第21話 九人になり直す
「私の試合は、始まる前に終わりました」
ヨナの言葉を、文治はすぐには書き取れなかった。
黒い手帳は、開いたまま掌の上にある。
その頁には、つい先ほど記したばかりの一文があった。
――三日後、北境へ戻った。
約束を守った証しのつもりだった。
いま見ると、それは自分だけに丸をつけた答案のようだった。
戻った。
だから何だ。
文治が東京で結末を書けずに苦しんでいた三日間にも、ヨナはここで投げられ、立ち上がり、仲間に選ばれ、役人に退けられた。
自分の約束が事実になったと喜んだ瞬間には、彼女の試合が事実になる道は閉ざされていた。
「……すみません」
文治は手帳を閉じた。
「何に謝っているんですか」
「間に合わなかった」
「約束の日には戻りました」
「でも、もう決まったあとです」
「あなたがいれば、決まらなかったんですか」
返事ができなかった。
いても、何も変えられなかったかもしれない。
それなのに、変えられたはずだと思いたがっている。自分がいなかったから悪いのだと考えれば、裏返せば、自分さえいれば皆を救えたことになる。
その傲慢さに気づき、文治は唇を噛んだ。
「分かりません」
「なら、分からないと書いてください」
ヨナは登録表を文治の胸へ押しつけた。
薄い紙なのに、受け取った腕へ重さがかかった。
「地方競技院へ行きます」
「取材ですか」
「止めに行きます」
「何を」
「辞退をです」
「誰のために?」
「あなたのためです」
言ってから、間違えたと思った。
ヨナの目が冷たくなった。
「私のために、私の代わりに決めるんですか」
「そういう意味では」
「では、どういう意味ですか」
文治は息を詰まらせた。
胸の中には、言いたいことが多すぎた。
ヨナの技術は天翼団に通じる。ここで辞退すれば、北境倶楽部が積み上げたものが無駄になる。戦わずに記録から消えるなど許せない。
どれも正しいようで、どれもヨナの問いへの答えにはならなかった。
「……私は、また終わらせたくないんです」
ようやく出たのは、自分のことだった。
「そうですか」
ヨナは荷物袋を持ち上げた。
「私は、始めたいんです」
その違いが、文治の胸へ突き刺さった。
終わらせたくない男と、始めたい女。
似ているようで、見ている方向が違う。
「競技院へ行きます」
ヨナが歩き出す。
「みんなを止めるためですか」
「いいえ。私を理由にしないでくれと言うためです」
文治は彼女の横に並んだ。
「取材してもいいですか」
「もうしています」
「許可を聞いています」
ヨナが足を止めた。
少しだけ驚いた顔をしたあと、頷く。
「私が言ったことは書いてください。でも、“小さな女が大きな制度へ挑んだ”とは書かないでください」
「書きません」
「“種族の常識を覆す勇気”も嫌です」
「分かりました」
「私は、勇気で壁役をするわけではありません。できるから、やります」
「そのまま書きます」
「失敗した数も」
「はい」
ヨナは再び歩き出した。
「では、これを持ってください」
荷物袋から、薄い板を三枚取り出す。
板には、細い線と数字がびっしり刻まれていた。
「これは?」
「二日目と三日目の記録です」
文治は歩きながら目を走らせた。
正面停止、四回。成功、なし。
横から進路を変えた回数、十五回中十一回。
三拍目の着地点を城域の外へずらした回数、十回中七回。
味方が球を奪えた回数、六回。
ヨナが倒れた回数、九回。
起き上がれなかった回数、なし。
「誰が、これを」
「全員です。キリクが飛び、ナジャが時間を数え、オルガが成功と失敗を分けました。ティナさんが、同じ試し方を繰り返さなければ数字にならないと言いました」
文治は板の傷を指でなぞった。
自分の字ではない。
自分がいない二日間を、彼らは自分たちで残していた。
胸の奥が温かくなった。
同時に、寂しさが湧いた。
自分がいなくても、記録は作れる。
その当然の事実が、ひどく痛かった。
「必要なかったんですね、私は」
口から、卑しい言葉が落ちた。
ヨナが横目で文治を見る。
