第20話 終わらない最終回
「ここに残って、売れる最終回を書くかだ」
黒瀬の言葉が、正午の鐘よりも長く、文治の耳に残った。
選べ、と言われた。
だが文治には、選択肢が二つあるようには思えなかった。
三日後に北境へ戻れば、『井底通信』の原稿料がなくなる。井戸のある土地を守れず、いずれ道そのものを失う。
東京に残れば、井戸は守れるかもしれない。その代わり、ティナとの約束を破る。ヨナの三日間を見届けず、ガドのいない北境倶楽部を置き去りにする。
戻れば、あとで戻れなくなる。
残れば、戻る資格がなくなる。
「そんなのは、選択じゃありません」
文治の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「どちらを選んでも、失うものを並べただけです」
「たいていの選択はそういうものだ」
黒瀬は原稿を揃え、机の端を軽く叩いた。
「何も失わずに欲しいものだけ取れるのは、広告の中だけだ」
「分かっています」
「分かっている顔には見えんな」
「分かっているから、腹が立つんです」
文治は薄茶の手帳を閉じた。
表紙の内側に書いた日付を、もう見たくなかった。
「最終回には、何を書けと言うんですか」
「結末だ」
「まだ起きていません」
「起きたところまでで締めろ」
「ガドは戻っていない。ヨナの試験結果も出ていない。天翼団との再戦も――」
「だから、そこへ向かうところで終わればいい」
黒瀬は赤鉛筆を持ち、反故紙の裏へ見出しを書いた。
――小さき壁、空の王者へ挑む。
「これなら売店で目を引く」
文治は、その文字を見つめた。
小さき壁。
ヨナの名が消えている。
正面から投げ飛ばされた事実も、相手を止めるのではなく三拍目を奪うという技術も消えている。
残るのは、小さな女が大きな敵に挑むという、分かりやすい形だけだった。
「これは、ヨナの記事ではありません」
「読者はヨナを知らん」
「だから、知らせるんでしょう」
「知らせるために、まず読ませる」
「読ませるためなら、別の人間にしていいんですか」
「別人にしろとは言っていない」
「同じです」
文治は反故紙を裏返した。
黒瀬の眉が動く。
「小さいから応援したくなる女じゃない。ヨナは、自分が正面から勝てないと知っている。知ったうえで、相手の足を見るんです。自分より大きい者に憧れて、真似をして、奇跡を起こしたんじゃない。できないことを捨てたから、できることを見つけた。その違いを消したら、私が書く意味がない」
「なら、その違いを一行目で読ませろ」
「一行で、人間を分からせろと言うんですか」
「新聞だぞ」
黒瀬の声が低くなった。
「お前の苦悩を、読者は金を払って待ってくれない。次も読むかどうかを決めるのに、一行もくれん奴だっている。そいつの指を止めるのが見出しだ。止めたあと、どこまで本当のヨナを見せられるかがお前の腕だろう」
正しい。
腹が立つほど、正しかった。
文治は、言い返せない自分にも腹が立った。
「明日の正午までだ」
「今日、一本渡したばかりです」
「明日の分が最終回だ。ここへ来る途中で汽車が止まっても、腹を壊しても、正午は正午だ」
「それでは、明後日に向こうへ戻れない」
「明日の正午に出せば、明後日の朝は空く」
「書ければ、でしょう」
「書け」
黒瀬はそれだけ言うと、電話の受話器を取った。
会話は終わりだった。
文治は原稿と手帳を鞄へ詰めた。
編集部を出る直前、黒瀬が受話器を耳へ当てたまま言った。
「浦上」
振り返る。
「最終回を書くのと、話を終わらせるのは別だ。そこは間違えるな」
意味を聞く前に、黒瀬は電話の相手へ怒鳴り始めた。
◇
階段を下りると、鷹野がいた。
