第10話 九人と二人の祝杯
夕刻を告げる鐘が鳴ったとき、フェル印刷工房の作業台には、一枚の新聞も残っていなかった。
代わりに、大小二十枚の銅貨が積まれていた。
油じみたもの。縁の欠けたもの。握った手の汗がまだ残っていそうなもの。ティナ・フェルは一枚ずつ布で拭い、机の上へ十枚ずつ二列に並べた。銅貨が触れ合うたび、乾いた音がした。
浦上文治は、その音を聞きながら、何度目か分からない勘定をした。
「二十枚ですね。本当に、二十枚すべて売れたのですね」
「さっきから三度数えた。あんたが横から見ていた分も合わせれば、少なくとも五度は確認している」
ティナは最後の銅貨を親指で弾き、列の端へ揃えた。
「ただし、これを全部もうけだと思うな。紙代と墨代を引けば、残るのは次の紙を仕入れる金と、固いパンが二つほどだ。新聞で腹が膨れると思ったら大間違いだぞ」
「分かっています。それでも、銅貨を払って読んだ人が二十人いる。回し読みした人や、広場で読み上げを聞いた人は、もっといるでしょう」
文治は市場の光景を思い返した。
水売りの老女が、買ったばかりの第一号を樽の脇へ広げていた。文字の読めない荷運び人が肩越しにのぞき込み、老女が記事を声に出して読む。十五対十二という数字が読み上げられると、荷運び人は太い指を紙へ押し当てた。
――俺も、あそこにいた。
そう言って、北境倶楽部の選手名を最初から読ませていた。
最後の一枚を買ったのは、競技場で球拾いをしている少年だった。銅貨を三人で出し合い、紙を三つに切って分けてもよいかとティナへ尋ねた。
ティナは、切れば記事が読めなくなると答えた。その代わり、三人の名を紙の裏へ書き、持ち回りで読む順番まで決めてやった。
紙は薄い。雨に濡れれば破れ、火へ入れれば一息で灰になる。
それなのに、持ち主が三人もできた。
文治は胸の奥が熱くなるのを感じた。疲労のせいだと思おうとしたが、無理だった。昨夜からほとんど眠っていない身体とは違う場所が、落ち着きなく震えている。
「ティナさん。私たちは今日、この町に新聞を一つ作ったのですね」
口にすると、声が思った以上に掠れた。
「昨日も作っただろう」
「昨日は、消された試合を取り戻すための号外でした。今日は違う。誰かが自分の銅貨を出して、次も読みたいと言ってくれた。これはもう、私たちが勝手に書いているだけの紙ではありません」
言葉を続けるほど、目の奥が痛んだ。
東京では、何千何万という新聞が毎日刷られている。その中へ自分の記事が載っても、文治の手に残るのは切り抜きと原稿料だけだった。読者の顔など知らない。読者も、書いた男の顔など知らない。
ここでは、一枚目を買った老女の手も、最後の一枚を抱えた少年の息遣いも見えた。
「困りました。私は今、たった二十枚のことで、泣きそうなくらい嬉しい」
文治が正直に言うと、ティナは銅貨から顔を上げた。
からかわれると思った。
しかし彼女は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「泣くのは、二十一枚目を刷れると決まってからにしろ。涙で紙を濡らされると、乾かす手間が増える」
「あなたは、もう少し人を素直に喜ばせる言い方を覚えてもよいと思います」
「文章なら直してやる。感情まで読みやすく組み直すつもりはない」
そのとき、工房の扉が三度、強く叩かれた。
返事をするより先に扉が開き、冷たい風と一緒にミロ・セムが入ってきた。
「売り切れたそうだな。だったら、今夜くらい印刷機を休ませろ。働き者の機械が、持ち主に似ず過労で倒れるぞ」
「扉を開ける前に、入ってよいか尋ねる礼儀を覚えたらどうだ」
「尋ねて断られたら、また開ける手間がかかる」
ミロの背後から、ガド・バルクの大きな影がのぞいた。その腕には、布を巻いた深鍋が抱えられている。鍋の左右から突き出した取っ手が扉の枠へ引っかかり、ガドは困ったように身体を横へ向けた。
身体は通った。鍋は通らなかった。
