第9話 審査の結果
# 第九話 正式参加
境界石へ触れた途端、虫の声が消えた。
浦上文治は、石に手を置いたまま目を開けた。日本の井戸に満ちていた湿った土の匂いは薄れ、乾いた石と、遠くの竈から流れてくる香辛料の匂いへ変わっている。
見上げると、丸く切り取られた北境市の夜空があった。
白い石壁に設けられた足場へ手をかける。麻縄で擦れた掌が痛んだ。母の巻いてくれた布には、すでに赤いものが滲んでいる。
それでも、不思議と身体は軽かった。
三か月。
埋められるまで九日しかなかった井戸に、自分の蓄えで買った時間がある。十分ではない。だが、明日には失われる道と、三か月後まで残る道とでは、考えられる未来の数が違った。
井戸口へ手をかけたところで、白い光が文治の顔を照らした。
「そこで止まれ。今度は何者だ。ニホンから来た別の記者なら、先に名を聞く」
聞き覚えのある声だった。
「浦上文治です。別人を連れてくる余裕はありませんでした」
灯具が下げられ、その向こうからティナが顔をのぞかせた。強い光を受けて、淡い髪の縁が白く透けている。
「思ったより早かったな。井戸を残せなかったから、最後に別れを言いに来たのかと思った」
「三か月、待ってもらえることになりました。その代わり、東京へ出てから貯めた金は、ほとんどなくなりました」
文治が井戸から上がると、ティナは何か言いかけて口を閉じた。それから革鞄についた日本の土を払い、ようやく息を吐いた。
「金はまた稼げる。道が残ったなら、今はそれでいい。ただし、三か月あれば何とかなると思うな。紙を作っていると、三日も三か月も、締切の前では同じくらい短い」
「兄にも似たようなことを言われました。私の周りには、安心させるのが苦手な人ばかりいるようです」
「安心して立ち止まる人間に、用はないからな」
ティナの声はいつもどおりだった。しかし文治が本当に戻ったことを確かめるように、彼女の視線は何度もこちらの顔へ戻ってきた。
「競技院から、何か知らせはありましたか」
「明日の朝、再審査の結果を読み上げるそうだ。北境倶楽部の九人と、号外を作った二人に立会いを求めている。おかげで、今夜は眠れそうにない」
「私も同じです。ここ二日ほど、まともに眠った記憶がありません」
「それなら眠れ。倒れた記者を担いで審査室へ行くほど、私は親切ではない」
そう言いながら、ティナは文治の鞄を持とうとした。
文治が礼を言って断ると、彼女は鞄から漂う匂いに気づいたように鼻を動かした。
「酸っぱい匂いがする。向こうで何を入れてきた」
「母が持たせてくれた梅干しです。ティナさんも食べますか」
「食べ物なのか。腐っているなら断る」
「腐らないように漬けたものです。口へ入れれば、眠気くらいは飛びますよ」
ティナは警戒するように包みを見た。
「明日の朝、あんたが先に食べて無事だったら考える」
その言葉を聞いて、文治は小さく笑った。
北境市へ戻ったのだと、ようやく実感できた。
◇
翌朝、資格審査室の前には、すでに人が集まっていた。
北境倶楽部の九人だけではない。号外を読んだ市場の商人や、試合を見ていた観客まで、狭い廊下の壁際に並んでいる。濡れた外套から立つ獣毛の匂い、石床へ打ちつけられる尾の音、押し殺した話し声が、冷たい空気の中で重なっていた。
「中へ入れるのは、申立人と関係者だけだ。ほかの者は建物の外で待て」
青銅の札をつけた書記が、何度も同じ言葉を繰り返していた。
「結果を隠さず読めば、外で待ってやるよ」
水売りの老女が言うと、周囲から低い笑いが起きた。書記は言い返さず、扉を開けた。
室内には長い机が置かれ、その向こうに三人の審査官が座っていた。中央にいるのは、先日の申立てを受け付けた男である。机上には北境倶楽部の選手表、ティナの納品控え、試合後の測定記録が並んでいた。
ガドは扉の前で足を止めた。
測定記録を見た瞬間、あの日の金属の帯を思い出したのだろう。広い肩が固まり、両腕が身体へ寄せられた。あれほど大きな男が、自分の占める場所を少しでも減らそうとしているように見えた。
