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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第23話 船には乗らないで



 七月、学校で疎開の話が出た。


 島袋先生は、授業を始める前に、家でもよく相談するようにと言った。小さな子どもや年寄り、女の人たちが、沖縄を離れて九州や台湾などへ移るという。


 私は先生の顔を見たまま、動けなくなった。


 疎開。子ども。船。


 その三つが重なった瞬間、一つの名前が浮かんだ。


 対馬丸。


 現代で調べた画面を思い出した。亡くなった子どもたちの写真が並んでいた。小さな顔の下に、名前と年齢が書かれていた。学校から帰り、机に座って読んでいた私は、途中で画面から目をそらした。


 あれは、昭和十九年だった。


 今と同じ年だった。


 机の縁を握ると、指の腹に木の角が食い込んだ。沈んだのは何月だっただろう。夏だったと思う。八月だった気もする。けれど、日にちまでは出てこない。


 先生はまだ話していた。向こうへ行く身内がいる者は、そのことも伝えるように、と。


 教室の後ろから、親戚がいない人はどうするんですか、と声がした。


 私は振り返れなかった。


 その質問をした子にも、先生にも、今から島を出る話は、これから生きるための話なのだ。


 私には、海に沈む船が先に浮かんだ。


     *


「うちも、昨日その話してた」


 昼休み、千代が言った。


 私は箸を止めた。


「誰が?」


「お母さんと弟。行くなら一緒にって」


「船で?」


 千代は少し不思議そうに私を見た。


「うん」


「いつ? 何ていう船?」


「そこまでは、まだ——」


「行かないで」


 自分の声が思ったより大きく聞こえた。


 文子が顔を上げ、春子も弁当を持つ手を止めた。千代は私を見たまま、何も言わなかった。


 私は箸を置こうとした。うまく揃わず、一本が弁当の縁へ当たった。


「船には、乗らない方がいい」


「どうして?」


 千代の声は静かだった。


 私は口を開いた。


 沈むから。


 そう言いかけて、息が止まった。


 千代のお母さんと弟が乗る船が、対馬丸なのかは分からない。ほかの船かもしれない。無事に着く船もあるはずだった。それでも、千代の口から弟という言葉が出たあとでは、船の中にいる小さな子の姿しか考えられなかった。


