第12話 もう一人の記者
公式記録簿へ印が落ちた音は、まだ文治の胸の内に残っていた。
どん、という鈍い音を思い出すたび、腹の底が熱くなる。
北境倶楽部、十二点。東砦団、十点。
九人が泥だらけの腕を絡め、灰白の旗の下で笑っている。ガドはキリクを抱え上げたまま離そうとせず、キリクは翼をばたつかせて本気で嫌がっていた。ナージャが二人の背を叩き、ミロは誰かの落とした靴を掲げて持ち主を捜している。
汗と湿った土、踏み荒らされた芝の青臭さ。観客の靴が土を蹴る音。声を枯らした男たちの笑い声。
今度こそ、消えない。
そう思った瞬間だった。
「ずいぶん感動的な顔をなさるのですね、記者というものは」
背後から女の声がした。
振り返ると、三十を少し越えたほどの人間の女が立っていた。濃紺の上着は競技場の泥を一滴も吸っておらず、黒髪は後頭部で隙なくまとめられている。細い銀縁の眼鏡。その奥の目だけが、祝勝の輪ではなく、記録机と検査台を順に測っていた。
胸元には、六邦公報社の記章があった。
「エダ・モーン。六邦公報社、競技部です」
女は名乗りながら、文治へ手を差し出さなかった。
「あなたが浦上文治ですね。未認定試合を勝利として書き、競技院へ再審査を迫った方」
「迫ったのは私ではありません。記事を読んだ人たちです」
「では、記事で群衆を動かした責任は負わないと?」
いきなり、胸の柔らかいところへ細い針を差し込まれた気がした。
文治が答える前に、エダは銀時計を開いた。時刻を確かめ、小さな帳面へ書きつける。鉛筆の先は鋭く、紙を擦る音まで冷たかった。
「再審査は号外の発行後に決まり、観客数は前回を大きく上回った。検査台の前では、あなたと印刷工が測定手続きへ口を挟んだ。間違いありませんね」
「口を挟んだのではなく、器具の番号と時刻を確認したんです」
「表現の違いです。事実は同じでしょう」
「同じではない。言葉を変えれば、読んだ者の受け取り方が変わります」
エダは初めて文治を正面から見た。
「それを、あなたが言うのですか」
口元に笑みはなかった。それでも、嘲られたとはっきり分かった。
エダは記録机へ向かい、セヴァン・ロークの前へ立った。
「局長。北境倶楽部の再審査は、号外と市民の抗議を受けて実施されたものですか」
「違います。地方競技官による測定手続きに不備の疑いが生じたためです」
「しかし、不備の疑いが公になったのは号外の発行後ですね」
「発覚の契機と、判定の根拠を混同しないでいただきたい。再測定の結果、ガド・バルクは三級。北境倶楽部九名の体格点は合計十八。規定内です」
セヴァンは相変わらず平らな声で答えた。
エダは顔色を変えず、帳面へ走り書きした。
「つまり、号外がなければ再審査は行われなかった可能性がある。一方、再審査そのものは規則に沿っている、と」
「前半は私の発言ではありません」
「承知しています。私の整理です」
文治の胃のあたりが冷えた。
嘘は書いていない。だが、セヴァンが否定した部分まで、自分の推測として記事へ持ち込むつもりなのだ。
「あなたは、最初から書きたい筋を決めている」
文治が言うと、エダは帳面を閉じた。
「筋を持たずに取材する記者などいません。いるとすれば、自分の筋に気づいていない記者だけです」
その言葉は腹立たしいほど整っていた。
そして、文治自身へ向けられた刃でもあった。
自分は北境倶楽部に勝ってほしいと願った。最後の攻撃では、取材帳を持ちながらキリクへ「降りろ」と叫んだ。昨夜は九人と同じ鍋を囲み、同じ酒を飲んだ。
記者だから公平なのだと、胸を張れる立場ではない。
だが、迷いを見せた途端、エダの視線はもう文治を離れていた。
彼女が向かった先には、仲間から少し離れて水を飲むガドがいた。
嫌な予感がした。
◇