文治は声をかけようとして、やめた。
大丈夫だと断言できる材料はない。代わりに、ガドから見える位置で黒い取材帳を開いた。
測る者の名も、用いた基準も残してほしい。
ガドが前日に口にした言葉を、すぐ示せる頁だった。
それに気づいたガドは、わずかに顎を引き、オルガの隣へ進んだ。
「北境倶楽部より申し立てられた、認定試合の再審査結果を告げる」
中央の審査官が、封を切った。
乾いた紙の音に、室内の呼吸が止まった。
「ガド・バルクは、試合に先立ち、体格二級として登録されていた。登録申請に虚偽の記載はなく、北境倶楽部が不正な選手表を提出した事実も認められない」
ナージャの尾が一度、床を打った。
ガドは動かなかった。喜んでよいところなのか判断できず、次の言葉を待っている。
「一方、試合後に行われた再測定では、三級相当の数値が記録されている。しかし、この測定には、等級変更に必要な二名の資格測定官が立ち会っていなかった。使用した測り帯の点検記録もなく、測定者の署名も一名分を欠いている。したがって、当該測定のみをもってガド・バルクを三級へ変更することはできない」
文治は一語ずつ書き取った。
不正は認められない。
試合後測定だけでは、三級と確定できない。
そこまで書いたところで、胸に小さな期待が生まれた。期待してはならないと思うほど、それは強くなった。
ならば、十五対十二も戻るのではないか。
審査官は一度、紙から目を上げた。
「ただし、試合当日に資格への疑義が申し立てられ、競技官が規則に基づいて不成立を宣告した事実は変わらない。現行規則には、一度不成立となった試合の勝敗を、後日の審査によって公式記録へ戻す定めがない。よって、北境倶楽部対青嶺団の試合は、引き続き不成立とする」
期待が、音を立てずに潰れた。
「待ってくれ。それでは、何のための再審査なんだ」
ナージャが椅子を蹴るように立ち上がった。耳が前へ倒れ、灰色の尾が大きく膨らんでいる。
「私たちは嘘をついていなかった。競技院の測り方にも不備があった。それを今、自分たちで認めたんだろう。それなのに、どうして勝った側だけが結果を失ったままなんだ」
「審査は、試合当日の競技官が規則に違反したかではなく、登録と測定の手続きを確認するものだ。勝敗の復元は、現在の制度では扱えない」
「扱えないのではなく、扱う決まりを作っていなかっただけじゃないか」
ナージャの声が石壁へ鋭く反響した。
書記が制止しようと一歩出たが、オルガが先に立ち上がった。ナージャの肩へ手を置くのではなく、彼女と審査官の間に並ぶ。
「最後まで聞く。ただし、今の説明に納得したわけではない。こちらが黙ったことを、同意したと記録するな」
審査官は硬い表情のまま、次の紙をめくった。
「北境倶楽部については、提出書類に虚偽がなく、地方リーグ参加に必要な競技能力を認定試合で示したものと判断する。全選手の体格級を改めて確認し、最初の三試合に競技院の監督員を置くことを条件に、北境地方リーグへの参加を認める」
文治は、取材帳の新しい頁へ「体格級」と書き、その下へ一から四までの数字を並べた。
陣球では、選手一人ひとりの身体を一級から四級に分け、等級の数字をそのまま体格点として数える。小人族などの小柄な者は一級、人間や一般的な鳥人、獣人、角人の多くは二級、大型の獣人や半巨人は三級、巨人族は四級。それはあくまで目安であり、本来は種族名だけで決めず、個々の身体を測って判定することになっていた。
試合へ出る九人の合計は、十八点以内。
大きな身体ばかりを揃え、一方的に押し切ることを防ぐための決まりだ。けれど、数字を一つ重くされた選手を入れれば、そのぶん別の選手を軽い等級の者へ替えなければならない。公平を作るための数字が、測る者の思惑一つで、誰かを競技場から締め出す数字にもなる。
ガドが二級か三級かという問題は、ただ彼の数字が一つ変わるだけではない。九人のうち、誰が同じ土の上に立てるのか。その答えまで変えてしまうのだ。
