↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/25

第9話 審査の結果

# 第九話 正式参加


 境界石へ触れた途端、虫の声が消えた。


 浦上文治は、石に手を置いたまま目を開けた。日本の井戸に満ちていた湿った土の匂いは薄れ、乾いた石と、遠くの竈から流れてくる香辛料の匂いへ変わっている。


 見上げると、丸く切り取られた北境市の夜空があった。


 白い石壁に設けられた足場へ手をかける。麻縄で擦れた掌が痛んだ。母の巻いてくれた布には、すでに赤いものが滲んでいる。


 それでも、不思議と身体は軽かった。


 三か月。


 埋められるまで九日しかなかった井戸に、自分の蓄えで買った時間がある。十分ではない。だが、明日には失われる道と、三か月後まで残る道とでは、考えられる未来の数が違った。


 井戸口へ手をかけたところで、白い光が文治の顔を照らした。


「そこで止まれ。今度は何者だ。ニホンから来た別の記者なら、先に名を聞く」


 聞き覚えのある声だった。


「浦上文治です。別人を連れてくる余裕はありませんでした」


 灯具が下げられ、その向こうからティナが顔をのぞかせた。強い光を受けて、淡い髪の縁が白く透けている。


「思ったより早かったな。井戸を残せなかったから、最後に別れを言いに来たのかと思った」


「三か月、待ってもらえることになりました。その代わり、東京へ出てから貯めた金は、ほとんどなくなりました」


 文治が井戸から上がると、ティナは何か言いかけて口を閉じた。それから革鞄についた日本の土を払い、ようやく息を吐いた。


「金はまた稼げる。道が残ったなら、今はそれでいい。ただし、三か月あれば何とかなると思うな。紙を作っていると、三日も三か月も、締切の前では同じくらい短い」


「兄にも似たようなことを言われました。私の周りには、安心させるのが苦手な人ばかりいるようです」


「安心して立ち止まる人間に、用はないからな」


 ティナの声はいつもどおりだった。しかし文治が本当に戻ったことを確かめるように、彼女の視線は何度もこちらの顔へ戻ってきた。


「競技院から、何か知らせはありましたか」


「明日の朝、再審査の結果を読み上げるそうだ。北境倶楽部の九人と、号外を作った二人に立会いを求めている。おかげで、今夜は眠れそうにない」


「私も同じです。ここ二日ほど、まともに眠った記憶がありません」


「それなら眠れ。倒れた記者を担いで審査室へ行くほど、私は親切ではない」


 そう言いながら、ティナは文治の鞄を持とうとした。


 文治が礼を言って断ると、彼女は鞄から漂う匂いに気づいたように鼻を動かした。


「酸っぱい匂いがする。向こうで何を入れてきた」


「母が持たせてくれた梅干しです。ティナさんも食べますか」


「食べ物なのか。腐っているなら断る」


「腐らないように漬けたものです。口へ入れれば、眠気くらいは飛びますよ」


 ティナは警戒するように包みを見た。


「明日の朝、あんたが先に食べて無事だったら考える」


 その言葉を聞いて、文治は小さく笑った。


 北境市へ戻ったのだと、ようやく実感できた。


     ◇


 翌朝、資格審査室の前には、すでに人が集まっていた。


 北境倶楽部の九人だけではない。号外を読んだ市場の商人や、試合を見ていた観客まで、狭い廊下の壁際に並んでいる。濡れた外套から立つ獣毛の匂い、石床へ打ちつけられる尾の音、押し殺した話し声が、冷たい空気の中で重なっていた。


「中へ入れるのは、申立人と関係者だけだ。ほかの者は建物の外で待て」


 青銅の札をつけた書記が、何度も同じ言葉を繰り返していた。


「結果を隠さず読めば、外で待ってやるよ」


 水売りの老女が言うと、周囲から低い笑いが起きた。書記は言い返さず、扉を開けた。


 室内には長い机が置かれ、その向こうに三人の審査官が座っていた。中央にいるのは、先日の申立てを受け付けた男である。机上には北境倶楽部の選手表、ティナの納品控え、試合後の測定記録が並んでいた。


 ガドは扉の前で足を止めた。


 測定記録を見た瞬間、あの日の金属の帯を思い出したのだろう。広い肩が固まり、両腕が身体へ寄せられた。あれほど大きな男が、自分の占める場所を少しでも減らそうとしているように見えた。


