第11話 消せない一勝
朝露に濡れた競技場は、まだ土の匂いを深く抱えていた。
観客席は、非公式だった東砦団との一戦よりも早く埋まり始めていた。職人らしい前掛け姿の男、買い物籠を膝へ置いた女、刷りの薄くなった号外を持つ子どもまでいる。北境倶楽部の名を呼ぶ声が上がるたび、文治の胸は嬉しさより先に痛んだ。
自分の書いた紙が、これだけの人を連れてきた。
同時に、もし今日負ければ、自分は九人へ余計な重荷を背負わせたことになる。期待は声援の形をしていたが、受け止める側には石つぶてと変わらぬ重さがあるのかもしれない。
それでもオルガたちは逃げず、灰白の旗の下へ集まっていた。昨夜の宴会で見せた笑顔は消え、誰もが自分の息と筋肉の具合を確かめている。その姿を見て、文治は冷えた指を握り直した。
北境倶楽部の九人が身体を温めるより先に、白布を掛けた検査台の前へ並ばされている。金属の測り帯、重さを量る台、角や装具へ近づける黒い検査石。そのどれもが、朝日に冷たく光っていた。
検査台の向こうに、セヴァン・ロークが立っていた。
六邦競技院規格審査局長。体格点の現行基準を整えた、小人族の男である。
ミロとさほど変わらない背丈だったが、動作にはわずかな迷いもなかった。選手の顔ではなく、書類と器具だけを見る。その視線を受けると、人間の方が紙に添えられた付属物になったようだった。
「測り帯の点検番号を読み上げてください」
文治が言うと、測定官が露骨に顔をしかめた。
「記者は検査を妨げるな」
「番号を尋ねただけです。答える間に測定値が変わるとは思えません」
昨夜の酒は抜けていた。それでも胸の奥には、黒い封書を見たときの熱が残っている。
また曖昧な測定で何かを奪われるのではないか。そう考えるだけで、取材帳を握る指に力が入った。
セヴァンが文治へ目を向けた。
「番号を読み上げなさい。手続きが正しいなら、見られて困ることではありません」
測定官は唇を結び、帯の根元に刻まれた番号を読んだ。文治が書き取り、ティナが隣で同じ数字を確かめる。
「全部、書いておいてよ。あとから別の帯だったなんて言わせないために」
「ええ。番号も、測定した者の名も、始めた時刻も残します」
ティナは強気に頷いたが、腕を組んだ指先は自分の袖をきつく掴んでいた。彼女も怖いのだ。言い争いならいくらでもできる女が、決定を待つことしかできない。その無力さを隠すために顎を上げているのだと、いまの文治には分かった。
「あなたが浦上文治ですか。公式審査を経ていない試合を、勝利として広めた記者だと聞いています」
「十五対十二で北境倶楽部が上回った試合を書いた記者です」
「競技は行われた。しかし、公式試合は行われていません。観客が何を記憶するかは自由ですが、競技院は存在しない勝敗を記録できない」
淡々とした声だった。
だからこそ、文治の腹の底へ重く沈んだ。
「目の前で起きたことを、書類に欄がないというだけで存在しないと言うのですか」
「記録の条件を誰か一人の感情で曲げれば、次にその例外を買うのは、金と権力を持つ者です。例外は弱者を救わない。例外を買える者を救うのです」
反論したかった。
だが、言葉が出なかった。正しさの形をしているからこそ、腹が立つ。セヴァンの理屈では、消された十五点も、弱者を守るために必要な空白になってしまう。
「それでも私は書きます。あなたが残さないものまで、誰も残してはいけないという決まりはない」
「ありません。誤りがあれば、あなた自身の名で責任を負いなさい」
セヴァンは文治から視線を外し、次の書類を開いた。
ガドの測定には、二名の測定官が立ち会った。同じ帯で肩幅、胸囲、腕の長さを測り、一人が数値を読み、もう一人が復唱する。
結果は、三級だった。
ガドの大きな身体が、目に見えて縮んだように思えた。彼は九人の方を振り返ろうとしたが、途中で顔を伏せた。
