第23話 二点の距離
ナジャとエルンの身体が、真正面からぶつかった。
肉と革が打ち合う、鈍い音。
エルンの翼が大きく揺れる。
だがナジャは、右にも左にも流れなかった。エルンの見せた左翼の沈みに釣られず、その胸へ肩を入れている。
足が土を削った。
一歩。
二歩。
押し込まれながらも、ナジャの腕は離れない。
エルンの背が、地面へ落ちた。
観客席から、悲鳴と歓声が同時に上がった。
文治の手から、鉛筆が滑りかけた。
止めた。
ナジャが、エルンを止めた。
胸の底から喜びが突き上げてくる。
これで疑いが晴れる。
そう思った自分を、文治はすぐに否定した。
違う。
これは八百長疑惑への返答ではない。
恋人を本気で倒したという証明でもない。
ナジャが、球を持った相手選手を倒した。
いま黒い手帳へ書けるのは、それだけだ。
エルンの左腕から球がこぼれた。
地面を跳ね、二人の脇を抜ける。
誰より早く動いたのはヨナだった。
低い身体をさらに沈め、滑り込む。球を抱え込まず、掌で味方側へ弾いた。
「ミロ!」
掘り手のミロが拾う。
天翼団の壁役が迫る前に、右へ渡した。キリクが地面すれすれを飛び、横から球を受ける。
一拍。
二拍。
三拍目で着地。
追いついた白斑の翔け手へ身体を寄せられる寸前、後ろを走るリオへ球を落とす。
前へは投げない。
球を受けた者が、前へ出る。
北境倶楽部が何度も失敗して作った形だった。
リオが一人をかわし、オルガへ渡す。
オルガは城域の直前で捕まった。
それでも倒れながら、球を背後へ残す。
起き上がったナジャが来ていた。
エルンを倒したことを確かめるためではない。
次の球を運ぶために。
ナジャが城域へ飛び込み、球を地面へ押しつけた。
落城。
五点。
灰白旗が一斉に揺れた。
続く門射も、二本の柱の間を通る。
七対零。
文治は黒い手帳へ得点を書いた。
数字の横へ「ナジャ」と記す。
その名を書いただけで、目の奥が熱くなった。
「泣くのはあとにしろ」
ティナが言った。
「泣いていません」
「紙へ染みを作るな」
文治は手の甲で目を拭った。
「嬉しいんです」
「薄茶へ書け」
文治は薄茶の手帳を開いた。
――ナジャが止めた。嬉しい。
さらに書きたくなった。
――疑いを晴らした。
そこまでは書かなかった。
◇
王者は、七点を失っても急がなかった。
天翼団の九人は一度だけ集まり、短く言葉を交わした。白銀の上着が散ると、空中継ぎの回数を減らし始めた。
ヨナが受け手の一拍目を消せば、地上へ戻す。
キリクが空へ寄れば、翼を畳んで走る。
北境が二人へ集中すれば、残る七人で球を運ぶ。
「二人の翔け手は、攻めるためだけじゃない」
文治は呟いた。
「こちらの守りを二人へ向けるためか」
ティナが返す。
「はい。飛ばなくても、いるだけで空を守らせる」
天翼団の球が後ろへ回った。
北境は追った。
だが、追うたびに半歩ずつ遅れる。
声を交わさずとも、天翼団は球の次にいる。北境は声を出し、位置を確かめ、そこから走る。その短い差が、球を自陣へ運んでいった。
城域の手前で、北境の守りがようやく揃う。
天翼団の蹴り手が球を地面へ落とした。
一度だけ弾ませる。
足の甲が、乾いた音を立てた。
球は北境の頭上を越え、門の間を通った。
飛び門。
三点。
七対三。
文治は得点を直した。
黒い数字が増えるだけなのに、胸の中へ冷たいものが落ちた。
北境に勝ってほしい。
薄茶に書いた感情は、天翼団の得点を認めたくないと叫んでいる。
だが、蹴りは見事だった。
守りが揃う一息前を選び、北境が届かない高さへ上げた。
文治は黒い手帳へ、その距離と時刻を書いた。
天翼団の得点にも、北境と同じだけの行を使った。
◇
前半の終わりが近づくにつれ、ヨナの呼吸が荒くなった。