誰もすぐには声を上げなかった。
欲しかった言葉が、最も欲しくなかった言葉の直後に置かれていた。
参加を認める。
その一文だけを聞けば、喜ぶべきなのだろう。だが、九人が勝ち取った十五点は戻らない。競技院は彼らの力を参加の根拠に使いながら、その力が生んだ勝敗は記録しないと言っている。
文治の口の中に、鉄のような味が広がった。無意識に頬の内側を噛んでいた。
「ガド・バルクの体格級は、正式な再測定が終わるまで、従前の二級登録を暫定的に有効とする。再測定は七日以内に、二名の資格測定官が同一の器具を用いて行い、測定値と測定者名を本人および倶楽部へ書面で交付する」
ガドが、ゆっくり手を挙げた。
「一つ、聞いてもいいだろうか。再測定で俺が三級だと決まったら、今度は、どの試合がなくなるんだ」
その問いに、審査官はすぐ答えなかった。
「今回の参加認定は取り消さない。三級と決まった場合は、今後の選手構成を体格点の上限に合わせてもらう。再測定の結果を理由に、今日の決定をさかのぼって覆すことはない」
「それを、今の言葉どおり紙にしてほしい。俺はまた、後から違う意味だったと言われるのが怖い」
ガドの声は震えていなかった。
だが文治には、その言葉を口にするために、彼がどれほど強く奥歯を噛んでいるか分かった。
審査官は書記へ目を向けた。
「決定書へ追記し、本人にも写しを渡す」
ガドは深く頭を下げなかった。ただ、自分の言葉が記録されたことを確かめるように、書記のペン先を見つめていた。
文治も手を挙げた。
「確認します。北境倶楽部は虚偽の登録をしていない。試合後の測定には、等級を変更するには足りない手続き上の不備があった。それでも、失われた勝敗を負担するのは北境倶楽部だけだ。この三点で間違いありませんか」
「最後の言い方は、競技院の決定文ではない」
「ですから、事実関係を確認しています。青嶺団は敗戦を記録されず、競技院の職員には処分が示されず、北境倶楽部の勝利だけが戻らない。それ以外に、結果を失った者がいるなら教えてください」
審査官の指が、紙の端を押さえた。
「内部の処置については、今後検討する。今日示すのは再審査の結果だ」
「では、『内部の処置は今後検討する』と書きます。勝敗を戻さない理由が、北境倶楽部の不正ではなく、現行規則に復元の定めがないためだということも」
「勝手に意味を足さず、決定書を正確に引用するなら止める権限はない」
審査官は不愉快そうに答えた。
隣で、ティナの鉛筆が紙を走った。
「今のところは、一字も足す必要がないな。十分すぎるほど、そのまま載せる価値がある」
◇
競技院の外へ出ると、待っていた人々が一斉に集まってきた。
「勝ちは戻ったのか」
「北境倶楽部は試合へ出られるのか」
「ガドは不正をしたのか」
問いが四方から飛んだ。
オルガは石段の上で立ち止まった。朝の光の中で九人を見回し、それから群衆へ向き直る。
「勝利は、公式記録には戻らなかった。俺たちに登録の不正はなく、試合後の測定にも不備があったと認められた。それでも、取り消した勝敗を戻す規則がないそうだ」
人々の間に、落胆と怒りの声が広がった。
オルガは、それが静まるのを待って続けた。
「その代わりと言うつもりはないが、北境地方リーグへの参加は認められた。全員の再測定と、最初の三試合に監督員を置くという条件がつく。受けるかどうかは、これから九人で決める」
誰かが祝福の声を上げかけ、途中でやめた。
喜ぶべきか怒るべきか、聞いた側にも分からなかったのだ。
九人は人の輪から離れ、競技場の外壁沿いに集まった。
「私は出る」
最初に言ったのはナージャだった。
「競技院に礼を言う気はない。けれど、せっかく開いた門を、自分たちから閉めるのはもっと腹が立つ。監督員が見るというなら、十五対十二が偶然ではなかったことを、三試合すべてで見せればいい」
「簡単に言うな。三試合ずっと見張られるんだぞ。俺が球の下へ潜るたびに、背中の角度まで規則にされそうだ」