「記録の取り方を教えたのは、あなたです」
「でも、取ったのは皆だ」
「自分にしかできない仕事でなければ、した意味がないんですか」
「……そう思いたくはありません」
「なら、その顔をやめてください」
「どんな顔です」
「置いていかれた子供の顔です」
文治は何も言えなくなった。
ヨナの足は短い。けれど速かった。追いつくために歩幅を狭めながら、文治は薄茶の手帳へ書きたくなる言葉を、頭の中で何度も飲み込んだ。
――私にしかできない仕事がほしい。
――私がいなければ困ると言われたい。
――そうでなければ、ここにいる理由がない気がする。
それはヨナの記事ではない。
自分の弱さだった。
◇
地方競技院の石造りの庁舎は、夕刻前の冷たい影に沈んでいた。
正面の階段に、ティナが立っている。
腕を組み、文治の顔を見るなり言った。
「遅い」
「約束の日です」
「約束の日の、夕方だ」
「東京では朝でした」
「太陽に言い訳をさせるな」
「すみません」
ティナは三歩で文治の前まで来た。
怒鳴られると思った。
だが彼女は文治の腕を掴み、袖口を裏返した。傷が増えていないか、泥の色が日本側のものか、確かめるような手つきだった。
「怪我は」
「ありません」
「食事は」
「昨日から、あまり」
「馬鹿」
短く言い、手を離す。
それだけだった。
それだけなのに、文治は泣きそうになった。
待っていたのか、と聞きたかった。
聞けば、そうだと言わせることになる気がして、聞けなかった。
「連載は」
「終わりました」
ティナの目が、一瞬だけ揺れた。
「そうか」
「でも、権利は返してもらいました。抜き刷りも持ってきました。続きを書くことはできます」
「載せる場所は」
「ありません」
「金は」
「ありません」
「よく帰ってきたな」
責めているのか、呆れているのか分からなかった。
文治は笑おうとして、失敗した。
「私も、そう思います」
ティナはそれ以上聞かなかった。代わりに、折り畳んだ文書を渡した。
ヨナの登録を拒否した通知の写しだった。
「理由を紙にさせた。読んでみろ」
文治は目を走らせた。
小人族の選手を壁役として登録した運用例は確認できない。
当該配置は選手本人に過度の危険を生じさせるおそれがある。
従前の運用に照らし、登録を受理しない。
「規則の番号がない」
「三度聞いた。書けないそうだ」
「規則ではなく、運用だから」
「そう言った」
鷹野の声が、頭の中に蘇った。
誰が記録を持つのか。
誰が規則を決めるのか。
選手一人を踏み潰す、機械の形。
文治は通知を黒い手帳へ挟んだ。
「みんなは中ですか」
「辞退届を出そうとしている。だが、まだ受理されていない」
「なぜ」
「登録済みの選手全員の印が要る。ガドが押さなかった」
文治は階段を駆け上がった。
◇
競技院の小会議室には、八人分の怒りが詰まっていた。
窓は閉まっているのに、ナジャの毛並みが風に逆立ったように膨らんでいる。キリクは翼を畳みきれず、羽先が隣の椅子へ当たっていた。オルガは机の正面に座り、辞退届の上へ両手を置いている。
壁際に、ガドが立っていた。
競技への出場を停止されているため、選手としての席には座らない。それでも北境倶楽部の登録選手であることは変わらず、辞退には彼の印も必要だった。
書類の末尾に、空白が一つ残っている。
「押せ、ガド」
キリクが言った。
「ヨナを認めない連中の試合に、出る必要はない」
「押さない」
ガドの声は低かった。
「なぜだ」
「俺は自分の拳で、三試合を捨てた。もう、誰かの試合まで捨てたくない」
「これはお前のせいじゃない」
「だから押さないんだ」
キリクの翼が大きく開いた。
「ヨナを外して出ろと言うのか!」
「ヨナに聞けと言っている!」
ガドの声が部屋を震わせた。
その一喝のあとに、扉が開いた。
ヨナが入る。
文治とティナも続いた。
全員の視線が、ヨナへ集まった。
彼女はたじろがなかった。荷物袋を床へ置き、辞退届の前まで歩く。
「破ってください」
オルガが顔を上げた。
「お前を外して戦うつもりはない」
