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第22話 一拍目を奪え

 二つの翼が夜空へ消えても、誰もすぐには動かなかった。


 天翼団の置いていった球だけが、練習場の土に転がっている。


 三拍目を待たず、空中で後ろの翔け手へ渡す。


 受け取った者が飛び、また二拍目で渡す。


 一人は三拍を越えていない。前方へも投げていない。規則を一つも破らず、球だけが地面へ降りてこない。


 文治は黒い手帳を開いた。


 書こうとしたが、最初の線をどこから引けばよいのか分からなかった。


 エルンから白斑の翔け手へ。


 白斑からエルンへ。


 二人の位置は入れ替わり続け、地面へ書けば一本の線になるはずの球筋が、頭の中で輪になっていた。


「見せつけに来たのか」


 キリクが吐き捨てた。


 翼が半ば開いている。追いかけたいのを、身体だけで堪えているようだった。


「見せても勝てると思っているんだ」


 ナジャが言った。


「あの人たちは、隠して一度だけ通すより、見せたうえで私たちを六日間迷わせる方を選んだ」


「エルンらしい言い方だな」


 キリクの声に棘が混じった。


 ナジャの耳が伏せられる。


 文治の胃が縮んだ。


 修復したばかりの亀裂へ、エルンの名がまた楔を打った。


「やめてください」


 そう言いかけたとき、ヨナが球を拾った。


「教えてください」


 全員が彼女を見る。


「前へ投げてはいけないなら、受け取る人は、球を持つ人より後ろにいるんですね」


「横でもいい。だが、先にはいられない」


 キリクが答えた。


「後ろの人が追い越すには、地面を蹴る必要がある」


「そうだ」


「なら、球には三拍目がなくても、その人には一拍目があります」


 ヨナは球を地面へ置いた。


 小さな靴で、その横の土へ一本の線を引く。


「私は、ここへ行きます」


「どこだ、それは」


 オルガが尋ねる。


「次の翔け手が、飛ぶ場所です」


 キリクが首を横へ振った。


「無理だ。球を持っていない方まで見ていたら、今の持ち手を見失う」


「だから、あなたが持ち手を見てください」


「俺が?」


「空は、あなたの方が見えます。私は地面を見ます」


 ヨナの声に迷いはなかった。


 けれどキリクは、線の前で動かなかった。


「俺一人で、天翼団の二人を追えと言うのか」


「一人ではありません」


「地面にいるお前に、空の何が分かる」


 言葉が落ちた瞬間、全員の顔が強張った。


 キリク自身も、言ってから気づいたらしい。嘴を開き、閉じる。


 ヨナは怒らなかった。


「分かりません」


 静かに答える。


「だから、教えてください」


 その言い方が、キリクをさらに苦しませた。


「……今日は終わりだ」


 オルガが告げた。


「疲れた頭で続ければ、また誰かを相手の代わりに殴る。明日、最初から試す」


 キリクは何も言わず、背を向けた。


 文治はその背中を追いかけようとした。


 何を言うつもりなのか、自分でも分からなかった。


 励ますのか。叱るのか。ヨナへ謝れと言うのか。


 どれも、いまのキリクが自分へ向けている怒りに、別の名前をつけるだけのように思えた。


 足を止める。


 取材帳には、言葉だけを書いた。


 ――地面にいるお前に、空の何が分かる。


 その下は、空けておいた。


     ◇


 翌朝、キリクは誰より先に練習場へ来ていた。


 夜露の残る土に、長い線を何本も引いている。


 前方投球は禁止。


 したがって、二人目の翔け手は、球の真横か後ろから飛び始めなければならない。受け取ったあとに前へ出るには、必ず最初の羽ばたきが要る。


 ヨナが言った、一拍目だった。


「昨日は悪かった」


 ヨナが来ると、キリクは地面を見たまま言った。


「何がですか」


「地面にいるお前には分からないと言った」


「分かりません」


「だから、それを言ったことだ」


 ヨナは線の上を歩いた。


「あなたも、地面のことは分かっていません」


「そうだな」


「同じです」


「同じで済ませていいのか」


「済ませません。教え合います」


 キリクが顔を上げた。


 ヨナは、線の交わる場所を指した。


「ここで球を渡したら、次の人はどちらへ飛びますか」


「右が広い。だが、右へ見せて内へ切ることもできる」


「最初の足は」


「右だ。左へ行くとしても、空中で身体を返す」


「では、右足を置く場所を消します」


「簡単に言うな」


「難しく言えば、できますか」


