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第24話 敗北を残す

「……ラウ」


 呼んだ名は、十六年前と同じ音だった。


 けれど、目の前にいる男は、文治の記憶の中の少年ではない。


 灰褐色の翼は短いままだった。天翼団の者のように高く舞うための翼ではない。身体の線へ沿うように畳まれ、先端の羽が一枚だけ欠けている。頬の傷は、左の耳元から口の脇まで細く走っていた。


 背丈も、肩の幅も、声の低さも知らない。


 知らない男の目の奥にだけ、十二歳のラウがいた。


 文治は拾うこともできず、落とした鉛筆を見ていた。


 駆け寄りたかった。


 生きていたのかと叫びたかった。


 抱きしめる資格などないと思った。


 殴られるなら、動かず受けようとも思った。


 謝る言葉は、十六年かけて何百通りも考えた。眠れない夜ごとに、最初の一言を選び直した。


 そのどれも、口から出なかった。


 ラウは文治の足元まで歩き、鉛筆を拾った。


「先に仕事をする」


 差し出された鉛筆を、文治は受け取れなかった。


「仕事……」


「俺は、六邦競技院記録局から来た」


 ラウは鉛筆を文治の黒い手帳の上へ置いた。


「再会するためじゃない。記録を確認するためだ」


 胸の内側を、冷たい指で押されたようだった。


 当然だ、と文治は思った。


 十六年間、戻らなかった人間を、ラウが待っているはずはない。自分だけが何度も再会を夢に見て、そのたびに許される場面と責められる場面を作ってきた。


 目の前のラウには、文治の夢につき合う義理などなかった。


「……分かりました」


 文治は鉛筆を握った。


 指に力が入らず、また落としそうになった。


     ◇


 ラウはセヴァン・ロークへ向き直った。


 長衣の胸元から、青い紐で綴じた書類を出す。六邦を表す六つの輪と、記録局の印が押されていた。


「登録異議の写しは、記録局でも受け取りました。異議の対象は、ヨナ・ケルムの壁役登録です」


「だから、結果の確定を保留すると言っている」


「登録審査と、試合記録は別です」


 セヴァンの眉が動いた。


「別ではない。無資格の選手が出場したなら、試合は成立しない」


「無資格だったと、まだ決まっていません」


 ラウは声を荒らげなかった。


 書類の一行を指でなぞる。


「地方競技院は、試合開始前に試験登録を受理した。安全確認を行い、選手名簿へ印を押し、両倶楽部へ出場可能と通知している。異議が出されたのは、そのあとです」


「地方には、小人族を壁役として認める権限がないという異議だ」


「それを審査するのが六邦競技院です。審査前に、地方の判断だけで六邦の結論を先取りする権限もありません」


 セヴァンの目が細くなった。


 文治は息を止めた。


 ラウの声には、怒りがなかった。


 だからこそ、一つ一つの言葉が逃げ道を塞いでいく。


「記録局の見解は」


 セヴァンが尋ねた。


「異議審査中であることを付記したうえで、行われた試合を記録します」


「あとで無効と判断されれば、書き直すのか」


「訂正します」


「なら、いま書く必要はない」


「あります」


 ラウの短い翼が、わずかに開いた。


 風を起こすほどではない。


 それでも文治には、昔、低い屋根から飛び降りる直前のラウが重なった。


「訂正は、元の記録があるからできます。空欄には、何が消されたのかさえ残らない」


 文治の喉が熱くなった。


 十六年前、自分が書いた紙を手にした役人たちは、ラウの家を見つけた。


 いま、役人になったラウが、紙を使って消されかけた試合を残そうとしている。


 その意味を考えようとした途端、胸が痛んだ。


 勝手に救いへ変えてはいけない。


 ラウがここに立つまでに何を失ったのか、自分はまだ何一つ聞いていない。


 セヴァンが書類を奪うように受け取った。


「記録の根拠は何だ。地方の得点票は、試合結果未確定として封じる」


「封じる前に、得点係が記入しています」


「署名はない」


「いま、取ります」


 ラウは両倶楽部の主将を見た。


「王都天翼団。得点を確認します」


 白銀の上着を着た主将が、一歩前へ出た。


 彼は得点板を見上げた。


