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最終話 井底通信

 翌朝、文治はラウを北境の古井戸へ案内した。


 夜明け前の通りには、昨日の試合の名残があった。石壁に結ばれた灰白の布。踏み荒らされた土。酒場の軒下へ置き忘れられた、十二と十四の数字を書いた小さな板。


 負けた翌朝だった。


 町は、それでも目を覚まそうとしていた。


 パンを焼く匂いが流れ、荷車の車輪が石畳を鳴らす。遠くで誰かが、天翼団の最後の罰門について大声で語っている。別の誰かが、ナジャの止め方を身振りで再現していた。


 試合は終わった。


 試合の話は、終わっていない。


 ラウはほとんど口を利かなかった。


 文治も話せなかった。


 昨夜、眠らずに考えた言葉は、朝の冷たい空気へ出すと、どれも大げさに思えた。


 十六年を聞かせてほしい。


 私に書かせてほしい。


 もう一度、友人になってほしい。


 どれも、自分の願いだった。


 ラウが話したいこととは限らない。


 井戸は、町外れの草地にあった。


 低い石組みの縁へ朝露がつき、白い足場が暗い底へ続いている。文治が十六年ぶりに戻ったとき外した板は、脇へ重ねて置いてあった。錆びた釘が何本も残っている。


 ラウは、その板の前で止まった。


 しゃがみ込み、一本の釘へ触れる。


「これか」


「はい」


「お前が打ったのは」


「はい」


 返事をするたび、喉が狭くなった。


 ラウは釘を抜かなかった。


 板を踏み割りもしない。


 ただ、木目に沿って走る割れ目を指でなぞった。


「ここまで来たのは、連れていかれてから三月ほどあとだった」


 文治は黒い手帳へ手を伸ばしかけた。


 途中で止める。


「書いてもいいですか」


 ラウが振り返った。


「昨日は、勝手に書いていた」


「試合の事実でしたから」


「これは事実じゃないのか」


「事実です。でも、あなたの暮らしでもある」


 ラウは少し考えた。


「黒ではなく、赤へ書け」


「未確認ですか」


「俺から聞いただけだ。家族に確かめていない」


 文治は赤い手帳を開いた。


 その答えが嬉しかった。


 嬉しいと感じた自分を、すぐ疑いそうになった。


 やめた。


 疑う代わりに、薄茶の手帳へ書いた。


 ――ラウに書いてよいと言われ、嬉しい。


「三冊とも、相変わらず面倒だな」


「増やすつもりはありません」


「四冊目は何にする」


「許されたことだけを書く帳面でしょうか」


「一頁も埋まらないぞ」


「朝から厳しいですね」


 ラウの口元が、ほんの少し上がった。


 文治は、その笑いを黒にも赤にも書かなかった。


 自分だけが覚えていてよいものもある。


     ◇


 ラウは井戸の縁へ腰掛けた。


 短い翼が石へ触れないよう、身体を少し前へ傾けている。


「連れていかれた日、俺たちは別々に調べられた」


 文治は赤い手帳へ書いた。


 一語ごとに、鉛筆が重くなった。


 家は取り上げられた。


 父は荷運びの仕事を失った。


 母は鳥人の居住区へ戻ることも、人間の居住区へ入ることも認められず、町から町へ移った。


