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第3話 取り消された落城

井戸を出た途端、浦上文治は、十六年という歳月を匂いで思い知らされた。


 乾いた草。獣の毛。焦がした油。甘く、鼻の奥に残る香辛料。どれも覚えがあるのに、記憶の中の匂いより濃かった。


 崩れかけた祠の周囲には、膝の高さまで草が茂っていた。少年のころ、ラウと腰を下ろして話した石段は、半分ほど土に埋もれている。石柱に刻まれていた鳥の紋様も、風雨に削られて片方の翼しか残っていなかった。


 自分だけが去り、ここにあるものは十六年分、古び続けたのだ。


 当たり前のことなのに、胸が痛んだ。


「落城だ!」


 再び歓声が上がった。


 文治は革鞄から黒い取材帳を抜きかけ、手を止めた。


 見たことは書く。見なかったことは書かない。


 ならば、まだ何も見ていない。歓声を聞いただけだ。しかも文治は取材に来たのではない。ラウの消息を確かめ、夜が明ける前に日本へ戻る。そのつもりだった。


 それでも足は、声のした方角へ向かっていた。


 祠から石垣沿いの坂を下ると、北境市の灯が見えた。


 記憶にある街より、建物が増えている。白い石壁の家々に、赤銅色の屋根が重なり、その間を角灯の明かりが帯のように走っていた。荷車の車輪が石畳を鳴らし、頭上では大きな翼が風を切った。羽ばたきが起こす風に、文治の帽子がさらわれかける。


 慌てて押さえたところで、背後から腕をつかまれた。


「動かないでくれ。驚かせたなら悪いが、ここは勝手に入ってよい場所ではない」


 低い声だった。


 振り返った文治は、まず胸板を見た。顔を見るには、大きく見上げなければならなかった。


 男は文治より頭二つは高く、肩幅も倍近い。だが、文治の腕を包む手には、不思議なほど力が入っていなかった。逃げれば簡単に締め上げられるはずなのに、痛くないところを選んでつかんでいる。


「私は怪しい者ではありません。と言っても、この状況では信じてもらえないでしょうが、まず腕を放していただけませんか」


 言い終えた自分の言葉に、文治はひどい違和感を覚えた。


 街道共通語の発音が舌の上で転がらない。十二歳のころの言葉を、二十八歳の口で話している。語尾は幼く、ところどころにラウの訛りが混じっていた。


 大男は困ったように眉を下げた。


「逃げないなら放す。俺はガド・バルクだ。あんたは、あの祠から出てきたのか」


「浦上文治と申します。祠というより、その奥にある井戸から来ました」


 ガドの顔から、わずかに表情が消えた。


 その反応を確かめるより先に、別の足音が近づいた。裸足が土を蹴る軽い音と、革靴の踵が地面を打つ音が重なる。


「ガド、そいつを離すな。明日の名簿を探りに来た人間かもしれない」


 先に現れたのは、狼に似た耳を持つ女だった。短く束ねた髪の間から灰色の耳が立ち、腰の後ろでは尾が真っすぐ伸びている。走ってきたはずなのに息は乱れていない。ただ、湿った鼻先だけが、文治の匂いを探るように動いていた。