「十四点。落城一、飛び門一、罰門二」


「相手の得点は」


「十二点。落城二、門射一」


 ラウが得点票へ書き入れる。


「この得点による勝利を、天翼団は主張しますか」


「する」


 主将は迷わなかった。


「俺たちは北境倶楽部と戦い、十四点を取った。誰もいなかった競技場で、十四点を拾ったわけではない」


 天翼団の選手たちが頷いた。


 エルンも、白斑の翔け手もいる。


 彼女の片翼には、キリクがつかんだ箇所を守るため、薄い布が巻かれていた。


 ラウは北境側を見る。


「北境倶楽部」


 オルガが前へ出た。


「十二点だ」


 奥歯を噛み、続ける。


「俺たちは、十二対十四で負けた」


「異議はありますか」


「ヨナの登録を無効にすることには、最後まで異議を申し立てる。だが、天翼団が十四点を取ったことに異議はない。キリクの反則にもだ」


 キリクの肩が震えた。


 それでも、顔を背けなかった。


 ラウは両主将へ筆を渡した。


 二つの署名が、同じ得点票に並ぶ。


 勝者の名だけではない。


 敗者の名だけでもない。


 二つの倶楽部が、同じ一試合の上に残った。


「次に、反則と得点時刻を確認します」


 ラウの視線が、文治の黒い手帳へ向いた。


「記者。取材帳を」


 差し出しかけた手が、止まった。


 黒い表紙へ、十本の指が食い込む。


 目の前の競技場が消えた。


 十六年前の土間が見えた。


 幼い自分の書いた紙を、役人の太い指が押さえている。


 ――灰褐色の翼。


 ――低く、速く飛ぶ。


 ――ラウ。


 自慢したかった言葉が、家族を捜す手掛かりとして読み上げられた。


「触るな!」


 文治は手帳を胸へ抱いた。


 自分の声で我に返った。


 周囲の全員が、こちらを見ている。


 ラウも見ていた。


「違う……すみません。あなたにではなく」


 呼吸が浅い。


 黒い表紙の角が胸骨へ食い込み、痛かった。


「渡せない。これは、渡せません」


 ラウは手を引いた。


「では、持っていろ」


「ですが、確認は」


「お前が読め」


「私が?」


「俺は聞いて、得点係と審判に確かめる。お前の帳面を取り上げる必要はない」


 文治はラウの顔を見た。


 責める色も、憐れむ色もなかった。


 それが、ありがたかった。


 同時に、苦しかった。


 自分が何に怯えたのか、ラウには分かっている。


 分からせたのも、自分だった。


「開始後、最初の得点」


 文治は頁を開いた。


 声が震えた。


「北境倶楽部、ナジャの落城。五点。続く門射成功、二点。七対零」


 得点係が頷く。


 ラウの筆が動く。


「天翼団、飛び門。三点。七対三」


 一つずつ読んだ。


 北境の二度目の落城。


 天翼団の落城。


 球を持たない選手への接触反則。


 最初の罰門。


 キリクが白斑の翔け手の翼をつかんだ時刻。


 最後の罰門。


 終了の笛。


 審判と得点係が、一項目ずつ認めた。


 白斑の翔け手も、自分の翼を見てから言った。


「つかまれました。あの時点で、球はエルンが持っていました」


 キリクが目を閉じた。


「俺がやった」


「確認しました」


 ラウはそれ以上、責めなかった。


 守るためだったとも書かなかった。


 ただ、起きたことを一行へ収めた。


 その一行の短さを見て、文治の胸が痛んだ。


 どれほど迷っても、どれほど大切な理由があっても、記録の上では短い。


 だが、短いことと、軽いことは違う。


 その一行がなければ、キリクは過ちを認めたことさえ失う。


     ◇


 確認を終えると、ラウは革張りの大きな記録簿を開いた。


 白い頁の上へ、北境倶楽部の名を書く。


 文治は、息をすることも忘れて筆先を見つめた。


 ラウが記した。


 ――一勝、一敗、一無効。


 その下へ続ける。


 ――地方決勝敗退。


 ――対王都天翼団。十二対十四。


 最後に、細い字で付記した。


 ――ヨナ・ケルムの試験登録について審査中。試合開始前、地方競技院により出場承認済み。


 記録局の印を押す。


 乾いた音がした。


 たった、それだけだった。


 歓声もない。


 誰も勝たない。


