最終話 井底通信
翌朝、文治はラウを北境の古井戸へ案内した。
夜明け前の通りには、昨日の試合の名残があった。石壁に結ばれた灰白の布。踏み荒らされた土。酒場の軒下へ置き忘れられた、十二と十四の数字を書いた小さな板。
負けた翌朝だった。
町は、それでも目を覚まそうとしていた。
パンを焼く匂いが流れ、荷車の車輪が石畳を鳴らす。遠くで誰かが、天翼団の最後の罰門について大声で語っている。別の誰かが、ナジャの止め方を身振りで再現していた。
試合は終わった。
試合の話は、終わっていない。
ラウはほとんど口を利かなかった。
文治も話せなかった。
昨夜、眠らずに考えた言葉は、朝の冷たい空気へ出すと、どれも大げさに思えた。
十六年を聞かせてほしい。
私に書かせてほしい。
もう一度、友人になってほしい。
どれも、自分の願いだった。
ラウが話したいこととは限らない。
井戸は、町外れの草地にあった。
低い石組みの縁へ朝露がつき、白い足場が暗い底へ続いている。文治が十六年ぶりに戻ったとき外した板は、脇へ重ねて置いてあった。錆びた釘が何本も残っている。
ラウは、その板の前で止まった。
しゃがみ込み、一本の釘へ触れる。
「これか」
「はい」
「お前が打ったのは」
「はい」
返事をするたび、喉が狭くなった。
ラウは釘を抜かなかった。
板を踏み割りもしない。
ただ、木目に沿って走る割れ目を指でなぞった。
「ここまで来たのは、連れていかれてから三月ほどあとだった」
文治は黒い手帳へ手を伸ばしかけた。
途中で止める。
「書いてもいいですか」
ラウが振り返った。
「昨日は、勝手に書いていた」
「試合の事実でしたから」
「これは事実じゃないのか」
「事実です。でも、あなたの暮らしでもある」
ラウは少し考えた。
「黒ではなく、赤へ書け」
「未確認ですか」
「俺から聞いただけだ。家族に確かめていない」
文治は赤い手帳を開いた。
その答えが嬉しかった。
嬉しいと感じた自分を、すぐ疑いそうになった。
やめた。
疑う代わりに、薄茶の手帳へ書いた。
――ラウに書いてよいと言われ、嬉しい。
「三冊とも、相変わらず面倒だな」
「増やすつもりはありません」
「四冊目は何にする」
「許されたことだけを書く帳面でしょうか」
「一頁も埋まらないぞ」
「朝から厳しいですね」
ラウの口元が、ほんの少し上がった。
文治は、その笑いを黒にも赤にも書かなかった。
自分だけが覚えていてよいものもある。
◇
ラウは井戸の縁へ腰掛けた。
短い翼が石へ触れないよう、身体を少し前へ傾けている。
「連れていかれた日、俺たちは別々に調べられた」
文治は赤い手帳へ書いた。
一語ごとに、鉛筆が重くなった。
家は取り上げられた。
父は荷運びの仕事を失った。
母は鳥人の居住区へ戻ることも、人間の居住区へ入ることも認められず、町から町へ移った。
ラウは競技資格を失い、雑役をしながら文字と計算を学び直した。
三人が同じ家で暮らせるようになるまで、何年もかかった。
ラウは淡々と話した。
どこで泣いたかは言わなかった。
誰を憎んだかも、ほとんど言わなかった。
そのため文治は、余計に苦しかった。
自分の想像で行間を埋めたくなる。
寒かっただろう。
寂しかっただろう。
自分を待っていただろう。
どれも、文治が勝手に作るラウだった。
「そのとき、どう思ったんですか」
何度目かの問いに、ラウが眉を寄せた。
「毎日、同じ気持ちだったと思うか」
「……思いません」
「お前を殺したいと思った日もあった。記事を書いてくれてよかったと思った日もあった」
文治の鉛筆が止まった。
「よかった?」
「母が、お前の紙を一枚持っていた」
ラウは井戸の底を見た。
「役人が家を探すのに使った、あの紙だ。俺は捨てろと言った。母は捨てなかった」
「なぜ」
「俺が落城したと書いてあるからだ」
朝の風が、井戸の口へ吸い込まれた。
文治には、すぐ言葉の意味を受け止められなかった。
「公式の記録から、俺の試合は消えた。違反者の一覧にしか名前が残らなかった。だが、お前の紙には、低く飛んで二人を抜いたラウがいた」
ラウは両手を組んだ。
「俺は、あの紙が嫌いだった。家を失った日の匂いがした。だが、全部が嘘だったことにされるのも嫌だった」
