第6話 低翔びのラウ
キリクの羽根が、朝の光の中で震えていた。
片方だけ大きく開かれた翼を見た瞬間、浦上文治の耳から市場のざわめきが遠のいた。
焼きたての平パンの匂いも、荷車の軋みも、号外を読む声も薄れていく。代わりに蘇ったのは、乾いた草を踏む小さな足音と、羽根が白い石をかすめる音だった。
二十年前。
文治が、まだ八歳だったころの音である。
◇
初めて北境市側の井戸から顔を出したとき、文治は、自分が狐に化かされたのだと思った。
見上げた空は日本と同じ青色だった。だが、井戸を囲む石は乳のように白く、草の匂いには甘い香辛料が混じっている。崩れかけた祠の柱には、見たこともない鳥の紋様が彫られていた。
その石柱の陰から、一人の少年が文治を見ていた。
背丈は文治と同じくらいだった。灰色の髪の間から細い羽毛が覗き、背中には二枚の翼がある。右の翼は腰のあたりまで伸びていたが、左はその半分ほどしかなかった。
少年が一歩近づく。
文治は逃げようとして、井戸の縁へ踵をぶつけた。腰が抜け、その場へ尻餅をつく。白い砂が掌へ食い込み、ひりひりした。
少年も驚いたらしい。大きい方の翼を広げ、小さい方をかばうように身体を斜めへ向けた。
互いに何か言った。
どちらの言葉も、相手には通じなかった。
沈黙が長くなるほど、文治の胸は苦しくなった。怖い。けれど、ここで井戸へ逃げ込めば、目の前の不思議な少年が何者なのか、永遠に分からない気もした。
少年は自分の胸へ手を当てた。
「ラウ」
次に、文治を指さす。
名を尋ねているのだと気づくまで、少し時間がかかった。
文治も、自分の胸へ掌を置いた。
「文治。浦上文治だ」
「ブンジ」
ラウは慎重に音をなぞり、最後に笑った。
その笑顔を見て、文治はようやく息を吐いた。
最初に通じた言葉は、互いの名前だった。
◇
二人は、物の名から言葉を覚えた。
ラウが楕円の球を地面へ置き、北境市の言葉を言う。文治はその横へ丸を描き、日本語で「球」と教える。縄、井戸、石、月。絵にできるものは土へ描き、描けないものは身振りで伝えた。
ある日、文治が「明日も来る」と言ったつもりで、ラウには「もう来ない」と伝わった。
翌日、祠へ着くと、ラウは井戸の前で膝を抱えていた。文治の顔を見るなり立ち上がり、大きい方の翼で肩を叩いた。
「ブンジは、もう来ないと言った。俺は昨日から、ずっと腹を立てていた」
「違う。明日も来ると言ったんだ。言葉を一つ間違えただけなのに、どうして一晩中ここで待つんだ」
「言葉を間違えたのはブンジだ。それなのに、待った俺のほうを叱るのはおかしい」
そのころには、二人とも長い言葉を話せるようになっていた。
ラウの日本語は、ところどころ北境市の語順になった。文治の街道共通語には、ラウの訛りがそのまま移った。それでも、意味が通じないことは、以前ほど怖くなくなった。
分からなければ聞き直せばよい。
言い直してもらえばよい。
文治が後に、同じ出来事を何人にも確かめるようになったのは、新聞社で教わったからだけではない。言葉は確かめなければ、別れの約束にさえ変わると、八歳のときに知ったからだった。
◇
十二歳の夏、ラウは初めて文治を陣球の試合へ連れていった。
球技場と呼ぶには粗末な場所だった。使われなくなった石材置き場へ線を引き、荷縄を張って落城線にしている。陽に焼けた石から熱が立ち、汗と砂埃の匂いが鼻の奥へ張りついた。
「今日は見ているだけでいい。ブンジは球を受けると、逃げる方向まで真っすぐだから、すぐ捕まる」
「一度も私の走りを見ていないのに、決めつけるのはよくない。試合に出せば、少しくらい役に立つかもしれない」
「井戸から出るたびに転んでいる人間を、落城線まで走らせる勇気は俺にはない。代わりに、俺がどう走るかを最後まで見ていろ」
言い返せず、文治は石の上へ座った。
試合が始まると、ラウはなかなか球へ触れなかった。
相手の鳥人たちは、頭上から何度もラウを追い越した。左右の翼を大きく羽ばたかせ、石壁より高く舞い上がる。観客から歓声が起こるたび、ラウは地面に立ったまま、その影を見上げていた。
「飛べない鳥を入れて、何をするつもりだ」
相手側から笑い声が飛んだ。
文治の頬が熱くなった。自分へ向けられた言葉ではないのに、拳を握らずにはいられなかった。
ラウは振り返らなかった。
砂に片手をつき、身体を低く沈める。大きい方の翼をいっぱいに開き、小さい方は風の向きを探るように細かく震わせた。
味方から、横向きに球が渡る。
ラウの足が地面を蹴った。
高くは上がらなかった。
文治の肩ほどの高さを、地面と平行に滑った。
頭上から降りてきた鳥人の足元へ潜り、石材の隙間で身体をひねる。大きい翼で風を受け、小さい翼で向きを変えた。片方が足りないのではない。左右の違う翼を、別々の役目に使っているのだ。
羽根が風を裂く音が、文治の耳元を走った。
ラウは最後の守り手を低いまま抜き去り、落城線の向こうへ球を押しつけた。
十対十から、十五対十。