天翼団は彼女へ正面からぶつからない。
代わりに、何度も走らせた。
右の翔け手が一拍目を見せ、地上へ戻す。左でエルンが翼を開き、球は中央へ渡る。ヨナが向きを変えるころには、次の受け手が反対側へいる。
小さな身体は、走る歩数が多い。
一歩を消すために、他の選手の二歩を走らなければならなかった。
「ヨナ、下がれ!」
オルガが叫ぶ。
「まだです」
声は掠れている。
「その足では、次に間に合わん」
「次ではなく、次の次へ行きます」
ヨナは球を見なかった。
白斑の翔け手が後方で助走へ入る場所へ、先に走った。
エルンが球を持ち、飛び上がる。
一拍。
二拍。
白斑へ渡そうとする。
だが、一拍目を踏む場所にヨナがいる。
白斑の翔け手が足を止めた。
エルンの手に、球が残る。
三拍目。
着地する場所へ、今度はキリクが入った。
「こっちは空だ!」
キリクが叫んだ。
空にいる者が、地面の壁を作った。
エルンは着地を外へずらす。
ナジャが球へ飛びつき、後ろへ掻き出した。
ミロが拾う。
球は四人の手を渡った。
最後に受けたリオが、城域へ滑り込む。
二度目の落城。
十二対三。
門射は外れた。
それでも、前半終了の笛が鳴ると、灰白旗の側から地鳴りのような歓声が起きた。
十二対三。
王者を九点、上回っている。
文治は数字を何度も見た。
夢ではない。
黒い手帳に書ける。
「勝てる」
声が漏れた。
「まだ半分だ」
ティナが言う。
「九点差です」
「だから何だ」
「これなら――」
勝てる、ともう一度言いかけた。
黒瀬に見せる最終回が、頭に浮かんだ。
小人族の壁役が王者の空を止め、傷ついた九人が一つになり、文治の連載は大団円を迎える。
東京で書いて捨てた結末と同じだった。
文治は唇を噛んだ。
「私は、もう記事の最後を考えています」
「試合中だぞ」
「分かっています。でも、止まらないんです。勝ったら何と書くか。誰の言葉を最後に置くか。ヨナさんを見出しにするか。ナジャさんとエルンさんをどう書くか。まだ半分なのに、もう皆さんを紙の中へ押し込めようとしている」
文治は頭を抱えた。
「どうして私は、待てないんですか。目の前で生きている人を、どうしてすぐ結末にしたがるんですか!」
歓声の中で、自分の声だけが空虚に聞こえた。
「勝ってほしい。勝った記事を書きたい。私が書いた人たちが正しかったと、東京の読者にも黒瀬さんにも見せたい! 北境を信じた私まで、正しかったことにしたいんです!」
吐き出すと、胸が痛んだ。
チームを応援する気持ちに、自分を認めさせたい欲が混じっている。
汚れていると思った。
ティナは、競技場から目を離さなかった。
「薄茶へ書け」
「それだけですか」
「感情をなくしてから記事を書くつもりなら、一生締切に間に合わない」
文治は顔を上げた。
「勝ってほしいお前が見る。負けるのが怖いお前も見る。それでも、起きたことは黒へ書く。それしかない」
文治は震える手で、薄茶の手帳を開いた。
――北境の勝利で、自分まで正しかったことにしたい。
書いた。
醜い願いは、消えなかった。
だが、黒い手帳からは離れた。
後半開始の笛が鳴る。
文治は顔を上げた。
◇
後半、天翼団は空を捨てた。
九人が密集し、地上で球を抱える。
北境の壁役だったガドは、観客席にいる。
代わりに立つヨナは、正面から大きな身体を受け止めない。最初の足をずらし、進路を外へ向ける。
だが、一人をずらしても、次が来た。
天翼団の肩が重なり、倒れた者の後ろから球が出る。北境の選手が二人で止めれば、別の一人が薄くなった場所へ入った。
押し組みではない。
それでも、ガドのいない穴へ、体重を一歩ずつ置いてくる。
ヨナが倒れた。
起き上がる。
また倒れた。
肩当ての紐が切れた。
試験登録を見守る監督員が、身を乗り出す。
