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第2話 埋められる井戸

汽車が鉄橋を渡るたび、窓硝子が小刻みに震えた。


 浦上文治は、膝に載せた革鞄を両手で押さえていた。中には着替えが一組と、黒、赤、薄茶の取材帳がある。故郷の家を片づけるだけなら、取材帳は一冊も要らない。それでも三冊とも持ってきた自分を、どう言い繕えばよいのか分からなかった。


 井戸を見に行くのではない。


 家に残した荷物を引き取る。それだけだ。


 同じ言葉を胸の中で繰り返すたび、それが言い訳であることだけが、はっきりしていった。


 窓外では、刈り入れ前の田が夕日に照らされていた。風に波打つ稲穂の向こうに、低い山並みが近づいてくる。少年のころには、あの山の向こうに東京があるのだと思っていた。実際には東京はもっと遠く、その遠さに救われて十年も帰らずに済んだ。


 停車場へ降りると、兄が待っていた。


「急に帰ってきたから驚いた。お前のことだから、必要な物は捨ててくれと返事をよこすものだと思っていたよ」


 兄は文治の鞄を受け取ろうとした。文治が断ると、無理には取らず、代わりに顔をしげしげと見た。


「少し痩せたな。新聞記者は、飯を食う暇もないほど忙しいのか」


「飯を食う暇はあります。給金が追いつかないだけです」


「口だけは東京で達者になったらしい。母さんが聞いたら、心配するぞ」


 母という言葉に、胸のどこかが縮んだ。


 親不孝を責められたわけではない。兄は昔から、文治を責めるときほど穏やかに話す男だった。だから文治は、怒鳴られるよりも返す言葉を失ってしまう。


「母さんは、兄さんの家に慣れましたか」


「自分の家ではないと遠慮している。今朝も台所を掃除して、女房に叱られていたよ。今日はお前が帰ると知って、旧宅で待っている」


「わざわざ来なくてもよかったのに」


「それを母さんの前で言ってみろ。私まで一緒に叱られる」


 兄は笑ったが、文治はうまく笑い返せなかった。


 会いたくなかったわけではない。会えば、自分が帰らなかった年月を母の顔に見つけてしまいそうで怖かったのだ。


 停車場から旧宅までの道は、記憶にあるより狭かった。駄菓子を買った店は軒が傾き、用水路には新しい石蓋が載っている。変わった場所より、変わっていない場所の方が文治にはつらかった。道端の地蔵も、曲がり角の柿の木も、十六年前の自分が戻ってくるのを待っていたように見えた。


 旧宅の門前には、荷車の轍が何本も残っていた。


 兄が引き戸を開ける。


「母さん、文治が来たぞ」


 返事より先に、廊下を急ぐ足音がした。


 母は小さくなっていた。


 文治が覚えている母は、叱られる子供の視界いっぱいに立ちはだかる人だった。いま目の前にいる母は、文治の肩にも届かない。髪はすっかり白くなり、頬にも細かな皺が増えていた。


「本当に文治かい。たまにしか顔を見せないから、別の男が来ても分からないところだったよ」


「別の男なら、もう少しましな着物を着てきます。母さんこそ、ずいぶん小さくなりましたね」


「お前が大きくなったんだよ。子供というのは、自分の方が変わったくせに、親が変わったような顔をする」


 母の声は変わっていなかった。


 それだけで、文治は危うく泣きそうになった。十年分の詫びを一度に口にすることはできず、代わりに土産の包みを差し出した。


「新橋で買った菓子です。母さんにも食べられる、柔らかいものにしました」


「歯がなくなったように言わないでおくれ。それでも、ありがたくいただくよ」


 母は包みを受け取り、大事そうに胸へ抱えた。


 家の中は、文治の記憶よりも広く、そして寒々しかった。


 箪笥も長持も運び出され、畳には家具の跡だけが四角く残っている。柱の傷を見ると、いつ、何をしてつけたものか思い出せた。忘れたつもりでいた暮らしが、空になった家のあちこちから勝手に立ち上がってくる。