 ラウは競技資格を失い、雑役をしながら文字と計算を学び直した。


 三人が同じ家で暮らせるようになるまで、何年もかかった。


 ラウは淡々と話した。


 どこで泣いたかは言わなかった。


 誰を憎んだかも、ほとんど言わなかった。


 そのため文治は、余計に苦しかった。


 自分の想像で行間を埋めたくなる。


 寒かっただろう。


 寂しかっただろう。


 自分を待っていただろう。


 どれも、文治が勝手に作るラウだった。


「そのとき、どう思ったんですか」


 何度目かの問いに、ラウが眉を寄せた。


「毎日、同じ気持ちだったと思うか」


「……思いません」


「お前を殺したいと思った日もあった。記事を書いてくれてよかったと思った日もあった」


 文治の鉛筆が止まった。


「よかった?」


「母が、お前の紙を一枚持っていた」


 ラウは井戸の底を見た。


「役人が家を探すのに使った、あの紙だ。俺は捨てろと言った。母は捨てなかった」


「なぜ」


「俺が落城したと書いてあるからだ」


 朝の風が、井戸の口へ吸い込まれた。


 文治には、すぐ言葉の意味を受け止められなかった。


「公式の記録から、俺の試合は消えた。違反者の一覧にしか名前が残らなかった。だが、お前の紙には、低く飛んで二人を抜いたラウがいた」


 ラウは両手を組んだ。


「俺は、あの紙が嫌いだった。家を失った日の匂いがした。だが、全部が嘘だったことにされるのも嫌だった」


 文治の目から涙が落ちた。


 赤い頁に丸い染みができる。


「泣くな」


「無理です」


「いい話にするな」


「しません」


「俺は、記事があってよかったと言っているんじゃない」


「分かっています!」


 声が大きくなった。


 文治は手帳を閉じ、胸へ押しつけた。


「分かっています。私が書いたことが正しかったなんて言ってほしくない。そんなことを言われたら、私はきっと飛びつくからです。ほら、書いてよかった、いまのラウにつながった、全部無駄ではなかったと、自分を許す材料にする!」


 息が震えた。


「私は、あなたに許してほしい。許される資格がないと言いながら、本当は許してほしいんです。もう苦しまなくていいと言ってほしい。あなたが生きていたと知って、嬉しかった。ご家族が生きていると聞いて、よかったと思った。暮らしを奪われたと続けて聞いても、その嬉しさは消えなかった。そんな自分が、嫌なんです!」


 言葉を止められなかった。


 井戸の縁を拳で叩いた。


「私はいつも、自分の気持ちが汚れていないか確かめてばかりいる。人を心配しながら記事になると思った。助けたいと思いながら必要とされたかった。井戸を守りたいと言いながら、向こうの人たちを原稿料に変えようとした。どこまで疑っても、きれいな理由なんか一つも出てこない!」


 喉が痛んだ。


 それでも、最後まで言った。


「私は、正しいから書いているんじゃない。書かずにいられないから書いている。読んでほしい。金もほしい。褒めてほしい。あなたにも、もう一度、私の記事を読んでほしい! でも、あなたをまた傷つけるのは嫌だ。全部、本当なんです。どれか一つだけを、きれいな動機として選べないんです!」