「続けられます」
聞かれる前に、ヨナが言った。
「自分で決めるな!」
オルガが怒鳴る。
「立てるかどうかは言え。出すかどうかは俺が決める!」
ヨナは唇を結んだ。
「立てます」
「なら、次の一度までだ」
守るために本人から選択を奪わない。
任せるという言葉で、責任を一人へ押しつけない。
オルガもまた、迷いながら主将をしていた。
天翼団が再び来る。
ヨナは正面へ入らなかった。
最初の一人の足を外へ向ける。
しかし、後ろから二人目が内へ切った。
北境の壁役が肩を当てる。
止まらない。
三人目へ球が渡る。
城域へ押し込まれた。
落城。
十二対八。
天翼団の門射は外れた。
文治は得点を直した。
九点あった差が、四点になった。
観客席のガドが、両手を握っている。
大きな掌の中で、布を巻いた拳が震えていた。
自分がいれば止められた。
そう思っているのかもしれない。
文治は赤い手帳へ書いた。
――ガド、得点後に拳を握る。理由は未確認。
◇
北境の足が遅れ始めた。
天翼団の球を追い、空と地上を往復させられた疲れが、一歩ずつ表へ出る。
ヨナの合図にキリクが半拍遅れる。
ナジャがこぼれ球へ届かない。
ミロの渡しが、味方の背へ当たる。
それでも、十二点を守った。
残り時間が削れていく。
天翼団の地上役が球を持ち、北境の城域へ迫る。
北境の壁役が飛び出した。
その時点で、球はすでに後ろへ渡っていた。
球を持たない選手へ肩が当たる。
笛が鳴った。
「接触反則。天翼団、罰門」
北境の選手が頭を抱えた。
わざとではない。
しかし、球を持つ者だけを倒せる。疲れて見失ったことは、反則でない理由にはならなかった。
天翼団の蹴り手が、球を置く。
競技場が静まった。
蹴り上げられた球が、門の間を通る。
三点。
十二対十一。
一点差。
文治の指が冷たくなった。
勝ってほしい。
その感情が、今度は祈りではなく、恐怖になって薄茶の頁を埋めた。
――頼む。
――終わってくれ。
――このまま、何も起きないでくれ。
文治は書いた自分の言葉を見て、息を呑んだ。
何も起きないでほしい。
記者である自分が、そう願っている。
目の前で行われている試合を、もう見たくないと思っている。
「怖い」
声が漏れた。
「見ているだけなのに、怖いんです。身体をぶつけているのは私じゃない。負けるのも私じゃない。それなのに、もう逃げたい」
ティナが、文治の黒い手帳を指した。
「まだ終わっていない」
「分かっています」
「なら、見ろ」
「……はい」
文治は鉛筆を握った。
逃げたい自分を、椅子へ座らせたまま。
◇
残りは、あと一度の攻防だった。
天翼団が、二人の翔け手を左右へ開く。
北境は追わない。
空だけを見れば、地上を割られる。
ヨナは中央に残り、次の一拍目を待った。
球がエルンへ渡る。
ナジャが正面へ立つ。
今度は、誰も二人の関係を口にしなかった。
エルンの左の踵が浮いた。
渡す合図。
ナジャは動かない。
エルンは球を残したまま、地上を走った。
先ほどと同じ駆け引き。
ナジャが一歩、正面へ出る。
エルンも退かない。
二人の身体がぶつかった。
今度も、ナジャの足は流れなかった。
エルンを抱え、土へ倒す。
球が後ろへこぼれる。
観客が立ち上がった。
止めた。
北境が勝つ。
そう思った瞬間、反対側で笛が鳴った。
白斑の翔け手が地面へ倒れていた。
片翼を押さえている。
そのそばに、キリクが膝をついていた。
「何が」
文治は立ち上がった。
監督員が、キリクの手を指す。
「球を持たない選手の翼をつかんだ。飛翔妨害」
キリクの指に、白い羽が一本挟まっていた。
「違う、俺は……」
キリクはヨナを見た。
「あいつが、ヨナの背後へ降りようとした。ぶつかると思って――」
