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第19話 帰る記者

 井戸の底で、文治は一度だけ振り返った。


 見上げても、北境の空は見えない。


 丸く切り取られたはずの空は、黒い水面のように揺れていた。あの向こうでは今ごろ、ヨナが三日目の試験に備えている。キリクは地上を走る練習を続け、ナジャは痛む膝を隠さず、どこまで動けるかを仲間に告げているだろう。


 三日で戻る。


 そう書いた薄茶の手帳を、文治は胸の内ポケットの上から押さえた。


 約束は、まだ事実ではない。


 だから黒い手帳には書けなかった。


「……行ってきます」


 誰もいない闇へ言い、文治は梯子に足をかけた。


 一段上がるごとに、空気が変わった。


 湿った土と獣脂の臭いが薄れ、代わりに、冷えた石と黴と、遠くの石炭煙の匂いが鼻へ入ってくる。最後の一段を越えて、日本側の古井戸から這い出したとき、文治の頭上には薄い朝があった。


 大正十年、東京。


 どこかで始発の汽笛が鳴った。


 電車の軋む音が町の屋根を渡り、新聞配達の少年が、まだ眠っている路地を駆けていく。つい三日前まで毎日聞いていたはずの音が、よその国の騒音のように耳を刺した。


 文治は井戸端に両手をついたまま、しばらく立てなかった。


 帰ってきた、と思った。


 その直後に、逃げてきた、と思った。


 二つは、まるで同じ意味に思えた。


 掌には、向こう側の石で擦った傷がある。爪の間には北境の土が詰まっている。袖には、ガドが殴った男の血が乾いていた。


 けれど路地を行く人々は、誰一人としてそれを知らない。


 文治が井戸から出てきたことさえ見ていない。


 見られていない出来事は、なかったことになるのだろうか。


「そんなはず、あるか」


 思いのほか大きな声が出た。


 空き家の板塀が、頼りなく声を返した。


 文治は立ち上がった。足元が揺れたのは、井戸を上がったせいだけではなかった。


 家へ入り、井戸水で顔を洗い、北境の服を風呂敷に包んだ。机の上には、留守の間に差し込まれた封書が三通あった。税の催促、井戸のある土地の支払いについて兄から届いた短い手紙、それに東都夕報からの使いだった。


 最後の封には、黒瀬の字で一行だけ書かれていた。


 ――締切、明日正午。生きているなら書け。


 文治は笑おうとした。


 唇の端が少し動いただけだった。


 机に座り、三冊の手帳を並べる。


 黒。事実。


 赤。未確認。


 薄茶。感情。


 黒い手帳には、ガドの二発が記されていた。


 一発目。文治への襲撃を止めるため。


 二発目。倒れた相手を黙らせるため。


 黒い手帳には、ヨナの正面衝突の敗北も、三拍目を消した足運びも記されている。ナジャとキリクが、許し合ったわけではないまま、同じ作戦板へ手を置いたことも。


 そして薄茶の手帳には、自分が逃げたかったと書いてある。


 文治は原稿用紙を広げた。


 ペン先が、一行目の上で止まった。


 書けば、また誰かを傷つける。


 書かなければ、ガドの二発は一発になり、ヨナの敗北は奇跡の前座になり、ナジャの秘密は、ただの醜聞にされる。


 どちらを選んでも、自分の手が人の形を変えてしまう。


 それでも、締切は待たない。


 文治は夜が明けきるまで書いた。


 固有名詞をいくつか変えた。土地の名をぼかし、競技の呼び方に説明を足した。だが、二発を一発にはしなかった。正面から投げ飛ばされたヨナを、最初から無敵の小人にも変えなかった。