 その後ろから、三十歳ほどの人間の男が歩いてきた。派手な体つきではない。だが、男が近づくと、それまで言い争っていた練習場の選手たちが自然に口を閉じた。


「俺は北境倶楽部主将のオルガ・レンだ。井戸から来たと言ったそうだが、あそこは戦のころから涸れたままの井戸だ。そんな話を俺たちに信じろというのか」


「信じていただくための証拠はありません。私自身、十六年ぶりに通ったばかりで、向こう側の仕組みを説明できるわけでもありません」


 オルガの目が細くなった。


「十六年ぶり、ということは、以前にも北境市へ来ていたのか」


「子供のころ、四年ほど行き来していました。こちらに、ラウという友人がいました。人間と鳥人の混じりで、片方の翼が――」


 そこまで言って、文治は言葉を切った。


 片方の翼が小さい。


 かつて記事へ書いた説明が、危うく口から出るところだった。またラウの身体を、欠けた箇所から説明しようとした自分に気づき、喉が苦くなった。


「ラウは、低く飛ぶのが得意な少年でした。十六年前、家族と一緒に北境市からいなくなりました」


 オルガは周囲の選手を見た。知っている者はいないかと無言で尋ねたのだろう。返事はなかった。ただ、練習場の端にいた年長の男が、一瞬だけ文治から目をそらした。


 それを見た文治は問いかけそうになった。だが今は、尋ねれば全員の警戒を強めるだけだと飲み込んだ。


「お前の話が本当でも、今夜ここへ来た理由にはならない。明日は正式参加を懸けた認定試合だ。相手にこちらの練習を売るつもりなら、ずいぶん手の込んだ言い訳だな」


「試合があることさえ、今知りました。歓声を聞いて来ただけです」


 文治は練習場へ目を向けた。


 土の上に、九人の選手がいた。巨体の男。小人族。鳥の翼を持つ若者。角に革帯を巻いた者。互いに異なる身体が、同じ楕円の球を追っている。


 少年のころに見た陣球だった。


 けれど、同じではない。


 球は以前より硬く縫われ、落城線には白い粉が引かれている。上空には高さを示す旗縄が渡され、選手たちの胸には同じ紋章が縫いつけられていた。


 十六年前には、種族の違う者たちが正式な倶楽部を名乗ることなどできなかった。


「あれは、全部あなた方の選手ですか」


「質問に答えろと言った覚えはない。お前は、いったい何者だ」


「日本という国で、新聞記者をしています。見たことを聞き、確かめ、それを紙へ書く仕事です」


 文治は黒い取材帳を見せた。


 狼の女の耳が前へ倒れた。


「やっぱり書く人間じゃないか。公報屋でないなら安全だと、誰が決めた」


「ナージャの言う通りだ」


 オルガは取材帳へ手を伸ばさず、文治の顔を見た。


「俺たちは見世物ではない。異なる種族が仲よく球を追う、などという話を書きたいなら、今すぐ井戸へ戻れ。俺たちは練習中にも怒鳴り合うし、気に入らない味方の胸ぐらもつかむ」


「安心してください。仲よく見えるとは、まだ一行も書いていません」


 文治が答えると、足元近くから鼻で笑う声がした。


 小人族の男が、泥のついた球を片腕に抱えて立っている。


「見世物じゃないと説明してやったら、今度は『怒鳴り合う異種族の九人』と書くんじゃないのか。書く奴は、どっちへ転んでも紙を埋められるから気楽なもんだ」


「書くと決めたわけではありません。それに、あなたの名前も知りません」


「ミロ・セムだ。名前を教えたからといって、勝手に載せたら指を噛むぞ」


「噛むのは禁止だ、ミロ」


 ガドが真顔で注意した。


「試合中の話だろうが。普段まで俺の歯を規則で縛るな」


 緊張していた何人かが笑った。


 文治もつられそうになり、唇を結んだ。笑ってよい立場ではないと思ったからだ。するとガドが、まだ文治の腕をつかんでいることに気づき、申し訳なさそうに手を放した。


「悪かった。逃げる足には見えないし、もうつかんでいなくても大丈夫だと思う」


「それは信用されたのか、足が遅そうだと言われたのか、どちらでしょう」


「両方だと思う」


 今度は文治も笑った。


 オルガだけは笑わなかった。


「明日の試合は公開される。見たいなら止める権利はない。ただし、俺たちの席には入れるな。離れた観客席で見ろ。何か書くなら、勝ったところだけを拾って、哀れな寄せ集めの美談にするな」