「私を入れて戦う方法を探す前に、試合をなくさないでください」
「競技院が認めない」
「競技院が決めたのは、登録を受けないことです。北境倶楽部が辞退することではありません」
「同じことだ。九人いなければ試合はできん」
「壁役になれる人を、他に入れればいい」
キリクが椅子を蹴って立ち上がった。
「そんなことができるか!」
「できます」
「できない!」
「それは、あなたが私に恩を返したいからですか」
キリクの顔が強張った。
ヨナは目を逸らさない。
「私があなたの着地点を守った。だから今度は、あなたが私を守る。そういう話にしたいんですか」
「違う。俺は、お前のやり方が必要だと思ったから――」
「なら、必要だと証明してください。試合を捨てることは、証明ではありません」
キリクの口が閉じた。
ナジャが低い声で言う。
「私は、代わりを探すべきだと言った」
室内の空気が張りつめた。
キリクがナジャを見る。
「また、勝つためなら誰かを外すのか」
「私をそういう人間に決めるな」
ナジャの牙が覗いた。
「ヨナを外したいんじゃない。ヨナを理由に全員の試合を捨てるなと言っている。あの子が“一人のせいで八人が戦えなかった”と、一生言われるのを見たくないんだ」
「結局、本人に聞かずに決めている」
「お前だって同じだ!」
二人の声がぶつかった。
三日前、作戦板の亀裂へ渡した一枚の板。
あれだけで、何もかも元どおりになったわけではない。
キリクはまだ、ナジャが秘密を隠したことを恐れている。ナジャはまだ、自分の遅れを恋愛のせいにされた痛みを抱えている。二人ともヨナを守ろうとして、その実、互いへの不信をヨナの上で争っていた。
文治の胸が苦しくなった。
止めなければと思った。
何か正しいことを言わなければ。
だが、東京で黒瀬に言った言葉を思い出す。
仲間になりたいから、都合よく書くんじゃない。
記者だから戻る。
「やめてください!」
結局、声を上げていた。
全員が文治を見る。
胸の中で、言葉が絡まった。
「私は……東京で、皆さんの最終回を書きました」
自分でも、なぜ今それを言うのか分からなかった。
「何の話だ」
オルガが眉をひそめる。
「『井底通信』が打ち切られました。最後の原稿に結末を書けと言われた。だから私は、三つ書いたんです」
喉が震えた。
誰にも見せず捨てた原稿なのに、告白するのが怖かった。
「一つ目では、ヨナさんが天翼団を止めました。北境倶楽部は一つになって、ガドさんは帰ってきて、皆が私を許した。二つ目では、皆さんは喧嘩したまま解散しました。私は最後まで見届けた記者の顔をして、東京へ帰った」
「どちらも起きていない」
ヨナが言った。
「はい」
文治は爪が食い込むほど拳を握った。
「私は、皆さんが苦しんでいるあいだに、勝手に勝たせて、勝手に解散させたんです。読者が泣ける形にして、自分が戻らなくても済む結末を作ろうとした。書きながら、少し安心した。これなら話が終わる。これなら私は、もう責任を負わなくていいって!」
視界が滲んだ。
また泣くのかと思った。
恥ずかしかった。
それでも、もう飲み込めなかった。
「私は、皆さんを助けたい。でも、本当は助けた私になりたいだけかもしれない。必要とされたい。感謝されたい。私がいなければ困ると言ってほしい! だから、誰かが自分で記録を取れるようになると寂しい。ヨナさんが私に聞かずに試験へ受かると、置いていかれた気がする。最低です。記者なのに、自分が記事の中心にいないと不安になる!」
部屋の誰も、目を逸らさなかった。
それが救いではなく、逃げ場をなくす刃のように感じられた。
「だから、今も何を言えばいいか分かりません。辞退するなと言えば、私が皆さんの試合を決める。辞退しろと言えば、ヨナさんを美しい犠牲にする。代わりを探せと言えば、前例がないという役人と同じになる。何を選んでも、私は誰かの人生を、自分に読める形へ変えてしまう!」
涙が一滴、床へ落ちた。
「でも、黙っていることもできない。また誰かが、始まる前に消されるのを見たくない。私はどうしたらいいんですか。記者は、どこまで聞いて、どこから黙ればいいんですか!」