 最後に表題を書く。


 『井底通信――空いた壁』


 その文字が、ひどく白々しく見えた。


     ◇


 新橋の東都夕報には、朝から煙が溜まっていた。


 記者の煙草、石油ストーブ、濡れた外套。電話が鳴り、使い走りが校正刷りを抱えて廊下を走り、誰かが市会議員の名前を間違えたと怒鳴っている。


 文治は入口で足を止めた。


 懐かしい。


 そう感じるはずだった。


 だが、胸に浮かんだのは安堵ではない。


 怖かった。


 ここでは、起きたことが半日のうちに見出しへ変わる。


 人の怒りは三行になり、流した血は「乱闘」の二文字になり、負けた者の沈黙は紙面から消える。


 自分も、その仕事で飯を食ってきた。


「入口で葬式みたいな顔をするな、浦上」


 黒瀬が机の向こうから言った。


 背広の上着は椅子に掛け、腕まくりしたシャツの肘にインクがついている。無精髭も、目の下の隈も、文治が出ていった日のままだった。


「今度はどこの溝へ落ちた」


「井戸です」


「知ってる。連載の題くらい覚えている」


「本当に井戸なんです」


 黒瀬は文治を見た。


 ほんの一瞬だった。


 すぐに手を出す。


「原稿」


 文治は紙束を渡した。


 黒瀬は受け取ると、煙草を灰皿へ押しつけた。一枚目を読み始める。赤鉛筆を持っているのに、なかなか線を引かない。


 文治は机の前に立ったまま待った。


 電話が三度鳴った。


 隣の机で、社会部の若い記者が欠伸を噛み殺した。


 一枚、また一枚と、黒瀬が原稿をめくる。その乾いた音のたびに、文治は自分の皮膚を薄く剥がされているような気がした。


 やがて黒瀬が言った。


「小人が壁役か」


「はい」


「小人というのは、背が低くて頑丈な種族だと、前の原稿にはあったな」


「頑丈だから壁になれる、という話ではありません。むしろ、普通は壁役にはなれない。正面で止めるには、体格が足りなさすぎる。向こうでは、子供に任せるようなものだと言われています」


「その小人が、空を飛ぶ相手の着地点を奪う」


「三拍目だけです」


「細かいな」


「細かくなければ、嘘になります」


 答えた声が尖った。


 黒瀬は怒らなかった。最後まで読み、原稿を机へ置いた。


「面白い」


 文治は、喜べなかった。


「……それだけですか」


「面白い、と言われるのが不満か」


「分かりません」


「便利な返事だな」


 黒瀬は背もたれに体を預けた。そして机の引き出しから、紐で綴じた新聞の切り抜きを出した。


 『井底通信』の掲載分だった。


 一回目から、前回まで。欄外には赤鉛筆の小さな書き込みがある。


「全部、読んだんですか」


「載せた責任がある」


「感想を、聞かせてください」


 言ってから、文治は自分が何を求めているのか分からなくなった。


 褒めてほしいのか。


 やめろと言ってほしいのか。


 北境へ戻らなくてもよい理由を、この男の口から受け取りたいのか。


 黒瀬は切り抜きの最初を指で叩いた。


「第一回。記録から消された試合を見つけ、誰にも信じられない勝利を、お前だけが拾い上げる」


「事実です」


「記事の中ではな。だが読者には、ずいぶん気分がいい。誰も知らない真実を、正義感の強い記者が救い出す。主人公としては上等だ」


 文治の胃が縮んだ。


「私は主人公ではありません」


「第一回のお前は、そう書かれている」


 否定しようとして、言葉が出なかった。


 自分は、彼らの勝利を記録した。


 それを救ったつもりでいた。


 救われたくて書いていたのは、むしろ自分だったのかもしれない。


 黒瀬は二つ目の切り抜きをめくった。


「競技の場面はいい。球がどこにあり、誰の足が止まり、どこが空いたかが見える。地名も種族も作り話じみているのに、負けた奴の息だけは妙に本物だ。だから続きを読ませる」