文治の目から涙が落ちた。
赤い頁に丸い染みができる。
「泣くな」
「無理です」
「いい話にするな」
「しません」
「俺は、記事があってよかったと言っているんじゃない」
「分かっています!」
声が大きくなった。
文治は手帳を閉じ、胸へ押しつけた。
「分かっています。私が書いたことが正しかったなんて言ってほしくない。そんなことを言われたら、私はきっと飛びつくからです。ほら、書いてよかった、いまのラウにつながった、全部無駄ではなかったと、自分を許す材料にする!」
息が震えた。
「私は、あなたに許してほしい。許される資格がないと言いながら、本当は許してほしいんです。もう苦しまなくていいと言ってほしい。あなたが生きていたと知って、嬉しかった。ご家族が生きていると聞いて、よかったと思った。暮らしを奪われたと続けて聞いても、その嬉しさは消えなかった。そんな自分が、嫌なんです!」
言葉を止められなかった。
井戸の縁を拳で叩いた。
「私はいつも、自分の気持ちが汚れていないか確かめてばかりいる。人を心配しながら記事になると思った。助けたいと思いながら必要とされたかった。井戸を守りたいと言いながら、向こうの人たちを原稿料に変えようとした。どこまで疑っても、きれいな理由なんか一つも出てこない!」
喉が痛んだ。
それでも、最後まで言った。
「私は、正しいから書いているんじゃない。書かずにいられないから書いている。読んでほしい。金もほしい。褒めてほしい。あなたにも、もう一度、私の記事を読んでほしい! でも、あなたをまた傷つけるのは嫌だ。全部、本当なんです。どれか一つだけを、きれいな動機として選べないんです!」
声が井戸の中へ落ちていった。
返事の代わりに、遠い水滴のような音が返る。
文治は俯いた。
「……すみません。また、自分のことばかり」
「薄茶へ書け」
ラウが言った。
文治は顔を上げた。
「いま言ったことを、全部だ」
「長すぎます」
「俺の十六年よりは短い」
「それは、そうですが」
文治は薄茶の手帳を開いた。
最初に、こう書いた。
――ラウに許してほしい。
隠さず見せた。
ラウは頁を読み、頷きも、否定もしなかった。
「それは、お前の事実だ」
「願いでは」
「許された、なら願望だ。許してほしい、は今のお前に起きていることだ」
文治は、その言葉も書き加えた。
「許すかどうかは、まだ決めない」
「はい」
「話も、今日だけでは終わらない」
「はい」
「それでも聞くか」
文治は手帳を閉じなかった。
「聞きます」
◇
朝が昼へ近づくまで、二人は井戸端にいた。
十六年のすべては、とても話せなかった。
それでよかった。
今日一日で埋めてしまえば、また文治の欲しい結末になる。
ラウは、次に北境へ来る日を話した。記録局の仕事で、登録審査の追加確認があるという。
次がある。
その言葉を聞くたび、文治は安心した。
同時に、次も必ず会えると思い込むなと、自分へ言い聞かせた。
別れる前、ラウは板に残った釘を一本だけ抜いた。
錆びた軸は曲がっていた。
「持っていろ」
「私が?」
「二度と使わないためだ」
文治は受け取った。
掌へ赤い錆がついた。
「捨ててもいいですか」
「好きにしろ」
文治はしばらく釘を見ていた。
それから井戸の脇へ置かれた屑鉄の箱へ入れた。
「持っていないのか」
「過ちを忘れないために、過ちの道具を一生持ち歩く必要はないと思います」
言い切ったあと、自信がなくなった。
「……たぶん」
ラウは鼻で笑った。
「それでいい」
二人は井戸を離れた。
板はまだ脇にあった。
だが、井戸の口には何も載っていなかった。
◇
フェル印刷工房では、ティナが一行目の活字だけを組んで待っていた。
――北境倶楽部は、負けた。
「遅い」
「十六年分、話していました」
「半日で足りたのか」
「足りませんでした」
「なら、次にしろ。今日は今日の紙を出す」
机には文治が昨夜書きかけた原稿と、ラウの署名入りの試合記録の写しが置かれていた。
文治は椅子へ座った。
黒、赤、薄茶の手帳を並べる。
書き始めた。
北境倶楽部は、負けた。
