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第8話 三か月の猶予

北境市側の井戸には、白い石を削った足場がついていた。


 浦上文治は、革鞄の肩紐を身体へ結びつけ、一段ずつ足場を降りた。石壁には昼の熱がまだ残っていたが、深くなるにつれて指先へ伝わる感触が冷たくなっていく。頭上を仰ぐと、井戸口に切り取られた白っぽい空が、古い硬貨ほどの大きさになっていた。


 底には水がない。


 代わりに、土から半分だけ顔を出した乳白色の石があった。


 少年のころ、何度も触れた境界石だった。


 文治はその前へしゃがみ込んだ。北境市の石畳を歩いた靴には赤い土がこびりつき、袖口には印刷工房の墨が染みている。わずか一日あまり前、この井戸を通ったときにはなかったものばかりだ。


 戻れば、母と兄に説明しなければならない。


 井戸の向こうに町があることも、十六年前に嘘をついたことも、今もまた、その町へ関わろうとしていることも。


 競技院の審査官を問い詰めるより、家族に本当のことを話す方が怖かった。


「三日以内に審査の結果が出る。戻ると約束した以上、ここで座り込んでいるわけにはいきませんね」


 誰もいない井戸底で口にすると、声が頼りなく石壁へ反響した。


 文治は境界石へ右手を載せた。


 石の冷たさが、掌から腕へ染み上がった。


 目を閉じるほどの光はなかった。身体が落ちる感覚も、上下が入れ替わる眩暈もない。ただ、鼻の奥に残っていた香辛料と焦がした油の匂いが薄れ、代わりに湿った土と腐葉の匂いが濃くなった。


 耳を澄ます。


 北境市の荷車も、頭上を飛ぶ鳥人の羽音も聞こえない。葉擦れと、遠くで鳴く蝉の声が井戸口から降ってくる。


 文治が目を開けると、白い石壁は黒ずんだ日本の石積みに変わっていた。見上げた空には杉の枝が張り出し、その脇から、自分が結んだ麻縄が垂れている。


 世界だけが、音もなく切り替わっていた。


 文治は革鞄を背負い、縄を握った。夜通し号外を作った手には、細かな傷がいくつもできている。麻の毛羽が食い込むたびに痛んだが、その痛みは、これが夢でなかったことを確かめてくれるようでもあった。


 半分ほど上ったところで、井戸口を人影が横切った。


「そこに誰かいるのか」


 兄の声だった。


 文治が返事をするより早く、丸い空の中へ兄の顔が現れた。安堵したように目を見開いた後、すぐに眉がつり上がる。


「文治なのか。何をしている。待っていろ、今、縄を引く」


「自分で上れます。急に引かれる方が危ないので、縄を押さえていてください」


「一晩いなくなった弟に、危ないことを教えられたくはない。いいから、ゆっくり上ってこい」


 怒鳴っているのに、兄の声は震えていた。


 縁までたどり着くと、兄は文治の手首をつかみ、力任せに引き上げた。文治の膝が井戸端の土へ落ちる。乾いた草の先が掌へ刺さり、肺へ一度に入った外気に咳き込んだ。


「文治」


 母がいた。


 手拭いを頭に被り、井戸から少し離れたところに立っている。青ざめた顔をしていたが、文治と目が合うと、膝から力が抜けたようにその場へ座り込んだ。


「母さん、どうしてここへ……」


「どうしても何もあるものか。朝になって家へ来たら、お前はいない。裏へ回れば板は外され、井戸へ縄が垂れている。兄さんは村の人を呼ぶと言うし、私は、もう少し待っておくれと言うし……。お前が落ちたのか、自分から降りたのか、それさえ分からなかったんだよ」


 母は立ち上がろうとして、うまく足に力が入らなかった。文治が駆け寄ると、伸びてきた両手が頬を包んだ。


 温かかった。


 その温かさに触れた途端、文治の胸へ遅れて恐怖が押し寄せた。もし境界石が働かなかったら。もし北境市側から戻れなかったら。自分は母に何も告げないまま、二度目の失踪をするところだった。