「ガド、鍋を縦にするなよ。中身を全部こぼしたら、お前を代わりに煮るからな」
ミロが言うと、ガドはますます動けなくなった。
「では、どう入ればいいでしょう。俺が先でも鍋が先でも、どちらかがつかえます」
「いったん外へ出て、鍋だけ俺に渡せ。お前は自分の肩幅を、そろそろ覚えろ」
「測るたびに違う等級を言われるので、覚えない方がよいのかと思っていました」
一瞬の沈黙のあと、ミロが吹き出した。
ガド自身も、気まずそうに笑った。
試合を消した体格級の話を、まだ笑い飛ばせるはずはない。それでも、彼が自分から冗談にしたことで、文治の胸を締めつけていたものが少しだけ緩んだ。
外には北境倶楽部の選手たちが揃っていた。
オルガ・レンは黒パンを積んだ籠を持ち、ナージャ・セレンは香草をまぶした焼き肉の包みを抱えている。セラ・ヴェルンは湯気の立つ平鍋を両手で支え、ドニ・ハルバは焼いた根菜を布へ包んでいた。
リオ・カランの肩には酒の小樽が載っている。その後ろで、キリク・アーヴが干した果実の袋を指先に引っかけていた。最後尾のカヤ・リントは、欠けた椀をいくつも重ね、崩れないよう顎で押さえている。
「これは、どういう取材でしょうか」
文治が尋ねると、ナージャの耳が前へ傾いた。
「新聞記者は、食事へ誘われても質問から始めるのか。地方リーグへ出られることになった祝いだよ。あんたたちも来るんだ」
「私たちは北境倶楽部の者ではありません」
「だから何だ。私たちだけで飲んだら、明日の新聞に『選手九人、記者を除け者にして酒宴』とでも書くつもりか」
「そのような悪意のある見出しはつけません」
「なら、来ればいい。話が早い」
ナージャは答えを待たず、ティナへ焼き肉の包みを押しつけた。
ティナは受け取りながら、オルガを見た。
「私は工房を閉める。売上の銅貨は一枚も酒代に使わない。それでよければ行く」
「最初から当てにしていない。リオが樽へ水を足していなければ、今夜の酒は足りる」
「ひどい疑いだな。俺は運ぶ途中で中身を確かめただけです。減った分まで水を足したから、量は合っています」
「それを水で薄めたと言うんだ」
オルガが眉間を押さえると、笑い声が狭い路地へ広がった。
文治は、その輪の外で立ち尽くしていた。
誘われている。断る理由はない。それなのに、足が前へ出なかった。
この人々の笑い方を知ってしまえば、次に都合の悪い事実を見つけたとき、手が鈍るかもしれない。記事を書けば誰が傷つくのか、顔を思い浮かべてしまう。
思い浮かべずに書いた記事が、十六年前、ラウと家族を追い詰めた。
今度は思い浮かべながら、それでも書くことになるのかもしれない。
それが、ひどく怖かった。
「浦上」
オルガが呼んだ。
「来るのか、来ないのか。どちらでも構わないが、黙って立っていれば相手が察してくれると思うな」
文治は、取材帳の角を親指でこすった。
「私は……あなたたちの側へ座るのが怖いのです」
笑い声が止まった。
言ってしまった以上、もう曖昧にはできなかった。
「ここで一緒に食べて、あなたたちの好きな味や、酒に酔った顔まで知ってしまったら、次に書くべきことを見つけたとき、書けなくなるかもしれない。あるいは、もっと悪い。親しい顔を知りながら、記事のために書くかもしれない。私は昔、それで友人を傷つけました」
喉が乾いていた。
文治は唾を飲み込み、胸の中で絡まっていたものを、無理に言葉へ変えた。
「私は、また同じことをするかもしれない。それでも皆さんの輪へ入って、仲間のような顔をしてよいのか、自分では分からないのです」
オルガはすぐには答えなかった。
ガドの鍋から漏れる香辛料の匂いと、夕暮れの冷たい空気が混じっていた。遠くで荷車の車輪が石を踏み、鳥人の子どもたちが屋根の上を駆けていく音がした。
「外に立っていれば、誰も傷つけずに済むのか」
やがて、オルガが言った。
「あんたは俺たちのことをよく知らないまま号外を書いた。それでも俺たちは助かった。これから俺たちを知れば、書く手が鈍ることもあるだろう。反対に、知っているつもりになって、勝手な意味をつけることもあるかもしれない」