東都夕報の入る煉瓦造りの建物、その薄暗い一階で、壁に背を預けている。帰ったはずの男が待っていたことに、文治は嫌な予感を覚えた。
「尾行ですか」
「待ち伏せです。尾行より人聞きがいい」
「どちらも記者のやることです」
「君も記者らしい顔に戻りましたね」
「泣いた人間をからかうために待っていたなら、帝都公論も暇になったものです」
「逆です。忙しいので、結論から言います」
鷹野は革鞄から一枚の紙を出した。
帝都公論の名が入った原稿依頼書だった。
記されている金額を見て、文治は目を疑った。
『井底通信』三か月分の原稿料より多い。
「何の冗談です」
「連載の買い取りです。正式には、競技制度に関する長期探訪記事の依頼になります」
「打ち切りの話を、どこで聞いたんです」
「階段の下まで聞こえていました」
「盗み聞きじゃないですか」
「新聞社の階段で大声を出す方にも、少しは責任があります」
文治は依頼書を返そうとした。
鷹野は受け取らなかった。
「その金があれば、井戸の土地を守れるのでしょう」
文治の指が止まった。
「なぜ、それを」
「君は先ほど、原稿料がなければ井戸を守れないと言った」
自分で叫んだ言葉だった。
恥も、秘密も、編集部中に聞かれていた。
文治は依頼書を二つに折りかけた。紙の硬さが指へ食い込む。
この紙一枚で、井戸が守れる。
三日後にも、その先にも、北境へ行ける。
ティナの工房へ紙を運べる。墨を買える。『井戸端新聞』を、二十枚ではなく四十枚刷れるかもしれない。ガドの処分が明ける日も、天翼団との再戦も、消されるかもしれない敗北も見届けられる。
欲しい。
喉から手が出るほど、欲しかった。
「条件は」
声にした自分を、文治は軽蔑した。
それでも聞かずにはいられなかった。
「全取材帳の開示。東都夕報に載せた分を含む独占掲載権。それから、現地取材への同行です」
予感していた言葉だった。
「現地はありません」
「では、この依頼もありません」
「作り話だと思っていたんでしょう」
「理性では、と言いました」
鷹野は文治の鞄を見た。
「存在しない競技にしては、数字が揃いすぎている。登場人物は嘘をつくのに、規則は一度も嘘をつかない。飛翔が三拍までという制限も、体格級も、一次記入権も、必要なときだけ都合よく変わらない。創作なら、ずいぶん不親切です」
「褒めているんですか」
「疑っています」
「同行させたら、何を書くつもりです」
「見たことを」
文治は、思わず鷹野を睨んだ。
「その言葉を、あなたが使うな」
「なぜです」
「私の言葉だからです」
「真実に所有権はありません」
「あの人たちには、ある」
文治は依頼書を鷹野の胸へ押しつけた。
「あの場所へ誰を入れるかは、私が決めることですらない。あなたが勝手に見て、勝手に制度へ名前をつけて、帝都公論の読者へ売っていいものじゃない」
「君は売っている」
短い一言が、腹へ刺さった。
「固有名詞を変えれば違うと?」
「違わない」
「なら、私との違いは何です」
「私は――」
言葉に詰まった。
黒瀬に問われたばかりだった。
読ませるためにヨナを「小さき壁」へ変えることと、北境を「未知の異国」へ変えて売ること。自分はどこまでなら許されるのか、その線さえまだ引けていない。
鷹野が冷静な声で続ける。
「私なら、個人の悲劇だけで終わらせない。記録を消す仕組みを調べる。誰が権限を持ち、金がどこへ流れ、どの規則が特定の種族を排除しているかを書く。君の選手たちを守るためにも、必要な記事でしょう」
「私の選手じゃない」
「では、なおさら君一人で囲う理由はない」
「囲っているんじゃない!」
文治の声が、玄関の硝子を震わせた。
外を歩く男が振り返った。