 声が井戸の中へ落ちていった。


 返事の代わりに、遠い水滴のような音が返る。


 文治は俯いた。


「……すみません。また、自分のことばかり」


「薄茶へ書け」


 ラウが言った。


 文治は顔を上げた。


「いま言ったことを、全部だ」


「長すぎます」


「俺の十六年よりは短い」


「それは、そうですが」


 文治は薄茶の手帳を開いた。


 最初に、こう書いた。


 ――ラウに許してほしい。


 隠さず見せた。


 ラウは頁を読み、頷きも、否定もしなかった。


「それは、お前の事実だ」


「願いでは」


「許された、なら願望だ。許してほしい、は今のお前に起きていることだ」


 文治は、その言葉も書き加えた。


「許すかどうかは、まだ決めない」


「はい」


「話も、今日だけでは終わらない」


「はい」


「それでも聞くか」


 文治は手帳を閉じなかった。


「聞きます」


     ◇


 朝が昼へ近づくまで、二人は井戸端にいた。


 十六年のすべては、とても話せなかった。


 それでよかった。


 今日一日で埋めてしまえば、また文治の欲しい結末になる。


 ラウは、次に北境へ来る日を話した。記録局の仕事で、登録審査の追加確認があるという。


 次がある。


 その言葉を聞くたび、文治は安心した。


 同時に、次も必ず会えると思い込むなと、自分へ言い聞かせた。


 別れる前、ラウは板に残った釘を一本だけ抜いた。


 錆びた軸は曲がっていた。


「持っていろ」


「私が?」


「二度と使わないためだ」


 文治は受け取った。


 掌へ赤い錆がついた。


「捨ててもいいですか」


「好きにしろ」


 文治はしばらく釘を見ていた。


 それから井戸の脇へ置かれた屑鉄の箱へ入れた。


「持っていないのか」


「過ちを忘れないために、過ちの道具を一生持ち歩く必要はないと思います」


 言い切ったあと、自信がなくなった。


「……たぶん」


 ラウは鼻で笑った。


「それでいい」


 二人は井戸を離れた。


 板はまだ脇にあった。


 だが、井戸の口には何も載っていなかった。


     ◇


 フェル印刷工房では、ティナが一行目の活字だけを組んで待っていた。


 ――北境倶楽部は、負けた。


「遅い」


「十六年分、話していました」


「半日で足りたのか」


「足りませんでした」


「なら、次にしろ。今日は今日の紙を出す」


 机には文治が昨夜書きかけた原稿と、ラウの署名入りの試合記録の写しが置かれていた。


 文治は椅子へ座った。


 黒、赤、薄茶の手帳を並べる。


 書き始めた。


 北境倶楽部は、負けた。


 前半を十二対三で折り返し、後半に十一点を失った。ガドを欠いた地上の守りは天翼団の重さに削られ、終盤、球を持たない翔け手の翼をキリクがつかんだ。罰門が決まり、十二対十四で試合は終わった。