体格等級は、一級を一点、二級を二点、三級を三点として数え、九人の合計を十八点以内に収めなければならない。大きく、頑丈で、押し合いに強い身体ほど数字が重くなる。競技を公平にするための仕組みだと説明されているが、選手にとって等級は、自分の身体に値札を付けられるようなものでもあった。
「俺が一つ増えれば、誰かが外れるのでしょうか」
その声は、競技場を囲む観客のざわめきに消えそうだった。
オルガが選手表を広げた。
「昨日までの合計は十七だ。お前が三級になって十八。誰も外れない」
「本当に、九人で出られるのですか」
「同じことを二度言わせるな。お前を入れた九人で、上限ちょうどだ」
ガドは唇を噛み、何度も頷いた。
文治はその顔を見て、胸が痛んだ。等級が上がったことを喜んでいるのではない。仲間から一人を押し出さずに済んだことへ、安堵しているのだ。
「ガドさん。三級と決まったことも、九人全員で出られることも書きます。あなたの身体が誰かの席を奪ったようには、絶対に書きません」
感情が先に立ち、声が強くなった。
「あなたは測られるためにここへ来たのではない。試合をするために来たんです」
ガドは顔を上げた。
「はい。今日は、試合をします」
その返事を聞いて、後ろにいたミロがガドの腰を拳で軽く叩いた。ガドはようやく、ほんの少し笑った。大柄な彼が笑うと、張りつめていた九人の空気まで緩んだ。
◇
最後に検査を受けたのは、セラだった。
角へ検査石を当て、装具の縫い目をほどき、手袋の内側まで調べる。魔法の痕跡は一つも出なかった。それでも検査は七分二十秒続いた。
開始を知らせる鐘が鳴るころ、相手の東砦団は十分に身体を温めていた。北境倶楽部の選手たちは、検査台から直接競技場へ入る。
「検査で遅れた分だけ、開始を延ばしてください」
ティナが求めたが、セヴァンは首を振った。
「開始時刻は両倶楽部へ同じように通知されています。検査を省いて試合へ出すことはできません」
「検査を長引かせた側が、それを言うのか」
ティナの低い声に、怒りが滲んだ。
文治も叫びたかった。しかし、競技場へ走っていくセラの背中が見えた。
彼女は怒っている。角の検査を受けた悲しみではない。身体を冷やされ、最初の押し組みに間に合う準備を奪われたことへ怒っている。
「セラ、肩は動くか」
オルガが尋ねると、セラは両腕を大きく回した。革の装具が軋み、冷えた関節が小さく鳴った。
「動かします。向こうが私の角ばかり見ていたことを、後悔するくらいには」
「無理に取り返そうとするな。最初の五分は、九人でお前を温める」
セラは一瞬だけ目を伏せ、それから力強く頷いた。その会話に、文治は救われた。誰か一人の我慢や奮起を美談にせず、九人で不足を負う。それが北境倶楽部なのだ。
ならば、そこまで書こう。
文治は赤い取材帳ではなく、黒い取材帳へ時間を書いた。
七分二十秒。
開始直後、北境倶楽部の身体は重かった。
鐘が鳴る。東砦団の蹴った球が朝の光を横切り、湿った土へ深く弾んだ。
カヤが捕らえて後方へ落とす。リオが拾い、迫る二人を見てガドへ渡した。だが、ガドの踏み込みも、支えに入るセラの肩も、普段より半拍遅い。検査台の前で奪われた時間が、目に見えぬ縄となって足首へ絡んでいる。
最初の地争いでセラの足が半歩遅れ、東砦団の壁役が隙間へ肩を入れた。ガドが一人で押し返そうとし、姿勢を崩す。こぼれた球を東砦団の切り込みが拾い、そのまま落城線を越えた。
零対五。
観客席から、前の試合と同じ野次が飛んだ。
「紙の上でしか勝てない九人だ!」
文治の指が止まった。
紙の上でしか。
自分の記事が、彼らを救ったつもりで、別の侮辱を生んでいる。
喉の奥が苦くなった。活字にした言葉は、刷った者の手を離れれば、祝福にも刃にもなる。分かっていたはずなのに、九人へ向けられた嘲笑を聞くと、今すぐ観客席へ駆け上がり、その口を塞ぎたくなった。