息が切れた。
静寂の中で、ガドが小さく息を吐いた。
「俺に聞いたときと同じようにすればいい」
文治は顔を上げた。
「一発か、二発か。お前は俺に聞いた」
ガドは空白のままの印欄から手を離した。
「答えるのは苦しかった。でも、お前は俺の代わりに一発とも二発とも決めなかった」
オルガが頷いた。
「選ぶな。聞け、浦上」
その言葉は、黒瀬に言われた「書け」とよく似ていた。
文治は袖で目を拭った。
三冊の手帳を机へ置く。
黒を開いた。
「ヨナさん。北境倶楽部が、あなたを外して試合へ出ることを望みますか」
「望みません」
「あなたを理由に、試合を辞退することを望みますか」
「望みません」
「では、何を望みますか」
ヨナは記録板を机へ置いた。
「私の技術を見て、壁役として使えるか判断してほしい。小人族だからではなく、成功と失敗で決めてほしい。それで駄目なら、私は外れます」
文治は一語ずつ書いた。
「オルガさん。試合を辞退したいですか」
オルガは辞退届を見た。
「したくない」
「では、なぜここへ」
「九人目を役人に決められたまま、言われたとおり試合へ出るのが怖かった。抗議しても聞かれないと思った。だから先に試合を捨てれば、俺たちが選んだことになると思った」
主将の声が、最後だけ掠れた。
「だが、それも逃げだな」
「キリクさん」
「ヨナと出たい」
「なぜ」
「俺の三拍目を止めたからだ。天翼団にも通じる。恩じゃない。必要だからだ」
「ナジャさん」
「私も、ヨナと出たい」
「さっきは代わりを探すと」
「ヨナを外したかったんじゃない。私たちのために、ヨナが試合を奪ったと言われるのが怖かった」
ナジャはヨナへ向き直った。
「本人に聞かず、守ったつもりになった。悪かった」
ヨナはすぐには許すと言わなかった。
「次は、先に聞いてください」
「分かった」
キリクも、翼を小さく畳んだ。
「俺もだ。役人に腹を立てて、お前を勝手に旗にした」
「旗は嫌です」
「知ってる」
「今、知りました」
「……そうだな」
短いやり取りだった。
仲直りには見えなかった。
けれど、亀裂を隠す言葉でもなかった。
文治は残る選手たちにも、一人ずつ同じ問いをした。
辞退したいか。
ヨナを壁役として選ぶか。
失敗したとき、種族のせいにしないと言えるか。
八人の答えが揃った。
文治は最後に、ガドを見た。
「あなたは試合に出られません。それでも、この決定に関わりますか」
「俺は、今の九人ではない」
ガドは静かに言った。
胸の奥を押さえるような声だった。
「でも、戻る場所がなくなるのは嫌だ。俺が帰ったとき、俺を入れるかどうかも、そのときの九人に決めてほしい」
「辞退届には」
「押さない」
文治は、そこで手帳を閉じた。
「では次に、競技院へ聞きます」
◇
登録官は、記録板の数字を見ても表情を変えなかった。
痩せた人間の男で、机の上には印章が大きさ順に並んでいる。仕事を一つ終えるたび、定められた場所へ印を押す。その正確な手つきが、文治にはかえって恐ろしく見えた。
「倶楽部内の試技記録は、公認記録ではありません」
「公認記録でなければ、見る価値もないんですか」
「そうは言っていない。ただ、登録判断の根拠にはできない」
「では、何を根拠に危険だと判断しましたか」
「過去の運用です」
「小人族の壁役は、過去にいないんですね」
「確認されていない」
「いない者の事故記録も、ないはずです」
登録官の指が止まった。
「小人族の一般的な体格を考えれば、危険は予見できる」
「ヨナさんは、正面から相手を止める壁役ではありません」
「壁役は、相手を止める役だ」
「規則には、どう書かれていますか」
ティナが、持っていた競技規則集を開いた。
すでに紙片が挟まれている。
「城域への前進を阻み、または進路を変え、味方が守備を整える時間を作る者」
ティナが読み上げた。
「身体で受け止めろとは書いていない」
「通常は、身体で止める」
「通常ではないから、登録を拒んだんでしょう」
