第25話 誰から聞いた
春子が教室を出たあと、私は追いかけた。
廊下へ出ると、春子はもう階段の手前まで行っていた。名前を呼んでも振り向かない。追いついて隣へ並ぶと、春子は足を止めた。
「何?」
「さっきのこと——」
「聞きたくない」
春子は私を見た。目の縁が赤かった。
「奈々が行く船だって、分かって言ったんでしょう」
私は頷いた。
「だから、乗せないでほしいの」
「じゃあ、どうすればいいの?」
返事ができなかった。
「ここに残して、何かあったら? 理恵が守ってくれるの?」
春子は私の答えを待っていた。
私は口を開いたが、何も言えなかった。春子の妹を守る方法を知っているわけではない。沈む船の名前を一つ覚えているだけだった。
「もう言わないで」
春子は階段を下りていった。
後ろから文子と千代が来た。二人とも、春子を呼び止めなかった。私は手すりに手を置いたまま、その足音が聞こえなくなるまで立っていた。
*
翌朝、教室へ入ると、話していた二人の生徒が口を閉じた。
私が通り過ぎてから、小さな声がした。
「本当に言ったんだって」
鞄を机へ置いた。留め具を外す指が、うまく動かなかった。
文子が近づいてきた。
「理恵、先生が呼んでる」
私は顔を上げた。
「今?」
文子は頷いた。それから、私の鞄へ目を落とした。
「置いていっていいと思う」
私は教科書を出しかけた手を引き、職員室へ向かった。
*
島袋先生の机の前に立つと、椅子を勧められた。
座っても、膝を揃えたまま身体が硬かった。先生は手元の紙を伏せ、私を見た。
「宮里さんの妹さんが乗る船について、話をしたそうですね」
「……はい」
「沈むと言ったの?」
私は頷いた。
先生はしばらく黙った。隣の机で紙をめくる音がした。入口を通る足音がするたび、誰かが私たちを見ているような気がした。
「誰から聞いたのですか」
私は膝の上の手を握った。
「前に、知って……」
「どこで?」
画面で読んだ。
そう答えることはできなかった。
「思い出したんです」
先生の眉が少し寄った。
「何を思い出したのか、説明できますか」
私は首を振りかけ、途中で止めた。説明できないと言えば、奈々を乗せない理由がなくなる。
「子どもが、たくさん亡くなるんです」
先生の顔つきが変わった。
「寺田さん」
低い声だった。
「まだ起きていないことを、そのように言い切ってはいけません」
「でも——」
「根拠があるのですか」
私は先生を見た。
船の名前を知っている。沈むことも知っている。けれど、それを裏づけるものは、引き出しに隠した日記にさえなかった。
私が書いた文字を見せても、私がそう思っていることしか証明できない。
「ありません」
声が小さくなった。
先生は息を吐き、机へ置いた手を組んだ。
「疎開する家の人たちも、心配しながら決めています。あなたの言葉で、どれだけ不安になるか分かりますか」
「分かります」
「宮里さんは、妹さんを助けたいのです」
「私もです」
思わず顔を上げた。
先生は私を見たまま、黙った。
「私も、助けたいんです」
もう一度言うと、声が震えた。先生の表情が少し緩んだが、次の言葉は変わらなかった。
「それなら、なおさら言い方を考えなさい。こうした話が学校の外へ広まれば、あなた一人の心配では済まなくなることもあります」
私は膝を見た。
「今日は、家の方にも来てもらいます」
*
おばちゃんが学校へ来たのは、午後だった。
私は廊下の椅子で待たされた。戸の向こうで、先生とおばちゃんの声が聞こえた。言葉の全部は分からなかったが、船、という言葉だけが何度か聞こえた。
私は床の継ぎ目を見つめた。
おばちゃんは昼の店を誰かに頼んできたのだろうか。火に掛けていた鍋はどうしたのだろう。私のせいで、今日の仕事を途中にしなければならなかった。
戸が開くと、私は立ち上がった。
おばちゃんは私の顔を見て、鞄を取りに行こう、と言った。
怒られなかった。
それが、かえって苦しかった。
教室へ戻ると、皆がこちらを見た。春子は机へ向かっていた。私は鞄へ教科書をしまい、文子と千代に小さく頭を下げた。
廊下へ出る直前、誰かの声が聞こえた。
「そんなこと言うから」
誰が言ったのか、確かめられなかった。
*
帰り道、おばちゃんは私の隣を歩いた。
しばらく黙っていたあと、私から話した。
「店、ごめん」
「トメさんに頼んであるよ」
「忙しかったでしょう」
「今日は、あの人がいてくれて助かった」
おばちゃんは道のくぼみを避けた。私はその後ろへ一歩ずれ、また隣へ戻った。
「先生に、何て言われた?」
「理恵が、船をとても怖がっているって」
私は足を止めた。
おばちゃんも立ち止まり、こちらを向いた。
「怖いだけじゃない」
「うん」
「知ってるの」
おばちゃんは私の顔を見た。
私は続けようとした。未来のこと。ここへ来る前の家。トラックの音。現代で読んだ対馬丸の記事。
言葉を選ぶほど、どれも信じてもらえない話に思えた。
「……でも、見せられるものがない」
おばちゃんはすぐには答えなかった。道を歩いてきた人が私たちの横を通り過ぎ、おばちゃんに挨拶をした。おばちゃんは返事をしてから、私へ向き直った。
「奈々ちゃんに、行ってほしくないんだね」
私は頷いた。
「でも、学校で言われたことは覚えておこう。聞いた人が、どこで誰に話すか、理恵には分からないから」
私はおばちゃんの手元を見た。
「おばちゃんにも、迷惑が掛かる?」
「私は、理恵の話を聞くよ」
答えになっていなかった。
それでも、もう一度尋ねることはできなかった。
*
家へ戻ると、私は部屋で日記を開いた。
対馬丸と書いた頁を、机の真ん中へ置いた。
先生にも、おばちゃんにも、根拠を見せられなかった。春子を怒らせ、教室の子たちに聞かれた。それでも船の名前は、紙の上から消えない。
もし私が間違っていたら。
そう考えてみた。別の年、別の船。記憶違いであってほしかった。
けれど、奈々の小さな手を思い出すと、間違っている方に賭けることもできなかった。
廊下で足音が止まり、おばちゃんが声を掛けた。
「理恵、食べられそう?」
「あとで、行く」
「うん。待ってるよ」
私は日記を閉じた。
明日、春子に会ったら、何と言えばいいのだろう。
謝りたかった。
でも、船は沈まないと言い直してしまえば、春子は安心して奈々を送り出すかもしれない。
私は閉じた日記を両手で押さえたまま、なかなか引き出しへ戻せなかった。