「作り話では――」


「分かっている。お前はそう言う」


 黒瀬は指を上げ、文治を黙らせた。


「だが、よくなったのは、お前の記事で人が傷つき始めてからだ」


 胸の奥を、爪で掻かれた。


「ナジャという女の秘密が仲間を割った回。ガドという大男が、倒れた相手へ二発目を打った回。あそこから、お前は自分を善人に書けなくなった。読んでいるこちらも、誰か一人を悪人にして安心できなくなった」


「それを、よくなったと言うんですか」


「記事としてはな」


「人が壊れたんです」


「だから記事にするな、と?」


「そうは言っていません!」


 編集部の声が、一瞬だけ遠のいた。


 何人かがこちらを見た。


 文治は拳を握った。黒い手帳が胸に当たっている。まるで、中に書いた二発目が自分を殴ってくるようだった。


 黒瀬は静かに続けた。


「ガドの二発を分けて書いたのはよかった。一発目だけなら英雄で、二発目だけなら乱暴者だ。両方書いたから、あの男は人間になった」


「そのせいで、三試合の出場停止です」


「処分を決めたのはお前か」


「違います。ですが、私が聞かなければ、ヨナは二発だと証言しなかったかもしれない。私が記事にしなければ――」


「事実が一発に減ったか?」


「減りません」


「なら、お前が背負うのは二発目じゃない。二発あったと書いた責任だ。混ぜるな」


 黒瀬の言葉は冷たかった。


 それなのに文治は、少しだけ息ができた。


 許されたからではない。


 許してもらえなかったからだった。


 黒瀬は机の端に置かれた封筒を二通、文治の前へ滑らせた。


「目に見える反響は、これだけだ」


「二通……」


「大当たりとは言えん。週に三度も紙面を割く連載に、投書が二通。数字だけなら打ち切り候補だ」


 一通目は、学生らしい角張った字だった。紙の半分に、競技場の見取り図が描かれている。翼を持つ選手の着地点について、文治の記事では左右が分からない、と書いてあった。


 二通目は、かつて蹴球をしていたという工員からだった。


 ガドは二発目を打つべきではなかった。しかし、自分が同じ場所にいたなら、打たずにいられたか分からない。その後、彼が仲間に何を言ったのか知りたい。


 文治は二枚の紙を、何度も読み返した。


 二通。


 たった二通。


 けれどそこには、確かにヨナの三拍目を考えた人がいる。ガドを怪物にも英雄にもせず、自分の拳と重ねた人がいる。


 喉の奥が熱くなった。


「届いて、いたんですね」


「二人にはな」


「二人も、です」


 黒瀬がかすかに眉を上げた。


「そう言えるなら、まだ書ける」


 そのとき、背後から声がした。


「私は三人目に数えてもらえますか」


 振り返ると、鷹野壮一郎が立っていた。


 帝都公論の記者らしく、隙のない三つ揃いを着ている。磨かれた靴には泥一つない。脇に挟んだ革鞄から、東都夕報の切り抜きが覗いていた。


「なぜ、ここに」


「黒瀬さんに用がありまして。君の連載を読みに来たわけではありません」


 鷹野はそう言ってから、革鞄の中の切り抜きを隠そうともしなかった。


 黒瀬が鼻で笑う。


「毎回、うちの売店で夕刊を買っていく男が、よく言う」


「御社の売り上げに貢献しています」


 鷹野は空いている椅子を引き、文治の横へ座った。


「新しい原稿も拝見してよろしいですか」


「よくありません」


「では、黒瀬さん」


「勝手に読め」


「黒瀬さん」


 文治の抗議を無視し、鷹野は原稿を手に取った。


 速い。


 しかし飛ばし読みではなかった。数字のところで止まり、ヨナの足運びを示す簡単な図を確かめ、ガドの供述の箇所へ戻る。鷹野が紙をめくるあいだ、文治はこの男に自分の胸の中を勝手に調べられているようで、落ち着かなかった。