「まだ試合を見てもいない私に、ずいぶん難しい注文をしますね」


「記者だと名乗ったのはお前だ。難しいなら、書かなければいい」


 文治は返事をしなかった。


 書くつもりはないと言えば済む。それなのに、そう言い切ることができなかった。


     ◇


 夜は祠の軒下で過ごした。


 北境倶楽部の者たちは、誰も文治を宿へ招かなかった。当然だった。正体の分からない男を練習場へ置いてくれただけでも、十分すぎる。


 ただ、ガドだけは帰り際、硬いパンと水筒を黙って置いていった。


「代金を払います。私は物乞いではありません」


「金の種類が違うだろう。腹が減ったまま寝ると、朝になっても腹が減っている」


「それは、食べても朝になれば腹が減るのではありませんか」


 ガドはしばらく考え込んだ。


「そうかもしれない。でも、今よりはましだ」


 パンは固く、噛むたびに焼け焦げた麦の苦みが出た。それでも空腹の腹には温かかった。文治は半分だけ食べ、残りを朝のために包んだ。


 横になっても眠れなかった。


 風が祠の割れ目を通るたび、古い石が低く鳴った。街の方からは夜更けまで笑い声と楽器の音が届き、やがて一つずつ消えていった。


 革鞄の中には、少年の自分が書いたラウの記事がある。


 今夜出会った選手たちの名も、すでに頭へ残っていた。ガド。オルガ。ナージャ。ミロ。書くつもりがなくても、文治の中では彼らの姿が文章になり始めている。


 それが怖かった。


 相手を知りたいと思う気持ちと、記事にしたいと思う欲は、文治の中でよく似ていた。自分でも見分けられないまま、また誰かを傷つけるのではないか。


 それでも、明日の試合を見ずに日本へ戻るという考えは、もう浮かばなかった。


     ◇


 翌日の球技場には、朝から土埃が漂っていた。


 石造りの段席を埋める観客の足元で、乾いた土が白く舞う。焼いた肉と香辛料の匂い、獣人の毛へ塗る油の匂い、鳥人の羽から落ちる細細かな粉が、冷たい風に混じっていた。城門の柱には青嶺団の青旗と、北境倶楽部の継ぎ合わせたような多色の旗が並んでいる。


 旗の大きさからして、扱いの差は明らかだった。


 青嶺団の席には揃いの外套を着た応援団が並び、太鼓まで持ち込んでいた。対する北境倶楽部の側にいるのは、昨夜の練習を見ていた近所の者たちと、物珍しそうな客ばかりだった。