前半を十二対三で折り返し、後半に十一点を失った。ガドを欠いた地上の守りは天翼団の重さに削られ、終盤、球を持たない翔け手の翼をキリクがつかんだ。罰門が決まり、十二対十四で試合は終わった。
ナジャがエルンを二度止めたことを書いた。
ヨナが受け手の一拍目を消したことを書いた。
天翼団が空中継ぎに固執せず、地上の攻めへ切り替えたことを書いた。
キリクが反則を認めたことを書いた。
反則の理由を、美談にはしなかった。
王者の勝利を、北境の悲劇の背景にも置かなかった。
ヨナの登録異議と、試合結果が別に記録されたことを書いた。
北境倶楽部の今季成績を書いた。
一勝、一敗、一無効。
地方決勝敗退。
書くたび、悔しさが戻った。
最後の罰門が外れた光景を、まだ想像できた。
北境が歓声の中で勝つ最終回を、いまからでも作れた。
文治は薄茶の手帳へ書いた。
――勝たせたい。
そして黒い手帳へ戻った。
――十二対十四。
夕方、原稿を北境倶楽部の練習場へ持っていった。
九人と、柵の外にいるガドへ、一行ずつ読み上げた。
キリクは、自分の反則の箇所で嘴を固く結んだ。
「削らないのか」
「削りません」
「俺がヨナを守ろうとしたことは」
「あなたの言葉として書きました。反則ではなかったとは書きません」
キリクは土を見つめた。
「それでいい」
ナジャは、エルンを止めた箇所を二度読ませた。
「八百長を晴らした、とは書かないのね」
「あなたが相手選手を止めた、と書きます」
「恋人を本気で倒した、とも?」
「書きません」
「なら、いい」
ヨナは、得点より登録異議の付記を長く見ていた。
「私が小さいことは」
「本文には必要な箇所だけ書きました。見出しにはしません」
「小人族が壁役をするのが常識外だということは」
「書きます。だからこそ、規則に禁じる文言がないことも書きます」
ヨナは頷いた。
「では、私が特別だから認められた話にはしないでください。次の小人族も、同じ試験を受けられるように書いてください」
「はい」
ガドは、最後まで何も言わなかった。
文治が読み終えると、大きな手を上げた。
「俺の名が、ほとんどありません」
「試合に出ていませんから」
「そうでした」
少し寂しそうに笑う。
「明日の練習には来る、と書きますか」
「来たら書きます」
「厳しいですね」
「まだ来ていません」
オルガが短く笑った。
笑いは九人へ広がらなかった。
けれど、誰もガドから目を逸らさなかった。
亀裂が消えたわけではない。
明日から、また一緒に立てるか確かめる。
その途中にいることを、文治は書いた。
◇
最後に、文治は全員へ尋ねた。
「東京から、もう一人の記者を連れてきたいと思っています」
空気が変わった。
キリクの翼が広がる。
「また勝手に書く奴か」
「勝手に書くかもしれません」
「連れてくる人間の言い方じゃない」
「私にも止められません。記者は、見たものを自分で判断して書きます」
「なら、なぜ連れてくる」
「私より制度を調べられるからです」
文治は鷹野の依頼を、最初から話した。
帝都公論という大きな新聞のこと。
井戸を守れるほどの金を提示されたこと。
全取材帳の開示と、独占掲載と、現地同行を求められたこと。
自分が、皆に聞かず断ったこと。
「金がほしいです」
文治は、逃げずに言った。
「あの井戸を守りたい。『井底通信』を読んでもらいたい。東京でも、ここで起きたことを残したい。でも、そのために皆さんを売るのは嫌です」
拳を握った。
「私一人では、どこからが取材で、どこからが裏切りなのか、また分からなくなると思います。だから、決めてください。鷹野さんをここへ入れてよいか。嫌なら断ります。ただ、断る理由を、皆さんを守る私の正しさにはしません。怖いから断る。独占したいから断る。そういう私の気持ちも含めて考えます」
沈黙が落ちた。
文治は、賛成してほしかった。
井戸を守る金がほしかった。
断られたくなかった。
その欲を隠し、純粋な相談のふりをする方が卑怯だった。
オルガが尋ねた。
「条件をつけられるのか」
「つけます。井戸の場所は書かせない。取材を受けるかは、一人ずつが決める。名前や家族のことは、本人が拒めば使わせない。私の手帳も全部は渡さない。試合記録と制度は隠しません」