「……なるほど」


 読み終えた鷹野が言った。


「率直に言えば、腹が立ちます」


「何にです」


「キリクにです。秘密を隠したナジャを責めておきながら、自分の失敗を認めたくなかっただけだと、あとから告白する。卑怯です」


 文治は鷹野の顔を見た。


 制度や統計の話が始まると思っていた。選手個人への感情が先に出たことが、意外だった。


 鷹野は不愉快そうに続ける。


「ところが、彼が地上を走って得点した場面では、応援してしまった。腹立たしい男が立ち直るのを、私は待っていたらしい。あの小人の女についても同じです。正面から投げ飛ばされたところで、もうやめろと思った。着地点を奪ったところでは、続けろと思った」


「ヨナです」


「原稿では名を変えるのでしょう」


「向こうでは、ヨナです」


 口にしてから、文治は息を呑んだ。


 黒瀬は何も言わない。


 鷹野の目だけが、わずかに細くなった。


「やはり、実在のモデルがいる」


「感想を聞かせてください」


 文治は遮った。


 詮索されたくなかった。あの井戸を、この男の整理された理屈の中へ持ち込まれたくなかった。


 鷹野はしばらく文治を見たあと、切り抜きを机へ置いた。


「選手は見えます。よく見える。だから読み物としては成功でしょう。ですが、競技を取り巻く仕組みが見えない」


「仕組み?」


「誰が記録を持つのか。なぜ地方の役人に勝敗を消す権限があるのか。異議申し立ては誰にするのか。翼を持つ者と持たない者が同じ競技をする規則を、誰が決め、誰が得をしているのか。君は一人ずつ丁寧に書く。しかし、その一人を踏み潰す機械の形を書かない」


 文治の胸に、古い苛立ちが戻った。


「人間を見ずに制度だけ書くあなたに、言われたくない」


「そのとおりです」


 鷹野はあっさり認めた。


「私は、機械の図面を書く。君は歯車の傷を書く。どちらか片方では足りないと言っているんです」


「簡単に言うな」


「簡単ではありません。だから読んでいる」


 鷹野はガドの回の切り抜きを開いた。


「この回が一番いい。君は二発目を告発している。同時に、自分が襲われた当事者で、ガドに庇われた者だと隠していない。記者の立場が記事を汚すことを、初めて認めた」


「汚す……」


「ええ。記者が透明だなどというのは嘘ですから」


「だったら、どうすればいいんです」


「知りません」


 鷹野の返事は容赦がなかった。


「ただ、私は次を読みたい。ヨナのやり方が、珍しい見世物で終わるのか、本当に天翼団へ通じる戦術になるのか。ガドは処分のあと、戻れるのか。ナジャとキリクは、一枚の板に手を置いただけで仲間へ戻ったことにされるのか。そこを誤魔化せば、今までの話も全部、安い人情噺になる」


「安い人情噺……」


「しかし今は、そうではない。少なくとも私は、負けた彼らが気になります」


 鷹野が選手たちを「彼ら」と呼んだ。


 作り話の登場人物ではなく。


 文治の胸に、嬉しさが差した。


 その嬉しさが、すぐに吐き気へ変わった。


 ガドの二発目が読者を引きつけた。


 ナジャの秘密が続きを待たせた。


 北境の人々が傷つくほど、自分の連載は面白くなる。


 その面白さで原稿料を得て、井戸のある土地を守り、また向こうへ行ける。


 自分は、何を食って生きている。


「もう、たくさんだ」


 声が震えた。


 黒瀬と鷹野が黙った。


「面白いとか、いい回だとか、次が読みたいとか……もう、たくさんです」


 文治は机の上の原稿を掴んだ。指が震え、紙の端がくしゃりと折れた。


「あの人たちは、いるんです。作り話の向こうじゃない。ガドの拳も、ナジャの膝も、キリクが地面を走る屈辱も、全部、本当にあった。ヨナは明日も、あの場所で投げ飛ばされるかもしれない。それなのに私は、名前を変えて、読める順番に並べて、見出しをつけて持ってきた!」


