第5話 最初の号外
# 第五話 最初の号外
夕の鐘が鳴り終わる直前、浦上文治は染物通りへ駆け込んだ。
濡れた布が軒から何枚も垂れ、藍と灰汁の匂いが狭い通りにこもっている。聞き込みで歩き回った足は重く、靴の中では潰れた豆が焼けるように痛んだ。それでも、胸に抱えた取材帳だけは濡らすまいと、汗ばんだ腕で強く押さえていた。
フェル印刷工房の扉には、小さな金属文字を組み合わせた看板が掛かっていた。中から聞こえるのは印刷機の音ではなく、活字を選ぶ細かな金属音だった。
「約束の時刻には、ぎりぎり間に合ったと思います」
扉を開けると、ティナは作業台の向こうから文治の顔より先に、その手の取材帳を見た。
「間に合ったかどうかは、原稿を読んでから決める。証言は取り直したのか」
「最後の落城は、互いに面識のない観客三人へ確認しました。得点板の係員から、十五対十二を外した時刻も聞いています。名前を出してよいかは全員に尋ね直し、危険がある人については、特定につながる場所と仕事を削りました」
ティナは無言で手を差し出した。
工房には、油と古い紙の匂いが染みついていた。壁一面の棚には、爪ほどの活字が浅い木箱へ整然と収められている。奥には手回しの印刷機があり、黒く光る圧盤は、口を閉ざした大きな獣のように見えた。
文治は取材帳を開き、街道共通語で書き直した頁を渡した。
ティナは一行ずつ、唇を動かさずに読んだ。ときおり紙を擦る指が止まる。そのたびに、文治の胃の奥が縮んだ。東都夕報で原稿を待つときにも覚えのない緊張だった。見知らぬ土地で書いた文章だからではない。この女に退けられたら、十五対十二を街へ戻す手段がなくなるからだ。
「見出しは、これでいくつもりか」
ティナが読み上げた。
「名もなき九人、認定王者を破る――取り消された落城を追う」
「そのつもりです。通りを歩く人が足を止めるには、何が起きたのかを一目で分からせる必要があります」
「煽りすぎだ。北境倶楽部の九人には名前がある。あんたが勝手に名もなき者へ変えるのか。それに、公式記録では青嶺団は破れていない」
「だから書くのです。九人から名を奪ったのは私ではなく、公報です。試合が不成立なら、勝者の名も、十五点を取った事実も残らない。本文では、公式記録上の勝敗ではないことを明記します」
「本文を読めば正確だと言って、見出しだけで誤解させるのは卑怯者のやり方だ」
刺すような言い方だった。
文治は反論しかけ、口を閉じた。読まれなければ意味がない。それは記者として今も信じている。だが、読ませるためなら、どこまで強い言葉を使ってよいのか。十六年前、その境を考えずに友の名を書いた。
「では、『公式記録では消えた勝利』と本文の最初に入れます。見出しは残したい。読まれなければ、この三人の証言も、ガドの十二歩も、また帳面の中だけで終わります」
ティナは文治の顔を見た。怒っているようにも、試しているようにも見えた。
「直す余地を残したうえで、それでも残すと言うなら、理由は分かった。次はここだ。『競技官は青嶺団の抗議を受け、試合後にガドを三級とした』。その前に、ガドが二級で出場を認められていた証拠はあるのか」
「競技場で配られた選手表には、二級と記載されています。ただ、その選手表が競技院の登録をもとに作られたものかまでは確認できませんでした」
ティナは棚の下から紙束を取り出した。試合前、彼女が木箱へ納めていたものと同じ選手表だった。
「原稿は競技院から受け取った。私が一字ずつ組み、二級と刷った。ここは、私が証言できる」
言い終えたティナの指が、紙の端で止まった。
工房の奥にある印刷機へ、一瞬だけ目を向ける。その横顔には、協力を決めた者の晴れやかさはなかった。むしろ、自分の足で昔の傷へ戻ろうとする人のように見えた。
「ティナさん。工房が危険になるなら、無理に頼むつもりはありません」
「原稿を書いた人間だけが危険を選べると思うな。何を紙にして、誰へ渡すかは、工房を持つ私が決める」
ティナは印刷機へ布を掛けた。
「今夜は機械を使わない。発行許可のない紙を大量に刷れば、貼り出す前に押さえられる。手で書いた一枚を掲げ、欲しい者にはその場で写させる。それなら、今夜のうちに出せる」
「本紙も出していないのに、最初から号外ですか」
「今日の出来事を、本紙の準備が整うまで寝かせたいのか。号外にするなら、紙の名くらい今ここで考えろ」