文治が言うと、登録官の頬が引きつった。
「言葉遊びをしに来たのか」
「いいえ。ヨナさんの競技を始めに来ました」
「記者が、選手の登録へ口を出すな」
その一言に、文治の胸が跳ねた。
痛いところだった。
自分はまた、記事を書く力で判断を変えようとしている。都合のよい決定を引き出し、それを正義と呼ぼうとしているのではないか。
手帳を持つ手が汗ばんだ。
逃げたくなった。
後ろへ下がれば、ティナがいる。横にはヨナと八人がいる。
誰も、文治に答えを出せとは言わなかった。
聞けと言った。
「口は出しません」
文治は震える声で答えた。
「確認します。この通知には、規則の番号がありません。小人族の壁役による事故記録もない。本人の試技も見ていない。それでも、“危険である”という判断だけが先に記録された。この三点で間違いありませんか」
登録官は黙った。
「間違いがあれば、訂正してください。なければ、そのまま『井戸端新聞』へ載せます」
「脅すのか」
「載せる前に、あなたの説明を聞いています」
「同じことだ」
「違います」
文治の腹の底から、熱が込み上げた。
「私は、あなたを悪役にして話を終わらせたくない。なぜ危険だと思ったのか、どんな手続きを踏めば判断を変えられるのか、それを聞いているんです。答えがなければ、答えがなかったと書くしかない。私はもう、読者が気持ちよく怒れる形へ人を押し込めたくないんです!」
声が震えた。
「私だって怖いんです。この記事でまた誰かを傷つけるかもしれない。あなたの家へ石が投げられるかもしれない。ヨナさんが見世物にされるかもしれない。書かない方がよかったと、また一生後悔するかもしれない!」
登録官の顔から、苛立ちが少し消えた。
文治は息を継いだ。
「それでも聞きます。前例がない選手には、前例になる機会も与えないんですか」
部屋が静まった。
窓の外で、風が旗を鳴らしている。
登録官は机に並んだ印章を見た。
「……安全審査を受けることはできる」
ヨナの目が動いた。
「なぜ、最初からそう言わなかったんですか」
「審査には、登録官と競技監督員の立ち会いが要る。通常は申請から七日かかる。再戦の登録締切は、今日の日没だ」
「今日は、できないんですか」
「監督員の予定がない」
ティナが規則集から顔を上げた。
「先の決定で、北境倶楽部の最初の試合には監督員を置くことになっていたな」
「それがどうした」
「監督員なら、この建物に来ている。天翼団側の登録確認をしていた」
登録官がティナを見た。
「なぜ知っている」
「受付簿を読んだ」
「勝手に見るな」
「閲覧台に開いてあった」
ティナは平然としていた。
文治は、思わず笑いそうになった。
ここにいる全員が、自分の仕事をしている。
ヨナは試す。
選手は記録する。
ティナは紙を押さえる。
文治は聞く。
「日没まで、あとどれくらいですか」
オルガが尋ねた。
登録官は窓を見た。
「一刻もない」
「十分です」
ヨナが言った。
「私の壁は、一刻も持ちません」
「自慢するところか?」
キリクが聞く。
「一歩を止めるだけですから」
ヨナは初めて、ほんの少し笑った。
◇
競技院の中庭へ、白い線が引かれた。
日が低い。
石壁の上半分だけが赤く照らされ、地面には長い影が伸びている。職員たちが窓から顔を出し、何事かと見下ろしていた。
登録官と競技監督員が線の外へ立つ。
「三つ、確認する」
監督員が告げた。
「正面から進入する大型選手への対応。翔け手の着地への対応。接触後、競技を継続できるか」
ヨナは肩当ての紐を締めた。
「分かりました」
「危険を感じた時点で中止する」
「誰が危険だと決めますか」
「私だ」
「私が続けられると言っても?」
「止める」
ヨナは少し考えたあと、頷いた。
「それが審査なら、従います」
最初の相手は、ガドだった。
出場停止中でも、試技の相手は務められる。だが彼は、線の前に立ったまま動かなかった。
「本当に、俺でいいのか」
「大きい人を止められないと証明するには、一番です」
「止められないことも、見せるのか」