 誰も止めなかった。


 止められないことが、苦しかった。


「本当のことをそのまま言えば、狂人だと笑うでしょう。異世界に行ってきた、小人が壁役になった、翼のある連中と試合をした。そんな記事を新聞に載せられるんですか。載せられないから私は、奇談のふりをした。作り話にした! そうしたら、あなたたちは文章がうまくなったと言う!」


 喉が痛んだ。


 それでも、言葉は止まらなかった。


「私は、読まれたかったんです。反響がほしかった。原稿料がなければ、井戸を守れない。井戸がなくなれば、向こうへ戻れない。だからガドが二発目を打ったとき、怖かったのに――心のどこかで、これで記事になると思った!」


 口にした瞬間、全身から力が抜けた。


 それだけは、薄茶の手帳にも書けなかった。


 醜すぎて、言葉にすれば本当になってしまうから。


「人が壊れるところを見て、記事になると思ったんです。私は。ガドを庇ってもらったくせに。ナジャに、もう仲間ではないみたいな顔をさせたくせに。ヨナに、あなたの数字が必要だと言わせて、ほっとした。必要とされたかったんです。記者としてじゃなくてもいいから、あそこにいていいと言ってほしかった!」


 目の奥が熱かった。


 泣くものかと思った。


 だが、一度こぼれた涙は、止めようとするほど増えた。


「分からないんです。私は仲間なのか、記者なのか。仲間なら、傷つくことは書かない方がいい。記者なら、嫌われても書かなきゃいけない。でも、書いた結果を背負えないなら、記者だなんて名乗るなとも思う。何を書けばいいんですか。どう書けば、誰も傷つけずに済むんですか!」


 最後の問いは、ほとんど叫びだった。


 編集部が静まり返っていた。


 遠くで電話だけが鳴っている。


 黒瀬が立ち上がり、その電話の受話器を外した。机の上へ伏せ、鳴るのを止める。


 それから文治の前に戻った。


「そんな書き方があるなら、俺が先にやっている」


「……黒瀬さん」


「誰も傷つけない記事は、たいてい、誰にも触れていない記事だ」


「じゃあ、傷つけてもいいんですか」


「よくない」


「どっちなんです!」


「どっちでもないから、書いたあとも記者でいろと言っている」


 黒瀬は、くしゃくしゃになった原稿を文治の手から抜き取った。折れた端を掌で伸ばす。


「書いて逃げるな。正しかった顔をするな。傷つけた相手が次にどうなるか、見届けろ。自分が嫌われるところまで記事の外へ捨てるな。それしかない」


 文治は俯いた。


 薄茶の手帳に書いた日付が、胸を焼いていた。


 三日で戻る。


 自分はその約束を、守れるだろうか。


 守って、何をするのだろう。


「浦上君」


 鷹野が静かに呼んだ。


「君は、彼らの仲間ですか。それとも記者ですか」


 黒瀬と同じ問いだった。


 文治は答えられなかった。


 目を閉じる。


 ガドの背中が見えた。殴った拳を隠さず、三試合の処分を受けた背中。


 ナジャの指が見えた。震えながら、割れた作戦板へ触れた指。


 ヨナの小さな靴が見えた。大きな相手を止めず、その次の一歩だけを消した靴。


 ティナの声を思い出した。


 逃げたいのに、逃げていない顔をして残られる方が迷惑です。


 文治は目を開けた。


「記者です」


 言葉にすると、胸のどこかが裂けた。


 仲間ではないと、自分で認めたように感じた。


 それでも続けた。


「私は記者です。だから、あの人たちが私を嫌っていても戻ります。ガドがいない試合を見ます。ヨナが壁になれないなら、なれなかったと書きます。ナジャとキリクがまた割れるなら、それも書く。天翼団に負けるなら――負けるところまで見て、負けたと書きます」