「体格点の寄せ集めが、本当に九人そろえたぞ!」


「鳥ならもっと高く飛べ! 地べたを這うなら羽を抜いてしまえ!」


 野次が飛ぶたび、文治の腹の底が熱くなった。


 だが取材帳へは、聞こえた言葉をそのまま書いた。腹が立ったからといって、都合よく聞かなかったことにはできない。


 文治はオルガに言われた通り、北境の控え席から離れた段席に座った。膝に黒い取材帳を開いてから、自分が何をしているのかに気づいた。


 記事にはしない。


 ただ、試合を見失わないために記録するだけだ。


 ラウの記事を書いたときにも、似たような言い訳をした気がした。


 開始を告げる銅板が鳴った。


 低い音が腹へ響き、九人ずつの選手が一斉に動いた。


 陣球では、球を前へ投げることができない。持って進むか、横か後ろの仲間へ渡す。敵陣の最奥へある落城線を越え、球を地面へ置けば五点になる。


 単純な規則だった。


 だが、異なる九つの身体で一つの球を運ぶことは、規則ほど単純ではない。


 北境の最初の攻撃で、ガドが球を抱えた。


 青嶺の二人が腰へ組みつき、もう一人が肩を押す。それでもガドは進んだ。一歩、二歩、三歩。観客がどよめく。


 四歩目で膝をつき、球を胸の下へ抱え込んだ。


「離せ、ガド! 倒れたら球を離さなければならない!」


 オルガの声が飛ぶ。


 ガドは慌てて球を後方へ置いた。だが、ミロが密集の下へ潜り込んだときには、青嶺の足にかき出された後だった。


「俺が入る場所まで塞いで、何が壁役だ!」


 ミロが泥を吐きながら怒鳴った。


 次の攻撃では、ミロが球を出したのに、オルガへの渡し手が振り向いていなかった。球は土の上を転がり、青嶺に拾われた。


 ナージャは味方より先に走りすぎた。球より前へ出た選手は、攻撃へ加われない。戻ろうとした一瞬に相手の切り込みと衝突し、肩から土へ落ちた。


 文治の席まで、体を打つ鈍い音が聞こえた。


 胸の奥が冷えた。けれどナージャはすぐ立ち上がり、口の端についた血を手の甲で拭った。悔しそうに笑っている。耳だけは、頭へ張りつくほど伏せられていた。


 鳥人のキリクは、高く蹴り上げられた球へ飛びついた。左の翼が大きく開く。右は途中で止まり、体が空中で傾いた。


 指先が球をかすめる。


 羽が数枚、陽光の中をゆっくり落ちた。


「無理に上を取るな、キリク! お前の走路は地面に近いところにある!」


 オルガの声に、キリクは歯を食いしばった。


 前半を終えた時点で、青嶺団七点、北境倶楽部五点。


 北境にも一度の落城はあった。だが、それぞれが自分の強さだけで取った五点に見えた。九人いるのに、球を持つ者はいつも一人だった。


 文治は取材帳へ線を引いた。


 連携失敗、七度。


 数字を書いた瞬間、胸が痛んだ。昨夜、オルガは「勝ったところだけを書くな」と言った。ならば、この七度も残すべきなのだろう。


 いつの間にか文治は、記事にするかどうかではなく、何を書くべきかを考えていた。


 後半、青嶺がさらに五点を加えた。


 北境もガドの突破から五点を返し、得点は十二対十になった。だが残り時間は少ない。青嶺は球を抱えて時間を使い、観客席の青旗が勝利を待って揺れていた。


 北境側から飛ぶ声は、もう野次にかき消されそうだった。


 最後の攻撃が始まった。


 球を受けたガドが、青嶺の壁役へ向かう。


 また一人で行くのか。


 文治がそう思った瞬間、ガドはオルガを見た。オルガが右手を低く振る。


 ガドは相手の正面へぶつかった。


 一歩。


 二歩。


 三人に組みつかれても、足を止めない。


 文治は無意識に歩数を書いた。


 九歩。十歩。十一歩。


 ガドの右膝が土についた。


 十二歩目、巨体が肩から崩れる。


 だが今度は、球を抱え込まなかった。倒れる寸前に腕を伸ばし、自分の右膝の後ろへ、そっと球を置いた。


 そこには、ミロ一人が入れるだけの隙間があった。


「遅いんだよ、大馬鹿者!」


 ミロが叫びながら滑り込んだ。


 土と脚の間から球を掘り出し、一呼吸も持たずにオルガへ放る。


 オルガは球を受ける前から、ナージャの位置を見ていた。胸ではなく、彼女が踏み込む半歩先、膝の高さへ球を送る。


 ナージャが低く沈んだ。


 灰色の尾が土を払い、青嶺の切り込みの懐へ入る。肩を当てると見せて、直前に腰をひねった。二人の守備が、彼女へ寄る。


 ナージャは倒されながら、球を外へ転がした。


 誰もいないように見えた。


 次の瞬間、土煙の下から翼が現れた。


 キリクだった。


 翼を半分だけ広げ、地面すれすれを滑っている。高く飛ぶのではない。青嶺の選手が目で追うより低い場所を、風のように抜けていく。


 文治の胸に、別の少年の姿が重なった。


 低翔びのラウ。


 喉の奥が熱くなった。名前を叫びそうになり、文治は唇を噛んだ。走っているのはラウではない。キリクだ。目の前の選手を、過去の誰かへ作り変えてはならない。


「行け、キリク! お前の低さなら、そのまま通れる!」


 オルガの声が球技場を裂いた。


 キリクは青嶺の最後の守備を、翼一枚分だけ外へかわした。


 落城線を越える。


 両腕で球を地面へ押しつけた。


 銅板が鳴った。


 十五対十二。


 一拍遅れて、歓声が爆発した。


 足元の石段が揺れた。知らない男が文治の肩を抱き、獣人の子供が飛び跳ねながら泣いていた。昨日まで誰の名も知らなかったはずなのに、文治も立ち上がり、喉が痛くなるほど声を上げていた。


 ガドが起き上がり、駆け寄ったミロを両腕で持ち上げる。ミロは降ろせと怒鳴りながら笑っていた。ナージャは倒れたまま拳を上げた。キリクは落城した球へ額をつけ、肩で息をしている。


 オルガだけはすぐに笑わなかった。


 九人全員を見回し、一人ずつ無事を確かめた後、ようやく目を閉じた。その顔に浮かんだものを見て、文治の胸が詰まった。


 喜びより先に、安堵があった。


 この男は、勝ちたかったのではない。九人で勝ちたかったのだ。


 文治は震える指で、最後の連携を黒い取材帳へ書いた。


 ガド、十二歩。倒れ際に後方へ球を残す。


 ミロ、一呼吸以内に球出し。


 オルガ、ナージャの半歩先へ配球。


 ナージャ、二人を引きつけ外へ。


 キリク、低翔び。落城。


 書いている間にも、左手中指のペンだこが痛んだ。


 だが、その痛みが嬉しかった。自分は確かに見たのだと、指が教えてくれているようだった。


「待て! その得点を確定するな!」


 青嶺団の控え席から声が飛んだ。


 歓声が、波を引くように小さくなった。


 青い外套を着た監督が競技官へ詰め寄り、北境のガドを指さしている。競技官は眉を寄せ、補佐役から選手名簿を受け取った。


 オルガが九人の前へ立つ。


「試合は終わったはずだ。抗議があるなら、まず内容を聞かせてもらいたい」


「北境の壁役、ガド・バルクは体格二級で登録されている。あの身体が二級の範囲に収まるはずがない。再測定を要求する」


 青嶺の監督の声は、段席までよく通った。


 観客の視線が、一斉にガドへ集まった。


 つい先ほどまで仲間に囲まれていた巨体が、急に一人きりに見えた。ガドは反論せず、自分の肩と腕を見下ろしている。本当に、自分の身体が罪を犯したのか確かめているようだった。