「怖いんです。あなたが正しいから怖いんだ。私より調べられる。私より大きな紙面を使える。記録を消している人間にも届く。けれど、あなたの記事が届くころには、ヨナは“小人族初の壁役”にされる。ガドは“半巨人の暴漢”にされる。ナジャは“敵と通じた獣人”にされる! 本文で百行訂正したって、見出しの十文字だけが一人歩きする。私は、それをもうやったんです!」
息が続かなかった。
胸の奥に溜まっていた恐怖が、怒りの形で外へ出ていく。
「ラウのときもそうだった。私は、あいつが低く飛べると書いた。残したかった。誰にも消させたくなかった。なのに役人は、私の記事を名簿にした。家を探すために使った。私はあいつを売ったんです。十二歳で、褒めてほしくて!」
鷹野は何も言わなかった。
「今度は金ですか。井戸を守るためなら、入口まで売れと言うんですか。私が連れていったあなたの記事で、また誰かが消えたら? その金で井戸を守って、私はどんな顔で向こうへ行けばいい!」
言い終わると、膝が震えた。
怒鳴った相手より、自分の声に打ちのめされていた。
鷹野は依頼書を見下ろした。
「私は、必ず誰かを傷つけますか」
「分かりません」
「自分なら傷つけないと?」
「思っていません」
「では、何を根拠に断るんです」
文治は唇を噛んだ。
根拠。
黒い手帳に書ける事実。
そんなものはなかった。
鷹野が悪意をもって北境を暴くという証拠はない。むしろ制度を調べる力なら、文治より上だ。連れていけば救えるものがあるかもしれない。
それでも。
「約束していないからです」
文治は言った。
「向こうの人たちに、あなたを連れていくと約束していない。あなたに見せていいか、聞いてもいない。金が必要だからといって、私一人で決めていいことじゃない」
「許可を取りに戻る、と?」
「戻ります」
「三日後に」
「はい」
「そして、彼らが許可したら」
文治はすぐには答えなかった。
拒絶する方が簡単だった。
鷹野を嫌い、危険な大手紙の記者だと決めつければ、自分だけが北境を知る人間でいられる。
だがそれは、守ることに似た独占ではないのか。
「そのときは、私から連絡します」
鷹野は初めて、わずかに笑った。
「合格点です」
「試験を受けた覚えはありません」
「不合格なら、井戸を探すところでした」
文治の背筋が凍った。
鷹野は依頼書を革鞄へ戻した。
「冗談です」
「あなたの冗談は、笑えません」
「よく言われます」
鷹野は表へ出た。
人力車を止める前に、一度だけ振り返る。
「浦上君。君が戻らなければ、私はあの記事を最後まで作り話だと思うことにします」
「勝手にしてください」
「戻ったなら、続きを書いてください。掲載する場所がなくても」
「誰に読ませるんです」
「まず、書かれた本人に」
鷹野は人力車へ乗った。
車輪が濡れた路面を切り、遠ざかっていく。
文治はその場に立ち尽くした。
依頼書の金額だけが、目の裏に残っていた。
◇
その夜、旧宅へ戻ると、兄が待っていた。
灯りの消えた座敷に一人で座り、火鉢へ炭を足している。文治に似ているのは眉の形くらいで、身体は兄の方が太く、指も働く者の太さをしていた。
「会社は」
「休みを取った」
「なぜ」
「お前が東京に戻ったと聞いたからだ」
兄は、封筒から土地の書類を取り出した。
文治が全財産に近い手付金を入れ、売却を三か月延ばした契約。その残額と、今後かかる税や管理費が、細かな字で並んでいる。
「責めに来たのか」
「数字を見せに来た」
「同じことだ」
「違う。責めるだけなら、紙はいらん」
兄は算盤を弾いた。
乾いた珠の音が、誰も住まなくなった家に響く。
「東都夕報の給金と、連載の原稿料。お前の下宿代と汽車賃を引く。三か月後までに足りん」
「分かっている」
「分かっていない。足りん、というのは気持ちの話じゃない。これだけ足りん」