 文治は声をかけようとして、やめた。


 大丈夫だと断言できる材料はない。代わりに、ガドから見える位置で黒い取材帳を開いた。


 測る者の名も、用いた基準も残してほしい。


 ガドが前日に口にした言葉を、すぐ示せる頁だった。


 それに気づいたガドは、わずかに顎を引き、オルガの隣へ進んだ。


「北境倶楽部より申し立てられた、認定試合の再審査結果を告げる」


 中央の審査官が、封を切った。


 乾いた紙の音に、室内の呼吸が止まった。


「ガド・バルクは、試合に先立ち、体格二級として登録されていた。登録申請に虚偽の記載はなく、北境倶楽部が不正な選手表を提出した事実も認められない」


 ナージャの尾が一度、床を打った。


 ガドは動かなかった。喜んでよいところなのか判断できず、次の言葉を待っている。


「一方、試合後に行われた再測定では、三級相当の数値が記録されている。しかし、この測定には、等級変更に必要な二名の資格測定官が立ち会っていなかった。使用した測り帯の点検記録もなく、測定者の署名も一名分を欠いている。したがって、当該測定のみをもってガド・バルクを三級へ変更することはできない」


 文治は一語ずつ書き取った。


 不正は認められない。


 試合後測定だけでは、三級と確定できない。


 そこまで書いたところで、胸に小さな期待が生まれた。期待してはならないと思うほど、それは強くなった。


 ならば、十五対十二も戻るのではないか。


 審査官は一度、紙から目を上げた。


「ただし、試合当日に資格への疑義が申し立てられ、競技官が規則に基づいて不成立を宣告した事実は変わらない。現行規則には、一度不成立となった試合の勝敗を、後日の審査によって公式記録へ戻す定めがない。よって、北境倶楽部対青嶺団の試合は、引き続き不成立とする」


 期待が、音を立てずに潰れた。


「待ってくれ。それでは、何のための再審査なんだ」


 ナージャが椅子を蹴るように立ち上がった。耳が前へ倒れ、灰色の尾が大きく膨らんでいる。


「私たちは嘘をついていなかった。競技院の測り方にも不備があった。それを今、自分たちで認めたんだろう。それなのに、どうして勝った側だけが結果を失ったままなんだ」


「審査は、試合当日の競技官が規則に違反したかではなく、登録と測定の手続きを確認するものだ。勝敗の復元は、現在の制度では扱えない」


「扱えないのではなく、扱う決まりを作っていなかっただけじゃないか」


 ナージャの声が石壁へ鋭く反響した。


 書記が制止しようと一歩出たが、オルガが先に立ち上がった。ナージャの肩へ手を置くのではなく、彼女と審査官の間に並ぶ。


「最後まで聞く。ただし、今の説明に納得したわけではない。こちらが黙ったことを、同意したと記録するな」


 審査官は硬い表情のまま、次の紙をめくった。


「北境倶楽部については、提出書類に虚偽がなく、地方リーグ参加に必要な競技能力を認定試合で示したものと判断する。全選手の体格級を改めて確認し、最初の三試合に競技院の監督員を置くことを条件に、北境地方リーグへの参加を認める」


 文治は、取材帳の新しい頁へ「体格級」と書き、その下へ一から四までの数字を並べた。


 陣球では、選手一人ひとりの身体を一級から四級に分け、等級の数字をそのまま体格点として数える。小人族などの小柄な者は一級、人間や一般的な鳥人、獣人、角人の多くは二級、大型の獣人や半巨人は三級、巨人族は四級。それはあくまで目安であり、本来は種族名だけで決めず、個々の身体を測って判定することになっていた。


 試合へ出る九人の合計は、十八点以内。


 大きな身体ばかりを揃え、一方的に押し切ることを防ぐための決まりだ。けれど、数字を一つ重くされた選手を入れれば、そのぶん別の選手を軽い等級の者へ替えなければならない。公平を作るための数字が、測る者の思惑一つで、誰かを競技場から締め出す数字にもなる。