「球は、エルンさんが持っていました」
ヨナの声は静かだった。
「分かっている」
「私は避けられました」
「分かっている!」
キリクが叫んだ。
その声は、言い訳ではなく、自分へ向けた怒りに聞こえた。
「分かっていたのに、手が出た。お前を守るつもりで、選ぶ権利を奪った。俺が……俺がやった」
キリクは羽を手放した。
「天翼団、罰門」
審判が告げる。
残り時間は、ほとんどない。
三点が入れば、十二対十四。
文治は、黒い手帳へ反則を書いた。
手が震え、文字が歪んだ。
書きたくなかった。
キリクの反則をなかったことにしたかった。
ヨナを守ろうとした、と黒い頁へ加えたかった。
だが、守るつもりだったことは、翼をつかんでよい理由にはならない。
その理由を本人が口にしたことは書ける。
反則と、動機を、同じものにせず記した。
天翼団の蹴り手が球を置く。
白銀旗も、灰白旗も揺れていない。
風が止まったようだった。
助走。
足が球を捉える。
高く上がった。
右へ逸れろ。
文治は願った。
外れろ。
外れてくれ。
球は、二本の柱の間を通った。
三点。
王都天翼団、十四点。
北境倶楽部、十二点。
直後に、試合終了の笛が鳴った。
音は聞こえた。
意味だけが、すぐには胸へ届かなかった。
北境が負けた。
九人は立っている。
得点板には十二と十四がある。
それなのに文治の中では、まだ九点差で勝っていた前半の景色が消えなかった。
「負けたんですね」
自分の声が、遠かった。
「ああ」
ティナが答えた。
「十二対十四で」
「ああ」
文治は黒い手帳を見た。
最後の行へ、何度も同じ数字を書きそうになった。
十二対十四。
書けば、本当に終わる。
書かなければ、まだ勝つ可能性が残るような気がした。
鉛筆が動かない。
「書け、文治」
ティナが、初めて名を呼んだ。
文治は奥歯を噛んだ。
涙で頁が滲んだ。
「嫌です」
子供のような声が出た。
「書きたくない。勝ってほしかった。あんなにやったんです。ヨナさんは何度も倒れた。ナジャさんは、何をしても疑われるのに正面へ出た。キリクさんだって、守りたかっただけなんです。ガドさんは出られないのに毎日練習へ来た。どうして、それで負けるんですか!」
涙が止まらなかった。
「努力したら勝てるんじゃないんですか。立ち直ったら、報われるんじゃないんですか。私は、そのために戻ってきたんじゃないんですか!」
言ってから、自分の傲慢さに気づいた。
戻ったから勝つ。
記事を書いたから報われる。
そんな約束を、競技は一度もしていない。
「……違う」
文治は泣きながら首を振った。
「私が戻ったことと、皆さんが勝つことは関係ない。書いたことも、立ち直ろうとしたことも、勝利を買う代金じゃない」
震える手で、鉛筆を頁へ置いた。
――試合終了。
――王都天翼団十四点。
――北境倶楽部十二点。
最後に、書いた。
――北境倶楽部、敗北。
文字を見た瞬間、胸の奥が裂けた。
それでも、目を逸らさなかった。
◇
ナジャは立ち上がり、倒れたエルンへ手を差し出した。
エルンはその手を取り、起き上がった。
「止められた」
「負けた」
「知っている」
「なら、笑うな」
「君が、俺を恋人ではなく相手選手として倒したからだ」
ナジャの顔が歪んだ。
「それを、恋の話にするな」
エルンは一度、目を伏せた。
「悪かった。いい止めだった」
「そっちこそ。いい勝ちだった」
二人は手を離した。
キリクは白斑の翔け手へ頭を下げた。彼女は翼を確かめ、骨に異常はないと答えた。それでもキリクは顔を上げられなかった。
ヨナが、その横へ立つ。
「守ってもらうために入りませんでした」
「分かっている」
「次は、先に聞いてください」
「……分かった」
ヨナはそれ以上責めなかった。