その声には、慰めるような柔らかさはなかった。
だからこそ、文治は目を逸らさずに聞けた。
「だが、今日ここで飯を食わなかったからといって、あんたの記事が正しくなるわけではない。俺たちも、記事に不満があれば言う。あんたが書くべきだと思ったなら書け。その代わり、間違えたら俺たちの前へ戻ってこい。井戸の向こうへ逃げて、正しかったふりをするな」
十六年前、板で塞いだ井戸の暗さが、文治の脳裏に浮かんだ。
あのとき自分は、ラウに謝らなかった。何が起きたのか最後まで見なかった。ただ怖くなって道を塞ぎ、二度と降りなかった。
「戻ってこい」と言われたことが、胸の最も痛い場所へ触れた。
「もし、戻ってきた私を、あなたたちが許せなかったらどうしますか」
「許すとは言っていない」
オルガはきっぱり答えた。
「腹が立てば追い出す。だが、追い出される前から逃げるなと言っている」
隣で、ティナが小さく息を吐いた。
「面倒な男だと思っていたが、自分が人を傷つけるかもしれないと考えられる程度には面倒だったらしいな。安心した」
「それは、慰めているのでしょうか」
「私は文章を直す職人だ。慰める仕事は請け負っていない。あんたが妙な記事を書けば、刷る前に止める。勝手に逃げれば、井戸まで追いかける。だから今は来い。料理が冷める」
文治は目を閉じた。
嬉しかった。
その嬉しさが、怖かった。
失いたくないものを持てば、判断を誤るかもしれない。だが、失うのが怖いから最初から何も持たないという選び方を、文治は一度している。その結果、十六年もの間、自分の中には空いた井戸のような場所が残った。
「困りましたね」
文治は、誰にともなく呟いた。
「私は今、嬉しいのに、ひどく怖い。ここへ行ったら、皆さんを失いたくなくなる。それでも……もう一度、外へ逃げる方が、もっと怖い」
ティナが文治の背を押した。
「その長い独り言が終わったなら、戸締まりを手伝え」
◇
宴の場所は、北境倶楽部の練習場に隣接した用具小屋だった。
土のついた球、革の防具、補修を待つ旗縄が壁際へ積まれている。天井は低く、ガドは首を曲げなければ梁へ頭をぶつけた。セラも角の先が木へ触れないよう、壁際へ座るとき慎重に顎を引いた。
二つの低い卓を並べ、その上へ料理が置かれた。
深鍋の蓋を開けると、白い湯気が一斉に立ちのぼった。煮込まれた肉と根菜、香辛料の濃い匂いが、汗と革の染みついた小屋を満たす。焼いた黒パンの香ばしさ、焦げた脂、潰した香草の青い匂い。そのすべてが混じり、文治の空腹を容赦なく刺激した。
「椀が足りないんじゃないか」
キリクが卓の上を数えた。
「九つしかない。記者と印刷屋を呼んだのは、料理を運ばせるためだったのか」
「よく見ろ。残りはあちらにある」
ドニが顎で示した。
用具棚の上に、二つの椀が重ねて置かれていた。ほかの九つと同じく、縁が欠け、何度も火へかけたように黒ずんでいる。
オルガはそれを取り、文治とティナの前へ一つずつ置いた。
「競技場へ立つのは九人だ。だが、あの十五点を残したのは九人だけではない。二人とも、いつまで客の顔をしているつもりだ」
文治は、目の前の椀を見つめた。
新品ではない。飾りもない。誰かが長く使ってきたため、木目が指の形になめらかに磨かれている。
それが自分の前に置かれたことが、新聞を二十枚売ったことよりも、信じがたかった。
「私は、皆さんを助けたつもりではありません」
ようやく出た声は、また掠れていた。
「試合を見て、書かずにいられなかっただけです。自分のために書いたところも、きっとあります」
「知っている」
オルガが答えた。
「だから仲間になれと言っているわけではない。今夜、同じ卓で食えと言っている。先のことまで一度に決めようとするな」
「主将は、時々ひどく難しいことを簡単そうに言いますね」
「指図役だからな。難しそうに言えば、球を受ける前に試合が終わる」
文治は椀へ両手を添えた。