文治は、取材帳の角を親指でこすった。
十六年前に閉ざした井戸。その底を抜けなければ、この街にも、この試合にも戻れなかった。井戸のそばで拾った声を、井戸端へ集まる人々へ渡す。少し気取っていると思ったが、ほかの名は浮かばなかった。
「『井戸端新聞』では、どうでしょう」
ティナは眉を上げた。
「ずいぶん小さな名だな。王都どころか、通りの端までしか届かなそうだ」
「まずは、それで十分です。一枚目を目の前の人へ届けられなければ、遠くへ届くはずがありません」
ティナはしばらく黙った後、作業台から大判の紙を一枚取り出した。
「なら、井戸端新聞の最初の読者は私だ。読めない文章なら、ここで破るから覚悟しろ」
◇
夜が深まるにつれ、ランプの油が焦げる匂いが濃くなった。
文治が事実を並べ、ティナが街道共通語へ置き直す。文治が「沈黙した」と書けば、ティナは「答えなかったのか、答えを拒んだのか」と問い返した。「不正」と書けば、「誰が規則違反をしたと確定したのか」と鉛筆の尻で机を叩いた。
そのたびに文治は取材帳をめくり、確かめられない言葉を削った。
文章は短くなった。けれど、弱くなったとは思わなかった。余計な泥を落とすほど、十五対十二という数字が紙の上で黒く、重くなっていく。
ティナが清書した紙面の下へ、二人の名が並んだ。
取材・構成 浦上文治。
翻訳・校閲 ティナ・フェル。
「私の名まで出す必要がありますか。危険を増やすだけでしょう」
「私が言葉を直し、載せる事実を選んだ。『頼まれた文字を書いただけです』と逃げるつもりはない」
ティナの声は静かだった。だが最後の一画を書き終えた指は、紙の上でかすかに震えていた。
文治は何も尋ねなかった。
人には、話せるまで聞いてはならないことがある。記者になってからようやく覚えた、最も遅い教訓だった。
最初の一枚を見本に、二人は残る二枚を手で書き写した。腕が痺れ、文字が滲めば最初からやり直した。印刷機なら同じ紙を何十枚も吐き出せるのに、今夜は三枚を作るだけで、東の窓が薄青くなり始めた。
◇
夜明け前、二人は手書きの号外を競技場の門へ貼った。
糊を塗った紙から、煮た麦の甘い匂いが立つ。冷えた石壁へ掌で押しつけると、まだ湿った文字が朝靄の中へ浮かび上がった。
次に酒場へ一枚。最後に市場の水場へ一枚。
酒場の主人が声を張り上げて読み始めると、荷車を引く者も、朝酒を飲んでいた者も足を止めた。文字を読めない半巨人の老人が、ガドの十二歩をもう一度読んでくれと頼んだ。市場では若い代書人が自分の紙へ記事を書き写し、その隣で水売りの老女が、名の出ていない自分の証言を黙って聞いていた。
「十五対十二だったのか」
「銅板が鳴ったのを、俺も聞いたぞ」
「それなら、なぜ公報には二行しかないんだ」
疑問が人から人へ渡り、朝の市場を満たしていった。焼きたての平パン、濡れた野菜、家畜の匂い。そのすべてに、人の声が混じっていく。
向かいの公報社は扉を閉ざしたままだった。窓辺にいた職員が号外へ目を向けたが、すぐに鎧戸を下ろした。
無視されたのだと、文治には分かった。
それでも、紙の前から人は去らなかった。
やがて北境倶楽部の九人が市場へ現れた。ガドは、自分の十二歩が書かれた箇所を、触れずに確かめるように見つめていた。ナージャの耳はまっすぐ前を向き、ミロは代書人の肩越しに写し間違いがないか口を出している。
オルガだけは、集まった人々ではなく文治を見た。
「この紙で、昨日の試合を覚える者は増えるだろう。だが、俺たちを助けたつもりになるな。次にあんたが書くものが、俺たちを潰すかもしれない」
喜びに浮きかけていた文治の胸へ、その言葉は冷たい釘のように打ち込まれた。
けれど、腹は立たなかった。
紙に残せば救えるなどと、思ってはならない。紙は人の目を向けさせる。味方を増やすこともあれば、隠れていた者を敵の前へ引き出すこともある。
「覚えておきます。今日の記事が正しかったとしても、明日書くものまで正しい保証にはなりませんから」
文治が答えると、オルガはわずかに顎を引いた。
その後ろで、キリクが片方の翼を開いていた。朝の光を受けた羽根が風に震え、文治の記憶の底で、別の翼と重なった。
低く飛ぶことを笑わず、初めて記事にしてくれと言った少年。
紙に名を残されたために、帰れなくなった友。
ラウ。
十六年間、書けなかったその名が、刷られていない号外の前で、文治の胸に蘇った。