「できないことを隠したら、登録されたあとに困ります」
ガドは苦しそうに眉を寄せた。
「全力では行けない」
「全力で来てください」
「怪我をさせる」
「止めようとすれば、です」
ヨナは腰を落とした。
中庭の空気が張りつめる。
ガドが走った。
一歩ごとに石床が鳴る。大きな身体が影ごと迫る。
ヨナは正面へ入った。
「なぜ――」
文治が声を漏らした瞬間、衝突した。
鈍い音。
ヨナの身体が浮き、地面を転がる。肩当てが石を擦り、乾いた音を立てた。
「中止だ!」
監督員が叫ぶ。
ガドが青ざめて駆け寄った。
ヨナは仰向けのまま、片手を上げた。
「正面停止、失敗」
ナジャが記録板へ一本、線を刻んだ。
「続けられます」
「今ので危険性は明らかだ」
登録官が言った。
「壁役には適さない」
ヨナは起き上がった。
唇の端が切れ、血が滲んでいる。
「壁役の規則は、城域への前進を阻むことでした」
「止められなかった」
「ガドさんは、城域に入りましたか」
全員が線を見た。
ガドはヨナを跳ね飛ばしたあと、彼女へ駆け寄るため進路を変えていた。片足は白線の手前にある。
「今のは試技を中断したからだ」
「では、もう一度」
ヨナは血を拭った。
「今度は、止めません」
二回目。
ガドが走る。
ヨナは正面へ入らなかった。
最後の二歩で、ガドの右足側へ滑り込む。ぶつかるのではなく、踏み出そうとした場所へ肩を置いた。
ガドは彼女を踏まないため、足を外へ開いた。
巨体の軸が傾く。
その横からナジャが入り、球に見立てた革袋を叩き落とした。
ガドの足は、白線を越えなかった。
「進路変更、成功。味方の奪取、成功」
ナジャが二本、線を刻んだ。
監督員は何も言わなかった。
次はキリクだった。
翼が開く。
一拍。
石床の砂が舞った。
二拍。
夕日の中へ、身体が浮く。
三拍。
ヨナは着地点へ走った。
キリクの爪先が触れるはずの場所へ、小さな靴が先に入る。キリクは着地を外へずらし、白線から離れた。
「成功」
二度目も成功。
三度目、キリクが二拍目で身体を捻った。
ヨナは釣られた。
空いた内側へ着地される。
「失敗」
四度目は間に合った。
五度目は、ヨナが滑った。
「失敗」
六度目。
息が上がっている。
肩当てにはガドとの衝突でついた白い傷が走り、切れた唇から顎へ血が細く垂れていた。
それでも、ヨナの目はキリクの翼ではなく、地面を見ている。
一拍。
二拍。
キリクが外へ身体を傾けた。
ヨナは動かない。
三拍目の直前、キリクの腰が内へ戻る。
その瞬間に走った。
靴一足分だけ、先へ入る。
キリクは着地できず、球を外へ投げた。
待っていたナジャが受け取った。
「進路変更、成功。球の移動先、味方」
記録板へ、二本の線が入る。
ヨナは膝へ手をつき、大きく息をした。
「まだ、できます」
監督員が手を上げた。
「もういい」
「危険だからですか」
「判断に足りた」
登録官と監督員が、少し離れて言葉を交わした。
夕日が石壁の縁へ沈んでいく。
誰も口を開かなかった。
文治は、記録板を見た。
成功と失敗が並んでいる。
奇跡ではない。
無敵でもない。
正面からぶつかれば飛ばされる。読みを外せば抜かれる。疲れれば足が遅れる。
それでも、役目を果たした回数がある。
ヨナは、同情で立っているのではない。
数字の中に立っている。
「小人族だから危険なのではない」
監督員が言った。
「正面衝突を選べば危険だ。だが、それは他の軽量選手でも同じだ。進路を変える壁役として、一定の効果を認める」
登録官が渋い顔で書類を開いた。
「今回の再戦に限り、試験登録とする。試合後、接触回数と負傷の有無を報告すること。恒久的な区分の追加は、地方競技院では決められない」
「それでいいです」
ヨナが即答した。
「よくはない」
文治は思わず言った。
ヨナが見る。
「今回だけ認められても、次の小人族はまた同じ試験を受けることになる。あなたが怪我をしなかったときだけ、特別に許された話になる」
「だから、書くんでしょう」
ヨナは唇の血を手の甲で拭った。
「今日、認められたことと、まだ決まっていないことを」