木肌に残る熱が、冷えた指へゆっくり染み込んできた。
「ありがとうございます。今夜は、ここにいさせてください」
頭を下げると、ナージャが酒杯を持ち上げた。
「それでは、ようやく始められる。正式参加に乾杯、と言いたいところだけれど、それでは競技院から恵んでもらったみたいで気に入らない」
「なら、次の勝利にすればいい」
カヤが言った。
彼女は自分の前へ転がってきた木杯を、床へ落ちる寸前で静かに受け止めた。
「次は、公式記録に残る」
オルガが全員を見回した。
「取り消された十五点は忘れない。だが、いつまでも失った勝利だけを抱えて試合はできない。次は、誰にも消せない一勝を取る。その一勝に」
十一の杯が上がった。
「誰にも消せない一勝に」
声が重なり、杯のぶつかる音が低い天井へ弾けた。
文治も酒を口へ含んだ。酸味と苦味の強い酒だった。喉へ落ちると、腹の底が一気に熱くなった。
「浦上さん、顔が赤くなっています。まさか、一口で酔ったのですか」
ガドが心配そうに身を屈めた。
「これは酒のせいではありません。少し、胸がいっぱいになっただけです」
「だったら飯を入れる隙間を作れ。胸がいっぱいでも、腹は空くだろう」
ミロが黒パンをちぎり、文治の椀へ放り込んだ。
「それから先に言っておくが、今日のことを『小さな椀に大きな友情』などと書いたら、工房の活字を全部井戸へ捨てる」
「その見出しは、今初めてあなたから聞きました。責任を持って、ミロさんの発案として記録しましょう」
「ほら、もう帳面へ手を伸ばしている。こいつから鉛筆を取り上げろ」
文治の指が黒い取材帳へ触れるより早く、ティナの手がその上へ重なった。
「今夜まで記事にする気か。少しくらい、書かずに人の輪へ入れ」
「しかし、今のやり取りは残しておかないと、明日には言葉の順番を忘れます」
「忘れたら、ここにいる十人へ聞けばいい。十人とも違う答えをするだろうが、その方が宴会の記憶としては正確だ」
文治は反論しかけ、口を閉じた。
記憶は紙に書かなければ消える。ずっと、そう思ってきた。
けれど、同じ夜を覚えている者が十人いるなら、明日、尋ね直すことができる。自分一人の帳面だけが、出来事を残す場所ではない。
それは記者としては頼りない考えに思えた。それでも今夜だけは、その頼りなさへ身体を預けてみたかった。
「分かりました。今夜は書きません」
「本当に分かった顔ではないな」
「書かない代わりに、よく見て、よく聞いておきます。それくらいは許してください」
「食べながらなら許す」
ティナは取材帳を自分の背後へ隠した。
鍋の中身が次々に椀へよそわれた。
ガドは自分の分より先にミロの椀へ肉を入れ、ミロから「子ども扱いするな」と叱られた。リオは薄めた酒を自分だけ濃いふりをして飲み、ナージャに匂いで見破られた。キリクとカヤは、明日の練習でどちらが先に蹴球の落下地点へ入れるかを言い争っている。
「高く飛んで先へ取れば、落下地点を読む必要なんてない」
「球は最後には土へ戻る。飛んでいる間に、私は先へ行く」
「俺が先に球を取れば、お前の待っている場所には落ちない」
「それなら、取ってから言えばいい」
カヤは淡々と肉を噛み、キリクだけが顔を赤くした。
セラは騒ぎを聞きながら、パンへ香草を挟んでいた。ドニが「次の試合では相手の壁を潰す」と口走ったリオへ、静かに首を振る。
「倒すんだ。潰すんじゃない。試合が終わった後、相手も自分の足で帰らなければならない」
「言葉の勢いですよ。ドニさんは酒の席でも真面目だな」
「酒を飲んだからといって、戦と競技の違いまで曖昧にするな」
声は穏やかだったが、リオはすぐに杯を下げた。
叱られた者が黙り込まず、叱った者も得意な顔をしない。少し間を置いて、ガドが鍋を差し出す。会話はそれで次へ進んだ。
この人々は、何もかも分かり合っているわけではない。種族も身体も、考え方も違う。言い争いもするし、相手が傷つく言葉も口にする。
それでも同じ鍋から食べ、次の球を誰へ渡すか考えている。