 キリクが一瞬、言葉に詰まった。


「お前、意外と腹が立つな」


「よく言われます」


 少し離れたところで、ガドが笑った。


 出場停止中の彼は、練習着ではなく、厚い革の胴当てを抱えている。


「笑っていないで、相手役をしてください」


 オルガに言われ、ガドは胴当てを身につけた。


「俺は飛べません」


「知っている。飛ぶ前の道を塞げ」


「それなら、得意です」


 言ったあと、ガドの笑みが消えた。


 道を塞ぐ。


 身体の大きさで相手を黙らせる。


 自分が殴った二発目を思い出したのだろう。巻かれた拳を、無意識に背中へ隠した。


 文治はそれを見た。


 書こうとして、やめた。


 見た事実ではある。


 だが、拳を隠した理由はガドに聞いていない。


 赤い手帳へ、こう記した。


 ――笑ったあと、拳を背へ回した。理由は未確認。


 練習が始まった。


 天翼団の空中継ぎを完全には再現できない。北境で正式に翔け手を務められるのは、キリク一人だけだ。


 そこで、地上の選手二人が台へ上がり、球を横へ投げる。キリクが一拍だけ飛んで受け、また後ろの台へ返す。高さも速さも、本物には遠い。


 それでも、球だけを見ればヨナは遅れた。


 一度目。


 キリクが飛んだあとに動き、間に合わない。


 二度目。


 受け手へ先に寄りすぎ、地上の切り込み役に抜かれた。


 三度目。


 ガドの身体が視界を塞ぎ、キリクの一拍目を見失った。


「止めろ」


 オルガの声が飛ぶ。


「ヨナだけの失敗にするな。空の持ち手を追うのはキリク。次の受け手を知らせるのはナジャ。ヨナが一拍目を潰し、こぼれた球を残りで拾う。四人の守りだ」


「もう一度」


 キリクが息を整えた。


 四度目。


「右後ろ!」


 ナジャが叫ぶ。


 ヨナが走る。


 キリクは球の持ち手へ身体を寄せ、渡せる方向を一つ減らした。


 受け手が右足を踏み込もうとする。


 その場所へ、ヨナが先に肩を入れた。


 衝突はしない。


 受け手は足を外へ置き直す。飛び上がるのが一息遅れた。


 球が指先へ届かず、土へ落ちる。


「成功!」


 文治の口から声が出た。


 手帳を持ったまま、立ち上がっていた。


 全員がこちらを見る。


 文治は慌てて座り直した。


「……いまのは、記者席からの私語です」


「記者席などない」


 ティナが呆れた声で言った。


 練習場の端に置いた机で、試技記録を写している。


「それに、一度通っただけだ。成功と書くのはいいが、対策を見つけたとは書くな」


「書いていません」


 文治は黒い手帳を隠した。


 そこには、すでに大きな字で書いてあった。


 ――空中継ぎを止める方法。


 その文字が、急に恥ずかしくなった。


 一本の球を落としただけで、答えを見つけた気になった。


 黒瀬に求められた結末を、また自分から作ろうとしている。


 文治は「方法」の二字へ線を引き、横に書き直した。


 ――空中継ぎを止めた一例。


     ◇


 五度目は、失敗した。


 六度目も失敗した。


 七度目は球を落とさせたが、拾ったのは相手役だった。


 成功した形を繰り返すほど、相手役は慣れた。ヨナのいる場所を避け、地上へ戻し、ガドの背中を使って視界を切る。


 昼を過ぎるころには、ヨナの成功は十二回中三回まで下がっていた。


 キリクの苛立ちが、羽音に表れ始めた。


「もっと早く言え、ナジャ!」


「見えてから言っている!」


「それでは遅い。受け手が動く前だ!」


「動く前のことなんか分かるか!」


「お前なら分かるだろう」


 その一言で、ナジャの動きが止まった。


「どういう意味」


「エルンが、いつ誰へ渡すかだ」


 練習場の空気が冷えた。


「二年も付き合っているなら、癖くらい知っているんじゃないのか」


「キリク」


 オルガが低く制した。


「違う。責めているんじゃない。使えるものは使えと言っている」


「私とエルンの何を使うの」


 ナジャの声が震えた。


「食事をするときに、どちらの手で杯を持つか? 眠るときに、どちらの翼を下にするか? 次は何を紙に書けば、あなたは私を仲間だと認めるの!」


「そういう話じゃない!」


「私にとっては同じだ!」


 ナジャの目に涙が浮かんだ。


 牙を見せて怒っているのに、その涙だけが、彼女をひどく無防備に見せた。


「隠せば、また作戦を渡したと言われる。話せば、恋人から盗んだ癖で勝ったと言われる。手加減すれば八百長で、本気で倒せば疑いを晴らすためだと言われる! 私は、どうしたらただの選手になれるの!」


