第4話 ティナ・フェル
# 第四話 ティナ・フェル
「新聞記者です。この試合を、最初から最後まで見ていました」
そう名乗った途端、公報記者の目から、わずかに残っていた戸惑いが消えた。
代わりに浮かんだのは、面倒なものを早く片づけたいという色だった。
「どこの新聞だ。北境市で発行を許されている紙なら、名を言ってみろ」
「東都夕報です。ただし、この国の新聞ではありません。私が知りたいのは、ガド・バルクの登録がいつ認められ、なぜ試合後の測定だけで覆されたのかです」
「異国の記者に、競技院の手続きを説明する義務はない。公式記録は公報に載る。それを読めば十分だ」
男は紙を四つに折り、革鞄へ押し込んだ。
紙の折れる音が、文治の耳には妙に大きく響いた。十五対十二という得点も、九人が泥まみれでつないだ球も、あの薄い紙の内側で折り潰されたように感じた。
「公報には、記録しないとしか書かれないのでしょう。私が尋ねているのは、記録しないと決めた根拠です」
「記録に残らないなら、起きなかったのと同じことだ」
「いいえ。起きなかったことと、起きた後で消されたことは、同じではありません」
公報記者は返事をせず、文治の肩を避けて歩き去った。外套の裾から乾いた土の匂いが立ち、遠ざかる靴音に合わせて、文治の腹の底へ鈍い苛立ちが積もっていった。
追いすがっても、答えは出まい。
そう判断できる程度には、文治も記者として場数を踏んでいた。それでも背を向ける男を呼び止めたくなる。怒鳴れば、少しは胸が軽くなる気がした。
だが、胸を軽くするために言葉を使えば、また十六年前と同じになる。
文治は黒い取材帳を開いた。
試合がなかったことにされるまで、半刻もかからなかった。
ならば、消されたものを拾うのは、今でなければならない。
◇
青嶺団の監督は、「規則に従って抗議しただけだ」と繰り返した。
競技官は、「登録の経緯は資格審査所へ問い合わせろ」と言った。
得点板の係員は、数字札を裏返したときの時刻を教えてくれたが、名は書かないでほしいと頼んだ。
東門脇で水を売っていた老女は、北境の最後の落城を確かに見たと言った。
「鳥人の若いのが、地面へ落ちるみたいに飛んだんだよ。あんな低い飛び方は初めて見た。ちゃんと球を置いたし、銅板も鳴った。それでも役人がなかったと言うなら、私の目のほうが悪いことになるのかね」
老女はそこまで話すと、急に周囲を見回した。
「けれど、私の名は出さないでおくれ。競技院へ逆らったと取られたら、ここで水を売れなくなる」
「分かりました。お名前は書きません」
そう答えながら、文治は取材帳へ、東門、水売り、試合終了後四半刻、と書いた。
陽に熱せられた革表紙が、掌へじっとり貼りつく。喉は砂を飲んだように乾き、朝から何も食べていない腹が痛んだ。それでも鉛筆を止める気にはなれなかった。
名前を出さなければ守れる。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さった。
十六年前も、自分は似たようなことを考えたのではなかったか。
ラウの話を、悪意を持って書いたわけではない。友の名を世に残したかった。低くしか飛べないのではなく、低く飛ぶことにかけては誰にも負けないのだと伝えたかった。
善意だったという言葉は、今も文治を少しだけ楽にしてくれる。
だからこそ、その言葉を信用できなかった。
「浦上、今のうちに話しておきたい」
振り向くと、オルガが立っていた。泥の乾いた頬は強張り、勝利を取り消された怒りより、仲間を守ろうとする警戒のほうが濃く見えた。
「さっき、全部書くと言ったな。俺たちのことを、哀れな寄せ集めとして売るつもりならやめてくれ。公報は二行で俺たちを消したが、あんたが勝手な物語を足せば、それも同じくらい迷惑だ」
「あなた方を立派に見せるためではなく、試合で起きたことを書くつもりです。ただし、書かれたくない者の言葉まで奪う気はありません」
「言葉は奪わなくても、使い方で人間は変えられる。そこは覚えておいてくれ」
オルガの背後で、ガドがうつむいていた。
文治と目が合うと、巨体をいっそう小さく畳むように肩を丸める。
「俺の身体のことを書くなら、十二歩進んだことも書いてほしい。大きすぎたことだけが残ったら、みんなへ渡した球まで、俺が壊したみたいになるから」
文治はすぐに返事ができなかった。
あの十二歩を見た。青嶺の選手を引きずった力だけではない。倒れる寸前まで仲間の位置を見て、球を自分の背後へ残した。その判断がミロへつながり、最後の落城を生んだ。
「書きます。あなたの身体がどう測られたかだけでなく、その身体で何をしたのかを書きます」
ガドは、ようやく少しだけ顔を上げた。
その表情を見たとき、文治は怖くなった。
自分の書くものを、この青年は信じようとしている。
信頼は嬉しいものだと思っていた。今は、濡れた外套を肩へ掛けられたように重かった。
◇
「公報の人間ではないな」
背後から女の声がした。