 声はまだ震えていた。


「仲間になりたいから、都合よく書くんじゃない。記者だから戻る。戻って、書いたあとも、あそこにいます。許されなくても」


 黒瀬は何も言わなかった。


 鷹野は、わずかに視線を落とした。


 やがて黒瀬が赤鉛筆を取り、原稿の表題に一本、線を引いた。


「『空いた壁』では弱い」


「では、何と」


「自分で考えろ。俺はお前の告解を買うんじゃない。原稿を買う」


 いつもの黒瀬の声だった。


 文治は袖で目を拭った。


「……直します」


「正午まで一時間だ」


「間に合わせます」


「それと、固有名詞を変えるなら、変えた事実をどこかに書け。作り話に見せるためではなく、書かれた相手を守るためだとな」


「はい」


 文治は空いている机へ向かった。


 鷹野が椅子から立つ。


「私の感想を、もう一つ」


 文治は振り向いた。


「私はこの連載を、最初は馬鹿にしていました。井戸の底に別の世界があるなど、三流の講談だと思った」


「今も、そう思っているでしょう」


「ええ。理性では」


 鷹野は革鞄を閉じた。


「ですが毎号、彼らの勝敗を先に探しています。政治欄よりも。これは記者としては、少々認めがたい敗北です」


 冗談のような口調だった。


 鷹野は笑わなかった。


「続きを書いてください、浦上君。私が、彼らを作り話だと思い切れるように。あるいは、思えなくなるところまで」


 そう言って、鷹野は編集部を出ていった。


 文治はしばらく、その背中を見送った。


 三人目。


 読者は、三人になった。


 それで十分だとは言えない。井戸の土地代は待ってくれない。新聞は好意では刷れない。北境の人々を守るには、読者が多すぎても危険で、少なすぎれば道そのものを失う。


 それでも、ゼロではなかった。


 文治は新しい原稿用紙を引き寄せた。


 最初の一行を書き直す。


 ――小人族が壁役を務めることは、勇敢なのではない。常識外れである。


 次の行。


 ――だから彼女は、大きな者の真似をしなかった。


 ペンが動いた。


 泣いたあとの目で、文字だけを見た。


 正午の鐘が鳴る少し前、文治は書き直した原稿を黒瀬の机へ置いた。


 黒瀬は一枚目を読み、今度は表題に線を引かなかった。


「これで出す」


 胸に、小さな灯がともった。


「ありがとうございます」


「礼を言うのは早い」


 黒瀬は原稿を揃えた。


 その声に、文治は顔を上げた。


「井底通信は、次で終わりだ」


 灯が消えた。


「……終わり?」


「投書二通。売り上げに目立った動きなし。紙もインクも値が上がっている。上は、次回で打ち切れと言っている」


「待ってください。まだ天翼団との再戦がある。ガドも戻っていない。ヨナの試験だって、明日まで――」


「だから、次で終わらせろ」


「終わらせられません」


「新聞の都合は、北境とやらの結末を待たない」


「三日後に戻る約束なんです」


「戻るのは勝手だ。だが、原稿料は次で切れる」


 文治は、机の端を掴んだ。


 原稿料が切れる。


 井戸を守れない。


 戻れても、その次はない。


 黒瀬は、まだ乾いていない『井底通信』の原稿を、文治の前へ置いた。


「選べ、浦上」


「何を……」


「三日後の約束を守って、終わらない話へ戻るか」


 黒瀬の赤鉛筆が、表題の横で止まった。


「ここに残って、売れる最終回を書くかだ」


 窓の外を、正午の電車が走り抜けた。


 文治は薄茶の手帳を開いた。


 三日後の日付は、まだそこにある。


 黒い手帳へ移すには、あと二日しかなかった。

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