「危ないから」


 ようやく答えると、春子が膝へ弁当を下ろした。


「ここも危ないから、行くんでしょう」


 責める言い方ではなかった。それなのに私は、顔を上げられなくなった。


「うちも、奈々を行かせるか話してるよ。小さい子は、先に出した方がいいって」


 奈々。


 名前を聞くと、まだ会っていない春子の妹にまで、画面で見た子どもたちの顔が重なった。


 残ればいい、と言いたかった。


 けれど、ここに残った先に何があるのかも、私は知っていた。


「理恵」


 文子が私を呼んだ。


 私は三人の顔を順に見た。何か説明しなければならない。皆の家族の話に、急に口を挟んだのは私だった。


「……ごめん。でも、怖いんだ。船が」


 千代はしばらく黙り、それから小さく頷いた。


「私も、怖くないわけじゃないよ」


 その言葉に、私は何も返せなかった。


 千代は弁当へ目を戻した。私も箸を拾ったが、口へ運んだものを、なかなか飲み込めなかった。


     *


 帰り道、文子が私の隣へ来た。


 千代と春子は、少し前を歩いていた。二人とも、昼の話をもう一度持ち出すことはなかった。


「船の事故、何か覚えてるの?」


 文子に尋ねられ、私は足元を見た。


「……少し」


「自分が乗ったこと?」


「そうじゃない」


 文子は続きを待った。


 私は鞄の紐を握り直した。話せるようになったら聞く、と言ってくれた文子に、また説明できずにいる。


「子どもが、たくさん乗ってる船のことを知ってる」


 そこまでは言えた。


「何があったの?」


「沈んだの」


 文子の足が少し遅くなった。


「どこの船?」


 名前を言おうとした。


 対馬丸。


 けれど、今ここでその名前を言えば、文子は誰かに尋ねるかもしれない。いつ沈んだのか、どこで聞いたのか、私にも聞くだろう。


 まだ沈んでいない船の話を、どうすればできるのだろう。


「……よく、思い出せない」


 答えた途端、喉が痛くなった。


 名前は覚えていた。私が今、思い出せないと言ったのは、自分を守るためだった。


 文子は前を歩く千代たちを見た。


「それで、心配だったんだね」


 私は頷いた。


「でも、千代も春子も、家でいろいろ考えてると思う。行かないでって言われても、困るよ」


「うん」


 文子は私の顔を見て、少し声を和らげた。


「聞けることがあったら、先生に聞いてみよう。船のことも」


 私はもう一度頷いた。


 前の二人に追いつくまで、文子は何も言わずに隣を歩いてくれた。


     *


 その夜、おばちゃんが疎開の話を出した。


 店の客から聞いたことを、片づけながら教えてくれた。向こうに身内がいる人は便りを出していること。家族で行くか、子どもを先に行かせるか、迷っている人がいること。


「私たちも、どうするか考えないとね」


「行かない」


 椀を拭く手を止めずに言った。


 おばちゃんの足音が止まった。


「理恵?」


「船には乗らない。おばちゃんも、乗らないで」


 拭き終えた椀を棚へ戻そうとしたが、手が震えていた。隣の椀へ当たり、乾いた音が鳴る。おばちゃんが近づいて、私の手から受け取った。


「ちょっと座ろう」


 私は首を振った。


「まだ、終わってない」


「あとでできるよ」


 腰掛けを寄せられ、私は座った。おばちゃんは向かいへ腰を下ろしたが、すぐには話し始めなかった。


 台所に、濡れた布巾の匂いがしていた。


「船が怖いんだね」


 私は頷いた。


「沈んだら……」


 そこまで言うと、頭に浮かんでいたものが急に近くなった。


 暗い海。足の届かない水。呼んでも返事をしない人。


 実際に見た記憶ではない。それなのに、そこへおばちゃんが落ちていくことを想像すると、息がうまく吸えなくなった。


「私、泳げるけど、海でずっと泳げるわけじゃない。おばちゃんと離れたら、探せない」


「うん」


「だから、行かないで」


 おばちゃんは私の握った手を見た。


「そんなに怖かったんだね」


 私は唇を噛んだ。


 何を知っているのか、尋ねてほしかった。尋ねられたくもなかった。話せば信じてもらえるだろうか。私がここへ来た理由まで話したら、この家にいられなくなるだろうか。


「今、決めて、明日船に乗るって話じゃないよ」


 おばちゃんが言った。


「理恵のことも聞いてから考える。黙って連れていったりしないから」


 私はその顔を見た。


「本当?」


「本当」


 それでも、怖さは消えなかった。


 おばちゃんが立ち上がったあと、私は膝の上の手を開いた。爪を押しつけていたところに、赤い跡が残っていた。


     *


 部屋へ戻ると、日記を取り出した。


 初めの方の頁を探した。覚えている年号を、ここへ来たばかりの私が書いている。


 昭和十九年。


 その下を何度も見たが、対馬丸の名前はなかった。空襲や沖縄戦のことを書くとき、思い出さなかったのだ。


 私は新しい頁に、対馬丸、と書いた。


 八月だったと思う。


 その下に、分からない、と書き足した。


 日にち。出航する港。船に乗る人たち。どれも、知っていたはずなのに、確かには書けなかった。


 机に向かっていた現代の私を思い出した。記事を読み終え、別の頁を開いた。悲しいことだと思った。けれど、覚えていなければ誰かを失うかもしれないとは、考えなかった。


 私は鉛筆を持ったまま、額へ手を当てた。


 今から調べ直せたら。


 たった一度、あの画面を開けたら。


 廊下でおばちゃんの足音がした。私は日記を閉じかけ、それから、閉じずに待った。


 足音は隣の部屋へ入っていった。


 私は小さく息を吐き、船名の横へ線を引いた。


     *


 数日後、春子が妹を連れて食堂へ来た。


 奈々は七歳で、入口から私を見上げていた。春子に挨拶を促されると、小さく頭を下げた。私もしゃがみ、名前を教えてもらった。


 小さな手だった。


 春子の指を二本、しっかり握っている。その手から目を離すのに、少し時間がかかった。


 二人を席へ案内すると、奈々は椅子によじ登った。春子が背中を支え、鞄を足元へ置いた。


「この前は、ごめん」


 私は水を置きながら、春子に言った。


 春子は私を見た。


「疎開のこと?」


「うん。急に、あんな言い方して」


「びっくりしたよ」


 私は頷いた。


 奈々が湯飲みに手を伸ばしたので、こぼさないよう少し近くへ寄せた。指が触れると、温かかった。


「春子も、船に乗る?」


 奈々が尋ねた。


 私は湯飲みから手を離せなくなった。


「まだ決まってないよ」


 春子が答えた。


「奈々、一人は嫌だよ」


「一人で行けなんて、言ってないでしょう」


 春子は妹の髪の紐を直した。奈々は俯き、椅子の端を握った。


 私はその姿を見ていた。


 もしこの子が乗ったら。


 もし、私が今日何も言わず、あとになって船の名前を聞いたら。


「船が決まったら、教えて」


 春子が顔を上げた。


「理恵に?」


「うん。名前だけでも。いつ行くかも」


 春子は少し戸惑っていた。それでも、分かった、と答えてくれた。


 私は礼を言い、台所へ戻った。


 おばちゃんから料理を受け取り、もう一度二人の卓へ向かった。奈々は春子の話を聞いて、少し笑っていた。料理を置くと、身を乗り出して椀の中を見た。


 私はその顔を覚えておこうとした。


 画面に並んでいた、知らない子どもの写真とは違う。


 今、私の目の前にいて、お腹を空かせ、春子と離れたくないと言っている子だった。

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