「ガド・バルク選手ですね。再測定で三級と判定された感想を伺えますか」
ガドは口元から水をこぼし、慌てて手の甲で拭った。
「感想、ですか。正しく測ってもらえたのなら、それでいいと思います」
「以前の二級登録が誤りだったことは認めますか」
「俺が決めたことではありません。昔、測定官に言われた等級を使っていただけです」
「しかし、その等級で試合へ出た結果、前回の認定試合は無効になった。東砦団から勝利を奪い、仲間の出場資格まで危険にさらしたことについて、責任を感じていますか」
ガドの太い指が、水筒の胴をへこませた。
つい先ほどまで笑っていた顔から、血の気が引いていく。
「待ってください。東砦団から勝利を奪ったというのは、あなたの決めつけでしょう」
文治は二人の間へ入った。
エダは一歩も退かない。
「公式記録上、東砦団には勝利も敗北もついていません。北境倶楽部だけが失ったように語るのは、一方的ではありませんか」
「だからといって、ガドさん一人へ背負わせていい話ではない」
「私は本人の認識を尋ねています。あなたが代わりに答えれば、この方には自分の言葉がないと記事へ書くことになりますよ」
脅しだった。
しかも、いかにも取材上の正当な注意であるかのように聞こえる。
文治は歯を食いしばり、退くしかなかった。
ガドはしばらく水筒を見つめていた。やがて、絞り出すように言った。
「責任を感じていないと言えば、嘘になります。俺の身体のせいで、皆の試合がなくなりました。今日だって、三級になれば誰かが外れるかもしれないと思っていました」
「いい言葉です」
エダの鉛筆が素早く動いた。
「いい言葉?」
文治の声が低くなった。
「この人が苦しんでいる言葉を聞いて、最初に出るのがそれですか」
「読者に伝わる、という意味です。数字だけを並べても、人は記事を読みませんから」
その瞬間、文治は彼女の顔を殴りたいと思った。
拳を握ったことに気づき、自分で驚いた。紙と鉛筆を持つ者へ、力で黙れと言いかけている。そんなことをすれば、正しいのは彼女になる。
爪が掌へ食い込んだ。
「ガドさん。もう答えなくていい」
ティナが来て、ガドの腕へ手を置いた。
「取材を受けるかどうかは、この人が決めることです。答えないなら言葉がないと書く、なんて脅す人に付き合う必要はありません」
エダの目が、ティナの指先についた黒いインクへ移った。
「あなたが号外を刷った印刷工ですね」
「『井戸端新聞』のティナ・フェルです」
「新聞。あれをそう呼んでいるのですか」
ティナの肩が強張った。
エダは競技場の柵に貼られた、刷りの薄い号外へ目をやった。
「発行者の規定も、訂正手続きも、読者からの異議を受ける窓口もない。北境倶楽部を応援するための刷り物に見えました」
「少なくとも、試合がなかったとは書きませんでした」
「公報も、競技が行われなかったとは書いていません。認定試合として成立しなかったと書いたのです。あなた方が、読者の感情に合わせて勝利という言葉へ置き換えたのでしょう」
ティナの顔が赤くなった。
文治は、彼女が怒鳴り返すと思った。だが、ティナは唇を結び、ガドの前へ立った。自分の怒りより、傷ついた選手をエダの視線から隠すことを選んだのだ。
その背中を見た途端、文治の怒りは熱ではなく、重い塊へ変わった。
「エダさん。あなたは北境倶楽部へ何を聞きに来たんです。勝った方法ですか。それとも、勝利を疑わせる言葉ですか」
「どちらもです。疑いを伏せた記事は、報道ではなく倶楽部の広告です」
エダはそう答えると、今度は東砦団の選手へ歩いていった。
◇
東砦団の選手は、まだ落城判定への不満を残していた。
「四拍目に入っていた。あの鳥人は、空中で拍子木を聞いたはずだ」
「線審は三拍目で右足が接地したと確認しています」