兄が紙に数字を書いた。
見覚えのある金額だった。
鷹野の依頼書にあった金額と、ほとんど同じだ。
文治は目を逸らした。
「今すぐ売却を進めるなら、これ以上の支払いはいらん。買い手も、手付の扱いは話し合うと言っている。母の費用にも余裕ができる」
「井戸は埋められる」
「井戸だ」
「ただの井戸じゃない!」
言葉が、座敷を打った。
兄の手が算盤の上で止まった。
文治は肩で息をした。
今日、何度怒鳴っただろう。
怒鳴らなければ、自分の声が誰にも届かない気がしていた。
「ただの、古い、涸れ井戸じゃない」
もう一度言うと、声が崩れた。
「向こうに人がいる。私を待っているかは分からない。待っていないかもしれない。それでも、いるんだ。私がここで紙に書いたから生まれたんじゃない。私が書く前から、そこで生きている」
兄は黙っていた。
「十六年前、私は一人置いてきた。ラウという友達だ。私が書いたせいで、役人に見つかった。怖くなって、井戸へ板を打った。助けに行かなかった。生きているか、ずっと分からないままにした」
鼻の奥が痛んだ。
文治は畳へ両手をついた。
「また同じことをしろと言うのか。今度は子供じゃない。金が足りないと分かったうえで、向こうに蓋をしろって言うのか。そんなことをしたら、私はもう、自分が何者か分からない」
「文治」
「分かっている。母さんの金もいる。兄さんには家族がいる。この家を置いておくだけで迷惑がかかる。私の話なんか、信じられないのも分かってる!」
涙が畳へ落ちた。
悔しかった。
兄を責めたいわけではない。
兄の方が、ずっと現実を引き受けてきた。母を迎え、家を処分し、文治が目を逸らしていた数字を一つずつ片づけている。
自分だけが、井戸の向こうの人々を理由に、すべてを待たせようとしている。
「でも、売れないんだ……」
声が子供のようになった。
「あそこを売ったら、私はまた逃げたことになる。もう嫌なんだ。怖くなるたびに蓋をして、見なかったことにして生きるのは、もう嫌なんだよ、兄さん」
火鉢の炭が、赤く崩れた。
兄は長い間、何も言わなかった。
やがて、文治の前へ一枚の古い硬貨を置いた。
日本の金ではなかった。
鈍い青色の金属。縁には、翼と球を組み合わせた紋が刻まれている。
文治は息を止めた。
「どうして、これを」
「お前が十二のとき、井戸のそばに落ちていた」
兄は硬貨から目を離さなかった。
「お前は三日も熱を出した。目を覚ますたび、ラウを助けに行くと言った。親父は夢だと怒鳴った。母さんは、もう井戸へ近づくなと泣いた。俺は……何も言わなかった」
「知っていたのか」
「知らん。今も、お前の言う異世界が何なのかは知らん」
兄は算盤の横へ硬貨を置いた。
「だが、お前が十六年、同じ夢に怯えていたことは知っている」
文治は硬貨に触れた。
冷たい。
確かな重さがある。
黒い手帳に書ける重さだった。
「なぜ、今まで」
「見せたら、また井戸へ行くと思った」
「行ったよ」
「ああ。硬貨がなくてもな」
兄は、疲れたように息を吐いた。
「土地は三か月、お前の金で止めた。約束どおりだ。それ以上は、俺にはできん」
「兄さん」
「明後日、どこへ行くかは好きにしろ。ただし、三か月後の金は自分で作れ。母や俺を、井戸の蓋にするな」
優しい言葉ではなかった。
それでも文治は、何度も頷いた。
「分かった」
「本当に分かったのか」
「分からなくなっても、分かるまで考える」
「面倒な返事だ」
「記者だから」
「昔からだ」
兄は立ち上がった。
玄関へ向かい、上がり框で靴を履く。文治はその背中へ、ようやく言えた。
「ありがとう」
「礼は、金を返してから聞く」
「それでも、ありがとう」
兄は振り返らなかった。