 文治の胸がえぐられた。


 記事で「競技だけを見る」と書けば済むと思っていた。


 だがナジャは、競技をしているだけで、何をしても恋愛の物語へ引き戻される。


 自分も、その視線の一人だった。


「すみません」


 文治は立ち上がった。


「なぜ、あなたが謝るの」


「私は、次の試合であなたがエルンさんを止めれば、疑いが晴れると思っていました」


「記事に、そう書くつもりだった?」


「書かないつもりでした。でも、心の中では待っていました。あなたが正面からエルンさんを倒す、分かりやすい瞬間を。そうすれば読者も、私も、安心できると思っていた」


 声が掠れた。


「それは、あなたの競技を見ていることにならない。私が欲しい結末へ、あなたの身体を使おうとしていた。すみません」


 ナジャは目を拭わなかった。


「では、私が次も抜かれたら」


「抜かれたと書きます」


「疑う?」


「分かりません」


 正直に言うのが怖かった。


 それでも、信じると言い切って彼女へ安心を要求する方が卑怯に思えた。


「疑いたくない。でも、疑いたくない私を正しいことにはしません。足を見ます。球を見ます。あなたとエルンさんを、同じ一回の競技として見ます」


 ナジャはしばらく文治を見た。


 やがて、キリクへ向き直る。


「エルンは、渡す前に左の踵を浮かせる」


 キリクの嘴が開いた。


「左翼を古く痛めている。球を片手で残すとき、右へ重心を置かなければ翼を開けない。だから、渡す直前に左の踵が浮く」


「それは、試合で見たのか」


「二年前、怪我をしたあと、飛び方を作り直す練習を見た」


「二人きりで?」


 ナジャの目が鋭くなる。


 キリクは慌てて首を振った。


「違う。聞く理由を言っていなかった。記事にしていい情報か、確かめたかった」


 先日、皆で決めた取り決め。


 作戦や位置取りへ影響する情報は共有する。


 家族や恋愛は、話す義務がない。


 尋ねる側は、なぜ必要なのかを説明する。


 キリクは息を整え、言い直した。


「エルンの身体の癖を練習に使いたい。だが、怪我を外へ広めれば、天翼団にも本人にも不利益がある。試合前の記事には載せない方がいいと思う。皆はどう思う」


 ナジャの肩から、少しだけ力が抜けた。


「練習には使う。記事へは、試合が終わるまで載せない。古傷そのものは、そのあとも本人へ確認してからにして」


 文治は頷いた。


「分かりました」


 黒い手帳ではなく、赤い手帳へ書く。


 ――エルン、渡す前に左踵が浮く。情報源はナジャ。試合前は非掲載。古傷は本人未確認。


 書かない情報にも、理由を残した。


     ◇


 その日の夕方、フェル印刷工房で、文治は見出しを書けずにいた。


 ヨナの試験登録は記事にする。


 登録を拒んだ通知に規則番号がなかったこと。安全審査を経て、今回に限る試験登録になったこと。恒久的な区分はまだ作られていないこと。


 そこまでは書ける。


 だが、天翼団の空中継ぎと、北境の対策は書けない。


 読者が最も知りたい部分を隠すことになる。


「『小人族初の壁役、空の王者に挑む』」


 文治は呟いた。


 ティナが、組みかけの活字から顔を上げる。


「東京の男が考えた見出しと同じだな」


「分かっています」


「では、なぜ書いた」


「これなら売れるからです!」


 声が工房へ響いた。


 文治は鉛筆を机へ置いた。


 強く置きすぎて、芯が折れた。


「売れなければ、紙は続かない。東京の連載は終わった。井戸は三か月です。こちらの新聞だって、紙も墨もただじゃない。読者が読みたい空中継ぎは書けない。ヨナさんの小ささを見出しにすれば、本人が嫌がる。制度だけを書けば、競技を見たい人は手に取らない。私は何を書けばいいんですか!」


 ティナは答えなかった。


 文治の中で、焦りが次々に言葉になった。


「一度くらい、答えがほしいんです。これを書けば人が救われる。これを書かなければ秘密を守れる。そう言い切れる答えが! 東京へ帰れば連載が終わり、戻ればヨナさんの登録が消えかけて、九人になったら天翼団は別の飛び方を持ってくる。何一つ終わらない。何一つ、私に安心させてくれない!」