エダはそう言いながらも、抗議した選手の言葉を一字ずつ書き留めた。
「別の位置から見ていた線審はいません。土の跡だって、試合後にはいくらでも踏み荒らされる」
「では、判定が不正だったと考えますか」
「そこまでは言わない。だが、北境寄りだったとは思う」
エダの鉛筆が止まった。
「ありがとうございます。いまの最後の一文を使わせていただきます」
「その前に、そこまでは言わない、と答えたでしょう」
文治が口を挟むと、エダは面倒そうに息を吐いた。
「本文には両方書きます」
「見出しには、どちらを書くつもりです」
エダは答えず、帳面の新しい頁を開いた。
文治の位置から、書かれた文字が見えた。
――号外に押された再審査。体格点上限の北境、飛行判定で辛勝。
頭の中で何かが切れた。
「ふざけるな!」
自分の声が競技場へ響いた。
笑っていた北境倶楽部の選手たちが振り向く。観客まで何事かと足を止めた。
「ガドさんの三級も、合計十八点も規定内だ。キリクは三拍目で着地した。セヴァン局長が調べ、正式に認めた。あなたの見出しでは、まるで規則の隙間に潜り込んで勝ったように見えるじゃないか!」
「本文を読めば、規定内だったことも、判定が認められたことも分かります」
「見出しだけで決めつける者がいることを、知らないとは言わせないぞ」
「最後まで読まない者の誤解まで、記者が責任を負うのですか」
その言葉が、文治の胸を深く抉った。
記事のあとで起きたことは、読んだ者と役人の責任だ。
十六年前、ラウたちが連れ去られたあと、自分が何度も心の中で繰り返した言い訳と、同じだった。
エダは文治の顔から、何かを読み取ったらしい。
「ずいぶん苦しそうですね。ご自分にも覚えのある理屈でしたか」
文治は何も答えられなかった。
「あなたの号外も同じです。『名もなき九人』と書き、読者が喜ぶ弱者の物語を作った。東砦団の選手を何人、紙面で名指ししましたか。彼らがどう得点したか、何行使いました?」
文治は黒い取材帳を開いた。
東砦団の選手名は記録してある。二度の落城も、そこへ至る球運びも書いた。だが、号外へ載せたのは北境倶楽部の逆転と、取り消された判定が中心だった。
「取材帳にあることと、読者へ見せたことは違います」
エダは言った。
「あなたは北境倶楽部を好きになった。だから彼らが喜ぶ事実を大きくし、都合の悪い事実を小さくした。それを人情と呼ぶのは自由ですが、報道と呼ぶなら、私は反対側から書きます」
腹が立った。
吐き気がするほど腹が立つのに、すべてを間違いだとは言えなかった。
それが、何よりも悔しかった。
◇
昼を過ぎると、六邦公報の速報が競技場前へ貼り出された。
紙は上等で、文字は太く、遠くからでも見えた。
――号外に押された再審査。
――体格点上限の北境、飛行判定で辛勝。
本文には、北境倶楽部が規定内だったことも、キリクの右足が三拍目で接地したことも書かれていた。虚偽はない。
だが、記事の半分は前回の資格不備と市民の抗議に割かれ、東砦団選手の「判定は北境寄りだった」という言葉が太い囲みの中へ置かれていた。セヴァンが反則なしと判断した説明は、その下の小さな文字へ沈んでいる。
「やっぱり、騒いだから勝たせてもらったのか」
誰かが言った。
「半巨人をぎりぎりで入れたんだろう。公平なのかね」
別の声が続いた。
つい数刻前まで北境の名を呼んでいた口が、同じ軽さで疑いを広げていく。
ガドは少し離れた場所で、その声を聞いていた。
大きな背が丸まっている。せっかく正しく測り直した身体を、また人目から隠そうとしているように見えた。
文治は速報を剥がしかけた。
「駄目」
ティナが手首を掴んだ。
「腹が立つのは分かる。でも、剥がしたら、あの女の書いたことに反論できなかったと思われる」