 ナジャがエルンを二度止めたことを書いた。


 ヨナが受け手の一拍目を消したことを書いた。


 天翼団が空中継ぎに固執せず、地上の攻めへ切り替えたことを書いた。


 キリクが反則を認めたことを書いた。


 反則の理由を、美談にはしなかった。


 王者の勝利を、北境の悲劇の背景にも置かなかった。


 ヨナの登録異議と、試合結果が別に記録されたことを書いた。


 北境倶楽部の今季成績を書いた。


 一勝、一敗、一無効。


 地方決勝敗退。


 書くたび、悔しさが戻った。


 最後の罰門が外れた光景を、まだ想像できた。


 北境が歓声の中で勝つ最終回を、いまからでも作れた。


 文治は薄茶の手帳へ書いた。


 ――勝たせたい。


 そして黒い手帳へ戻った。


 ――十二対十四。


 夕方、原稿を北境倶楽部の練習場へ持っていった。


 九人と、柵の外にいるガドへ、一行ずつ読み上げた。


 キリクは、自分の反則の箇所で嘴を固く結んだ。


「削らないのか」


「削りません」


「俺がヨナを守ろうとしたことは」


「あなたの言葉として書きました。反則ではなかったとは書きません」


 キリクは土を見つめた。


「それでいい」


 ナジャは、エルンを止めた箇所を二度読ませた。


「八百長を晴らした、とは書かないのね」


「あなたが相手選手を止めた、と書きます」


「恋人を本気で倒した、とも?」


「書きません」


「なら、いい」


 ヨナは、得点より登録異議の付記を長く見ていた。


「私が小さいことは」


「本文には必要な箇所だけ書きました。見出しにはしません」


「小人族が壁役をするのが常識外だということは」


「書きます。だからこそ、規則に禁じる文言がないことも書きます」


 ヨナは頷いた。


「では、私が特別だから認められた話にはしないでください。次の小人族も、同じ試験を受けられるように書いてください」


「はい」


 ガドは、最後まで何も言わなかった。


 文治が読み終えると、大きな手を上げた。


「俺の名が、ほとんどありません」


「試合に出ていませんから」


「そうでした」


 少し寂しそうに笑う。


「明日の練習には来る、と書きますか」


「来たら書きます」


「厳しいですね」


「まだ来ていません」


 オルガが短く笑った。


 笑いは九人へ広がらなかった。


 けれど、誰もガドから目を逸らさなかった。


 亀裂が消えたわけではない。


 明日から、また一緒に立てるか確かめる。


 その途中にいることを、文治は書いた。


     ◇


 最後に、文治は全員へ尋ねた。


「東京から、もう一人の記者を連れてきたいと思っています」


 空気が変わった。


 キリクの翼が広がる。


「また勝手に書く奴か」


「勝手に書くかもしれません」


「連れてくる人間の言い方じゃない」


「私にも止められません。記者は、見たものを自分で判断して書きます」


「なら、なぜ連れてくる」


「私より制度を調べられるからです」


 文治は鷹野の依頼を、最初から話した。


 帝都公論という大きな新聞のこと。


 井戸を守れるほどの金を提示されたこと。


 全取材帳の開示と、独占掲載と、現地同行を求められたこと。


 自分が、皆に聞かず断ったこと。


「金がほしいです」


 文治は、逃げずに言った。


「あの井戸を守りたい。『井底通信』を読んでもらいたい。東京でも、ここで起きたことを残したい。でも、そのために皆さんを売るのは嫌です」


 拳を握った。


「私一人では、どこからが取材で、どこからが裏切りなのか、また分からなくなると思います。だから、決めてください。鷹野さんをここへ入れてよいか。嫌なら断ります。ただ、断る理由を、皆さんを守る私の正しさにはしません。怖いから断る。独占したいから断る。そういう私の気持ちも含めて考えます」


 沈黙が落ちた。


 文治は、賛成してほしかった。


 井戸を守る金がほしかった。


 断られたくなかった。


 その欲を隠し、純粋な相談のふりをする方が卑怯だった。


 オルガが尋ねた。


「条件をつけられるのか」


「つけます。井戸の場所は書かせない。取材を受けるかは、一人ずつが決める。名前や家族のことは、本人が拒めば使わせない。私の手帳も全部は渡さない。試合記録と制度は隠しません」