「守らなければ」
「追い出します」
キリクが鼻を鳴らした。
「お前にできるのか」
「一人では無理です」
文治は全員を見た。
「だから、一緒に追い出してください」
リオが吹き出した。
「それなら、ガドを入口に置けばいい」
「処分中です」
「競技場の入口じゃない」
ガドが困った顔で拳を背へ回しかけ、途中で止めた。
「殴らずに追い出します」
「必ず、そうしてください」
文治が言うと、今度は何人かが笑った。
ナジャは笑わなかった。
「私とエルンのことを聞かれたら、答えない」
「それでいいです」
「答えないことを、怪しいと書かれたら」
「私も抗議します。それでも書くなら、鷹野さんが書いたという事実を、私が書きます」
ナジャは、しばらく文治を見た。
「連れてきて」
ヨナも言った。
「私がなぜ壁役なのか、本人へ聞く人なら」
「聞かない人なら?」
「一拍目で止めます」
「競技場の外では、ぶつからないでください」
「冗談です」
ヨナの顔は、いつもどおり真剣だった。
どこまで冗談か、文治には分からなかった。
全員が同じ気持ちではなかった。
歓迎する者も、警戒する者もいる。
それでも、条件つきで一度会うことが決まった。
文治は黒い手帳へ書いた。
――北境倶楽部、鷹野記者との面会を承諾。取材への同意は各人が別に決める。
許可と、白紙委任を同じにしなかった。
◇
号外が刷り上がったのは、日が沈んだあとだった。
圧盤が下りる。
紙へ文字が移る。
墨の匂いが、工房いっぱいに広がった。
ティナが一枚目を持ち上げる。
黒い見出しの下に、十四と十二が並んでいる。
文治は本文の最後へ、こう書いた。
――私は、北境倶楽部に勝ってほしかった。
――だからこそ、王都天翼団の十四点と、北境倶楽部の十二点を、そのまま記さなければならない。
――勝利だけが、歴史ではない。
ティナが読み終える。
「感想が本文に入っている」
「はい」
「薄茶ではないのか」
「私が北境を応援していたことは、この記事がどこから書かれたかを示す事実です。隠した方が、公平な記者のふりになると思いました」
「言い訳にも読めるぞ」
「読めます」
「なら、どうする」
「名前をつけて載せます。誰が書いたかを隠しません」
ティナは紙の上の署名を指で叩いた。
浦上文治。
「分かった。刷る」
二人で夜明けまで印刷した。
ラウも残った。
記録官の仕事ではないと言いながら、乾いた紙を重ね、ずれたものを除いた。
「この紙も記録局へ置けますか」
文治が尋ねる。
「公式記録にはならない」
「分かっています」
「参考資料としてなら置ける」
「お願いします」
ラウは一部を、自分の書類鞄へ入れた。
「十六年前の紙の隣に置く」
文治は返事ができなかった。
泣けば、ティナに紙を濡らすなと言われる。
そのため、奥歯を噛んで圧盤を下ろした。
◇
二日後、文治は東京へ戻った。
逃げるのではない。
そう言い切りたかった。
だが、井戸を下りる前には、やはり怖くなった。
向こうで鷹野が条件を拒んだら。
黒瀬が、もう来るなと言ったら。
金を作れず、三か月後に井戸を失ったら。
戻ると言っておきながら、また十六年かかったら。
薄茶の手帳へ、全部書いた。
ティナは井戸端まで見送りに来た。
「何日で戻る」
「七日」
「黒へ書くなよ」
「まだ約束ですから」
「今度は、板を持っていくな」
「持っていきません」
ラウは来なかった。
記録局の仕事へ戻ったのだと聞いた。
寂しかった。
それでよいとも思った。
ラウの暮らしは、文治を見送るためにあるのではない。
「ティナ」
「何だ」
「戻ってきてよかったと、もう一度言ってもらえますか」
「一度言った」
「何度聞いてもいいでしょう」
「よくない」
文治は肩を落とした。
ティナが、鞄の口を閉め直した。
「七日後に戻ったら言う」
文治は顔を上げた。
「必ず言ってください」
「戻ったという事実を確認できたらな」
文治は頷き、井戸へ下りた。
◇
東京へ出たとき、空は朝だった。
石炭煙と味噌汁の匂い。
遠くで電車が軋み、号外売りの声が路地を走っている。
文治は旧宅の机へ向かわず、そのまま新橋へ出た。
東都夕報の編集部では、黒瀬が電話へ怒鳴っていた。