「では、これを放っておけと言うんですか。嘘を書いていないという顔で、人を欺いている」
「放っておくとは言っていない。私たちには紙があるでしょう」
ティナの指にも、怒りで力が入っていた。
「書いて、文治。今度は東砦団の働きも、北境の失敗も省かないで。あの女が隠したことだけを書くんじゃない。試合そのものを、最初から最後まで書くの」
文治はガドを見た。
ガドの隣では、キリクが何かを話している。おそらく励ましているのだろう。だが、いつもの軽口にガドが笑う様子はなかった。
自分の記事でも、同じ顔をさせたことがあるのかもしれない。
そう思うと、鉛筆を持つのが怖くなった。
「また、間違えたらどうします」
文治の口から、弱い声が漏れた。
「あなた一人で決めないために、私がいるの」
ティナは公報の見出しを睨んだまま言った。
「書かないで負けるのは、もっと嫌よ」
二人は印刷工房へ走った。
◇
夕刻、競技場前へ『井戸端新聞』の速報が貼られた。
――北境倶楽部、規定内で公式初勝利。
――十二対十。体格点十八。三拍目の接地を線審と競技院が確認。
記事は、北境倶楽部が検査の遅れから先制を許したことも、東砦団が二度の落城を奪ったことも書いた。東砦団の切り込み、壁役、最後まで抗議した選手の名も載せた。
飛行判定については、キリクの爪先が残した跡、線審の証言、セヴァンの判断を分けて記した。号外をきっかけに再審査が行われた可能性にも触れたうえで、それが本日の得点判定を左右した証拠はない、と結んだ。
派手さのない、長い記事になった。
だが、号外を握っていた子どもが、最初から最後まで指で文字を追ってくれた。
「東砦団も、ちゃんと強かったんだな」
子どもが言った。
「だから、そこに勝った北境は強いんだ」
その声を聞いて、ガドが顔を上げた。
文治の胸へ、ようやく少しだけ空気が戻った。
「悪くありません」
横から、聞きたくない声がした。
エダが『井戸端新聞』を一部、手に取っていた。
「最初の三段は長すぎます。読者の半分は途中で飽きるでしょう。それに『証拠はない』は、疑いが存在することを認める言葉でもあります」
「買う気がないなら返してください」
ティナが手を差し出した。
エダは硬貨を一枚、その掌へ落とした。
「代金は払います。競争相手の記事を読むのも仕事ですから」
「私たちは、あなたと競争するために刷っているんじゃない」
「そう思っているのは、売れていない新聞だけです」
ティナの眉が跳ね上がった。文治は慌てて彼女の前へ腕を出した。今度は自分が止める番だった。
「エダ・モーン」
文治は、その名を忘れないよう黒い取材帳へ書いた。
「あなたの記事は嘘ではない。だから厄介だ。正しい事実を選んで、人が間違う道を作っている」
「あなたは、読者が望む道へ事実を並べている。違いがあるとすれば、私はそれを自覚していることです」
エダは新聞を細く折り、鞄へしまった。
「次は、あなたが書いたことではなく、書かなかったことを探します。誰かの味方を名乗る記者は、必ず味方に都合の悪いものを隠しますから」
その視線が、北境倶楽部の九人をゆっくりとなぞった。
ナージャのところで、ほんの一瞬だけ止まった気がした。
文治が確かめるより早く、エダは背を向けた。磨かれた靴が乾き始めた土を踏み、夕暮れの人混みへ消えていく。
ティナが、掌の硬貨を忌々しそうに見つめた。
「あの人、嫌い」
「ええ。私もです」
文治は素直に答えた。
だが、黒い取材帳に書いた彼女の名を消すことはできなかった。
エダ・モーンは、文治が見たくないものを見つける。
そして、見つけた事実を、誰かが最も傷つく形へ整えて差し出す。
もう一人の記者は、嘘を一つも書かずに、人を欺くことのできる女だった。