 ガドが二級か三級かという問題は、ただ彼の数字が一つ変わるだけではない。九人のうち、誰が同じ土の上に立てるのか。その答えまで変えてしまうのだ。


 誰もすぐには声を上げなかった。


 欲しかった言葉が、最も欲しくなかった言葉の直後に置かれていた。


 参加を認める。


 その一文だけを聞けば、喜ぶべきなのだろう。だが、九人が勝ち取った十五点は戻らない。競技院は彼らの力を参加の根拠に使いながら、その力が生んだ勝敗は記録しないと言っている。


 文治の口の中に、鉄のような味が広がった。無意識に頬の内側を噛んでいた。


「ガド・バルクの体格級は、正式な再測定が終わるまで、従前の二級登録を暫定的に有効とする。再測定は七日以内に、二名の資格測定官が同一の器具を用いて行い、測定値と測定者名を本人および倶楽部へ書面で交付する」


 ガドが、ゆっくり手を挙げた。


「一つ、聞いてもいいだろうか。再測定で俺が三級だと決まったら、今度は、どの試合がなくなるんだ」


 その問いに、審査官はすぐ答えなかった。


「今回の参加認定は取り消さない。三級と決まった場合は、今後の選手構成を体格点の上限に合わせてもらう。再測定の結果を理由に、今日の決定をさかのぼって覆すことはない」


「それを、今の言葉どおり紙にしてほしい。俺はまた、後から違う意味だったと言われるのが怖い」


 ガドの声は震えていなかった。


 だが文治には、その言葉を口にするために、彼がどれほど強く奥歯を噛んでいるか分かった。


 審査官は書記へ目を向けた。


「決定書へ追記し、本人にも写しを渡す」


 ガドは深く頭を下げなかった。ただ、自分の言葉が記録されたことを確かめるように、書記のペン先を見つめていた。


 文治も手を挙げた。


「確認します。北境倶楽部は虚偽の登録をしていない。試合後の測定には、等級を変更するには足りない手続き上の不備があった。それでも、失われた勝敗を負担するのは北境倶楽部だけだ。この三点で間違いありませんか」


「最後の言い方は、競技院の決定文ではない」


「ですから、事実関係を確認しています。青嶺団は敗戦を記録されず、競技院の職員には処分が示されず、北境倶楽部の勝利だけが戻らない。それ以外に、結果を失った者がいるなら教えてください」


 審査官の指が、紙の端を押さえた。


「内部の処置については、今後検討する。今日示すのは再審査の結果だ」


「では、『内部の処置は今後検討する』と書きます。勝敗を戻さない理由が、北境倶楽部の不正ではなく、現行規則に復元の定めがないためだということも」


「勝手に意味を足さず、決定書を正確に引用するなら止める権限はない」


 審査官は不愉快そうに答えた。


 隣で、ティナの鉛筆が紙を走った。


「今のところは、一字も足す必要がないな。十分すぎるほど、そのまま載せる価値がある」


     ◇


 競技院の外へ出ると、待っていた人々が一斉に集まってきた。


「勝ちは戻ったのか」


「北境倶楽部は試合へ出られるのか」


「ガドは不正をしたのか」


 問いが四方から飛んだ。


 オルガは石段の上で立ち止まった。朝の光の中で九人を見回し、それから群衆へ向き直る。


「勝利は、公式記録には戻らなかった。俺たちに登録の不正はなく、試合後の測定にも不備があったと認められた。それでも、取り消した勝敗を戻す規則がないそうだ」


 人々の間に、落胆と怒りの声が広がった。


 オルガは、それが静まるのを待って続けた。


「その代わりと言うつもりはないが、北境地方リーグへの参加は認められた。全員の再測定と、最初の三試合に監督員を置くという条件がつく。受けるかどうかは、これから九人で決める」


 誰かが祝福の声を上げかけ、途中でやめた。


 喜ぶべきか怒るべきか、聞いた側にも分からなかったのだ。


 九人は人の輪から離れ、競技場の外壁沿いに集まった。


「私は出る」


 最初に言ったのはナージャだった。


「競技院に礼を言う気はない。けれど、せっかく開いた門を、自分たちから閉めるのはもっと腹が立つ。監督員が見るというなら、十五対十二が偶然ではなかったことを、三試合すべてで見せればいい」