「浦上、死人みたいに立つな。用があるなら待て」
「生きています」
「見れば分かる」
黒瀬は受話器を置いた。
「負けたか」
文治は驚いた。
「なぜ」
「勝っていたら、もっと腹の立つ顔で入ってくる」
「私は、勝つと腹の立つ顔になるんですか」
「勝った意味を考えすぎて、周りへ答えを要求する顔だ」
反論できなかった。
文治は号外と原稿を机へ置いた。
「十二対十四です」
黒瀬は最初に数字を見た。
次に、一行目を読んだ。
一枚ずつ、黙ってめくる。
文治は机の前で待った。
連載を始めた日より、打ち切りを告げられた日より緊張した。
これは、載せてもらうためだけの原稿ではない。
自分が何を見て、何を見なかったかを、もう一度この男へ差し出している。
「面白い」
黒瀬が言った。
文治の胸が、わずかに痛んだ。
だが、以前のように原稿を奪い返したくはならなかった。
「面白くなければ、困ります」
「人が負けた記事だぞ」
「負けた人を笑う面白さではありません。どうなるか知りたいと思って読んで、読んだあとに、そこにいた人を忘れにくくなる。そういう記事にしたかった」
「なったと思うか」
「分かりません。だから読者に渡します」
黒瀬は、原稿の最後を指で叩いた。
「東都夕報に欄はない」
「分かっています」
「載せろと言いに来たんじゃないのか」
「載せてほしいです」
文治は正直に言った。
「ですが、欄がないなら、別の場所を探します。権利は返してもらいました」
「誰に売る」
「鷹野さんと、もう一度話します」
編集部の入口から、咳払いがした。
鷹野壮一郎が立っていた。
「呼ばれる前から来るのは、記者の悪い癖ですね」
「待ち伏せですか」
「約束の続きを聞きに来ました」
鷹野は空いている椅子へ座った。
文治は、北境で決めた条件を一つずつ話した。
井戸の場所は公にしない。
同行できるのは鷹野一人。
取材を受けるかは、一人ずつが決める。
名前と私生活は、本人の拒否を越えて使わない。
試合記録と制度上の事実は、隠さない。
文治の取材帳は、必要な箇所を本人が読む。全冊は渡さない。
北境側には、鷹野の記事へ反論する紙があること。
「以上を守れないなら、同行は認められません」
鷹野は表情を変えずに聞いていた。
「独占掲載は」
「認めません。『井戸端新聞』は、向こうで同じ事実を書きます。私も、自分の名で書く権利を手放しません」
「全取材帳の開示もなし」
「はい」
「こちらが提示した金額は欲しい」
「欲しいです」
文治は拳を握った。
「井戸を守るために必要です。安くてよいと言えば、きれいに聞こえるでしょう。でも、安くはできません。私は金がほしい。読者もほしい。記事を書く時間も、北境へ戻る道もほしい」
声が震え始めた。
恥ずかしさではない。
これを拒まれたら、井戸を失うかもしれないという恐怖だった。
「その代わり、働きます。あなたが制度を調べるなら、私は一人ずつの声を聞く。私が誰かを美談にしそうになったら、あなたが止めてください。あなたが人を仕組みの部品にしたら、私が書きます。仲よく正しい記事を作るとは約束しません。互いに間違いを残したまま、同じ事実を調べたい」
息を吸った。
「これが、私の条件です」
鷹野は、しばらく何も言わなかった。
文治は逃げたくなった。
もっと柔らかく言えばよかった。
金額だけでも下げればよかった。
全冊ではなく二冊なら見せると言えば。
そんな考えが次々に浮かぶ。
どれも、薄茶の手帳に置くべき恐怖だった。
鷹野が、原稿へ手を伸ばした。
最後まで読む。
机の上へ戻した。
「条件を一つ加えます」
「何です」
「私は、君の監督役ではありません。君が人を美談にしたら、私はそれを書きます。私が人を部品にしたら、君が書けばいい。止めてもらえると思わないことです」
文治は鷹野を見た。
「分かりました」
「なら、引き受けます」
「金額は」
「先日のままです」
「連載の題は」
「『井底通信』です」
「帝都公論の読者には、何のことか分かりません」
「第一回で説明します。題は変えません」
鷹野は黒瀬を見た。
「権利は返した」
黒瀬が言った。
「題も、続きも、こいつが持っていけばいい」
鷹野は頷いた。