 天翼団の十四点が減ることもない。


 北境の十二点が増えることもない。


 けれど、北境倶楽部は、確かに負けた倶楽部として紙の上に残った。


「これで、本日の試合記録は記録局へ送られます」


 ラウが告げた。


「登録異議は別紙で審査する。結果を消したい者がいるなら、誰が、どの規則を根拠に求めたのかも残す」


 セヴァンの顔が固くなる。


「下級記録官が、ずいぶん大きな口を利く」


「下級だから、空欄を作る権限がありません」


 ラウは記録簿を閉じた。


「あるものを書くだけです」


 セヴァンは何も答えず、踵を返した。


 灰色の長衣が競技場を出ていく。


 文治は、得点板を見上げた。


 十四。


 十二。


 さきほどは、見るだけで胸を裂かれた数字だった。


 いまも悔しい。


 書き換えたい。


 最後の罰門が外れたことにしたい。


 その気持ちは消えていない。


 それでも、同じ数字が前よりも確かな重さでそこにあった。


 文治は泣いた。


 勝ったからではない。


 救われたからでもない。


 負けた九人が、負けたまま、いなくならずに済んだからだった。


 ヨナが得点板を見上げている。


「残りましたね」


 文治は涙を拭った。


「はい」


「負けたのに、嬉しそうです」


「嬉しいんじゃありません」


「では、何ですか」


「分かりません」


 ヨナは少し考えた。


「薄茶の帳面に書いてください」


 ティナが、ほんの少し笑った。


 文治も笑おうとした。


 笑いながら、また涙が出た。


     ◇


 観客が帰り、灰白旗も白銀旗も片づけられた。


 北境倶楽部の選手たちは、用具を運び始めた。


 ガドは柵の外から手を貸そうとして、オルガに止められた。


「処分中だ」


「用具運びもですか」


「今日はな」


 ガドの顔が曇る。


 オルガは少し間を置いた。


「明日の練習から来い。出場停止と、倶楽部からいなくなるのは別だ」


 ガドは、すぐには返事をしなかった。


 大きな拳を握り、今度は背へ隠さなかった。


「はい」


 その一言を、文治は黒い手帳へ書いた。


 顔を上げると、ラウが記録簿を抱えて通用口へ向かっていた。


「待ってください」


 文治は追った。


 足がもつれた。


 試合のあいだ座り続けていた膝が、今になって震えている。


 石の通路へ入ったところで、ラウが止まった。


「記録なら、もう確認した」


「記録ではありません」


「なら、何だ」


 聞かれた途端、また何も言えなくなった。


 薄暗い通路に、二人の呼吸だけが残る。


 文治は、ラウの顔を見られなかった。


「家族は」


 ようやく、それだけ言った。


「生きている」


 膝から力が抜けた。


 壁へ手をつかなければ、座り込んでいた。


「よかった」


「暮らしは失った。父も母も、前と同じ仕事には戻れなかった。しばらくは三人、別々の場所で暮らした」


 よかった、と口にした自分を殴りたくなった。


 生きていれば、それで何もかも軽くなるわけではない。


「ごめん」


 十六年かけて出た言葉は、それだけだった。


「私が書いた。あなたの名も、翼の色も、低く飛ぶことも。役人が見つけられるように、全部書いた。自分の記事を皆に見せたかった。褒められたかった。あなたが『書いていい』と言ったからって、何を書いてもいいはずじゃなかった」


 ラウは黙っている。


「ごめんなさい」


 声が幼くなった。


「助けに行かなかった。怖くて、井戸を塞いだ。あなたが連れていかれる声を聞いたのに、私は板を打った。毎日、外せばよかったと思った。次の日でも、その次の日でも戻ればよかった。それなのに十六年も――」


「ブンジ」


「許さなくていい!」


 叫び声が石壁へ跳ね返った。


 ラウの言葉を聞くのが怖かった。


 許すと言われても、許さないと言われても、自分が用意した結末の一つになってしまう。


「殴っていい。憎んでいい。私は、そのために戻ったわけじゃないと何度も言いました。でも、嘘です。心のどこかで、あなたに会えば終われると思っていた。謝って、殴られて、許されるか、許されないか決めてもらえば、十六年を一つの結末にできると思っていた!」


