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第7話 号外の翌朝

黒い取材帳を閉じても、ラウの声は胸の奥に残っていた。


 来るな、文治。


 あのときは、言われたとおりに逃げた。


 今、目の前では『井戸端新聞』の号外を囲み、人々が十五対十二という数字を口にしている。自分の書いたものが誰かの記憶へ移っていく光景は、十二歳のころと変わらない。


 だからこそ、文治には喜びきれなかった。


「ひどい顔をしているな。徹夜明けというより、自分の葬式から戻ってきたみたいだ」


 隣に立ったティナが言った。彼女も一晩眠っていないはずなのに、背筋はまっすぐ伸びていた。ただ、目の下には薄い影があり、指先からは洗っても落ちない墨の匂いがした。


「昔のことを思い出していました。今は、うまく話せそうにありません」


「なら、話せるようになるまで待つ。ただし、記事に関係することなら、いつかは聞く。あんた一人の胸の中だけで判断されると、校閲する側が困るからな」


 慰めるのでも、無理に聞き出すのでもない。


 その距離が、文治にはありがたかった。


 市場の入口から、一人の少年が駆けてきた。息を切らし、丸めた紙を頭上へ掲げている。


「競技場の号外が剥がされた! 代わりに、競技院の紙が貼られている!」


 ティナの表情が変わった。


「最初の一枚が、半日も持たなかったか。見に行くぞ。何と書かれたのか確かめずに腹を立てるのは、新聞を作る者のすることじゃない」


     ◇


 競技場の門には、糊の跡だけが白く残っていた。


 号外のあった場所へ、公報社の印が押された紙が貼られている。朝露を吸った紙は端から波打ち、赤い封蝋だけが生々しく光っていた。


 ティナが声に出して読む。


「昨夕の認定試合は、出場資格の不備により不成立と決定済みである。市中に掲示された無許可の紙片は、競技院の認める記録ではない。市民は、不確かな言説に惑わされぬよう注意されたい」