「お前の物は奥の部屋へまとめてあるよ。帳面ばかりで、何が大事なのか私には分からなかったから、捨てずに置いておいた」


「助かります。自分で見て、いらない物は処分します」


「裏の井戸も見ておくかい」


 何でもない調子で母が言った。


 文治は返事をするまでに、ほんの少し間を空けてしまった。そのわずかな沈黙を、兄は聞き逃さなかったらしい。文治の顔を横からうかがった。


「手紙にも書いただろう。予定の日に職人が来る。危ないから、石と土を入れて塞ぐことになった」


「覚えています。埋めることに異存はありません」


 思っていたより、平静な声が出た。


「本当にいいのか。お前は子供のころ、あの井戸をずいぶん気にしていただろう」


「子供が古い穴を面白がっていただけです。今さら残しても、誰かが落ちる危険しかありません」


「それならいい。買い手も、小さな子がいるから心配している」


 兄の言うことは正しかった。


 誰かが落ちる前に埋めるべきだ。誰かが向こう側へ迷い込む前に、道をなくすべきだ。文治自身、十六年前にはそう考えて板を打ちつけた。


 正しい判断を聞いているのに、胸の内側を少しずつ削られているようだった。


 母が、懐かしそうに目を細めた。


「あの井戸の底には町があると、お前は何度も言っていたねえ。羽のある子と友達になっただの、見たこともない球遊びをしただの。熱でもあるのかと心配したものだよ」


「子供の空想です。よく覚えていますね」


「母親は、子供が忘れてほしいことばかり覚えているものだよ。ある日から急に井戸へ近づかなくなったことも、夜中に一人で板を打ちつけたことも覚えている」


 釘を打つ音が、頭の奥によみがえった。


 一度打つたび、もう行かないと決めた。二度打つたび、もう書かないと決めた。それでも手が震えて、釘は何本も曲がった。


「母さん。あのとき、どうして私に理由を聞かなかったのですか」


「聞いたよ。でもお前は、何でもないと言った。何でもないと言い張る子供から無理に聞き出しても、本当のことは話さないだろう」


 母は文治の顔を見上げ、困ったように笑った。


「今なら、話してくれるのかい」


 文治は口を開いた。


 井戸の向こうに街がある。そこでラウという少年と出会った。自分が書いた記事のせいで、その家族を危険にさらした。


 そう言えばよい。


 だが、十六年間言えなかったことが、正しい言葉にしただけで口から出てくるはずもなかった。


「いいえ。やはり、子供の空想です」


「そうかい」


 母はそれ以上尋ねなかった。


 その優しさに、文治は救われるより苦しくなった。


     ◇


 日が暮れる前に、母と兄は帰っていった。


「明日の朝、また来る。一人で無理に片づけるなよ」


 兄はそう言い残した。文治は「分かっています」と答えたが、分かっていると答えたことを守ったためしは少ない。


 空になった家で一人、奥の部屋に積まれた荷を調べた。


 子供のころの教科書。欠けた硯。紐で束ねられた習字紙。どれも捨ててよいはずなのに、手に取るたび、何かを見落としている気がして脇へよけた。


 行李の底から、四つ折りの紙が出てきた。


 開かなくても分かった。


 少年の文治が書いた、最初の記事だった。


 指先が紙の端に触れたまま動かなくなる。読めば、ラウの顔を細部まで思い出す。笑ったときの目も、低く飛ぶ前に翼を震わせる癖も、最後に文治へ向けた声も。


 文治は紙を開かず、黒い取材帳の間へ挟んだ。


 捨てられなかった自分に腹が立った。捨てたところで償いにはならないと考えた自分には、もっと腹が立った。


 やがて、裏山の方から風が下りてきた。


 庭木がざわめいた。その音に混じり、何かが聞こえた気がした。


 文治は顔を上げた。


 耳を澄ます。


 家は静まり返っている。鼠が天井裏を走る音さえしない。


「聞こえるはずがない」


 口に出した途端、確かめずにはいられなくなった。


 提灯へ火を入れ、物置から麻縄と金槌を持ち出した。革鞄も肩に掛ける。家財の整理に取材帳はいらない。井戸の様子を見るだけなら、なおさらいらない。


 それでも置いていくことはできなかった。


 裏山の小道は草に覆われていた。提灯の明かりが届くたび、虫が足元から飛び立つ。土の匂いは昔と同じだった。文治の体だけが二十八歳になり、子供の足なら駆け上がれた坂で息が切れた。


 雑木の間に、低い石囲いが現れた。


 古井戸は、まだそこにあった。


 井戸口には板が三枚渡され、その上から細い木が何本も打ちつけられている。苔と落ち葉に覆われていたが、文治には、自分が打ち損じた釘の位置まで分かった。


 提灯を石囲いの上へ置く。


 手を伸ばしかけ、止めた。


 ここで引き返せばよい。明日、兄と荷物を片づけ、東京へ戻る。数日後には職人が井戸を埋める。それで北境市は再び、子供の空想になる。


 ラウがどうなったのかも、知らずに済む。


 知らずに済むという言葉に、文治は自分でも驚くほど安堵した。


 ラウが無事だったなら、十六年間探さなかった自分を恥じなければならない。もし無事でなかったなら、その原因が自分の記事だったという疑いから、もう逃げられない。


 どちらにしても、確かめれば今までの暮らしには戻れない。


 文治は、板の上に積もった落ち葉を手で払った。


 そのときだった。


 井戸の底から、かすかな声が上がってきた。


「……球を……離せ……!」


 文治の呼吸が止まった。


 日本語ではない。


 十六年間、一度も使わなかった街道共通語だった。それでも意味は、考えるより先に胸へ飛び込んできた。


「右が空いている! 持ちすぎるな!」


 別の声が続いた。


 遠い。だが、空耳ではない。観客のざわめきと、何か硬いものを打ち鳴らす音まで聞こえる。


 あの街は残っている。


 自分が逃げた後も、人々は暮らし、球を追い、歓声を上げていた。


 文治は胸を突かれたような痛みを覚えた。自分の罪悪感の中で止まっていた北境市が、向こうでは十六年分の時を生きていた。その当たり前のことを、今まで一度も想像しなかった。