「守らなければ」


「追い出します」


 キリクが鼻を鳴らした。


「お前にできるのか」


「一人では無理です」


 文治は全員を見た。


「だから、一緒に追い出してください」


 リオが吹き出した。


「それなら、ガドを入口に置けばいい」


「処分中です」


「競技場の入口じゃない」


 ガドが困った顔で拳を背へ回しかけ、途中で止めた。


「殴らずに追い出します」


「必ず、そうしてください」


 文治が言うと、今度は何人かが笑った。


 ナジャは笑わなかった。


「私とエルンのことを聞かれたら、答えない」


「それでいいです」


「答えないことを、怪しいと書かれたら」


「私も抗議します。それでも書くなら、鷹野さんが書いたという事実を、私が書きます」


 ナジャは、しばらく文治を見た。


「連れてきて」


 ヨナも言った。


「私がなぜ壁役なのか、本人へ聞く人なら」


「聞かない人なら?」


「一拍目で止めます」


「競技場の外では、ぶつからないでください」


「冗談です」


 ヨナの顔は、いつもどおり真剣だった。


 どこまで冗談か、文治には分からなかった。


 全員が同じ気持ちではなかった。


 歓迎する者も、警戒する者もいる。


 それでも、条件つきで一度会うことが決まった。


 文治は黒い手帳へ書いた。


 ――北境倶楽部、鷹野記者との面会を承諾。取材への同意は各人が別に決める。


 許可と、白紙委任を同じにしなかった。


     ◇


 号外が刷り上がったのは、日が沈んだあとだった。


 圧盤が下りる。


 紙へ文字が移る。


 墨の匂いが、工房いっぱいに広がった。


 ティナが一枚目を持ち上げる。


 黒い見出しの下に、十四と十二が並んでいる。


 文治は本文の最後へ、こう書いた。


 ――私は、北境倶楽部に勝ってほしかった。


 ――だからこそ、王都天翼団の十四点と、北境倶楽部の十二点を、そのまま記さなければならない。


 ――勝利だけが、歴史ではない。


 ティナが読み終える。


「感想が本文に入っている」


「はい」


「薄茶ではないのか」


「私が北境を応援していたことは、この記事がどこから書かれたかを示す事実です。隠した方が、公平な記者のふりになると思いました」


「言い訳にも読めるぞ」


「読めます」


「なら、どうする」


「名前をつけて載せます。誰が書いたかを隠しません」


 ティナは紙の上の署名を指で叩いた。


 浦上文治。


「分かった。刷る」


 二人で夜明けまで印刷した。


 ラウも残った。


 記録官の仕事ではないと言いながら、乾いた紙を重ね、ずれたものを除いた。


「この紙も記録局へ置けますか」


 文治が尋ねる。


「公式記録にはならない」


「分かっています」


「参考資料としてなら置ける」


「お願いします」


 ラウは一部を、自分の書類鞄へ入れた。


「十六年前の紙の隣に置く」


 文治は返事ができなかった。


 泣けば、ティナに紙を濡らすなと言われる。


 そのため、奥歯を噛んで圧盤を下ろした。


     ◇


 二日後、文治は東京へ戻った。


 逃げるのではない。


 そう言い切りたかった。


 だが、井戸を下りる前には、やはり怖くなった。


 向こうで鷹野が条件を拒んだら。


 黒瀬が、もう来るなと言ったら。


 金を作れず、三か月後に井戸を失ったら。


 戻ると言っておきながら、また十六年かかったら。


 薄茶の手帳へ、全部書いた。


 ティナは井戸端まで見送りに来た。


「何日で戻る」


「七日」


「黒へ書くなよ」


「まだ約束ですから」


「今度は、板を持っていくな」


「持っていきません」


 ラウは来なかった。


 記録局の仕事へ戻ったのだと聞いた。


 寂しかった。


 それでよいとも思った。


 ラウの暮らしは、文治を見送るためにあるのではない。


「ティナ」


「何だ」


「戻ってきてよかったと、もう一度言ってもらえますか」


