画面の配置や写真ばかり浮かぶ。必要な数字だけが、そこにない。
次に、十月、と書いた。
『十月十日。十・十空襲。』
こちらは、名前と日付が同じだった。忘れようがなかった。
那覇が燃える。大勢の人が家を失う。
そこまで書いて、窓へ顔を向けた。向こうには隣の家の屋根があり、その下にゲンさんとトメさんがいる。食堂の看板は、通りへ出れば見える。私が初めてここへ来た日から、同じところに掛かっていた。
この辺りも燃えるのだろうか。
読んだ資料の地図を覚えていなかった。食堂がどの範囲にあるのか、分からない。空襲が何時に始まるのかも、どこへ逃げれば安全なのかも。
『十月十日は、家にいない方がいいのかもしれない。おばちゃんを連れて逃げたい。文子、千代、春子にも知らせたい。』
鉛筆を止めた。
今日、船のことで呼び出されたばかりだった。
それでも、十月まで何も言わずに待つことはできない。日時を言い切って信じてもらえなくても、避難する場所を確かめたり、荷物をまとめたりすることなら、今からできるかもしれなかった。
私はその下に、小さく書いた。
『逃げる道を調べる。』
*
『十月。レイテ沖海戦。日本が負ける。』
書いた文字を見て、教室で皆に聞かれた声を思い出した。戦争に負けると、この家の中でさえ口にしたことがなかった。
レイテはフィリピンの方だった。船がたくさん沈む。特攻も、その頃だったと思う。
『特攻。飛行機で敵の船に突っ込む。帰ってこない。』
そんな短い説明では、書けていない気がした。
帰ってこないのではなく、帰れないように送り出される人がいる。志願という言葉を、調べた記事で何度も見た。自分で選んだように書かれていても、断れたのかは分からない。
私は行を空けた。
『行きたくないと言えるのか。言った人は、どうされたのか。』
ここへ来る前、私は、嫌なら嫌だと言えばいいと思うことがあった。
今は、その言葉を言ったあとも同じ場所で暮らさなければならないことを知っていた。先生が家の人を呼び、友達が顔をそらし、誰かが廊下でひそひそ話す。その先に何があるのか分からないだけで、口が閉じてしまう。
*
次の頁へ、昭和二十年、1945年、と書いた。
『二月か三月。硫黄島。激しい戦い。』
島の名前と、黒い地面の写真を覚えていた。けれど、今の私に役立つほど詳しいことは出てこなかった。
『三月から四月。沖縄戦が始まる。艦砲射撃。四月一日、沖縄本島に米軍が上陸する。』
四月一日は覚えていた。
ただ、沖縄本島に上陸する前から戦いが始まっていたはずだった。ほかの島の名前を思い出そうとして、慶良間、と書いた。日付の場所は空けたままにした。
海から撃たれる。
陸にいる私たちへ、海の上から砲弾が飛んでくる。
私は窓を見た。ここから海は見えない。それでも、見えない場所から家まで届くのだと思うと、戸を閉めても隠れた気になれなかった。
『四月。大和が沖縄へ向かう。途中で沈む。菊水作戦。特攻。』
菊水作戦という名前は覚えていたが、大和の出撃と、飛行機の攻撃がどう重なっていたのか、説明できなかった。書いた言葉の下へ、詳しくは思い出せない、と添えた。
大きな戦艦が助けに来ても、沖縄へは着かない。
誰かがその船を待っていたら、私は何と言えばいいのだろう。
*
ひめゆり学徒、と書いたところで、手が止まった。
平和学習の教室で、その名前を初めて聞いたときのことは覚えている。同じくらいの年の女の子たちが、負傷兵の看護をして亡くなった。
自分でも調べると、瑞泉や白梅など、ほかの学徒隊の名前が出てきた。学校ごとに動員され、違う病院や壕へ行っていた。
私はその名前を、覚えているだけ並べた。
汐見は、そこになかった。
知らないからといって、安全なのだとは思えなかった。私たちの学校にも、兵隊が来る。作業へ出るように言われる。いつか看護を習うように言われたら、ここにも同じことが起きるのかもしれない。
『負傷兵の世話。包帯。水くみ。食事を運ぶ。排泄の世話。亡くなった人を運ぶ。』
先生になりたい文子。
服を作りたい千代。
食堂を開きたい春子。