「申し訳ありません。井戸の先に確かめたいことがあって、何も言わずに出ました」


「確かめたいことだと?」


 兄が文治の肩をつかみ、自分の方へ向けた。


「この井戸は涸れている。底まで降りたところで、あるのは石と土だけだ。お前は一晩、穴の底に座っていたとでも言うつもりなのか」


「いいえ。井戸の底には、別の町へ続く道があります」


 言ってしまうと、蝉の声が急に大きく聞こえた。


 兄は文治の顔を見た。冗談だと判断するには文治が真剣すぎて、信じるには話が異常すぎる。そんな戸惑いが、強く結ばれた口元に表れていた。


 文治は母へ向き直った。


「昨日、井戸の底に町があるという話を、子供の空想だと言いました。あれは嘘です。北境市という町は本当にあります。ラウも、そこで出会った人たちも、私の作り話ではありません」


 母の手が頬から離れた。


 叱られると思った。


 けれど母は、文治の袖を指先でつまんだ。乾いた赤土を払い、黒い墨染みへ鼻を近づける。


「家を出たときには、こんな汚れはなかったね」


「向こうの球技場の土と、印刷に使った墨です」


「印刷?」


「北境市で、試合を見ました。勝った者たちの記録が、後から取り消されました。私は現地の印刷工と一緒に、それを知らせる号外を作りました」


 自分でも、ひどく荒唐無稽な説明だと思った。


 文治は革鞄から、競技院の召喚状を取り出した。朝露を吸って波打った紙には、街道共通語と競技院の印が残っている。


 兄はそれを受け取り、表と裏を何度も確かめた。文字を読めないことが腹立たしいように、親指で紙面をこする。


「これを見せられても、私には本物かどうか分からない。お前が東京で手に入れた、外国の紙ではないと言い切れるのか」


「言い切れるのは、私が向こうで受け取ったということだけです。兄さんに信じてもらえる証拠は、まだありません」


「それなら、私にどうしろというんだ」


「まず、井戸を埋めるのを待ってください」


 兄の顔から、迷いが消えた。


「それはできない」


 拒絶の言葉は静かだった。


 兄が本気で譲らないときほど、声を荒らげないことを、文治は知っていた。


     ◇


 三人は旧宅へ戻った。


 座敷には、朝のままの茶が残っていた。兄が文治を探している間、母は何度も湯を足したらしい。急須の中で開ききった茶葉は苦い匂いを放ち、湯呑みの縁には冷えた雫がついている。


 母は濡らした手拭いで、文治の掌を拭いた。


 縄で擦れた皮膚へ水が触れると、細かな傷が一斉に痛んだ。文治がわずかに指を引くと、母は手を緩めた。


「痛いなら痛いと言いなさい。子供のころから、お前は痛くないふりばかり上手だった」


「記者は、取材相手の前で痛い顔を見せないものです」


「ここには母親と兄しかいないよ。そんなときまで記者でいる必要はないだろう」


 言い返せなかった。


 兄は座卓を挟んで向かいに座り、競技院の紙を置いた。


「家の売却は、もう口約束ではない。買い手から手付も受け取っている。向こうには幼い子供が二人いるから、この井戸を埋めることも引き渡しの条件に入っている」


「分かっています。危険な穴を残したくないという買い手の気持ちは、当然です」


「分かっている人間が、なぜ待てと言う。お前にとっては町へ続く道でも、向こうにとっては子供が落ちるかもしれない穴だ。お前の事情だけで、約束を変えさせることはできない」


 兄の言葉は正しかった。


 正しさは、ときに反論よりも痛い。競技院が規則を盾にしたときには、その適用の順序を問い返せた。だが、まだ会ったこともない買い手の子供が井戸へ落ちる危険を、文治は否定できない。


「三か月だけ、引き渡しを延ばしてもらえないでしょうか。その間、井戸には私が頑丈な囲いを作ります。使わないときは板を戻して、錠もかけます」


「三か月で何ができる」


「北境市への別の道がないか調べます。井戸と周囲だけを借りる交渉もします。それでも残す方法が見つからなければ、そのときは私自身の手で埋めます」


「また、その三か月が過ぎたら待ってくれと言うのではないか」


「言わないとは約束できません」


 兄の眉が動いた。


 文治は、自分でも情けない答えだと思った。ここで格好よく断言すれば、兄の心を動かせるかもしれない。だが、守れるか分からない約束を差し出すのは、事実を確かめずに記事を書くのと同じだった。