 周囲から、不満げな声が漏れた。


「十五対十二が違うとは書いていないな」


「試合を見た俺たちまで、不確かな人間だと言うのか」


 文治は赤い帳面を開き、人々の言葉を書き留めた。怒りは事実ではない。だが、何が人を怒らせたのかは確かめておく必要がある。


「公報は、号外の内容に一つも答えていません。無許可だから信じるなと言っているだけです」


「それでも、公報の印を信じる者は多い。紙に押された印は、本文を読まない人間にまで効くからな」


 ティナは封蝋を睨んだ。その横顔に怯えはなかったが、前掛けの端を握る指だけが白くなっている。


 自分の工房の名を紙へ出した責任が、今になって重さを持ち始めたのだと文治は気づいた。


「フェル印刷工房のティナ・フェルはいるか」


 門の内側から、灰色の上着を着た競技院の書記が現れた。腕には記録係を示す青銅の札を巻いている。


「私がティナ・フェルだ。この号外について工房へ処分を出すなら、まず、どの文が事実と違うのかを示してもらいたい」


「処分を伝えに来たのではない。北境倶楽部から再審査の申立てが出された。号外の作成者には、証拠の出所を説明してもらう。正午、資格審査室へ来てほしい」


 文治の心臓が、一度大きく鳴った。


「再審査を受け付けたということですか。昨日は、試合後の測定だけで不成立と決めたはずです」


「受け付けただけだ。勝敗を戻すと決まったわけではない。それから、異国の記者も来い。署名した以上、名前だけ置いて逃げることは許されない」


「逃げるつもりはありません。私が見たことと、確認できなかったことを、分けて説明します」


 書記は文治を値踏みするように見た後、折り畳んだ召喚状を差し出した。


 紙は朝露で冷たかった。


     ◇


 正午までの間、北境倶楽部の九人は練習場へ集まった。


 勝利を取り消された翌日だというのに、誰も球へ触れようとしなかった。乾いた革球だけが地面に置かれ、朝日を受けて鈍く光っている。


「ようやく話を聞かせられるんだ。行かない理由なんてないだろう」


 ナージャが苛立ったように言った。尾は土を打ち、耳は正面へ向いている。


「審査室へ入れば、向こうの机が昨日より大きくなるだけかもしれない。大きい机の後ろから同じ決定を読まれたら、俺たちはもう一度負けることになる」


 ミロは皮肉を口にしたが、その声にはいつもの軽さがなかった。


 ガドは二人の間で、丸めた選手表を握っていた。紙が大きな掌の中で、枯れ葉のように小さく見える。


「俺は、また身体を測られるのか」


 誰もすぐには答えなかった。


「昨日は、服を着たまま人の前へ立っていたのに、測り帯を巻かれたら、自分の中身まで数字にされた気がした。もし今度も三級だと言われたら、やっぱり俺がみんなの勝ちを消したことになるのか」


 ガドの声は静かだった。


 その静けさの奥にある恐れを想像したとき、文治は安易な励ましを口にできなかった。「君は悪くない」と言うだけなら簡単だ。だが、体格点の規則があり、測定結果が変わらない可能性もある。


「あなたが十二歩進み、球を残した事実は消えません。ただ、その身体で出場する資格があったかどうかは、別に確かめなければならない。私は、あなたを安心させるために結果を決めつけたくありません」


 ガドの眉が痛そうに寄った。


 文治も、自分の言葉が冷たく聞こえたことは分かっていた。それでも優しい嘘を渡せば、後で結果が違ったとき、この青年を二度傷つける。


「浦上。もし再測定で三級と確定し、昨日の不成立が規則どおりだったと分かったら、あんたはそれも新聞に書くのか」


 オルガが尋ねた。


 八つの視線が文治へ集まった。


 号外を出した昨日までなら、「もちろん書く」と迷わず答えたかもしれない。だが今は、その一文でガドが競技場から遠ざけられる光景まで想像できた。


 書きたくないと思った。


 その感情を自覚したうえで、文治は答えた。


「書きます。ただし、三級だったという結果だけでは終わらせません。競技院が二級の登録を受理し、試合前には出場を認め、敗れた側の抗議を受けてから測り直した。その順序も、同じ紙に書きます」