 涙が顎から落ちた。


「でも、あなたはもう、私の記憶の中の少年じゃない。知らない仕事をして、知らない傷があって、私のいない十六年を生きていた。当たり前なのに……私は、ずっと十二歳のあなたにしか謝ってこなかった。自分の頭の中のラウを使って、自分を責めていただけだった!」


 胸が苦しかった。


 息を吸うたび、肋骨の内側が痛んだ。


「どうしたらいい。私は、いまのあなたに何をすればいいんです。何を言えば、逃げなかったことになるんですか!」


 ラウは、長いあいだ答えなかった。


 遠くで、得点板を外す木の音がした。


 十四と十二が、競技場から下ろされていく。


「何を言っても、十六年前には戻らない」


 ラウの声は静かだった。


 分かっていた。


 分かっていたのに、胸のどこかが崩れた。


「俺は、お前を待った」


 文治は顔を上げた。


「連れていかれた先で、次の日には来ると思った。その次の日も。お前は井戸を抜けて、役人に噛みつくような顔をして現れると思っていた」


 ラウの口元が、わずかに歪んだ。


「来なかった」


「……はい」


「家族が離されたあと、一度だけ井戸へ行った。板が打たれていた。向こうから、お前の家の音はしていた。だから分かった。道が消えたんじゃない。お前が塞いだんだと」


 文治は両手で顔を覆った。


 爪が頬へ食い込む。


「私は十二だったんだ!」


 言葉が口から飛び出した。


 ラウの目が見開かれる。


「怖かったんだ! 役人は大人で、父に見つかれば殴られると思った。母は泣いていた。誰かに、もう行かなくていいと言ってほしかった。私のせいじゃないと言ってほしかった! 十二歳の私に、何ができたんだ!」


 叫びきってから、文治は唇を噛んだ。


 血の味がした。


「……それも、本当です」


 声が萎んだ。


「怖かった。子供だった。だから仕方がなかったと思いたい。ずっと思いたかった。でも、それをあなたに言えば、また自分だけ助かろうとしている気がして、言えなかった」


 壁に額をつけた。


「私は、あなたより自分を憎んでいれば、責任を取ったことになると思っていた。苦しんだ年数を数えて、十六年分たまれば戻れると思っていた。そんなもの、あなたの十六年には一日も返さないのに」


 ラウが、ゆっくり息を吐いた。


「俺も十二だった」


 文治は動けなかった。


「お前が来ないのは、俺を捨てたからだと思った。怖くて来られない子供だとは考えなかった。考えたくなかった。俺を助けられるのはお前だけだと思い込んで、来ないお前を憎んだ」


 ラウの翼が、背で小さく震えた。


「俺も、十二だったんだ」


 二人の間に、十六年があった。


 どちらも越えられないまま、同じ年齢の子供を胸の中へ閉じ込めていた。


「俺は、お前の記事を許していない」


 ラウが言った。


 文治は目を閉じた。


「はい」


「お前が井戸を塞いだことも、まだ許せない」


「はい」


「だが、お前一人が家族を連れていったとも思っていない。お前の紙を、居場所を探す名簿として使った大人がいた。混じり者を競技から外す決まりを作った者がいた。俺の名を記録から消した者がいた」