「ただし、三か月後には必ず、私が調べたことをすべて説明します。続けて頼むのなら、理由も費用も危険も隠しません。何も言わずに姿を消すことだけは、もうしません」


 母が手拭いを畳んだ。


「十六年前にも、そうしてほしかったよ」


 文治は顔を上げられなかった。


「あのとき、何があったんだ。母さんからは、お前が夜中に一人で井戸を塞いだとしか聞いていない」


 兄の声から怒りが薄れ、代わりに疲れが滲んでいた。


 文治は膝の上で両手を組んだ。掌の傷が触れ合い、ひりついた。


「ラウという、私と同じ年ごろの少年がいました。人間と鳥人の間に生まれ、左右の翼の大きさが違っていました。それでも低く飛び、陣球では誰よりもうまく相手の間を抜けた。私は、それを皆に知らせたくて記事を書きました」


 障子の外で、風が庭の草を撫でた。


「記事が評判になった後、役人がラウの家へ来ました。混じり者の家族が人を集めていると疑われたのです。ラウは私を逃がしました。私は言われるまま井戸へ戻り、その道を塞ぎました。その後、ラウたちがどうなったのかを、十六年間確かめませんでした」


「記事を書いたから、その子が役人に追われたのかい」


 母の問いに、文治はすぐには答えられなかった。


「分かりません。私の記事だけが原因だったとは、確かめていません。ですが、自分が書かなければと思わずにはいられませんでした。そう考えれば、向こうへ戻らずに済んだからです」


 口にした瞬間、自分が罪悪感さえ逃げるために使っていたことに気づいた。


 すべて自分のせいだと思えば、自分を責めるだけで話を終えられる。ラウに何が起きたかを調べ、その後の人生に向き合う必要はない。


 母は長い間、黙っていた。


 やがて、節の曲がった指で文治の手を包んだ。


「町が本当にあるかどうかは、私にはまだ分からないよ。でも、お前が十六年も苦しんでいたことは分かる。親にとっては、井戸の向こうの町より、目の前の息子が何も言わずにいなくなる方が怖いんだ」


 責められるより、苦しかった。


 文治は母の手の甲に増えた染みを見つめた。十六年前にはなかったものだ。自分が逃げている間にも、母は年を取り続けた。その時間を埋める言葉を、文治は一つも持っていなかった。


「申し訳ありません」


「謝るだけなら、昨日もできたはずだよ。次に井戸へ行くときは、行くと言いなさい。帰れるか分からないときは、それも言いなさい。心配させない約束ではなく、心配している人間を置き去りにしない約束をしておくれ」


「はい。約束します」


 兄が深く息を吐いた。


「母さんまで、井戸を残す方へ回るのか」


「井戸を残せとは言っていないよ。この子を、また一人で井戸へ向かわせるなと言っているんだ」


 兄はしばらく目を閉じていた。


 文治は革鞄の内側から、郵便貯金の通帳と印章を包んだ小袋を取り出した。家の整理で金が必要になるかもしれないと、東京から持ってきたものだった。


「これを使ってください」


「何だ」


「東京へ出てから貯めた金です。多くはありませんが、引き渡しを延ばすための補償と、井戸を囲う費用にはなるはずです」


 兄は通帳を開き、記された額を見た。顔を上げたとき、その目には怒りよりも痛ましさがあった。


「これを渡したら、お前にはほとんど何も残らない。下宿代はどうする。病気になったらどうする。新聞社の給金が高くないことくらい、私でも知っている」


「金は働けば、また貯められます。一度土で埋めた道は、同じ場所を掘っても戻るとは限りません」


「その町の記事一つに、十年分の蓄えを使うのか」


「記事一つのためではありません」


 文治は、競技公報の二行を思い出した。


 不成立。記録しない。


 たった二行で消された九人の泥だらけの顔と、十六年間、自分の記憶の中へ閉じ込めていたラウの姿が重なった。


「私が途中で逃げたために、いなかったことにされた人たちがいます。今度も同じことをすれば、私はもう、自分を新聞記者だとは名乗れません」


 兄は通帳を閉じた。


「約束はできない。決めるのは買い手だ。だが、三か月の延期と、その間の管理をお前が引き受けるという話はしてみる」


「ありがとうございます」


「まだ礼を言うな。断られるかもしれない。それに、話が通っても、私はお前を信じたわけではない」


「それで構いません。三か月の間に、信じてもらうためのものを持ち帰ります」


「持ち帰るのは、まず自分の身体にしろ」


 兄は通帳と印章を懐へ入れ、立ち上がった。


 その背を見送りながら、文治は、兄が最後まで井戸の存在を否定しなかったことに気づいた。


     ◇


 兄が買い手の家へ出向いている間、文治は奥の部屋へ机を運んだ。


 窓を開けると、稲の匂いを含んだ風が入ってきた。畳には箪笥の置かれていた四角い跡が残り、その上だけ青みが濃い。空になった部屋で、筆記具を置く音がやけに大きく響いた。