許したとも言わなかった。
観客席から、ガドが下りてくる。
競技場へ入る資格はない。柵の外で止まり、九人を見た。
「戻る場所は、ありそうですか」
文治が尋ねる。
ガドは、十二点の側に立つ九人を見つめた。
「聞くのは、今日ではありません」
「なぜ」
「今日は、あの九人が負けた日です。俺の話にしたくない」
文治は頷いた。
その言葉を、黒い手帳へ書いた。
◇
得点板の数字が下ろされる前に、競技院の職員が競技場へ入ってきた。
先頭にいるのは、地方競技院局長のセヴァン・ロークだった。
灰色の長衣をまとい、細い書類筒を抱えている。勝者へ杯を渡す顔ではなかった。
天翼団と北境倶楽部の両主将が呼ばれた。
文治も記者席を立つ。
「何ですか」
「まだ分からない」
ティナが紙束を抱え、あとを追った。
セヴァンは、ヨナの登録表を開いた。
「本日の試合結果は、ただちに確定しない」
オルガの顔が強張る。
「なぜだ」
「小人族を壁役として認めた試験登録について、地方競技院の権限を越えた判断だという異議が、六邦競技院へ提出されている」
「試合前に受理しただろう」
「異議は、受理後に出された。上級機関の判断によっては、ヨナ・ケルムの登録は無効となる」
「それなら、どうなる」
「登録資格のない選手を出場させた試合は、不成立だ」
文治の耳の奥で、何かが切れた。
また、不成立。
最初の十五対十二と同じ言葉。
今度は勝利ではない。
十二対十四で負けた試合まで、なかったことにする。
「ふざけるな!」
文治の声が競技場へ響いた。
セヴァンが眉をひそめる。
「記者は下がれ」
「下がりません!」
文治は黒い手帳を開いた。
「私は見た。ナジャさんが二度、エルンさんを止めた。ヨナさんが一拍目を消した。キリクさんが反則を犯した。天翼団が四度、得点した。最後の罰門が入った。十二対十四で、北境は負けた!」
涙で声が震えた。
「勝った試合を消すのも、負けた試合を消すのも同じです。都合の悪い人間がいたから、最初から試合などなかったことにする。そんな記録に何の意味がある!」
「正式な資格がなければ、公式試合とは認められない」
「あなたたちが試合前に認めたんでしょう!」
「手続きに瑕疵があった可能性を調べると言っている」
「だったら、手続きをした側が責任を取れ! 選手から、負けたことまで奪うな!」
自分でも、妙なことを叫んでいると思った。
負けを奪うな。
少し前まで、負けたと書くことさえ嫌だったのに。
「負けさせてください」
文治の声が掠れた。
「この人たちは戦った。十二点を取って、十四点を取られた。反則もした。最後に届かなかった。美談でも、奇跡でもない。ただ、負けたんです。だから、そのまま残してください!」
セヴァンは冷たい目で文治を見た。
「一記者の感情で、公式記録は決まらない」
「分かっています。だから、得点と時刻と選手名を全部出します。私の感情は薄茶の帳面に置く。黒には、起きたことだけがある!」
文治は手帳を突き出した。
セヴァンは見ようともしなかった。
「個人の取材帳は、公式記録の根拠にならない」
「では、何ならなるんです!」
「六邦競技院記録局の判断だ」
そのとき、セヴァンの後ろから声がした。
「ならば、確認します」
聞き覚えのある訛りだった。
十六年前、低い屋根の上から自分を呼んだ声。
文治の呼吸が止まった。
書類を抱えた記録官が、人の間から進み出る。
灰褐色の翼。
天翼団の者より短く、身体へ沿うように畳まれている。
頬には、少年のころにはなかった細い傷があった。
それでも、目だけは変わっていなかった。
記録官は得点板を見た。
十四。
十二。
次に、文治の黒い手帳を見る。
「久しぶりだな、ブンジ」
文治の手から、鉛筆が落ちた。
「……ラウ」