「一度言った」


「何度聞いてもいいでしょう」


「よくない」


 文治は肩を落とした。


 ティナが、鞄の口を閉め直した。


「七日後に戻ったら言う」


 文治は顔を上げた。


「必ず言ってください」


「戻ったという事実を確認できたらな」


 文治は頷き、井戸へ下りた。


     ◇


 東京へ出たとき、空は朝だった。


 石炭煙と味噌汁の匂い。


 遠くで電車が軋み、号外売りの声が路地を走っている。


 文治は旧宅の机へ向かわず、そのまま新橋へ出た。


 東都夕報の編集部では、黒瀬が電話へ怒鳴っていた。


「浦上、死人みたいに立つな。用があるなら待て」


「生きています」


「見れば分かる」


 黒瀬は受話器を置いた。


「負けたか」


 文治は驚いた。


「なぜ」


「勝っていたら、もっと腹の立つ顔で入ってくる」


「私は、勝つと腹の立つ顔になるんですか」


「勝った意味を考えすぎて、周りへ答えを要求する顔だ」


 反論できなかった。


 文治は号外と原稿を机へ置いた。


「十二対十四です」


 黒瀬は最初に数字を見た。


 次に、一行目を読んだ。


 一枚ずつ、黙ってめくる。


 文治は机の前で待った。


 連載を始めた日より、打ち切りを告げられた日より緊張した。


 これは、載せてもらうためだけの原稿ではない。


 自分が何を見て、何を見なかったかを、もう一度この男へ差し出している。


「面白い」


 黒瀬が言った。


 文治の胸が、わずかに痛んだ。


 だが、以前のように原稿を奪い返したくはならなかった。


「面白くなければ、困ります」


「人が負けた記事だぞ」


「負けた人を笑う面白さではありません。どうなるか知りたいと思って読んで、読んだあとに、そこにいた人を忘れにくくなる。そういう記事にしたかった」


「なったと思うか」


「分かりません。だから読者に渡します」


 黒瀬は、原稿の最後を指で叩いた。


「東都夕報に欄はない」


「分かっています」


「載せろと言いに来たんじゃないのか」


「載せてほしいです」


 文治は正直に言った。


「ですが、欄がないなら、別の場所を探します。権利は返してもらいました」


「誰に売る」


「鷹野さんと、もう一度話します」


 編集部の入口から、咳払いがした。


 鷹野壮一郎が立っていた。


「呼ばれる前から来るのは、記者の悪い癖ですね」


「待ち伏せですか」


「約束の続きを聞きに来ました」


 鷹野は空いている椅子へ座った。


 文治は、北境で決めた条件を一つずつ話した。


 井戸の場所は公にしない。


 同行できるのは鷹野一人。


 取材を受けるかは、一人ずつが決める。


 名前と私生活は、本人の拒否を越えて使わない。


 試合記録と制度上の事実は、隠さない。


 文治の取材帳は、必要な箇所を本人が読む。全冊は渡さない。


 北境側には、鷹野の記事へ反論する紙があること。


「以上を守れないなら、同行は認められません」


 鷹野は表情を変えずに聞いていた。


「独占掲載は」


「認めません。『井戸端新聞』は、向こうで同じ事実を書きます。私も、自分の名で書く権利を手放しません」


「全取材帳の開示もなし」


「はい」


「こちらが提示した金額は欲しい」


「欲しいです」


 文治は拳を握った。


「井戸を守るために必要です。安くてよいと言えば、きれいに聞こえるでしょう。でも、安くはできません。私は金がほしい。読者もほしい。記事を書く時間も、北境へ戻る道もほしい」


 声が震え始めた。


 恥ずかしさではない。


 これを拒まれたら、井戸を失うかもしれないという恐怖だった。


「その代わり、働きます。あなたが制度を調べるなら、私は一人ずつの声を聞く。私が誰かを美談にしそうになったら、あなたが止めてください。あなたが人を仕組みの部品にしたら、私が書きます。仲よく正しい記事を作るとは約束しません。互いに間違いを残したまま、同じ事実を調べたい」