 文治は目を開いた。


「だから、記録官に?」


「格好のいい理由だけではない。机仕事なら、翼が短くても採用された」


 ラウは自分の翼を見た。


「記録局へ入って、最初に俺の試合を探した。低く飛んで、二人を抜き、落城した試合だ」


 文治の胸が締めつけられた。


 あの日の記事の一行目まで覚えている。


「なかった」


 ラウは言った。


「出場資格なし。試合は不成立。俺の名は、違反選手一覧にだけ残っていた」


 文治は拳を握った。


 悲しみより先に、怒りが湧いた。


「そんな記録――」


「ああ。だから、今日ここへ来た」


「私がいると知っていたんですか」


「『井戸端新聞』の写しが、登録異議の資料についていた」


 ラウの目が、文治の三冊の手帳へ落ちる。


「得点時刻と、選手の足の向きまで書く、読みにくい記事だった」


「読みにくい……」


「字も、昔と同じで柵のようだった」


 文治は息を呑んだ。


 胸の奥で、止まっていた何かが動いた。


 笑ってよいのか分からない。


 泣くのを止めることもできない。


 そのため、ひどく歪んだ顔になった。


「私だと、分かったんですね」


「分かった。だから、この案件を希望した」


「私に会うために?」


「記録を確かめるためだと言った」


「少しくらい、会うためでもよくないですか」


「そういうところは変わっていないな」


 呆れた声だった。


 けれど、ラウは目を逸らさなかった。


 文治は涙を袖で拭った。


「さっき、殴っていいと言いました」


「聞いた」


「兄にも、一発目は受けろと言われました」


「二発目は」


「止めろと」


「賢い兄だ」


 ラウは右手を上げた。


 文治は目をつぶった。


 来る。


 そう思った頬へ、拳は当たらなかった。


 代わりに、額を指で弾かれた。


「痛い!」


「一発目だ」


「これが?」


「不満か」


「いえ……」


「二発目は、十六年の話を聞いてから決める」


 文治は額を押さえた。


 痛みはすぐに消えた。


 終わらなかった。


 謝罪も、怒りも、許すかどうかも。


 一発で終わらせてもらえなかった。


 そのことが、ありがたかった。


     ◇


 通路の入口から、ティナが顔を出した。


「話は終わったか」


「終わっていません」


 文治とラウの声が重なった。


 ティナは二人を見比べた。


「なら、ちょうどいい。工房まで歩きながら続けろ」


 腕に、試合記録の写しと白紙の束を抱えている。


「今夜、号外を出す。得点が消えないうちに組むつもりだったが、公式記録まで取れた。書き直しだ」


「見出しは」


「それを考えるのがお前の仕事だ」


 文治は競技場へ戻った。


 得点板は、すでに外されていた。


 十四も十二も、木箱の中へ重ねられている。


 だが、もう消えたとは思わなかった。


 黒い手帳にある。


 両主将が署名した得点票にある。


 ラウの記録簿にある。


 これから刷る紙にも残る。


 同じ事実を一人だけで抱えず、別々の手へ渡していく。


 それは、十六年前にはできなかった書き方だった。


 文治は白紙の一番上へ、鉛筆を置いた。


「北境倶楽部、王都天翼団に惜敗」


 書いて、線を引いた。


「小さな壁、王者を追いつめる」


 それにも線を引く。


 ヨナが小さいことは事実だ。


 二点差だったのも事実だ。


 だが、最初に置くべき言葉は、それではない。


 文治は書いた。


 ――北境倶楽部は、負けた。


 胸が痛んだ。


 それでも、文字を消さなかった。


「それが見出しか」


 ラウが後ろから覗き込んだ。


「一行目です」


「続きは」


「これから書きます」


「東京の新聞にも載せるのか」


 文治の鉛筆が止まった。


「『井底通信』は、打ち切られました」


「なら、書かないのか」


「書きます」


 今度は、迷わず答えた。


「載せる場所がなくても。売り先がなくても。この試合を書きます。書いてから、載せる場所を探します」


「井戸は」


「三か月後までしか、残せる見通しがありません」


 初めて、ラウの表情が揺れた。


「また塞ぐのか」


 責める声ではなかった。


 だからこそ、文治の胸へ深く刺さった。


「塞がせません」


「どうやって」


「分かりません」


 文治は白紙を握った。


「でも、今度は怖いまま考えます。分からないまま人に話します。一人で板を打って、終わったことにはしない」


 ラウはしばらく黙っていた。


 やがて、文治の黒い手帳を指した。


「明日、あの井戸へ案内しろ」


「井戸へ?」


「板が外れたところを、まだ見ていない」


 ラウは背を向け、ティナの待つ通路へ歩き出した。


「それから、十六年分を話す」


 文治の喉が鳴った。


 ラウが振り返る。


「今度は、途中で帳面を閉じるなよ。ブンジ」


 文治は、白紙の上の一行を見た。


 ――北境倶楽部は、負けた。


 その下には、まだ何も書かれていない。


 空白は、消された跡ではなかった。


 これから書くための場所だった。

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