「簡単に言うな。三試合ずっと見張られるんだぞ。俺が球の下へ潜るたびに、背中の角度まで規則にされそうだ」


 ミロは顔をしかめた。しかし、拒む声ではなかった。


「それでも出るのでしょう」


 文治が尋ねると、ミロは土のついた靴先で石を蹴った。


「出るさ。大きな机の前で負けたまま帰るのは、俺の背丈に合わない。競技場なら、相手の足元へ潜ってやり返せる」


 ガドだけが黙っていた。


 皆の視線が集まると、彼は自分の両手を見下ろした。


「俺は、二級のままでいたいから測られたくないと思っていた。でも、それでは、また誰かに疑われるたびに怖くなる。今度は、名前のある測定官に、決められた帯で測ってもらう。その結果が三級なら、三級の俺を入れた九人で勝つ方法を探してほしい」


「お前を外すとは言っていない」


 オルガが答えた。


「ですが、俺が三級なら、九人の合計が一つ増えます。十八点を超えるなら、誰かを外すか、もっと点の低い選手へ替えなければなりません」


「それを考えるのが主将の仕事だ。お前一人で九人分の答えを決めるな」


 ガドは顔を上げた。


 オルガの言葉は厳しかったが、その目はガドから逸れなかった。


「俺は条件を受ける。参加できる試合があるなら出る。ただし、失った勝利まで競技院から恵まれたとは思わない。十五対十二は、俺たちと、見ていた者たちの記憶に残す」


 九人が、それぞれに頷いた。


 オルガは最後に文治を見た。


「新聞でも、同じように書けるか。勝利が戻らなかったことと、参加できるようになったことを、どちらか一方だけ大きくせずに」


「書きます。喜ばしい部分だけを見出しにすれば、競技院が戻さなかったものを、今度は私が隠すことになります」


「そうか。なら、次の記事を読ませてくれ」


 以前からずっと、オルガは文治の次の記事を見ると言っていた。


 その言葉から初めて、試すような響きが少しだけ薄れていた。


     ◇


 午後、フェル印刷工房の作業台には、いくつもの見出し案が並んでいた。


 窓から差し込む光の中を、紙の繊維と細かな埃が漂っている。活字棚からは金属と古い油の匂いが立ち、奥の手回し印刷機は、長く閉じていた口を開くように圧盤を持ち上げていた。


「『北境倶楽部、地方リーグへ』。これが一番早く読める」


 ティナが一枚を示した。


「それでは、勝利が戻らなかったことが見出しから消えます。『競技院、測定不備を認める』では、参加が決まったことを伝えられません」


「なら、二つとも入れろ。読みにくくなったら、削る仕事は私がする」


 文治は鉛筆で二つの文をつないだ。


 勝利は戻らず、道は開く――北境倶楽部、条件付きで地方リーグへ。


 ティナは紙を顔の高さまで持ち上げ、少し離して眺めた。


「長い。それでも、どちらかを隠すよりはいい。本文の最初に、十五対十二と、不成立のままだという一文を置く」


「ガドの等級は、二級とだけ書かないでください。暫定であり、七日以内に再測定されることまで同じ段に入れます」


「分かっている。本人にも、刷る前に読んでもらう」


 ティナは活字棚へ向かい、『井戸端新聞』の文字を収めた箱を引き出した。


 最初の号外では、紙の上部に新聞名と「号外」の二文字を手で書いた。彼女は見本を見ながら一字ずつ活字を拾い、組版台へ並べていく。


 最後に、「号外」の代わりとなる小さな活字を文治の前へ置いた。


「第一号」


 文治が読むと、ティナは頷いた。


「号外は、出来事が起きたときだけ出せばいい。だが、行われたことと紙に残ることが違うなら、出来事のたびに誰かが書かなければならない。次からは、号外ではなく新聞にする」