ミロは顔をしかめた。しかし、拒む声ではなかった。
「それでも出るのでしょう」
文治が尋ねると、ミロは土のついた靴先で石を蹴った。
「出るさ。大きな机の前で負けたまま帰るのは、俺の背丈に合わない。競技場なら、相手の足元へ潜ってやり返せる」
ガドだけが黙っていた。
皆の視線が集まると、彼は自分の両手を見下ろした。
「俺は、二級のままでいたいから測られたくないと思っていた。でも、それでは、また誰かに疑われるたびに怖くなる。今度は、名前のある測定官に、決められた帯で測ってもらう。その結果が三級なら、三級の俺を入れた九人で勝つ方法を探してほしい」
「お前を外すとは言っていない」
オルガが答えた。
「ですが、俺が三級なら、九人の合計が一つ増えます。十八点を超えるなら、誰かを外すか、もっと点の低い選手へ替えなければなりません」
「それを考えるのが主将の仕事だ。お前一人で九人分の答えを決めるな」
ガドは顔を上げた。
オルガの言葉は厳しかったが、その目はガドから逸れなかった。
「俺は条件を受ける。参加できる試合があるなら出る。ただし、失った勝利まで競技院から恵まれたとは思わない。十五対十二は、俺たちと、見ていた者たちの記憶に残す」
九人が、それぞれに頷いた。
オルガは最後に文治を見た。
「新聞でも、同じように書けるか。勝利が戻らなかったことと、参加できるようになったことを、どちらか一方だけ大きくせずに」
「書きます。喜ばしい部分だけを見出しにすれば、競技院が戻さなかったものを、今度は私が隠すことになります」
「そうか。なら、次の記事を読ませてくれ」
以前からずっと、オルガは文治の次の記事を見ると言っていた。
その言葉から初めて、試すような響きが少しだけ薄れていた。
◇
午後、フェル印刷工房の作業台には、いくつもの見出し案が並んでいた。
窓から差し込む光の中を、紙の繊維と細かな埃が漂っている。活字棚からは金属と古い油の匂いが立ち、奥の手回し印刷機は、長く閉じていた口を開くように圧盤を持ち上げていた。
「『北境倶楽部、地方リーグへ』。これが一番早く読める」
ティナが一枚を示した。
「それでは、勝利が戻らなかったことが見出しから消えます。『競技院、測定不備を認める』では、参加が決まったことを伝えられません」
「なら、二つとも入れろ。読みにくくなったら、削る仕事は私がする」
文治は鉛筆で二つの文をつないだ。
勝利は戻らず、道は開く――北境倶楽部、条件付きで地方リーグへ。
ティナは紙を顔の高さまで持ち上げ、少し離して眺めた。
「長い。それでも、どちらかを隠すよりはいい。本文の最初に、十五対十二と、不成立のままだという一文を置く」
「ガドの等級は、二級とだけ書かないでください。暫定であり、七日以内に再測定されることまで同じ段に入れます」
「分かっている。本人にも、刷る前に読んでもらう」
ティナは活字棚へ向かい、『井戸端新聞』の文字を収めた箱を引き出した。
最初の号外では、紙の上部に新聞名と「号外」の二文字を手で書いた。彼女は見本を見ながら一字ずつ活字を拾い、組版台へ並べていく。
最後に、「号外」の代わりとなる小さな活字を文治の前へ置いた。
「第一号」
文治が読むと、ティナは頷いた。
「号外は、出来事が起きたときだけ出せばいい。だが、行われたことと紙に残ることが違うなら、出来事のたびに誰かが書かなければならない。次からは、号外ではなく新聞にする」
「発行の許可は、まだありません。印刷機を使えば、昨日よりも目をつけられます」
「分かっている。だから最初は二十枚だけにする。それでも押収するというなら、誰が、どの規則で止めるのか、今度こそ文書で出してもらう。工房を使うと決めたのは私だ」
「紙面には私の名も載せます。危険までティナさん一人のものにはできません」
「最初からそのつもりだ。号外に二人の名を並べたのに、都合が悪くなった途端、片方だけ消す気はない」
「それにしても、審査官の言葉尻をよく覚えていましたね」