土煙の中で、ラウが拳を上げた。
文治は立ち上がり、喉が痛くなるほど名を呼んだ。口へ流れ込んだ汗は塩辛く、砂が歯の間でじゃりりと鳴った。それでも声を止められなかった。
「ラウ、今の飛び方なら、誰にも捕まらなかった。高く飛んだ者より、ずっと早く落城線へ着いたぞ」
「高く飛べないから、低く飛んでいるんじゃない。低く飛べば、あいつらの下を抜けられる。ちゃんと見ていたなら、そこを間違えるな」
ラウは息を切らしながら言った。額には砂が貼りつき、片方の翼の先が擦れて血が滲んでいた。それでも、笑っていた。
「ブンジは、いつも土へ言葉を書く。今日の俺も、書けるか」
「試合のことなら書けると思う。でも、私は新聞記者ではないし、誰かに読ませる紙を作ったこともない」
「だったら、今日から作ればいい。かわいそうな翼だと思ったのなら書かなくていい。俺がどう飛んで、どう二人を抜いたのかを見ていたなら、それを書け」
見ていた。
誰より近くで、最初から最後まで。
その事実が、十二歳の文治をひどく誇らしい気持ちにさせた。
◇
二人は祠の石段へ並んで座り、日が傾くまで記事を書いた。
文治が文章を考え、ラウが競技の言葉を直した。紙は市場でもらった包み紙の裏、筆は文治が日本から持ってきたものだった。墨を含ませた穂先から、湿った土と煤を混ぜたような匂いがした。
見出しは、ラウが決めた。
――低翔びのラウ。
文治は、左右の翼の大きさが違うことを書いた。人間と鳥人の間に生まれた少年だとも書いた。石材置き場の位置と、次の試合が行われる時刻も書いた。
隠す理由があるとは思わなかった。
名前を出さなければ、ラウの落城は誰のものか分からなくなる。場所を書かなければ、次の試合を見てもらえない。文治は、正確に書くことがラウを守るのだと信じていた。
翌日、二人は記事を市場の掲示板へ貼った。
通りかかった者が足を止め、声に出して読んだ。鳥人の青年が鼻で笑い、人間の荷運び人が「その試合なら見た」と言った。ラウは少し離れた場所に立ち、自分の名が読まれるたび、大きい方の翼を落ち着きなく動かしていた。
「ブンジ。紙に書かれた俺の名前は、俺が帰った後もここに残るんだな」
「雨が降れば紙は破れる。でも、読んだ人が覚えていれば、すぐには消えないと思う」
「それなら、破れるまで何度でも読みに来る。今日の俺は、ちゃんとここにいたからな」
そのときのラウは、確かに喜んでいた。
文治も、初めて書いた記事を誇らしく思った。
だから三日後、記事を手にした六邦競技院の役人が石材置き場へ現れたとき、何が起きたのか理解できなかった。
革鎧を着た男たちは、選手たちの名と種族を確かめ、登録札を出せと命じた。混じりの者が無届けで競技集会を開いていたという声が響く。球が取り上げられ、張られていた縄が刃物で切られた。
乾いた革球が役人の袋へ落ちる音を、文治は崩れた石壁の陰で聞いていた。
ラウの肩を男の手がつかんだ。
飛び出そうとした文治に、ラウが気づいた。
「来るな、文治。お前まで見つかったら、井戸の向こうへ帰れなくなる。ここで見たことは忘れて、早く逃げろ」
忘れられるはずがない。
そう言い返したかった。
けれど文治の足は動かなかった。怖かった。革鎧の擦れる音も、抜かれた短い棒の光も、役人の怒鳴り声も、すべてが十二歳の身体には大きすぎた。
文治は逃げた。
翌日、石材置き場には誰もいなかった。切られた縄が砂の上で風に揺れ、羽根が一枚、石の間へ挟まっていた。
市場の掲示板からは記事が剥がされていた。地面に落ちた紙には泥の靴跡がつき、「人間と鳥人の間に生まれたラウ」という一行だけが、破れずに残っていた。
文治はその紙を拾い、四つに折った。
自分は、見たことを書いた。
嘘は一つも書かなかった。
それでも、ラウの名と翼と居場所を、役人へ教えたのは自分だった。
日本へ戻った文治は、井戸へ板を渡した。金槌を振り下ろすたび、釘の頭から腕へ硬い痛みが返ってきた。
もう行かない。
もう見ない。
もう書かない。
そう決めれば、ラウを傷つけた十二歳の自分を、井戸の向こうへ置いてこられると思った。
◇
市場の声が、文治の耳へ戻ってきた。
目の前では、キリクが翼を畳んでいる。石壁には『井戸端新聞』の号外が貼られ、その下で人々が十五対十二という数字を読み上げていた。
文治は黒い取材帳を開いた。
頁の間には、泥の染みた四つ折りの紙が挟まっている。
捨てられなかった、最初の記事。
今回の号外も、見たことを書いた。だが、それだけでは十六年前との違いにならない。ティナに止められなければ、文治はまた、水売りの老女の居場所を紙へ残していた。
正しい事実も、並べ方ひとつで刃物になる。
オルガの警告が、あらためて胸へ沈んだ。
文治は古い紙の上から、そっと取材帳を閉じた。
ラウが生きているのなら、いつか見つけなければならない。
謝って自分だけが楽になるためではない。
あの日、自分の記事がラウから何を奪い、何を残したのか。その答えを、今度こそ本人から聞くために。




