第1話 消された試合
勝ったはずの試合が、翌朝には、なかったことになっていた。
北境市の競技公報には、たった二行しか載っていなかった。
――北境倶楽部対青嶺団の認定試合は、出場資格の不備により不成立とする。
――したがって、両団の得点および勝敗は記録しない。
浦上文治は、その二行を三度読んだ。
読み違えたわけではない。文字は消えもしなければ、別の文へ変わりもしない。いくら目を凝らしても、紙に書かれているのは同じことだった。
不成立。
昨夕、あの球技場を震わせた歓声も、泥にまみれて抱き合った九人も、最後に決まった五点の落城も、その一語できれいに消されていた。
「そんなはずがあるか」
口からこぼれた声は、自分でも情けなくなるほど弱かった。
公報を握る指に力が入り、薄い紙が音を立てた。文治は慌てて手を緩めた。腹立ちまぎれに紙を破れば、消された記録を自分まで粗末に扱うことになる気がした。
黒い取材帳を開く。
青嶺団、十二点。北境倶楽部、十五点。
最後の落城。時刻。球をつないだ選手。判定を告げた競技官。抗議を始めた青嶺団の監督。見た順に、すべて書いてある。
紙に残らなかったのではない。
残さないと、誰かが決めたのだ。
そのとき文治は、まだ知らなかった。
自分がこの夜、一人の印刷工と新聞を作ることも。その新聞が北境市の朝を騒がせることも。そして、十六年前に置き去りにした友の名を、もう一度思い出すことも。
◇
十日前。
大正十年、初秋。新橋の午後は、往来を行く人と車でせわしなかった。
東都夕報社の二階では、開け放った窓から市電の鐘が入り込み、机の上の紙を細かく震わせていた。階下からは原稿を運ぶ給仕の足音が絶えず聞こえる。誰かが呼び、別の誰かが怒鳴り返し、その間を鉛筆の音が走っている。
文治は窓際の机に向かい、地方欄へ回す火事の記事を清書していた。
焼けたのは物置一棟。負傷者なし。出火は午前二時ごろ。原因は、消し残した炭火らしい。ただし、家人の証言だけで確定はできない。
黒い取材帳に事実を、赤い帳面に未確認の話を記し、薄茶の帳面には現場で感じたことを書く。三冊を使い分けるのは、駆け出しのころからの癖だった。
事実と推測は、机の上で隣り合っているうちに、よく似た顔になる。だから、初めから住む場所を分けておかなければならない。
そう自分に言い聞かせてきた。
「浦上。いつまで物置を燃やしているんだ。社が焼ける前に五段でまとめろ」
斜め向かいから声をかけたのは黒瀬だった。椅子の背に上着を引っかけ、紙巻きを耳に挟んでいる。煙草を吸う暇もないくせに、耳に一本ないと落ち着かない男である。
「物置はもう消えています。私が燃やしているのは原稿だけです」
「それなら、なお悪い。紙は会社のものだぞ」
「火元を家人の不始末と断定するなと言ったのは黒瀬さんでしょう。断定を避けながら読める記事にするには、少し時間が要ります」
「お前は犬の喧嘩にも両方の言い分を聞きそうだな。夕刊は、犬が仲直りするまで待ってくれないぞ」
「噛まれた方だけに聞けば、もう片方が狂犬にされます。犬の記事なら、それでも困るのは飼い主くらいでしょうが、人間の記事では済みません」
黒瀬は何か言い返しかけ、やめた。代わりに耳の煙草を指先で回し、文治の机を見下ろした。
「相変わらず面倒な男だ。だが、面倒でなくなったら、お前の記事は読むところがなくなるな」
褒められたのか、からかわれたのか分からない。文治は返事をせず、原稿の最後に句点を打った。
右手の中指には、長年のペンだこが固く盛り上がっている。鉛筆を置いてそこを押すと、鈍い痛みが返ってきた。その痛みだけは、自分が新聞記者になった年月を裏切らなかった。
十八で東京へ出て、十年。
記事に名が載るようになっても、文治は自分が本物の記者になったという確信を持てずにいた。
見たことは書く。見なかったことは書かない。
それだけは守ってきた。けれど、その当たり前の決まりを自分に課した理由を、誰にも話したことはない。
「浦上さん、郷里からです」
給仕の少年が、机の隅へ封書を置いた。
差出人を見た瞬間、文治の指が止まった。
兄の名だった。