「違う」
文治は取材帳へ顔を寄せたまま呟いた。
「私が勝たせたんじゃない。あの人たちは、本当に勝ったんだ。今日も、自分たちで勝つ」
北境倶楽部は、少しずつ呼吸を取り戻した。
オルガが手を二度叩き、左を指した。焦って正面を押し返すのではなく、短い横渡しで東砦団の壁を動かす合図だった。
リオが右へ走って一人を引きつけ、急に速度を落としてナージャへ返す。ナージャは球を胸へ抱えず、触れた勢いのままミロへ落とした。小柄なミロが二人の脚の間へ潜るたび、湿った土が弾け、観客席から驚きの声が漏れた。
ドニがガドの左へ入り、セラが低く腰を落として密集を支える。ミロが土まみれの球を一拍で掘り出し、オルガへ渡す。オルガの球はナージャの膝の高さへ入り、ナージャは二人の間を割って最初の落城を決めた。
続く門射を、カヤが二本柱の間へ通した。
七対五。
歓声の中、文治は九人の顔を追った。ナージャは喜びを爆発させたいはずなのに、落城線から戻りながらセラの肩を叩いている。カヤは門射を決めても拳を一度握っただけで、すぐに風向きを見直した。誰も一人の手柄にしようとしない。
前夜、同じ鍋を囲んだ光景が蘇った。肉を大きく切りすぎるガドをティナが叱り、ミロが焦げた芋を文治の皿へ押しつけ、キリクが羽を火へ近づけすぎて皆に笑われた。
この輪が好きだ、と文治は思った。
だからこそ、負けてほしくない。記事のためでも、売れた部数のためでもない。あの夜の笑い声が、負け犬の強がりだったことにされるのが嫌だった。
だが後半、東砦団がもう一度落城し、七対十となった。
ガドとドニの間へ低く潜り込まれ、守備を寄せたところで外へ振られた。カヤが追ったが、翼の先が相手の背へ届かなかった。土へ着いた彼女は悔しげに嘴を噛み、手のひらで地面を叩いた。
それでも、立ち上がる方が早かった。
「まだ終わっていません。次の一つを取りにいきましょう。私たちは、前にもこの人たちから取っています」
長い言葉を吐く間にも息は乱れていた。それでもカヤの声は、九人をまっすぐ立たせた。
残り時間はわずかだった。
◇
最後の攻撃で、ガドは三人に抱きつかれながら前へ出た。
肩へ一人、腰へ二人。三級と測られた身体を、東砦団は三人がかりで止めにきた。ガドの靴底が土を抉り、汗と泥の匂いが観客席まで届きそうだった。
一歩、二歩。倒れ際、球を自分の後ろへ置く。
ミロが地面すれすれへ潜り込み、オルガへ球を送った。オルガは右へ走るナージャへ横に渡す。
東砦団の守備が、ナージャへ集まった。
「外だ!」
ナージャが叫び、後方から走り込んだキリクへ球を放った。
球を受けたキリクの両足が、地面を離れた。
灰色の翼が朝日を弾いた。高く舞うための羽ではない。守備の腕一本を越すためだけに、地面のすぐ上を切り裂く翼だった。
線審の拍子木が鳴る。
一拍。
球を持った鳥人が飛べるのは三拍子まで。四拍目までに片足でも地面へ戻らなければ、飛行反則となる。
キリクは翼を半分だけ開き、土から二尺ほどの高さを滑った。東砦団の選手が腰を狙って飛び込む。その指先のすぐ上を、キリクの身体が抜けた。
観客が一斉に数え始めた。敵も味方もない。鳥人が球を持って浮いた瞬間、人は次の拍子木を待たずにはいられない。
二拍。
落城線までは遠い。このままでは届かない。
「降りろ、キリク! 三つで降りて、それから走れ!」
文治は取材帳を握ったまま叫んでいた。
三拍。
キリクの右足の爪先が、土を掻いた。
一瞬だけ身体が沈む。翼で得た速さが脚へ移り、爪先の跡から泥が扇のように散った。
着地した直後、別の守備が正面から迫る。キリクは球を抱え込まず、内側を走るリオへ後方に放った。守備の腕が、球を失ったキリクの胸だけを捕らえる。
リオは三歩走り、二人目を引きつけた。
「返すぞ。今度は落とすな!」
キリクがリオの後方へ回り込む。リオは身体をひねり、真横へ球を返した。