 息を吸った。


「これが、私の条件です」


 鷹野は、しばらく何も言わなかった。


 文治は逃げたくなった。


 もっと柔らかく言えばよかった。


 金額だけでも下げればよかった。


 全冊ではなく二冊なら見せると言えば。


 そんな考えが次々に浮かぶ。


 どれも、薄茶の手帳に置くべき恐怖だった。


 鷹野が、原稿へ手を伸ばした。


 最後まで読む。


 机の上へ戻した。


「条件を一つ加えます」


「何です」


「私は、君の監督役ではありません。君が人を美談にしたら、私はそれを書きます。私が人を部品にしたら、君が書けばいい。止めてもらえると思わないことです」


 文治は鷹野を見た。


「分かりました」


「なら、引き受けます」


「金額は」


「先日のままです」


「連載の題は」


「『井底通信』です」


「帝都公論の読者には、何のことか分かりません」


「第一回で説明します。題は変えません」


 鷹野は黒瀬を見た。


「権利は返した」


 黒瀬が言った。


「題も、続きも、こいつが持っていけばいい」


 鷹野は頷いた。


「では、新しい第一回は、この敗北から始めましょう」


 全身から力が抜けた。


 机へ手をつく。


「……よかった」


 涙が出た。


 鷹野が少し身を引く。


「泣くところですか」


「井戸が残るんです」


「まだ契約書へ署名していません」


「いま書きます」


「内容を読んでからにしてください」


 黒瀬が鼻で笑った。


「少しは成長したかと思えば、金の前では同じだな」


「欲しかったんです。本当に」


 文治は袖で目を拭った。


 欲しかったと言えることが、少し嬉しかった。


 欲のない善人のふりをしなくてよい。


 欲しいもののために、誰と何を約束するかを決めればよい。


 黒瀬が尋ねた。


「東都夕報はどうする」


 文治は黙った。


 ここで記者になった。


 取材の仕方を教わった。


 何度も怒鳴られ、何度も原稿を直され、見たことだけを書けと叩き込まれた。


 辞めたくなかった。


 だが、二つの新聞に同じ身体を売ることはできない。


「辞めます」


 声が掠れた。


「東都夕報を辞めます」


「新聞記者もか」


「辞めません」


 文治は顔を上げた。


「どこに雇われても、雇われなくても、私は新聞記者です」


 黒瀬は煙草へ火をつけた。


 煙を吐くまで、何も言わなかった。


「退職の挨拶にしては長い」


「すみません」


「七日分の引き継ぎをしろ」


「七日ですか」


「不満か」


 文治は、北境へ七日で戻ると約束していた。


 黒瀬が知るはずはない。


 それでも、胸が熱くなった。


「いいえ。間に合わせます」


「締切だ」


「はい」


 文治は頭を下げた。


 涙が床へ落ちた。


 黒瀬は見ないふりをした。


     ◇


 七日目の朝。


 文治は兄へ、土地の残額を渡した。


 鷹野との契約で受け取った最初の金だった。


 兄は札を数え、受取書を書いた。


「本当に、記事で作った金か」


「はい」


「人を騙していないだろうな」


「騙していないと思います」


「思う、か」


「絶対だと言う記者の方が、信用できないでしょう」


 兄は呆れた顔をした。


「ラウには会えたのか」


「会えました」


「殴られたか」


「額を一発」


「それで済んだのか」


「二発目は、これからだそうです」


 兄は初めて、少し笑った。


 それから、井戸のある土地の書類を文治へ渡した。


「もう、お前の井戸だ」


 文治は紙を受け取った。


 軽い紙だった。


 十六年閉じていた道の重さが、そこに載っているように感じた。


「兄さん」


「何だ」


「ありがとう」


「礼は、今度こそ聞いた」


 兄は帰っていった。


     ◇


 文治は古井戸の前に立った。


 鞄には三冊の手帳がある。


 黒。事実。


 赤。未確認。


 薄茶。感情。


 その横に、『井戸端新聞』の号外を入れた。


 東京で刷るための『井底通信』の原稿もある。


 東都夕報での連載は終わった。


 北境倶楽部も、地方決勝で負けた。


 ラウには、まだ許されていない。


 ヨナの登録審査も続いている。


 ガドが明日の試合へ戻れるわけでもない。


 何一つ、きれいには終わっていない。


 それでも、井戸は開いている。


 文治は内壁の足場へ靴を置いた。


 一段ずつ下りる。


 東京の音が遠ざかる。


 石炭煙の匂いが薄れ、冷えた石と土の匂いが近づいた。


 暗闇の境を越える。


 足裏が、白い石の足場を捉えた。


 上る。


 一段。


 二段。


 三段。


 北境側の井戸口から顔を出した。


 ティナが腕を組んで待っていた。


「七日だ」


「戻りました」


「見れば分かる」


「言うと約束しました」


 ティナは目を細めた。


 文治は待った。


「戻ってきて、よかった」


 胸の奥が熱くなった。


「はい」


 涙が出そうになったが、今度は笑えた。


 練習場の方角から、笛が鳴った。


 球を蹴る音が続く。


 ガドの太い声が聞こえた。


 すぐにオルガの怒鳴り声が重なる。


 誰かが笑った。


「始まっています」


 文治は井戸から地面へ上がった。


「試合か」


「いいえ。練習です」


 黒い手帳を開く。


 新しい頁へ、日付を書く。


 ――七日後、北境へ戻った。


 約束を、事実へ移した。


 その下へ、もう一行。


 ――北境倶楽部、練習を再開。


「文治」


 ティナが呼んだ。


「早く来い。次の号を出すぞ」


 文治は走り出した。


 鞄の中で、三冊の手帳と二つの新聞がぶつかり合った。


 彼らは負けた。


 だからこそ、記者はその試合を書かなければならない。


 勝利だけが、歴史ではない。

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