「では、新しい第一回は、この敗北から始めましょう」
全身から力が抜けた。
机へ手をつく。
「……よかった」
涙が出た。
鷹野が少し身を引く。
「泣くところですか」
「井戸が残るんです」
「まだ契約書へ署名していません」
「いま書きます」
「内容を読んでからにしてください」
黒瀬が鼻で笑った。
「少しは成長したかと思えば、金の前では同じだな」
「欲しかったんです。本当に」
文治は袖で目を拭った。
欲しかったと言えることが、少し嬉しかった。
欲のない善人のふりをしなくてよい。
欲しいもののために、誰と何を約束するかを決めればよい。
黒瀬が尋ねた。
「東都夕報はどうする」
文治は黙った。
ここで記者になった。
取材の仕方を教わった。
何度も怒鳴られ、何度も原稿を直され、見たことだけを書けと叩き込まれた。
辞めたくなかった。
だが、二つの新聞に同じ身体を売ることはできない。
「辞めます」
声が掠れた。
「東都夕報を辞めます」
「新聞記者もか」
「辞めません」
文治は顔を上げた。
「どこに雇われても、雇われなくても、私は新聞記者です」
黒瀬は煙草へ火をつけた。
煙を吐くまで、何も言わなかった。
「退職の挨拶にしては長い」
「すみません」
「七日分の引き継ぎをしろ」
「七日ですか」
「不満か」
文治は、北境へ七日で戻ると約束していた。
黒瀬が知るはずはない。
それでも、胸が熱くなった。
「いいえ。間に合わせます」
「締切だ」
「はい」
文治は頭を下げた。
涙が床へ落ちた。
黒瀬は見ないふりをした。
◇
七日目の朝。
文治は兄へ、土地の残額を渡した。
鷹野との契約で受け取った最初の金だった。
兄は札を数え、受取書を書いた。
「本当に、記事で作った金か」
「はい」
「人を騙していないだろうな」
「騙していないと思います」
「思う、か」
「絶対だと言う記者の方が、信用できないでしょう」
兄は呆れた顔をした。
「ラウには会えたのか」
「会えました」
「殴られたか」
「額を一発」
「それで済んだのか」
「二発目は、これからだそうです」
兄は初めて、少し笑った。
それから、井戸のある土地の書類を文治へ渡した。
「もう、お前の井戸だ」
文治は紙を受け取った。
軽い紙だった。
十六年閉じていた道の重さが、そこに載っているように感じた。
「兄さん」
「何だ」
「ありがとう」
「礼は、今度こそ聞いた」
兄は帰っていった。
◇
文治は古井戸の前に立った。
鞄には三冊の手帳がある。
黒。事実。
赤。未確認。
薄茶。感情。
その横に、『井戸端新聞』の号外を入れた。
東京で刷るための『井底通信』の原稿もある。
東都夕報での連載は終わった。
北境倶楽部も、地方決勝で負けた。
ラウには、まだ許されていない。
ヨナの登録審査も続いている。
ガドが明日の試合へ戻れるわけでもない。
何一つ、きれいには終わっていない。
それでも、井戸は開いている。
文治は内壁の足場へ靴を置いた。
一段ずつ下りる。
東京の音が遠ざかる。
石炭煙の匂いが薄れ、冷えた石と土の匂いが近づいた。
暗闇の境を越える。
足裏が、白い石の足場を捉えた。
上る。
一段。
二段。
三段。
北境側の井戸口から顔を出した。
ティナが腕を組んで待っていた。
「七日だ」
「戻りました」
「見れば分かる」
「言うと約束しました」
ティナは目を細めた。
文治は待った。
「戻ってきて、よかった」
胸の奥が熱くなった。
「はい」
涙が出そうになったが、今度は笑えた。
練習場の方角から、笛が鳴った。
球を蹴る音が続く。
ガドの太い声が聞こえた。
すぐにオルガの怒鳴り声が重なる。
誰かが笑った。
「始まっています」
文治は井戸から地面へ上がった。
「試合か」
「いいえ。練習です」
黒い手帳を開く。
新しい頁へ、日付を書く。
――七日後、北境へ戻った。
約束を、事実へ移した。
その下へ、もう一行。
――北境倶楽部、練習を再開。
「文治」
ティナが呼んだ。
「早く来い。次の号を出すぞ」
文治は走り出した。
鞄の中で、三冊の手帳と二つの新聞がぶつかり合った。
彼らは負けた。
だからこそ、記者はその試合を書かなければならない。
勝利だけが、歴史ではない。