戸が閉まる直前、小さな声がした。
「そのラウという奴が生きていたら、十六年分、殴られてこい」
「二発で済むかな」
「一発目は受けろ。二発目は止めろ」
戸が閉まった。
文治は泣きながら、少し笑った。
◇
その夜、文治は三つの最終回を書いた。
一つ目では、ヨナが天翼団を止めた。
小さな壁役が、空の王者を地へ落とす。北境倶楽部は一つになり、ガドは処分を終えて戻り、全員が文治を許す。
読み返すと、胸が温かくなった。
だから捨てた。
まだ起きていない。
二つ目では、北境倶楽部が解散した。
ガドの暴力、ナジャの秘密、種族同士の亀裂。夢に破れた九人を見送り、記者だけが東京へ帰る。
悲しいが、綺麗に終わっていた。
それも捨てた。
起きたことではない。
三つ目には、自分の告白を書いた。
異世界が実在すること。井戸が二つの世界をつないでいること。自分が少年時代にラウを書き、追われるきっかけを作ったこと。北境の記事で金を得て、その金で井戸を守っていること。
すべて本当だった。
けれど、これも原稿にはできなかった。
真実であることと、公にしてよいことは違う。
文治は三枚の束を前に、頭を抱えた。
柱時計が午前二時を打つ。
あと十時間。
窓の外で、風が井戸の覆い板を鳴らした。
北境の音は聞こえない。
ヨナはどうなった。
今日が試験の二日目だった。正面から止めようとして、また投げ飛ばされただろうか。自分のやり方を信じられただろうか。
ティナは怒っているだろうか。
オルガは、文治がいない方が練習に集中できると言っただろうか。
ナジャとキリクは、同じ作戦板の前に立てただろうか。
考えるほど、自分だけが安全な場所にいるように思えた。
「私は、何をしてるんだ」
声が空き家に吸われた。
「あの人たちが今日を生きているのに、私は明日の結末を作ってる」
腹の底から、嫌悪が込み上げた。
文治は三つの原稿を床へ払い落とした。
「書けない。終わっていないものを、終わったなんて書けるか!」
机を叩いた。
硯の墨が跳ね、黒い手帳の端を汚した。
黒い染みがじわじわと広がっていく。
事実の帳面が、墨で読めなくなる。
文治は慌てて布で押さえた。拭うほど染みが伸びた。
「やめろ……頼むから、消えるな」
誰に頼んでいるのか、自分でも分からなかった。
ガドの二発が。
ヨナの三拍目が。
ラウの低翔びが。
自分が見たものが、また消えてしまう。
文治は手帳を胸に抱え、畳へうずくまった。
「消したくないんだ」
涙と鼻水で、息が詰まった。
「売れなくても、褒められなくてもいいなんて、格好をつけるつもりはない。読んでほしい。金もほしい。井戸も守りたい。あの人たちにも必要だと言われたい。全部ほしいんだよ」
薄茶の手帳を開く。
感情なら、どれほど醜くても書ける。
――終わらせたくない。
――読まれたい。
――戻りたい。
――怖い。
――金がほしい。
――また捨てる人間になりたくない。
書いているうちに、気づいた。
どの言葉にも、結末はなかった。
結末がないことだけが、今の自分に書ける事実だった。
文治は新しい原稿用紙を出した。
表題を書いた。
――終わらない最終回。
◇
翌日、正午五分前。
文治は東都夕報へ駆け込んだ。
徹夜で足元が浮いている。髪は乱れ、頬には墨がついていた。黒瀬は机の前で懐中時計を開いている。
「四分ある」
「できました」
「結末は」
「ありません」
黒瀬の目が細くなった。
文治は原稿を置いた。
「北境倶楽部は、まだ立ち直っていません。ヨナは、壁役になれるか決まっていない。ガドは処分中です。天翼団との再戦もしていない。だから、終わらせません」
「これは最終回だ」
「連載の最終回です。あの人たちの最終回じゃない」
黒瀬は原稿を手に取った。
一枚目。