「それなら、北境倶楽部を助ける新聞ではないんだな」


「助けたいという気持ちはあります。ですが、その気持ちに合わせて事実を選んだら、私はまた、書きたい人間だけを書いてしまう」


 ラウの姿が胸をよぎった。


「井戸端新聞ができるのは、勝たせることではありません。あなた方の勝ちも、負けも、都合よく消されないようにすることです」


 オルガはしばらく文治を見つめた。


「昨日よりは、少し信用できる答えだ。全部信用するのは、次の記事を読んでからにする」


 ガドが、皺になった選手表をゆっくり広げた。


「俺は審査へ行く。二級でも三級でも、今度は測った者の名前と、使った基準を残してもらいたい。自分の身体のことなのに、何も知らないまま決められるのは、もう嫌だ」


 ナージャがガドの腕を軽く叩いた。


「それなら九人で行こう。測るなら見ているし、説明するなら全員で聞く。あんた一人の身体に、九人の責任を押しつけさせない」


 それを聞いたガドは、ようやく背中を少し伸ばした。


     ◇


 資格審査室は、冷えた石と古い紙の匂いがした。


 窓は細く、外の光が机の中央だけを白く照らしている。その上へ、ティナが前日の選手表を置いた。


「この原稿は、試合の三日前に競技院から受け取りました。ガド・バルク、体格二級。私が組んだ活字と、納品控えも工房に残っています」


 資格審査官は選手表を裏返し、隅の受領印を確かめた。


「この紙が偽造でないことは認める。ただし、登録が受理されていても、実際の体格が三級なら出場資格は失われる」


「では、なぜ試合前に測らなかったのですか。北境倶楽部は有効な選手表を受け取り、それを信じて九人を出した。競技院側の確認不足まで、すべて選手の責任にするのですか」


 文治の問いに、審査官の目が細くなった。


「新聞記者は質問だけしていればよいから気楽だな。こちらは一つの例外を認めれば、次の試合にも同じ判断を適用しなければならない」


「例外を求めているのではありません。いつの測定を有効とするのか、昨日の決定では説明されていないと言っています」


 室内が静まり返った。


 廊下を歩く靴音と、壁の時計が刻む音だけが聞こえた。文治の口には、徹夜明けに飲んだ渋い茶の味がまだ残っている。


 審査官は選手表、ティナの納品控え、文治の取材帳の写しを順に見た。


「先の勝敗を、現時点で公式記録へ戻すことはできない。ただし、登録受理の経緯に不明な点があることは認める。北境倶楽部の再審査申立てを正式に受理し、試合前登録と試合後測定の双方を調べる」


 ナージャが息を吸い、ミロが何か言いかけた。オルガは手を上げ、二人を制した。


「結果は、いつ出る」


「三日以内だ。それまでは、勝利を主張する催しや、競技院を侮辱する新たな紙の掲示を控えてもらう」


 ティナが椅子から身を乗り出した。


「事実を確かめて書くことまで禁じるなら、その命令を文書で出せ。誰の責任で、どの規則に基づいて言論を止めたのか、次の紙面へそのまま載せる」


 審査官は苦いものを噛んだような顔をした。


「禁止命令ではない。自制を求めているだけだ」


「それなら、こちらが何を書くかも自分たちで決める」


 ティナは納品控えを取り戻し、丁寧に二つ折りにした。強い言葉を発した後で、その指がかすかに震えているのを、文治は見逃さなかった。


 怖くないのではない。


 怖さを知ったまま、自分の名を紙から消さなかったのだ。


     ◇


 審査室を出ると、昼の鐘が鳴った。


 冷たい室内から明るい路上へ出たため、文治は目を細めた。石畳から上がる熱気に、馬の汗と焼いた香草の匂いが混じっている。


「勝ちは戻らなかったな」


 ミロが呟いた。


「それでも、昨日は聞く耳すら持たなかった連中が、三日以内に調べると言った。何も変わっていないわけではない」


 オルガはそう答え、文治へ向き直った。


「だからといって、新聞のおかげだとはまだ言わない。三日後の答えまで見届けたら、そのとき考える」


「それで構いません。記事は、礼を言ってもらうために書くものではありませんから」


 文治が答えたとき、懐中時計が胸元で硬く触れた。


 取り出すと、針は正午を回っている。


 日本の家を出てから、母にも兄にも何も告げていない。井戸を見に行くだけのつもりだった男が、一晩戻らなければ、二人がどれほど心配するか。号外と再審査に夢中になるあまり、自分を待つ者の時間を忘れていた。


 さらに、井戸が埋められるまでの十日も、一日減った。


 胸の高鳴りが、急に別の焦りへ変わった。


「ティナさん。私は一度、日本へ戻らなければなりません」


「ニホンへ帰れば、また来られるのか」


「分かりません。向こうの井戸は九日後に埋められます。その前に、道を残す方法を見つけます」


 ティナの顔から血の気が引いた。


「九日後だと? そんな話は、先に言え」


「申し訳ありません。自分でも、一晩でここまで関わるとは思っていませんでした」


「予定外だったと言えば、締切が待ってくれるのか。三日後には審査結果が出る。続きを書くと言った男が、井戸ごと消えるのは許さない」


 叱る声の奥に、わずかな不安が混じっていた。


 文治は、ティナが自分の帰りを待つつもりでいることに気づいた。


 その事実が嬉しく、同じだけ重かった。


「必ず戻ります。今度は、戻る道を自分で閉ざしません」


 十六年前の約束を破った男が口にするには、あまりに頼りない言葉だった。


 それでも文治は、逃げずにティナの目を見て言った。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


面白かった、続きが気になると思っていただけましたら、いいねやブックマーク、作品への評価をいただけるとうれしいです。皆さまからの応援が、続きを書く大きな励みになります。


次回も、文治たちの物語をお楽しみください。


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