「発行の許可は、まだありません。印刷機を使えば、昨日よりも目をつけられます」


「分かっている。だから最初は二十枚だけにする。それでも押収するというなら、誰が、どの規則で止めるのか、今度こそ文書で出してもらう。工房を使うと決めたのは私だ」


「紙面には私の名も載せます。危険までティナさん一人のものにはできません」


「最初からそのつもりだ。号外に二人の名を並べたのに、都合が悪くなった途端、片方だけ消す気はない」


「それにしても、審査官の言葉尻をよく覚えていましたね」


「言葉尻を揃えなければ、活字は一行にもならないからな」


 ティナは印刷機のハンドルへ手をかけた。


「ただし、昨日のように三枚を無料で配り続けることはできない。紙にも墨にも金がかかる。第一号は二十枚刷り、銅貨一枚で売る。売れなければ、第二号はない」


「ずいぶん厳しい判断ですね」


「新聞を続けたいなら、正しいだけでは足りない。金を払ってでも読みたい紙にしろ」


 文治の胸に、東都夕報へ送った封筒が浮かんだ。


 日本側の『井底通信』が掲載されれば、原稿料の一部をこちらの紙へ回せるかもしれない。だが、まだ黒瀬が読んだかどうかも分からない金を、当てにはできなかった。


「記事の下に、次の試合の日程と、再測定の日時を載せましょう。結果だけでなく、次に何を見ればよいのかまで分かる紙にしたい」


「それなら、市場の掲示板に出ている荷車の通行止めも入れる。競技だけに興味のない者にも、紙を手に取る理由が必要だ」


 二人で紙面を埋めていった。


 夕刻前、北境倶楽部の九人が工房へ来た。


 狭い室内へガドが入ると、それだけで空気が押し出されるようだった。ミロは活字棚へ触ろうとしてティナに手を叩かれ、ナージャは刷る前の紙面を声に出して読んだ。


「『ガド・バルクに登録上の虚偽は認められなかった』。ここは、もっと大きくしてもいいんじゃないか」


「その次も読んでください」


 文治が促すと、ナージャは不満そうに続きを読んだ。


「『ただし、体格級は暫定二級であり、七日以内に正式な再測定を受ける』。分かっているよ。喜んだ後へ、すぐ面倒なことを書くんだな」


「後ろへ小さく隠せば、あとでガドさんが三級だったとき、私たちも都合の悪いことを伏せたと言われます」


「浦上の言うとおりだ」


 ガドが紙面を見下ろした。


「不正ではなかったと大きく書かれるのは嬉しい。でも、全部終わったように書かれるのは怖い。俺はまだ、自分が何級なのかを知らない。知らないことも残してほしい」


 文治は、ガドの言葉を薄茶の帳面へ書いた。


「この記事には入れません。ただ、次の測定を取材するときまで覚えておきます」


「覚えるだけなら、帳面に書かなくてもいいんじゃないか」


「私は、覚えているつもりで忘れたことが多すぎます。ですから、残しておくのです」


 ガドはその答えを聞き、静かに頷いた。


 オルガは最後まで紙面を読み、見出しの十五対十二を指でなぞった。


「これならいい。俺たちを勝たせる記事ではないが、負けたことにもされていない」


 それは賞賛というより、確認だった。


 文治には、その方がありがたかった。


     ◇


 日が傾くころ、印刷機が動き始めた。


 ティナがハンドルを回すたび、歯車が低く軋み、圧盤が紙へ降りた。金属と紙が触れ合う重い音が、工房の床から文治の足裏へ伝わってくる。


 一枚目を剥がす。


 湿った墨が夕日に鈍く光った。


 井戸端新聞 第一号。


 その下には、長い見出しと、十五対十二の数字がある。


 ティナは印字の薄い箇所を指で確かめ、何も言わずに二枚目の紙を置いた。文治も乾燥台へ紙を運んだ。墨の匂いが衣服と髪へ染みつき、腕はすぐに重くなった。


 二十枚を刷り終えたとき、二人の掌は黒く汚れていた。


 市場へ運ぶと、最初の号外を読んだ人々が寄ってきた。


「今日は読み上げてくれないのか」


 水売りの老女が尋ねた。


「読み上げます。ただし、今日からは銅貨一枚です。紙を続けるために必要なので、払えない方には、その場で聞いてもらいます」


 ティナが答えると、老女は腰の袋を探り、小さな銅貨を一枚取り出した。


「私の証言を勝手に使わず、名を伏せるか尋ねに戻ってきた紙だ。今日は一枚、買ってやるよ」


 最初の銅貨が、ティナの掌へ落ちた。


 乾いた金属音だった。


 勝利を告げる鐘のようには響かなかった。たった一枚の紙が売れただけである。


 それでもティナは銅貨を強く握り、文治は、その音を黒い取材帳へ書き残したいと思った。


 消された一試合は、公式記録には戻らなかった。


 けれど、その試合を書いた新聞は、ここから始まった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。