「登録証は試合前に提出した。競技官も出場を認めたではないか」


 オルガの声に怒りが混じった。


「出場を認めたことと、登録が正しいことは別だ。疑義が出た以上、この場で測定する」


 競技官は淡々と答えた。


 ガドの肩幅、胸囲、腕の太さが測られた。金属の測り帯が皮膚へ食い込み、目盛りを読む声が上がるたび、観客席がざわついた。


 文治は、取材帳の角を親指でこすっていた。


 試合前には測らなかったのか。登録はいつ行われたのか。二級と三級の境は何か。測った者によって結果が変わらないのか。


 質問が次々に浮かぶ。


 それより先に、ガドへ声をかけるべきだとも思った。だが文治の口から出そうになったのは慰めではなく、測定時期を尋ねる言葉だった。


 自分の無神経さに嫌気が差し、文治は奥歯を噛んだ。


 測定を終えた競技官が告げた。


「ガド・バルクは三級相当と判断する。北境倶楽部は、出場九人の体格点上限を超過していた」


 北境側から怒声が上がった。


 ナージャの耳が前へ倒れ、尾が激しく土を打った。ミロは競技官へ向かおうとして、仲間に両肩を押さえられている。キリクは何か叫んでいたが、観客の声にかき消された。


 ガドだけが動かなかった。


「俺は、試合に出てはいけなかったのか」


 低い声は、すぐそばのオルガにしか届かないほど小さかった。


 オルガはガドの肩へ手を置いた。


「お前が決めることではない。名簿を受け取って試合を始めたのは、競技院だ」


「でも、俺の身体が大きすぎたせいで、みんなの勝ちがなくなる」


「お前の身体は、さっき十二歩進んで球を残した。それをなかったことにできる奴はいない」


 オルガはそう言った。


 だが競技官の宣告は違った。


「登録不備のある選手が出場していたため、本日の認定試合は不成立とする。両団の得点および勝敗は、公式記録へ残さない」


 十五対十二を示していた得点板から、係員が数字札を外した。


 十五が消えた。


 十二も消えた。


 最後に、両団の名を書いた札まで裏返された。


 白い板だけが残った。


 つい先ほどまで球技場を揺らしていた歓声が、嘘のように静まっていた。風が旗を鳴らす音と、誰かがすすり泣く声だけが聞こえる。


 文治の鼻には、舞い上がった土の乾いた匂いが残っていた。喉には、落城を叫んだ痛みがある。肩には、知らない男に抱きつかれた感触が残っている。


 それなのに、試合はなかったという。


 競技場脇の机では、公報記者がすでに紙へ二行を書きつけていた。


 ――北境倶楽部対青嶺団の認定試合は、出場資格の不備により不成立とする。


 ――したがって、両団の得点および勝敗は記録しない。


 文治は黒い取材帳を見下ろした。


 そこには十五対十二と書かれている。


 ガドの十二歩も、ミロが球を出した一呼吸も、ナージャが引きつけた二人も、キリクの低翔びも残っている。


 公報に残らなかったのではない。


 残さないと、誰かが決めたのだ。


 十六年前の文治なら、怒りのまま記事を書いただろう。そしてまた、自分に都合のよい事実だけを並べたかもしれない。


 今度は、先に確かめなければならない。


 文治は段席を下りた。


 競技官と青嶺の監督と、公報記者。北境倶楽部の選手たち。見た者全員に話を聞く必要がある。


 拒まれるだろう。余所者に関係はないと言われるかもしれない。それでも、聞かずに帰れば、文治までこの試合をなかったことにする側へ回る。


 公報記者が紙を畳もうとした。


 文治はその前に立った。


「その記事を出す前に、確認させてください。ガド・バルクの登録は、いつ、誰が、どの基準で認めたのですか。試合前に有効だった資格が、負けた側の抗議だけで無効になる理由も聞かせてもらいたい」


 相手は、見慣れない服装の文治を怪訝そうに見た。


「お前は何者だ」


 文治は、黒い取材帳の角を親指で一度こすった。


 もう、記者ではないふりをする意味はなかった。


「新聞記者です。この試合を、最初から最後まで見ていました」


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