 金槌の爪を釘の頭へ差し込んだ。


「音の正体を確かめるだけだ。私は記者なのだから、聞いたものを聞かなかったことにはできない」


 誰に向けたわけでもない弁解が、夜の木立へ消えた。


 一本目の釘は、錆びて途中で折れた。


 二本目は、板ごと持ち上がった。


 十六年前の自分が必死に閉ざした道を、二十八歳の自分が壊していく。板を外すたび、胸の奥に押し込めていた恐れまで、冷たい夜気にさらされていった。


 最後の板を横へずらす。


 丸い闇が口を開けた。


 文治は近くの太い木へ麻縄を二重に結び、何度も体重をかけて確かめた。提灯を腰へ下げ、革鞄の紐を肩へ巻きつける。


 井戸の縁へ足を掛けると、膝が震えた。


 怖いのは高さではない。


 底へ着いたとき、あの街が本当にあることだった。


 あるいは、もうなくなっていることだった。


 どちらを望んでいるのか、文治自身にも分からなかった。


 縄を握り、一歩ずつ下りた。


 地上の虫の声が遠ざかる。提灯の明かりが、湿り気のない石壁を丸く照らした。井戸は涸れたままだった。水音はしない。聞こえるのは縄が軋む音と、自分の荒い息だけである。


 やがて足が、乾いた土へ触れた。


 文治は縄から手を離し、腰の提灯を外した。井戸の底は、人が二人も立てば肩が触れそうな広さしかない。崩れ落ちた土と小石の間に、平たい乳白色の石が半ば埋まっていた。


 日本の井戸を掘った者なら、ただの岩盤だと思っただろう。


 だが文治は、その石の下に水がないことも、その先にもう一つの井戸があることも知っていた。


 しゃがみ込み、積もった土を袖で払う。白い石の表面には、文字とも亀裂ともつかない細い筋が走っていた。


 触れれば、戻れなくなる気がした。


 縄をつかみ直せば、まだ地上へ帰れる。兄にも母にも、井戸はやはり涸れていたと言えばよい。十六年前のことも、いずれ土の下へ埋まる。


 そのとき、頭上ではなく、足元の石から声が響いた。


「走れ! 右が空いている!」


 文治は息をのみ、乳白色の石へ手を置いた。


 掌の下で、細い筋に淡い青色の光が走った。


 落ちる感覚はなかった。体が裏返ることも、足元が揺れることもない。ただ一度、提灯の火が大きく細長く伸び、井戸の中からすべての音が消えた。


 文治は顔を上げた。


 井戸口に切り取られた丸い空が、変わっていた。


 日本の黒い夜空ではない。群青色の空に、薄い雲が青白く光っている。縁からのぞいていた杉の枝も消えていた。見慣れた黒石の壁は、いつの間にか白い石積みに変わり、先ほどまで背後に垂れていた麻縄もない。


 文治は同じ姿勢のまま、北境市側の井戸の底に立っていた。


 足の裏は、変わらず固い石を踏んでいる。


 それを確かめて、ようやく息を吐いた。理屈など知らない。少年のころから、この石は二つの井戸の底をつないでいた。触れる前と触れた後で、世界だけが入れ替わる。


 内壁には、手足を掛けられる窪みが互い違いに刻まれている。提灯を掲げても井戸口までは届かないが、上方から淡い青色の光と、途切れない歓声が降ってきた。


 文治は白石の窪みに足を掛けた。


 腕が重い。指が滑る。十二歳のころには何度も上り下りしたはずなのに、いまは一段ごとに息が切れた。それでも、上から降ってくる声が文治を急かした。


「左へ回せ! そこなら通る!」


「残りはないぞ。これが最後だ!」


 陣球だ。


 忘れたことなど、一度もなかった。


 文治は井戸口の縁へ腕を掛けた。土と枯れ草の匂いに、嗅いだことのない香辛料と獣の匂いが混じっている。


 顔を出す。


 崩れかけた石の祠。その向こうに連なる、異形の家々。角灯の明かり。夜空を横切る、翼のある人影。


 十六年ぶりの北境市が、そこにあった。


 そして城壁の方角から、地鳴りのような歓声が押し寄せた。


「落城だ!」


 文治の手は、考えるより先に革鞄の中へ伸びていた。


 指先が、黒い取材帳に触れた。


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