二枚目。
文治は時計の針が進む音を聞いていた。
本文には、ヨナが壁役として常識外である理由を書いた。彼女が負けたことを書いた。三拍目の着地点を消したことを書いた。
ガドの処分が続いていることも、ナジャとキリクの亀裂が一度の得点では塞がらないことも書いた。
最後には、こう記した。
――勝敗は、まだない。
――彼らは明日も練習する。
――ゆえに本通信は、結末を記さない。
黒瀬が最後の一枚を机へ置いた。
「最終回としては最低だな」
「はい」
「読者に何も渡していない」
「途中までの事実を渡しました」
「金を取って、途中までか」
「続きは、あります」
「載せる場所がない」
「書きます」
「誰も買わなくても?」
「書きます」
「井戸を失っても?」
その問いだけは、すぐに答えられなかった。
三か月後。
金を作れなければ、井戸は埋まる。
兄はもう待たせられない。鷹野の金を断り、東都夕報の連載も終わる。どうすればいいか、まだ分からない。
「失わない方法を探します」
黒瀬は鼻を鳴らした。
「記事じゃなく、願望だ」
「薄茶の手帳に書いてあります」
「なら、黒に移せ」
黒瀬は赤鉛筆で、原稿の最後に一本だけ線を引いた。
結末を記さない、の「ない」の下だった。
「ここを直せ。終わっていない、と書け。お前が記さないんじゃない。話の方が、お前を待たずに続いている」
文治はその線を見つめた。
黒瀬が、ほんのわずかに口の端を上げた。
「最終回としては最低だが、次回予告としては悪くない」
「次回は、ないんでしょう」
「東都夕報にはな」
黒瀬は机の引き出しから、薄い紙束を出した。
『井底通信』の抜き刷りだった。一回目から今回分までを綴じるため、校正部が試しに組んだものらしい。
「連載の権利を、お前に戻す」
「上が許すんですか」
「売れない記事の権利など、向こうは欲しがらん」
「黒瀬さんは」
「俺は新聞屋だ。売れないものは切る」
突き放すような言い方だった。
だが黒瀬は、抜き刷りの角を丁寧に揃えていた。
「ただし、二通の投書も写して持っていけ。読者が二人いたという事実まで、ここへ置いていくな」
文治は紙束を受け取った。
軽い。
二十回分の言葉が、驚くほど軽い。
けれど両手で持たなければ、落としてしまいそうだった。
「ありがとうございます」
「礼はいい。次に持ってくるなら、売れる原稿にしろ」
「次があるんですか」
「ない」
「今、持ってこいと」
「お前が三か月で売り先を見つけるかもしれん」
「見つからなかったら」
「井戸と一緒に埋めろ」
「縁起でもないことを言わないでください」
黒瀬は次の原稿へ手を伸ばした。
もう、文治を見ることはなかった。
「明日の朝、発つんだろう」
「はい」
「遅れるな」
「締切ですか」
「約束だ」
文治は頭を下げた。
編集部を出る。
廊下の途中で、涙が出た。
打ち切られたのに、悲しいだけではなかった。
自分の連載が終わった。
だから、自分で続きを書ける。
◇
三日目の朝。
文治は古井戸の前に立った。
鞄には三冊の手帳、取材道具、『井底通信』の抜き刷り、二通の投書の写し。兄から返された青い硬貨も入っている。
財布は軽かった。
三か月後の見通しはない。
鷹野の依頼を断ったことが正しかったのかも、分からない。
ただ、今日戻ると約束した。
文治は薄茶の手帳を開いた。
三日後の日付の横に、鉛筆で小さく書き加える。
――これから戻る。
まだ黒い手帳には移さない。
向こう側の土を踏むまで、約束は事実にならない。
井戸の内壁を下りる。
東京の朝の匂いが遠ざかった。石炭煙、味噌汁、湿った新聞紙。代わりに、冷えた石と鉄錆と、北境の乾いた土の匂いが近づいてくる。
暗闇の境を越えた。
足裏が、白い石の足場を捉える。