私は三人の名前を書きかけ、やめた。まだ誰も、看護をしたいと言っていない。
調べた証言には、麻酔が足りず、十分に使えないまま手術が行われたという話があった。どの病院だったのか、誰が話していたのかまでは思い出せなかった。
手足を切る。その身体を押さえる。
私は、自分の手を見た。
今日も、この手で椀を洗った。熱い汁が指に跳ねただけで、慌てて水へ入れた。その私が、痛がって暴れる人を押さえられるのだろうか。
『怖くて手を離したら、怒られるのか。でも、痛いと言っている人を押さえるのも怖い。』
鉛筆の先が折れた。
私はしばらく動かず、折れた芯を指で拾った。
*
削り直した鉛筆で、青酸カリ、と書いた。
撤退するとき、連れていけない患者に毒が使われたという証言を読んだ。助けるためにいた病院で、助けられない人を置いていく。誰が決め、誰が手を動かしたのか。証言ごとの違いを、今の私は正確には思い出せない。
思い出せないことまで、分かったように書かないようにした。
『そんな命令を聞いたら、私はどうするのか。先生に言えば止めてもらえるのか。』
書いてから、先生も命令を受ける側かもしれないと思った。
私は行を空けた。
『自決。捕まるくらいなら死ねと言われる。家族で死んだ人たち。手榴弾。強要。』
鬼畜米英という言葉を、こちらへ来てから何度も聞いた。
捕まれば酷い目に遭う。だから捕まってはいけない。
怖がらせる言葉を毎日聞き、逃げる場所を失ったら、私も誰かの言うことを信じてしまうのだろうか。現代で読んだときは、死なないで逃げてほしかった。その逃げ道がどこにあったのかまでは、考えられていなかった。
『米兵も、皆が同じではない。捕まって生き延びた人もいる。死ねと言われても、死にたくない。』
最後の一文を、もう一度読んだ。
これは歴史ではなかった。
私の気持ちだった。
*
六月、と書いた。
ひめゆり学徒隊の解散命令。壕を出てから亡くなった子が多かったことは覚えていたが、何日だったかは出てこなかった。
『解散と言われても、家へ帰れるわけではない。外も戦場。』
六月二十三日。
その日付は、平和学習で習った。けれど、その日に沖縄の皆が助かったわけではない。戦闘も、人が亡くなることも、そのあとまで続いた。
私は六月の下を空け、八月、と書いた。
『八月六日。広島に原爆。八月九日。長崎に原爆。』
長崎。
奈々が向かう九州にも、戦争は届く。
私は春子の言葉を思い出した。ここに残して何かあったら、理恵が守ってくれるの、と。
守ると言えなかった。どこが安全なのか、私は知らない。先の出来事をいくつか覚えていても、その間を無事に通る道が分からなかった。
『八月十五日。終戦の放送。日本は降伏する。』
そこだけは、大きく書いた。
降伏を決めた日と、正式に文書へ署名した日は別だったはずだ。九月にも何かあった。思い出せず、余白に疑問符をつけた。
私は八月十五日へ指を置いた。
今から一年。
その日まで、食べて、眠って、息をしていればいい。
そう思いたかった。けれど、ここまで書いた頁には、その一年を生きられなかった人のことばかり並んでいた。
*
戸の向こうで、おばちゃんが声を掛けた。
「理恵、まだ起きてる?」
私は日記の上へ手を置いた。
「うん」
「明日も早いからね。無理しないで」
「もう寝る」
足音が遠ざかってから、私は最後に一行書いた。
『八月十五日まで生きたい。おばちゃんも、文子も、千代も、春子も、奈々も。』
書き終えて、奈々の名前を見た。
この日記を見せれば、春子は信じてくれるだろうか。それとも、まだ起きていない死をこれだけ書いていたことを、もっと怖がるだろうか。
私は頁を閉じた。
引き出しへ戻す前に、十月十日と書いたところへ、小さな紙を挟んだ。対馬丸のことが終わってから考えよう、と先送りにはできなかった。
明日は、おばちゃんに避難する場所を尋ねよう。
日記を服に包み直すとき、指に黒い汚れがついていることに気づいた。折れた芯を拾った指だった。
私は布で拭ったが、爪の脇に入った鉛筆の粉は、少し残った。