文治は息を止めた。
黒瀬に言われた言葉と、同じだった。
喜ぶべきことだけを結末にしない。
開いた門の向こうに、まだ壁があると書く。
「はい」
文治は頷いた。
「書きます」
◇
日没寸前、選手登録表が机へ戻された。
九人目の欄に、ヨナ・ケルムの名がある。
その横には、壁役を示す印。
さらに小さく、「試験登録」の文字が添えられた。
オルガが最初に印を押した。
次にナジャ。
キリクは、自分の印を押す前にヨナを見た。
「恩じゃない」
「二度目は、くどいです」
「必要だからだ」
「それは、記録に残してください」
キリクは印を押した。
残る選手たちも、一人ずつ続く。
最後にヨナが、自分の名の横へ印を置いた。
小さな円だった。
九つ並ぶと、どれが大きいとも小さいとも見えなかった。
オルガは辞退届を取り上げた。
紙の中央から、ゆっくり二つに裂く。
さらに重ね、四つに裂いた。
「元の九人に戻ったわけじゃない」
誰に言うともなく、オルガが言った。
「ガドはいない。割れたものも、全部は直っていない。ヨナも、ガドの代わりではない」
破った紙を、机の上へ置く。
「今日の九人に、なり直す」
歓声は上がらなかった。
ただ九人が、それぞれの顔を見た。
許していないこと。
怖がっていること。
納得できないこと。
それらを残したまま、同じ登録表へ名を置いた。
文治は、その沈黙を黒い手帳へ書いた。
◇
庁舎を出ると、夜の冷気が汗へ染みた。
北境倶楽部の九人は、先に練習場へ戻っていった。日が落ちても、ヨナを入れた形を一度は合わせたいらしい。
文治とティナは、石段に残った。
「これが、日本の最終回です」
文治は鞄から『井底通信』の抜き刷りを出した。
ティナは受け取り、街灯の下で最後の頁を読んだ。
日本語は読めない。
文治が、北境の言葉へ訳しながら読み上げた。
――勝敗は、まだない。
――彼らは明日も練習する。
――この話は、終わっていない。
ティナは鼻を鳴らした。
「今日は練習していなかった」
「そこを指摘しますか」
「事実と違う」
「書いた時点では、練習すると思っていたんです」
「それを未確認と言うんじゃないのか」
「……訂正します」
「連載は終わったんだろう」
「次に載せる場所を見つけたら」
ティナは抜き刷りを閉じた。
「見つかるのか」
「分かりません」
「井戸の金は」
「三か月です。それまでに作らなければならない」
「作れなければ」
「井戸が埋まります」
口にすると、恐怖が現実の形を持った。
三か月。
天翼団との再戦より先か、あとか。それさえ分からない。勝っても負けても、文治だけが突然いなくなるかもしれない。
「鷹野さんという記者から、金を出すと言われました」
ティナの目が細くなった。
「条件は」
「取材帳を全部見せること。連載を独占させること。それから、こちらへ連れてくることです」
「断ったのか」
「保留にしました」
「なぜ断らなかった」
鋭い声だった。
文治の胸が縮んだ。
「必要な金だったからです」
「金のためなら連れてくるのか」
「違う!」
思わず声が大きくなった。
「違います。だから、私一人では決めないと言ったんです。皆さんに聞く。北境市の人にも、取材される選手にも、まず説明する。それで一人でも駄目だと言うなら、連れてきません」
「私が駄目だと言ったら?」
「連れてきません」
「井戸が埋まっても?」
文治は拳を握った。
怖かった。
本当は、ティナに許してほしかった。自分から提案せずに済むように、「仕方がない」と言ってほしかった。
だが、それを口にすれば、金の責任まで彼女へ押しつけることになる。
「別の方法を探します」
「見つからなかったら」
「それでも、あなたの許可を金で買うことはしません」
ティナは黙った。
文治の中で、不安が膨らんだ。
「……怒っていますか」
「考えている」
「何を」
「その鷹野という男を、殴らずに追い返す方法を」
文治は目を瞬いた。
「来ると決まっていません」
「お前が隠し通せる顔をしていない」
「失礼ですね」