「言葉尻を揃えなければ、活字は一行にもならないからな」
ティナは印刷機のハンドルへ手をかけた。
「ただし、昨日のように三枚を無料で配り続けることはできない。紙にも墨にも金がかかる。第一号は二十枚刷り、銅貨一枚で売る。売れなければ、第二号はない」
「ずいぶん厳しい判断ですね」
「新聞を続けたいなら、正しいだけでは足りない。金を払ってでも読みたい紙にしろ」
文治の胸に、東都夕報へ送った封筒が浮かんだ。
日本側の『井底通信』が掲載されれば、原稿料の一部をこちらの紙へ回せるかもしれない。だが、まだ黒瀬が読んだかどうかも分からない金を、当てにはできなかった。
「記事の下に、次の試合の日程と、再測定の日時を載せましょう。結果だけでなく、次に何を見ればよいのかまで分かる紙にしたい」
「それなら、市場の掲示板に出ている荷車の通行止めも入れる。競技だけに興味のない者にも、紙を手に取る理由が必要だ」
二人で紙面を埋めていった。
夕刻前、北境倶楽部の九人が工房へ来た。
狭い室内へガドが入ると、それだけで空気が押し出されるようだった。ミロは活字棚へ触ろうとしてティナに手を叩かれ、ナージャは刷る前の紙面を声に出して読んだ。
「『ガド・バルクに登録上の虚偽は認められなかった』。ここは、もっと大きくしてもいいんじゃないか」
「その次も読んでください」
文治が促すと、ナージャは不満そうに続きを読んだ。
「『ただし、体格級は暫定二級であり、七日以内に正式な再測定を受ける』。分かっているよ。喜んだ後へ、すぐ面倒なことを書くんだな」
「後ろへ小さく隠せば、あとでガドさんが三級だったとき、私たちも都合の悪いことを伏せたと言われます」
「浦上の言うとおりだ」
ガドが紙面を見下ろした。
「不正ではなかったと大きく書かれるのは嬉しい。でも、全部終わったように書かれるのは怖い。俺はまだ、自分が何級なのかを知らない。知らないことも残してほしい」
文治は、ガドの言葉を薄茶の帳面へ書いた。
「この記事には入れません。ただ、次の測定を取材するときまで覚えておきます」
「覚えるだけなら、帳面に書かなくてもいいんじゃないか」
「私は、覚えているつもりで忘れたことが多すぎます。ですから、残しておくのです」
ガドはその答えを聞き、静かに頷いた。
オルガは最後まで紙面を読み、見出しの十五対十二を指でなぞった。
「これならいい。俺たちを勝たせる記事ではないが、負けたことにもされていない」
それは賞賛というより、確認だった。
文治には、その方がありがたかった。
◇
日が傾くころ、印刷機が動き始めた。
ティナがハンドルを回すたび、歯車が低く軋み、圧盤が紙へ降りた。金属と紙が触れ合う重い音が、工房の床から文治の足裏へ伝わってくる。
一枚目を剥がす。
湿った墨が夕日に鈍く光った。
井戸端新聞 第一号。
その下には、長い見出しと、十五対十二の数字がある。
ティナは印字の薄い箇所を指で確かめ、何も言わずに二枚目の紙を置いた。文治も乾燥台へ紙を運んだ。墨の匂いが衣服と髪へ染みつき、腕はすぐに重くなった。
二十枚を刷り終えたとき、二人の掌は黒く汚れていた。
市場へ運ぶと、最初の号外を読んだ人々が寄ってきた。
「今日は読み上げてくれないのか」
水売りの老女が尋ねた。
「読み上げます。ただし、今日からは銅貨一枚です。紙を続けるために必要なので、払えない方には、その場で聞いてもらいます」
ティナが答えると、老女は腰の袋を探り、小さな銅貨を一枚取り出した。
「私の証言を勝手に使わず、名を伏せるか尋ねに戻ってきた紙だ。今日は一枚、買ってやるよ」
最初の銅貨が、ティナの掌へ落ちた。
乾いた金属音だった。
勝利を告げる鐘のようには響かなかった。たった一枚の紙が売れただけである。
それでもティナは銅貨を強く握り、文治は、その音を黒い取材帳へ書き残したいと思った。
消された一試合は、公式記録には戻らなかった。
けれど、その試合を書いた新聞は、ここから始まった。