 息が荒くなった。


「分かっています。世の中が私を安心させるためにあるんじゃない。でも、もう疲れたんです。正しいと思って書いたあとで、誰かの顔が曇るのを見るのが怖い。書かなければ、あとで消えたものに責められる。私は、書くのも怖い。黙るのも怖い。なのに、記者でいるしかないんです!」


 目の奥が熱くなった。


「私が書かなければ困ると言ってほしい。でも、私がいなくても皆が記録を取れることを喜ばなきゃいけない。続きを読みたいと言われたい。でも、読ませるために人の傷を使いたくない。金がほしい。井戸を守りたい。あなたにも、戻ってきてよかったと言ってほしい!」


 最後の言葉を口にした途端、文治は顔を伏せた。


 工房に、活字の金属臭が満ちている。


 奥の圧盤から、乾きかけた墨の匂いがした。


 ティナが、折れた鉛筆を拾った。


「戻ってきてよかった」


 文治は顔を上げた。


「ただし、お前が答えを持ってきたからではない」


 ティナは折れた芯を削り直した。


「分からないときに、一緒に紙の前で悩む人間が戻ったからだ」


 胸の奥で、張りつめていたものがほどけた。


 文治は涙を拭った。


「それは、必要だという意味ですか」


「いまので台無しだ」


「確認したかったんです」


「黒い帳面に書く気か」


「できれば」


「薄茶にしておけ」


 ティナは新しい紙を文治の前へ置いた。


「書けないことではなく、いま書けることを決める。試験登録の経緯。再戦の日。二人の翔け手を登録したという天翼団の公表名簿。対策の中身は、試合後まで載せない」


「北境に不利な事実を隠したと言われます」


「作戦を事前に紙へ載せる新聞があるか」


「ありません」


「なら、隠蔽ではない。掲載時期の判断だ。試合後に、成功も失敗も数字で出す」


 文治は息を吐いた。


 書かないことにも、期限と理由を決める。


 永遠に隠すのではない。


 守るためという曖昧な言葉で、自分を許すのでもない。


「見出しは」


 ティナが尋ねる。


 文治は新しい紙へ書いた。


 ――前例なき壁役、試験登録へ――北境対天翼、六日後。


 ティナは少し考え、最初の言葉を指した。


「“前例なき”では、前例がないことがヨナの肩書になる」


 文治は線を引いた。


 書き直す。


 ――ヨナ・ケルム、壁役として試験登録――北境対天翼、六日後。


 ティナが頷いた。


 小人族でも、小さな壁でもない。


 最初に、彼女の名を置いた。


     ◇


 六日間、北境倶楽部は失敗を重ねた。


 二日目。受け手の一拍目をヨナが消しても、地上の選手に抜かれた。


 三日目。キリクが球の持ち手へ寄りすぎ、空いた外側を使われた。


 四日目。ナジャがエルンの癖を意識しすぎ、似た動きをする相手役へ早く飛び込んだ。


 五日目。初めて、三度続けて球を落とさせた。


 四度目には、同じ形を読まれて通された。


 文治は全部を書いた。


 成功だけを数えなかった。


 失敗だけで諦めなかった。


 練習後、ガドは毎日、誰より遅く胴当てを外した。


 五日目の夜、文治は一人で用具を片づける彼の横へ座った。


「試合を見に来るんですか」


「観客席から」


「つらくありませんか」


「つらいです」


 ガドは迷わず答えた。


「俺がいなくても形ができていく。安心します。俺が空けた場所で、皆が止まらなかった」


 胴当ての泥を、大きな指で落とす。


「同時に、俺がいなくてもいいのかと思う。帰る場所を残してほしいと言ったのに、戻ったとき、俺の場所が本当にあるのか怖い」


「分かります」


 文治は言った。


「私も、自分がいなくても皆さんが記録を取れることを、喜びながら寂しいと思いました」


「最低ですね、二人とも」


「そこまで言いますか」


「ヨナさんに言われました」


「なら、仕方ありません」


 二人で少し笑った。


 ガドは、巻いた布の上から拳を握った。


「戻る場所は、空けてもらうものではないのかもしれません」


「では、どうするんです」


「戻るときに聞きます。いまの九人へ。俺が必要か」


「怖くないですか」


「怖いです」


 ガドは、また迷わず答えた。


「でも、聞かずに殴るよりはいい」


 文治は薄茶の手帳へ書いた。


 ――必要かどうかは、必要とされたい者が決めない。


 ガドが覗き込む。


「それ、俺が言ったことになりますか」