上る。
一段。
二段。
三段。
北境側の井戸口から顔を出した。
空は夕焼けだった。
三日。
こちらでも、ほとんど同じだけの時間が過ぎている。
文治は地面へ上がると、すぐに黒い手帳を開いた。
薄茶の手帳の日付を写す。
――三日後、北境へ戻った。
書いた文字を指でなぞった。
約束が、事実になった。
「戻りました」
誰もいない井戸端で言った。
返事はなかった。
練習場へ向かう。
いつもなら、遠くからでもガドの声が聞こえる。今は処分中だからいない。それでも、球を蹴る音や、オルガの怒鳴り声や、キリクの翼が風を打つ音がするはずだった。
何も聞こえない。
胸騒ぎがした。
文治は歩調を速めた。
練習場には、誰もいなかった。
作戦板が壁へ立てかけられている。球は籠へ収められ、土の上には新しい足跡だけが残っていた。
その中央に、ヨナが一人で立っていた。
小さな身体の横に、荷物袋が置かれている。
帰る人間の荷物だった。
「ヨナ」
彼女が振り返った。
三日前と同じ、感情の読みにくい顔だった。
けれど右の頬に、擦り傷が増えている。
「戻ったんですね」
「約束しましたから」
「そうですか」
ヨナはそれ以上、喜びも責めもしなかった。
文治は息を整えた。
「三日間の試験は、終わったんですか」
「終わりました」
「結果は」
ヨナは荷物袋の紐を握った。
指の節が、白くなっている。
「合格です」
文治は息を吐いた。
全身の力が抜けそうになった。
「よかった……」
「よくありません」
ヨナの声が、文治を止めた。
「どういうことです」
「北境倶楽部は、私を壁役として選びました」
彼女は一度、唇を結んだ。
「でも、地方競技院が登録を認めませんでした」
夕風が、誰もいない練習場を抜けた。
作戦板が、かたんと鳴る。
「理由は」
尋ねながら、文治には分かっていた。
ヨナは小人族だ。
小人族が壁役を務めることは、常識外である。
「小人族の登録区分に、壁役はないそうです」
「そんな……規則のどこに」
「規則には、ありません」
ヨナは文治をまっすぐ見た。
「前例がないから、認められないそうです」
文治の鞄の中で、『井底通信』の抜き刷りが音を立てた。
鷹野の言葉が蘇る。
誰が規則を決め、誰が得をしているのか。
選手は見える。仕組みが見えない。
「みんなは、どこへ」
「地方競技院です」
「抗議に?」
「いいえ」
ヨナは荷物袋から、一枚の紙を出した。
北境倶楽部の名が書かれた選手登録表だった。
八つの名前が並んでいる。
九人目の欄だけが、空白だった。
「私を認めないなら、天翼団との再戦を辞退すると伝えに行きました」
文治は登録表を見た。
手が震えた。
北境倶楽部が、自分たちから試合を捨てようとしている。
記録に残る前に。
戦う前に。
「止めなければ」
文治は駆け出しかけた。
「何をですか」
ヨナの問いに、足が止まる。
「辞退をです。ここまで来たのに、戦わないなんて――」
「私を外せば、九人で戦えます」
「誰を入れるんです」
「壁役になれる種族なら、誰でも」
「あなたの三拍目を消せる人は、他にいない!」
「だから、あなたが決めるんですか」
胸を突かれた。
文治は口を閉じた。
記者だから戻ると言った。
作戦を決めるためではない。
チームを救うためでもない。
だが、見ているだけでいいのか。
北境倶楽部が消えようとしているときに。
ヨナが登録表を差し出した。
「あなたは、東京で何を書いたんですか」
「終わっていない、と」
「そうですか」
ヨナは、空白の九人目を指した。
「では、これも書いてください」
夕焼けの下で、白い紙だけが妙に明るかった。
「前例がない、という理由で」
ヨナの指が震えていた。
「私の試合は、始まる前に終わりました」