文治は、その不格好さを美しいと思った。
美しいと書けば、オルガに怒られるだろう。
そう考えると、口元が緩んだ。
「何を一人で笑っているんだ」
ティナに尋ねられ、文治は首を振った。
「記事にしないと約束したので、言いません」
「急に約束を都合よく使うな」
◇
鍋が半分ほど空いたころ、文治は革鞄の底に母の包みがあることを思い出した。
布包みを開くと、塩と赤紫蘇の鋭い匂いが立った。
最初に反応したのはナージャだった。鼻先を近づけた途端、耳が後ろへ倒れる。
「何だ、これは。食べ物の匂いではあるが、鼻の奥が痛い」
「日本から持ってきた梅干しです。塩漬けにした実で、腐っているわけではありません」
「昨日も同じ説明を聞いた。まず、あんたが食べろ」
ティナは疑い深い目で包みを見た。
文治は一粒を取り、口へ入れた。
歯を立てた瞬間、強い酸味が舌の両側を刺した。唾があふれ、疲れていた頭の芯まで一気に目が覚める。
懐かしい味だった。
母が土間で包みを差し出したときの、心配を隠そうとする顔が浮かんだ。兄の、不器用な怒鳴り声も思い出した。
井戸の向こうにも、自分を待つ者がいる。
こちらにも、戻れと言った者たちがいる。
嬉しさと罪悪感が同時に込み上げ、梅干しとは違う酸っぱさが喉へ残った。
「どうした。やはり毒だったのか」
ティナが眉をひそめた。
「違います。母の味がしただけです」
文治は少し笑い、もう一粒をティナへ差し出した。
「約束どおり、私が先に食べました。無事ですから、どうぞ」
「食べた直後に目を潤ませた人間を、無事とは言わない」
それでもティナは梅干しを受け取った。
指先で半分に割り、ごく小さな欠片だけを口へ入れる。
次の瞬間、彼女の目が見開かれた。
肩が固まり、何か言おうとした口が閉じる。淡い色の目へ、見る間に涙が浮かんだ。
「ティナさん、大丈夫ですか」
ガドが腰を浮かせた。
「問題ない。少し、煙が目へ入った」
「火は、あちらの灯具にしかありません」
「ガド。大きな身体をして、細かいことを気にするな」
ティナは水を一息に飲み干した。
ナージャが面白そうに尾を振る。
「それほどの味なら、私にも寄こしてくれ。印刷屋だけ泣かせるのは不公平だ」
「やめた方がよいと思います。嗅覚が鋭い方には、さらに強く感じるかもしれません」
「そう言われて引いたら、次の試合でキリクに何を言われるか分からない」
「俺を巻き込むな。俺は最初から食べるとは言っていない」
ナージャは一粒を口へ放り込んだ。
狼の耳が、見事なほど左右へ開いた。
全員が一斉に笑った。
ナージャは涙のにじんだ目で文治を睨んだが、実を吐き出さなかった。
「これは、食べ物というより試験だな。ニホンでは、客が信用できるか確かめるために食わせるのか」
「そのような習慣はありません。白い飯と一緒なら、もう少し穏やかな味になります」
「最初にそれを言え。単独で食べさせた時点で、あんたは記者として重要な説明を省いている」
「申し訳ありません。次に持ってくるときは、食べ方の記事も添えます」
「記事ではなく、飯を持ってこい」
笑い声が再び起こった。
やがて、ガドがおそるおそる一粒を鍋の煮汁へ入れた。酸味が脂を抑え、意外なほどよく合ったらしい。彼は目を丸くし、自分の椀へもう一粒入れた。
「これは、鍋と一緒ならおいしいです。身体の大きさではなく、食べ方の問題だったのですね」
「何でも体格級へ結びつけるな」
ミロが呆れた声を出した。
文治は笑いながら、目の前の光景を胸へ刻んだ。
黒い取材帳は、ティナの背後にある。
それでも、湯気の匂いも、杯の音も、梅干しを食べたナージャの耳も、忘れないような気がした。
忘れたなら、また尋ねればよい。
尋ねるために、ここへ戻ってくればよい。
◇
扉が叩かれたのは、酒樽の底が見え始めたころだった。
今度の音は、ミロのものとは違った。
二度。間を置き、もう二度。
笑い声が自然に止んだ。