「私が思ったことです」


「なら、もう少しきれいな字で書いてください」


「字の批評は求めていません」


     ◇


 六日目。


 北境地方大会、決勝の日。


 競技場の外まで、人が溢れていた。


 王都天翼団の白銀旗が、朝の光を弾いている。北境倶楽部の灰白旗も、以前より多い。『井戸端新聞』を手にした観客が、ヨナの名を探し、壁役の印を指でなぞっていた。


「小人族が本当に壁へ立つのか」


「危ないだけじゃないのか」


「天翼団が二人で飛ぶらしい」


 期待も、好奇も、侮りも、同じざわめきになっていた。


 文治は記者席へ座った。


 三冊の手帳を並べる。


 黒。事実。


 赤。未確認。


 薄茶。感情。


 黒い手帳の最初の頁へ、両チームの名を書いた。


 王都天翼団。


 北境倶楽部。


 その下へ、開始前の得点を書く。


 零対零。


 当たり前の数字だった。


 だが文治には、ひどく大切に思えた。


 まだ、どちらも勝っていない。


 どちらも負けていない。


 自分が結末を決めていない。


「手が震えているぞ」


 隣に座ったティナが言った。


「寒いんです」


「汗をかいている」


「緊張による冷えです」


「便利な身体だな」


 文治は鉛筆を握り直した。


「怖いんです」


「何が」


「北境が勝っても、私は喜びすぎる。負ければ、記事になると思う自分がいるかもしれない。ナジャさんがエルンさんを止めれば、きれいな結末にしたくなる」


 喉が乾いた。


「私は、何を見ても自分の欲しい話へ引っ張られる。六日間考えても、それを止める方法が分からなかった」


 ティナは競技場を見たまま答えた。


「止めなくていい」


「いいんですか」


「薄茶に書け。黒と混ぜるな」


 文治は三冊を見た。


 感情がなくなることはない。


 消すのではなく、置く場所を分ける。


「はい」


 薄茶の手帳へ書いた。


 ――北境に勝ってほしい。


 黒い手帳へ戻る。


 ――開始前、零対零。


 競技場へ、九人ずつが入った。


 北境の中央に、ヨナがいる。


 ガドの代わりではない。


 今日の壁役として、自分の足で立っている。


 観客席の一番前に、ガドがいた。両手を膝へ置き、声を上げずに九人を見ている。


 天翼団側では、エルンと白斑の翔け手が左右へ分かれた。


 ナジャはエルンを見た。


 エルンも、ナジャを見た。


 二人とも笑わなかった。


 審判が球を掲げる。


 笛が鳴った。


 天翼団の地上役が球を拾い、右へ走る。


 エルンが、その後ろから飛んだ。


 一拍。


 二拍。


 左の踵が、わずかに浮いている。


「渡す!」


 ナジャが叫んだ。


 キリクがエルンへ寄る。


 白斑の翔け手が、右後方から地面を蹴った。


 ヨナが、その一拍目へ走る。


 靴一足分、先へ入った。


 白斑の翔け手が飛び立てない。


 球が二人の間を抜け、土へ落ちた。


 競技場が沸いた。


「止めた!」


 文治は叫び、すぐに黒い手帳へ書いた。


 開始後、最初の空中継ぎ。ヨナ、受け手の一拍目へ進入。渡し失敗。


 成功した。


 六日間の形が、王者へ通じた。


 そう思った瞬間だった。


 落ちた球を、天翼団の地上役が拾う。


 ヨナもキリクも、右へ寄っている。


 地上役は前へ投げなかった。


 自分で二歩進み、後ろへ球を落とす。


 そこへ、着地したはずのエルンが走り込んだ。


 翼を畳んだまま、地上を駆けてくる。


 空中継ぎは囮だった。


 ナジャが正面へ入る。


 エルンの左翼が沈んだ。


 以前、ナジャを抜いたのと同じ動き。


 観客の声が遠のいた。


 文治の鉛筆が止まりかける。


 止めろ、と願った。


 疑いを晴らせ、と書きそうになった。


 違う。


 これは二人の恋の証明ではない。


 いま行われている、一度の競技だ。


 文治は震える手で、黒い手帳へ線を引いた。


 ナジャが腰を落とす。


 エルンの左翼が、さらに深く沈んだ。


 今度こそ飛ぶのか。


 また地上で軸足を替えるのか。


 ナジャは、右にも左にも動かなかった。


 一歩だけ、正面へ出た。


 エルンが笑った。


 次の瞬間、二人の身体がぶつかった。

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