 文治は黒い取材帳を開いた。


 十五対十二。


 最後の落城。ガドの十二歩。試合後の測定。競技官の決定。号外を受け取った人々の声。


 北境市で起きたことを、日本の紙にも残す。


 向こうで無許可の紙片と呼ばれても、別の場所に同じ記録があれば、完全には消せない。井戸が土に埋もれる日が来ても、そこに町があり、人々が勝ち負けに泣いたことまで、なかったことにはさせない。


 そう考えて原稿用紙へ向かったが、鉛筆の先は最初の枡目の上で止まった。


 低翔びのラウを書いたときも、同じ気持ちだった。


 皆に知らせたい。忘れられないようにしたい。


 正しいつもりで書いた言葉が、誰かの暮らしへ役人を連れてきた。


 また書けば、同じことが起こるかもしれない。


「書かないのかい」


 母が、握り飯と沢庵を載せた盆を運んできた。


「書きます。ただ、何を伏せるべきか考えています。日本の読者へそのまま名前を伝えても、北境市へ届くとは思えません。それでも、届かないと決めつけることはできませんから」


「そのラウという子のことも書くのかい」


「いつかは書かなければならないと思います。ですが、今の私は、あの後のラウを知りません。知らない部分を、自分に都合よく埋めることはできません」


「それなら、知っているところまで書けばいい。お前は、昔から何でも一度に片づけようとするから、動けなくなるんだよ」


 母はそう言って、握り飯を文治の手へ押しつけた。


 まだ温かかった。塩のついた米を噛むと、空腹だったことを身体が思い出した。沢庵の音が静かな部屋へ響き、強い塩気に乾いていた口の中が痛んだ。


 食べ終えると、文治は原稿用紙の右端へ題を書いた。


 ――井底通信。


 井戸の底から届く知らせ。


 その下へ、第一回の見出しを置いた。


 ――記録にない試合。


 土地と制度の名は、日本の読者が読める言葉へ置き換える。身元に関わる箇所は、本人へ確認できるまで伏せる。見たことと、聞いたことを分ける。分からないことは、分からないと書く。


 決まりを一つずつ薄茶の帳面へ記した。


 今度は、自分一人の正しさだけで書かないために。


 鉛筆が紙を擦る音が始まった。


 勝ったはずの試合が、翌朝には、なかったことになっていた。


     ◇


 日が山の端へ触れるころ、兄が戻ってきた。


 額には汗が浮かび、袴の裾へ白い埃がついている。歩いて隣村まで往復したのだろう。土間へ上がる前に水を一杯飲み、ようやく文治を見た。


「買い手は、三か月なら待つと言った。ただし、その間の家の管理と、井戸を囲う費用はこちら持ちだ。万一事故があれば、お前が責任を負う。その条件でよければ、引き渡しを延ばせる」