オルガが扉を開けると、競技院の青銅札を胸につけた書記が立っていた。外の冷気が細い刃のように入り込み、暖まっていた小屋の空気を裂いた。
「北境倶楽部主将、オルガ・レンに通達を届ける。受領の署名を」
差し出された封書には、黒い封蝋が押されていた。
オルガが署名し、書記が去る。扉を閉めても、冷気だけは足元へ残った。
封を切る紙の音が、宴の後には不釣り合いなほど大きく聞こえた。
オルガは書面へ目を走らせた。その眉間へ、ゆっくり皺が刻まれていく。
「最初の公式戦について、出場選手全員の再測定と装具検査を行う。検査には、六邦競技院規格審査局長が立ち会うそうだ」
ガドの背が固くなった。
セラの指が、自分の角の根元へ触れた。無意識の動きだったのだろう。すぐに手を下ろしたが、文治は見逃さなかった。
「規格審査局長が、北境まで来るのか」
ドニが低く尋ねた。
「名前は」
オルガは書面の末尾を読んだ。
「セヴァン・ローク」
その名を聞いたミロから、酒気を含んだ笑みが消えた。
「体格点の現行基準を作った男だ。小人族を大きな選手から守るための制度だと、どの公報にも書いてある。だが、あいつの前では、小人族の俺まで数字にしか見えなくなる」
オルガが、通達の続きを読み上げた。
「選手表、これまでの測定記録、使用する装具を、検査開始までに提出すること。不備が確認された場合は、試合開始前であっても参加認定を再検討する」
「再検討とは、また取り消せるという意味ですか」
ガドの声は小さかった。
大きな手が、膝の上で強く組まれている。先ほどまで梅干しを鍋へ入れて笑っていた指が、白くなるほど互いを握っていた。
文治の腹の底で、酒とは違う熱が生まれた。
「どこまで測れば気が済むんだ」
思わず、声が出た。
全員の視線が文治へ向いた。
「ガドさんは、不正な登録をしていないと認められた。試合後の測定に不備があったのは、競技院の側です。それでも、また選手を疑うところから始めるのですか。人の身体を何度も数字へ変えて、そのたびに違う数字が出たら、悪いのは身体の方だと言うつもりなのか」
言葉が止まらなかった。
文治は立ち上がっていた。
「せっかく、ここまで来たんだ。十五点を消されても、紙へ残した。井戸も残した。地方リーグへ出られるところまで来た。それを、また書類の中で殺されてたまるか」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
怒っていた。
怖かった。
今度こそ、この輪を失うかもしれないと思うと、胸の内側を爪で引っかかれているように痛んだ。
「私は見ます。測り帯も、装具も、選手表も、印を押す人間の手も、全部見ます。何かを取り消すなら、誰が、何を根拠に取り消したのか、一字も逃さず書きます」
ティナが、背後へ隠していた黒い取材帳を差し出した。
「今度は書け」
文治は帳面を受け取った。
表紙には、彼女の手の温度が残っていた。
「はい。書きます。ただし、今度は外から勝手に書きません。皆さんが何を恐れているのか、何を記録してほしいのか、先に聞かせてください」
オルガが封書を卓の中央へ置いた。
「なら、まずこの通達を全員で読む。文言の一つ一つを確かめる。祝いはその後だ。まだ鍋も酒も残っている」
「こんな紙を読んだ後でも、続きをやるのか」
キリクが尋ねた。
「こんな紙一枚で、俺たちが自分から祝いを終わらせる必要はない」
オルガはそう答え、文治の方を見た。
「それに、次の試合で何をされるかは分からない。今夜食えるうちに食っておけ。記者もだ」
文治は頷き、十一人の顔を見回した。
つい先ほどまで、彼はこの輪へ入ることを恐れていた。
今も怖い。
けれど、黒い封書を囲む十一の椀を見ていると、その恐れごと、ここに置いてよいのだと思えた。
文治は取材帳を開いた。
もう、戸口には立っていなかった。
同じ卓へ肘をつき、同じ湯気を吸い込みながら、最初の一行を書いた。
――北境倶楽部、次の試合へ。
祝いの輪へ落ちた黒い封書を、今度は十一人で見下ろしていた。