盆にも正月にも帰らない弟へ、兄が手紙をよこすことはめったにない。父を亡くした知らせの一通だけは、いまも箪笥の奥にしまってある。
「ずいぶん怖い顔をするな。借金の催促か?」
黒瀬がのぞき込んでくる。
「兄からです。実家のことだと思います」
「実家なら借金よりましだろう。家族は、利息まで取らん」
「黒瀬さんのご実家では、そうなのですか」
「うちは利息の代わりに恩を着せる。勘定が曖昧なぶん、金貸しより始末が悪い」
軽口を返されても、文治は笑えなかった。
封の糊へ爪を差し込む。紙が裂ける音が、周囲の喧騒から妙にはっきり浮き上がった。
手紙は短かった。
長く空けていた家を売ることにしたこと。買い手が決まり、家財の整理を始めたこと。文治の荷も残っているため、必要なものがあれば引き取りに来てほしいこと。
どれも、いずれそうなると分かっていた話だった。
文治は一行ずつ読み、胸の内に湧いてくるものを押し戻した。あの家にはもう誰も住まない。東京に暮らす自分が反対できる筋合いではない。寂しさなど、十六年も帰らなかった者が口にしてよい感情ではなかった。
最後の一行を読むまでは。
――裏庭の古井戸は危ないので、十日後、家屋を渡す前に埋める。
市電の鐘が鳴った。
編集部の誰かが、次の版の締め切りを叫んだ。
すぐ横を給仕が駆け抜け、机の紙が風でめくれた。
それなのに文治には、あたりの音が遠くなったように感じられた。
古井戸。
兄は、涸れて使えなくなった井戸だと思っている。父も母もそう思っていた。底に立って見上げれば丸い空が見える、ただ深いだけの穴だと。
違う。
あの井戸の底には、別の空へ続く道がある。
白い石壁の向こうに、鳥人が飛び、角のある商人が声を張り、九人の選手が一つの球を追う街がある。
そして、文治が自分の記事で傷つけた少年がいた。
記憶の中で、翼の小さな背中が振り返った。
ラウ、と名を呼びかけ、文治は奥歯を噛んだ。
思い出してはならない。そのために井戸へ板を渡し、自分の手で釘を打ったのだ。北境市も、ラウも、そこで起きたことも、二度と見なければ忘れられると思った。
忘れたのではなかった。
思い出さずに済む場所まで逃げただけだ。
「どうした。誰か亡くなったのか」
黒瀬の声には、もう先ほどまでの軽さがなかった。
文治は顔を上げた。手紙を持つ指が震えている。慌てて机の下へ隠したが、見られた後では遅かった。
「井戸を埋めるそうです」
「井戸?」
「実家の裏に古い井戸があります。子供のころ、よくそこで遊びました」
嘘ではない。だが、本当のことでもなかった。
見たことは書く。見なかったことは書かない。
そんな信条を口にしながら、自分の過去については、見たものさえ誰にも話さなかった。
黒瀬はしばらく文治を見ていたが、やがて机上の火事原稿を取り上げた。
「この原稿は俺が整理へ回しておく。家が売られるなら、今日にでも発て。田舎の古井戸が大事件を隠していないとも限らんからな」
「締め切り前に記者を追い出してよいのですか」
「物置一棟よりましな記事を拾って戻ればよい。手ぶらなら、東京じゅうの犬の喧嘩を調べてもらう」
「両方の犬に聞くので、時間がかかりますよ」
「だったら、なおさら記事を持ち帰れ」
文治はようやく、わずかに笑った。
笑えたことに安堵したのも一瞬だった。手紙を折り畳むと、十日後という文字が、折り目の内側へ消えた。
井戸が埋まれば、北境市への道は閉ざされる。
それでよいはずだった。十六年前、自分が望んだ結末である。二度と行かず、二度と書かず、二度と誰も傷つけない。その約束を、土が代わりに守ってくれる。
それなのに胸の奥では、忘れたはずの歓声が、かすかによみがえっていた。
球を離せ。
右が空いている。
走れ、ラウ。
文治は三冊の取材帳をつかみ、革鞄へ入れた。黒、赤、薄茶。その上へ兄の手紙を重ねる。
帰るのは、井戸が本当に涸れたか確かめるためだ。
そう理由をつけなければ、席を立つことができなかった。
だが、胸の底では分かっていた。
確かめたいのは井戸ではない。
十六年前、自分が置き去りにしたものが、まだ向こう側に残っているかどうかだった。