 胸に詰まっていた息が抜けた。


「それでお願いします」


「お前の貯金は、延期の補償と管理費の手付として預かる。余った分があれば返すが、あまり期待するな」


「返らなくても構いません」


「簡単に言うな。十年かけて貯めた金だろう」


 兄は責めるように言ったが、通帳を扱う手つきは、壊れ物を持つように慎重だった。


 文治は窓の外を見た。


 九日だった時間が、三か月へ延びた。


 それは解決ではない。ただ、次の手を考えるために買った猶予だった。


 それでも、あの井戸へ土が落とされる光景を想像せずに、今夜だけは息をすることができる。


「兄さん。ありがとうございました」


「礼は、三か月後に言え。お前が戻らなければ、私がこの井戸を埋める。そのときは母さんに何を言われても待たない」


「必ず戻ります」


「その言葉を、軽々しく使うな」


 兄の目に、朝の井戸端で見た恐怖が戻った。


「戻れない事情ができたなら、それを知らせる方法も考えろ。約束というのは、言った側が安心するためにあるのではない。待つ側へ渡すものだ」


 ティナにも、同じ言葉を口にした。


 必ず戻る。


 文治は、その言葉を自分の決意としてしか考えていなかった。待たされる側が、何日もそれを信じなければならないことを、兄に言われて初めて思い知った。


「はい。向こうから知らせを送る方法も探します」


 それができれば、井戸が両方の世界をつなぐ唯一の道でなくなるかもしれない。


 兄は頷かなかったが、それ以上は何も言わなかった。


     ◇


 文治は、書き上げた原稿を封筒へ入れた。


 宛名は、新橋の東都夕報社。黒瀬源三郎。


 添え状には、まず三回、週に三度の連載として検討してほしいと書いた。続きが届かなければ没にして構わない、とも付け加えた。


 すぐに掲載される保証はない。井戸の向こうに異国があると正直に話せば、黒瀬でさえ文治が頭を打ったと疑うだろう。だが、原稿へ書いた得点も時刻も証言も、作り話として笑われたからといって消えるものではない。


「兄さん。明朝、この原稿を郵便へ出してもらえませんか。私は今夜、向こうへ戻ります」


「戻ってきた日に、もう行くのか」


「審査の結果を、自分の目で確かめたいのです。三日以内という期限は、向こうでも進んでいます」


 兄は封筒の厚みを確かめた。


「これが、お前の言う町の記事なのか」


「はい。黒瀬さんには、地方で売れそうな話を拾ってこいと言われました。載せるかどうかは、読んでから決めてもらいます」


「井戸の向こうです、と説明するつもりか」


「それ以外に、私の知っている行き方はありません。信じてもらえなくても、見たことまで変えるつもりはありません」


 兄は呆れたように息を吐いた。それでも封筒を突き返さず、通帳と同じように懐へしまった。


「届ける。ただし、私に内容の説明を求められても困る。読めば分かるように書いてあるんだろうな」


「それができていなければ、新聞記者としては失格です」


「異世界へ行く弟の方は、兄としてどう扱えばいいのか、まださっぱり分からないがな」


 兄の口元が、ごくわずかに緩んだ。


 文治も笑おうとしたが、胸へ込み上げたものが邪魔をして、うまく声にはならなかった。


     ◇


 その夜、文治は再び旧宅の裏山へ立っていた。


 井戸の周囲には、兄が仮の柵を組んでいた。新しい木の匂いが夜露へ混じり、縄を張った杭には白い布が結ばれている。暗がりでも穴の位置が分かるようにしたのだろう。


「本当に、今夜また行くんだね」


 母が包みを差し出した。


 中には握り飯と、梅干しと、清潔な手拭いが入っていた。


「三日以内に、審査の結果が出ます。私がいない間に決定されれば、また誰かに都合のよい二行だけが残るかもしれません」


「書かなければ、また誰かに消されてしまうのかい」


 母は文治が渡した原稿の封筒を思い浮かべているようだった。


「はい。だから、書くんです」


「書くのは止めないよ。ただし、書くために生きて帰ることを忘れないでおくれ。紙だけ戻ってきても、私は喜べない」


「忘れません」


 兄は井戸口の板を外し、縄の結び目を確かめた。何度も体重をかけた後、それでも心配そうに文治を見る。


「三日後に一度戻れ。できるかどうかではなく、そうする方法を向こうで探せ。何の知らせもなければ、私は人を集めて井戸へ降りる。お前が困ると言っても、今度は待たない」


「分かりました。三日後には、必ずこちらへ戻ります」


「今度は、その言葉を信じる。だから、守れ」


 文治は頷いた。


 十六年前は、二度と通らないために、自分の手で井戸へ板を打ちつけた。


 今は、帰りを待つ者たちの前で、その板を外してもらっている。


 同じ井戸なのに、底へ向かう闇は以前ほど深く見えなかった。


 文治は革鞄を肩へ掛けた。中には三冊の取材帳と、東都夕報で使われなかった書き損じの原稿が入っている。紙の右端には、『井底通信』という四文字が残っていた。


 縄を握り、足を石壁へかける。


 逃げるためではない。


 戻ると約束した人々のもとへ行くために、文治は井戸を降り始めた。


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