第24話 決まった船
八月になると、疎開するという話が、出発の支度に変わった。
食堂へ来る人の中にも、次はいつ来られるか分からないと言う人がいた。子どもの服を縫い直しているという話や、持っていけない荷物を身内へ預けたという話が、卓の間を行き来した。
私は注文を聞きながら、船の名前が出るのを待っていた。
九州へ行くと聞くたび、胸が詰まった。何日に出るのか尋ねても、まだ分からないという返事が多かった。おばちゃんに、知り合いでもいるの、と聞かれ、私は友達の家族が行くかもしれないから、と答えた。
嘘ではなかった。
けれど、それだけでもなかった。
*
千代の家は、県外へ出るのをいったん見送ることになった。
母親の身体の具合と、向こうで暮らす場所のことが決まらないからだという。学校へ来た千代からそれを聞いて、私は思わず息を吐いた。
「よかった」
千代が私を見た。
私はすぐに言い直した。
「……一緒にいられるね」
「うん。でも、お母さんはまだ心配してる」
千代は鞄を机へ置いた。
「弟だけでも先にって、親戚から言われてるから」
私の安心は、そこまでだった。
春子の家では、奈々を九州へ行かせることが決まった。
向こうにいる叔母が、受け入れてくれるという。春子と両親は沖縄に残る。奈々は同じように疎開する子どもたちと一緒に、先生に引率されて行くことになった。
春子はその話を、放課後、教科書をしまいながらした。
「船は?」
私が尋ねると、春子は手を止めた。
「まだ聞いてない」
「決まったら——」
「うん。教えるって言ったでしょう」
少し強い声だった。
私は口を閉じた。春子も、すぐに顔を伏せた。
「ごめん。奈々が、毎晩泣くから」
文子が春子の隣へ椅子を寄せた。
「一人で行くの、嫌なんだね」
「昼間は、もう泣かないって言うんだけど。寝るときになると、やっぱり嫌だって」
春子は鞄の留め具を掛けた。
「私も行けたらいいんだけど、家のことがあるし。叔母さんも、何人もは……」
言葉が途切れた。
私は机の上へ目を落とした。船を止めるようなことを言えば、春子は奈々をどうしたらいいのか、また初めから考えなければならない。
それでも、行っておいでとは言えなかった。
*
数日後、奈々がもう一度食堂へ来た。
春子が服を借りて体に合わせる間、私は奈々と卓に座った。目の前に置いた紙へ、奈々は短い鉛筆で家を描いていた。
「それ、春子の家?」
「うん」
窓のそばに丸い顔が増えた。
「これは?」
「お母さん」
その横にもう一つ。春子だという。
私は紙を押さえた。奈々は自分の顔を最後に描き、屋根の上へ大きな太陽を足した。
「向こうに行ったら、叔母さんに見せるの?」
聞いたあと、胸の中が冷えた。行くことを、私まで当たり前のように口にしていた。
奈々は首を振った。
「春子にあげる」
「そうなんだ」
「帰ってきたら、奈々もここにいるって」
私は紙から顔を上げられなかった。
台所の方で、春子がおばちゃんに礼を言っている。服の裾を直すため、少し縫わせてもらったらしい。
奈々は鉛筆を置き、私の袖を引いた。
「理恵も、船、嫌?」
私はその顔を見た。
「……うん」
「春子が言ってた。理恵も怖いんだって」
私は頷いた。
奈々は、そうだよね、と小さく言った。
「大きい人は、怖くないのかと思った」
私は首を振った。
奈々の指が、私の袖を握ったままだった。私はその手へ自分の手を重ねた。何か言ってあげたかったが、大丈夫という言葉だけは出てこなかった。
*
出発が近づくと、春子は放課後すぐに帰るようになった。
奈々の持ち物へ名前を書き、叔母への手紙を母親と確かめ、必要なものを揃えているという。私たちは教室で春子を見送ったあと、机を寄せても、長くは勉強しなかった。
文子が私へ尋ねた。
「まだ、船のこと気になる?」
「うん」
「先生にも聞いてみたんだけど、奈々ちゃんの学校で決めてるから、詳しいことは分からないって」
私は文子を見た。
「聞いてくれたの?」
「理恵、一人で考えてるみたいだったから」
ありがとう、と言うと、文子は私の帳面を指した。
「今日、何も書いてないよ」
開いた頁は白かった。私は鉛筆を持ち直したが、問題を読んでも、数字が頭に入ってこなかった。
*
春子から船の名前を聞いたのは、帰り支度をしているときだった。
その日は朝から慌ただしく、春子ともほとんど話していなかった。私が鞄を閉じると、春子が机の横へ来た。
「理恵、船、分かったよ」
私は手を止めた。
「何ていうの?」
「対馬丸」
留め具から指が滑った。
鞄の蓋が開き、挟んでいた紙が一枚、床へ落ちた。拾わなければと思ったのに、腰をかがめられなかった。
「理恵?」
春子の顔を見た。
知っている名前だった。
思い違いかもしれないと言い聞かせていたものが、春子の声で、目の前の出来事になった。
「それ、奈々ちゃんが乗るの?」
「うん」
「別の船には、できない?」
春子の表情が変わった。
「急に、どうして」
「その船は、やめて」
近くにいた文子が振り向いた。千代もこちらを見ていた。
私は春子の腕へ手を伸ばした。制服の袖をつかんでから、指に力が入っていることに気づいた。
「理恵、痛い」
慌てて離した。
「ごめん。でも、奈々ちゃんを乗せないで」
「だから、どうして?」
春子の声が硬くなった。
「やっと決まったんだよ。向こうで叔母さんが待ってて、先生も一緒に行ってくれるの。奈々だって、まだ嫌がってるのに……」
私は首を振った。
理由を言わなければ、止められない。
名前を知らないふりも、思い出せないふりも、もうできなかった。
床に落ちた紙を、文子が拾った。差し出されても受け取れず、私は春子を見ていた。
「その船、沈むの」
春子が動かなくなった。
教室の向こうでは、誰かが椅子を机へ寄せていた。その音が途切れると、自分の呼吸だけが大きく聞こえた。
「何、言ってるの」
春子の声は低かった。
私は唇を開いた。けれど、次の言葉が出るまでに、春子はもう鞄を持ち上げていた。
「そんなこと、言わないでよ」
その顔を見て、私は初めて、自分が春子に何を言ったのかを知った。
それでも、取り消せなかった。