「今日だけで、何人の前で泣いた」
「泣いていません」
「目が腫れている」
「井戸の埃です」
「東京の井戸は、ずいぶん塩辛いんだな」
文治は俯いた。
少し笑ったら、また涙が出た。
「怖かったんです」
ティナが黙る。
「戻って、あなたに来るなと言われるのが怖かった。三日間、楽だったんです。北境の喧嘩を見なくていい。ガドさんの拳も、ナジャさんの顔も、ヨナさんが投げられるところも見なくていい。東京には、決まった締切と、紙の上の人間だけがいた」
涙を拭う気にもなれなかった。
「でも、楽なのが苦しかった。皆さんの痛みから離れて眠れる自分が、嫌だった。戻りたいのか、罪悪感に追われているだけなのか分からなくなった。私は……戻れば答えがあると思っていたんです」
「あったか」
「ありませんでした」
文治は笑った。
ひどい顔をしているだろうと思った。
「連載は終わる。井戸は三か月。ヨナさんは試験登録。ガドさんは出られない。亀裂も残っている。何一つ、安心できることがない」
「そうだな」
「少しは励ましてください」
「約束どおり戻った」
ティナは抜き刷りを文治の胸へ返した。
「今日は、それで十分だ」
文治は紙束を抱えた。
胸の奥に、小さな熱が残った。
「待っていましたか」
聞いてしまった。
ティナは一歩、階段を下りた。
「三日で戻ると言った男が、何日遅れるか数えていた」
「それを、待っていたと言うんです」
「まだ一日も遅れていない。数え損だ」
「すみません」
「謝るところか?」
ティナは先に歩き出した。
文治は、その背中を追った。
◇
練習場には、夜になっても灯りがともっていた。
九人が、ヨナの立つ位置を一歩ずつ調整している。
キリクが低く飛び、ヨナが着地点を狭め、ナジャがこぼれた球を拾う。
一度目は遅れた。
二度目は、ナジャとヨナが同じ場所へ入り、肩をぶつけた。
三度目は、キリクが球を落とした。
誰も、すぐに立ち直ったとは言わなかった。
それでも四度目のため、元の位置へ戻った。
文治は競技場の端へ座り、黒い手帳を開いた。
球の位置。
足の向き。
声をかけた時刻。
成功と失敗。
自分がいなくても皆は記録できる。
それでも、自分の目で見たものを、自分の字で残す。
それでいいのかもしれない。
球が再びキリクへ渡った、そのときだった。
上空で、翼が風を打った。
一つではない。
二つ。
練習場の灯りの上を、二つの影が横切る。
キリクが顔を上げた。
影は競技場を一周し、入口へ降りた。
先に地面へ立ったのは、エルンだった。
王都天翼団の外套をまとい、腕に公式文書の筒を抱えている。その後ろには、もう一人の鳥人がいた。若い女で、翼はエルンより細く、白い斑が入っている。
ナジャの身体が強張った。
エルンは彼女を見た。
ほんの一瞬だけ。
すぐに、オルガへ文書を差し出す。
「再戦の日程が決まった。六日後だ」
「ずいぶん急だな」
「そちらが辞退を撤回したので、空いていた日へ戻った」
オルガが筒を受け取る。
エルンの後ろで、白斑の鳥人が翼を広げた。
キリクが、その翼を見る。
「そいつは誰だ」
「天翼団の二人目の翔け手だ」
空気が変わった。
ヨナは、二人の足元を見ている。
エルンが彼女へ向いた。
「三拍目の着地点を消す。面白い壁役だと聞いた」
「見たんですか」
「今日の審査は、公開の中庭で行われた」
誰かが見ていた。
そして、もう伝わっている。
エルンは白斑の鳥人へ球を投げた。
彼女が受け取る。
一拍。
二拍。
二拍目の空中で、球をエルンへ返す。
着地する前に、エルンが受け取って飛び上がった。
一拍。
二拍。
今度は、白斑の鳥人が地面を蹴る。
球が空を渡り続ける。
一人は三拍を越えていない。
だが、球には着地点がない。
ヨナの顔から、初めて表情が消えた。
「今度の天翼団は、三拍目に球を持たない」
エルンが地面へ降りた。
「六日後、空を塞いでみろ」
二人の翼が、再び夜気を打った。
灯りが大きく揺れる。
文治の手帳の上を、影が走った。
三拍目を壁にした九人の前で、天翼団は三拍目そのものを捨ててきた。