振り向くと、小柄な女が木箱を腰に抱えていた。年は文治より少し上に見える。褪せた青い頭巾の下から、切り揃えた黒髪が覗いている。革の前掛けには油染みが重なり、爪の際まで黒いものが入り込んでいた。
汗と土にまじって、懐かしい匂いがした。
油煙と、紙と、乾きかけの印刷墨の匂いだった。
「日本の新聞記者です」
「ニホンという公報社は聞いたことがない」
「公報社ではありません。説明すると長くなります」
「長い説明を嫌っていたら、印刷の仕事はできない。誤字が一つあれば、何百枚にも同じ間違いが増えるからな」
女は木箱を地面へ置いた。中では、余った選手表と得点記入票が、風にめくれないよう革紐で束ねられていた。
「競技場へ納めた刷り物を引き取りに来た。さっきから見ていたが、あんたは負けた側にも、勝った側にも、役人にも、客にも同じように嫌な顔をされている。公報記者なら、もう少し上手に人を選ぶ」
「褒められているとは思えませんね」
「褒めてはいない。取材帳を見せろと言っている」
文治の指が、反射的に帳面を閉じた。
紙面を覗き込まれることが嫌だったのではない。その中には、まだ他人へ渡せる形になっていない言葉がある。事実と推測と、自分の感情が、黒い線の間で絡み合っている。
何より、ラウの名があった。
「見せられない理由があるのか」
「あります。まだ記事ではなく、取材の途中だからです」
「それなら全部は読まない。あんたが街道共通語で書いたところだけ見せろ。異国の文字は、私にも読めない」
女の言い方には、好奇心より職人の厳しさがあった。
文治は迷った末、親指を挟んでいた頁を開いた。得点の推移、判定時刻、聞き取った証言。その脇へ、たどたどしい街道共通語で記事の骨組みを書き始めていた。
女は帳面を奪わなかった。文治の手にあるまま、身を寄せて目を走らせた。
墨の匂いが少し強くなった。
「これは記事ではない。異国人の覚え書きだ」
言われた瞬間、文治の頬が熱くなった。
「まだ書きかけです。それに、私はこの言葉を十六年使っていなかった。間違いがあるなら直します」
「言葉だけの話ではない。ここだ」
女の人差し指が、東門、水売り、四半刻後、の三か所を順に示した。爪の脇に染みた黒い墨が、乾いた皮膚の皺へ入り込んでいる。
「名前を伏せても、このまま刷れば誰が公報に逆らって話したか分かる。東門で水を売っている者が何人いる。試合の後まで残っていた者が何人いる。役人は、あんたよりこの街を知っているぞ」
「原稿は机の上にあるうちなら燃やせる。だが、何百枚にもなって人の手へ渡った紙は、もう取り戻せない。書かなかったつもりでは済まないんだ」
その一言だけ、女の声は低かった。戒めというより、古い傷を指で確かめているように聞こえた。
文治の背中を、冷たい汗が伝った。
老女の怯えた目が浮かんだ。その後ろへ、低い空を飛ぶラウの姿が重なった。
名を書かなければよいのだと、また思い込むところだった。
「削ります。場所と時刻だけでは足りないなら、売り物も消します。証言そのものは、別の観客にも確かめて補います」
女は黙って文治を見上げた。
「ずいぶん簡単に自分の原稿を捨てるんだな」
「捨てるのは、証言者を特定させる部分です。残したいのは試合であって、話してくれた人を晒したいわけではありません」
口にしてから、文治はそれが十六年前の自分へ言い聞かせたい言葉だったと気づいた。
過ちは、二度としないと誓えば消えるものではない。今度こそ正しく書ける保証もない。けれど、間違いを指摘されても帳面を抱えて逃げるなら、自分は何も変わっていない。
文治は鉛筆で三本の線を引いた。
東門が消えた。
水売りが消えた。
四半刻後が消えた。
老女の証言だけが、頁の中へ残った。
「あんた、印刷する当てはあるのか」
「ありません。そもそも、この街で使われている活字も、紙の値段も、何部刷れるのかも知りません」
「それで新聞記者を名乗ったのか。記事は書いただけでは、誰の目にも届かない」
女はため息をつき、木箱を抱え直した。紙の束が擦れ、乾いた音を立てる。
「夕の鐘が鳴るまでに、証言を取り直せ。実名を出す者には危険を説明し、出さない者については、場所と時刻と仕事を一緒に書くな。それでも紙にしたいと思うなら、染物通りの端にあるフェル印刷工房へ来い」
文治は、遠ざかりかけた小さな背へ声をかけた。
「あなたが、刷ってくれるのですか」
女は足を止めたが、振り向かなかった。
「まだ、引き受けるとは言っていない。原稿を見て、断るために呼んだのかもしれないぞ」
「では、断られない原稿を書いて持っていきます。お名前を聞かせてください」
しばらく沈黙があった。
風が女の頭巾の端を揺らし、そこに染みついた墨の匂いを運んだ。
「ティナ・フェル。文字を間違えるな、新聞記者」
文治はその名を、黒い取材帳へ丁寧に書いた。
ティナ・フェル。
まだ何も刷られてはいない。
それでも文治には、白い得点板から消えた十五と十二が、紙の上へ戻るための最初の音を立てたように聞こえた。