キリクは地面を走った。
東砦団の最後の一人が、落城線の手前で待っていた。キリクは右へ目を向け、そこにカヤがいるように見せた。守備の肩がわずかに開く。その隙へ左足を差し込み、翼を畳んだまま身体を滑らせた。
高くは飛ばない。長くも飛ばない。三拍だけの低翔びで最初の止めを外し、二人のパスで次の止めをかわした。
落城線を越える。
キリクは両腕で球を土へ押しつけた。
乾いた土が跳ね、拍子木よりも大きな歓声が競技場を揺らした。
灰白の旗が大きく振られた。昨夜の酒場にいた男たちが椅子を踏み鳴らし、号外を持っていた子どもが、紙を破りそうなほど高く掲げている。
文治は叫ぼうとしたが、息しか出なかった。胸の奥から込み上げたものが喉を塞ぎ、目の前の九人が水の底にいるように揺らいだ。
十二対十。
「四拍だ! 鳥人は四拍飛んでいた!」
東砦団の選手が審判へ詰め寄った。
文治の心臓が凍りついた。
まただ。
勝った瞬間のあとへ、取り消す声が追いついてくる。
「やめろ。もう、やめてくれ」
懇願するような声が、自分の口から漏れた。
「今度まで消されたら、私は何を書けばいい。勝ったと何度書けば、この人たちは勝ったことになるんだ」
セヴァンが線審と計時記録を確認した。競技場の土には、キリクの右足が三拍目で触れた跡が残っている。
彼は跡の脇へ膝をつき、爪先の形と線審の立ち位置を確かめた。次に拍子木を打った係へ、三度の間隔を復唱させる。歓声も抗議も聞こえないような顔で、ただ事実だけを拾い上げていった。
「三拍目で右足が接地しています。飛行反則は成立しません。落城を認めます」
東砦団の抗議を、セヴァンは同じ声で退けた。
門射は外れた。それでも得点は十二対十のまま、試合終了の鐘が鳴った。
鐘の余韻が消えるより早く、ガドがキリクを抱き上げた。キリクは翼をばたつかせて抗議し、ナージャは笑いながらガドの背を叩く。セラは膝へ手を置いたまま泣いていた。冷えた身体で奪われた最初の五点を、最後まで背負っていたのだろう。
ティナが文治の腕を掴んだ。
「文治、見たでしょう。今度は誰にも、見ていなかったなんて言わせないで」
「見ました。全部、見ました。私が先に疑いそうになっても、この手が覚えています」
取材帳を持つ手は、ひどく震えていた。
◇
競技場脇の記録机で、セヴァンが公式記録簿を開いた。
日付。対戦名。出場者。得点。
一つずつ確かめ、最後に北境倶楽部の欄へ印を押す。
九人も、ティナも、東砦団の選手たちも、その手元を見ていた。文治には、競技場を埋めた人々まで息を止めたように思えた。
どん、と鈍い音がした。
「北境倶楽部十二点。東砦団十点。公式記録として受理します」
文治は、紙へ刻まれた文字を見つめた。
視界が滲んだ。
「これが、欲しかったんです」
声を抑えようとしても、できなかった。
「勝たせてほしかったんじゃない。負けを消してほしかったわけでもない。あったことを、あったと残してほしかった。それだけだったんです」
セヴァンは記録簿を閉じた。
「必要な条件を満たした試合は残ります。それが規則です」
「なら、その規則を守ってください。強い者のためだけでなく、名前を消されそうになった者のためにも」
文治は目元を袖で拭い、振り返った。
北境倶楽部の九人が、泥だらけのまま立っていた。ガドも、セラも、ミロもいる。誰一人、数字に押し出されていない。
キリクが土のついた両腕を広げた。
「記者。今度は、ちゃんと俺が飛んだところを書けよ」
「書きます。三拍目で降りたことも、その後は自分の足で走ったことも、一つも省きません」
文治は泣きながら笑った。
取り消された十五点は、まだ戻らない。
それでも今日の十二点は、記憶だけではなく、競技院の記録簿にも残った。
北境倶楽部は、初めて公式に勝った。
もう、翌朝になっても消えない一勝だった。




