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第18話 空いた壁

「空いているなら、そこへ入ります」


 ヨナの声が、地方競技院の廊下に響いた。


 北境倶楽部の八人は、誰もすぐに答えなかった。


 小人族が壁役を務める。


 文治が初めて陣球を見た子どもの頃から、一度も聞いたことがない。壁役は大きく、重く、正面から相手を受け止める者。小人族は密集の足元へ潜り、球を掻き出す者。


 疑う必要さえないほど、この世界へ染み込んだ分け方だった。


「試すだけだ」


 最初に口を開いたのはオルガだった。


「明朝、練習場へ来い。壁役として使えないと判断したら、そこで終わりだ」


「構いません」


「ガドの代わりにはならないと言ったな」


「なりません」


 ヨナはガドを見上げた。


「あなたのようにはなれません」


「私のようには、ならない方がいいです」


 ガドが右手の包帯を見た。


 ヨナは首を横へ振った。


「そういう意味ではありません。あなたになったら、私を入れる意味がなくなります」


 ガドの顔が上がった。


「ただ、教えてください。王都天翼団の壁役は、どちらの肩から当たりますか」


「右が多いです。正面から来るように見せて、左へ回します」


「重さは」


「私より軽い。でも、二人で来ます」


「では、一人目は通します」


 リオが眉を吊り上げた。


「通したら壁ではないだろう」


「一人目を止めて二人目に抜かれるより、二人目の道を消します」


「口なら、何とでも言える」


「だから、明日見せます」


 ヨナは言い返すのではなく、事実を置くように答えた。


 その態度が、かえってリオを苛立たせた。


「来るのは勝手だ。だが、潰されても小さい身体のせいにするな」


「あなたも、抜かれたときに身体のせいにしないでください」


 リオの顔が赤くなった。


 ナージャの尾が、ほんの少し揺れた。笑いを堪えたらしい。


 久しぶりに生まれた小さな笑いだった。


 だが、ガドは笑わなかった。


「ヨナさん」


「はい」


「私が空けた場所へ入ると、あなたもいろいろ言われます」


「もう言われています」


「小人族だからというだけではありません。私のことを追い出すために来た、証言で席を奪ったと言う者もいる」


「言わせます」


「平気なんですか」


「平気ではありません」


 初めて、ヨナの声がわずかに揺れた。


「でも、腹が立つことと、立たないことは別です」


 ガドの包帯を見てから、自分の両手を開いた。


「それを混ぜると、拳になります」


 ガドは何も言えなかった。


     ◇


 翌朝、練習場の土は夜露を含んでいた。


 踏めば靴底へ重くまとわりつく。冷えた風が石壁を越え、キリクの翼のあいだを鳴らしていた。


 文治は門の外に立っていた。


 来るように言われたわけではない。


 取材を拒まれたわけでもない。


 だからこそ、どこまで入っていいのか分からなかった。


 昨日までなら、勝手に記者席を決め、黒い取材帳を開いていた。いまは門を一歩越えるだけで、自分の記事を盾に押し入るような気がした。


 練習場には、すでに八人がいた。


 ナージャも戻っている。左膝の包帯は薄くなったが、まだ全力で走ることは許されていないらしい。用具箱のそばで腕を組み、キリクと離れて立っていた。


 八人の中央に、球が一つ置かれている。


 誰も触れない。


 前日と同じ光景だった。


 ヨナが門へ来たのは、朝の鐘が鳴る直前だった。


 煤けた仕事着ではなく、使い込んだ競技着を身につけている。膝と肩には何度も縫い直した跡があった。腕には防具がない。


「壁役なら、肩当てくらい持ってこい」


 リオが言った。


「借りられますか」


「持っていないのか」


「私の大きさは売っていません」


 誰も返せなかった。


 オルガは用具箱から革の肩当てを取り出し、紐を詰めてヨナへ渡した。


「試す前に、話すことがある」


 オルガは全員を見た。


「昨日までに、九人が七人になった。ガドの処分だけが理由ではない。言わなかったことと、聞かなかったことがある。それを残したまま、新しい一人を入れても、同じところから割れる」


 ナージャが、球の前へ出た。


「私から話す」


 灰色の獣耳は、キリクの方を向いていた。


「エルンとの関係を、謝るつもりはない」


 キリクの嘴が動きかけた。


「最後まで聞いて」


 ナージャは続けた。


「でも、あいつの癖を知っているから自分に任せろと言った。その根拠を話さなかったことは謝る。私は、恋人だと知れたら配置から外されると思った。九人で決める前に、自分一人で決めた」


 尾が足元で固く巻かれた。


「信じてもらえないのが怖かった。だから、信じるかどうかを選ぶ機会まで、みんなから奪った」


 文治は門の外で息を止めた。


 ナージャが、誰を好きかではなく、自分が何を恐れていたかを語っている。


 その言葉を紙へ取りたいと思った。


 同時に、いま取材帳を開けば、また彼女の痛みを材料にする気がした。


 腕が動かなかった。


「すまなかった」


 ナージャが頭を下げた。


 キリクは、翼の先で自分の脚を覆った。


「俺もだ」


 声が小さかった。


「俺は、お前だけを責めたかった」


 ナージャが顔を上げた。


「天翼団に、俺の三拍目を待たれた。昨日まで武器だと思っていた飛び方が、全部読まれていた。怖かった。俺が通じなかったことより、お前が隠していたことを大きくすれば、自分の失敗を見なくて済むと思った」


 キリクは翼を開いた。


 威嚇ではない。


 隠していた身体を、さらすような開き方だった。


「恋人だから止められなかったと言ったのは、競技の話じゃない。俺の腹いせだ。すまなかった」


 二人のあいだに、朝の風が通った。


「許すとは、まだ言えない」


 ナージャは答えた。


「分かっている」


「でも、次に私へ聞きたいことがあるなら、新聞へ話す前に私へ聞いて」


「そうする」


「私も、配置に関わることは話す」


 握手はしなかった。


 肩を抱くこともなかった。


 それでも、二人は同じ球の方を向いた。


 割れた場所へ、細い板を一枚渡しただけだった。


 いまは、それでよかった。


「決まりを作る」


 オルガが言った。


「配置と作戦に関わる情報は話す。恋人や家族の名まで話す義務はない。聞く側も、何のために聞くかを言う。答えたくないなら、答えない理由だけは伝える」


「ずいぶん面倒だな」


 ドニが呟いた。


「面倒だから、昨日まで決めずに済ませた。その結果がこれだ」


 オルガは空いた場所を見た。


 そこにガドはいない。


「もう、黙って分かったことにはしない」


 全員が頷いたわけではなかった。


 それでも、反対する者はいなかった。


「話は終わりですか」


 ヨナが尋ねた。


「聞いていたのか」


「同じところから割れると言われたので」


「どう思った」


「長いです」


 ミロが吹き出した。


 カヤも口元を押さえる。ナージャの尾が、今度は隠さずに揺れた。


 オルガだけが真顔を保とうとして、失敗した。


「では、始める」


 球が、ようやく地面から拾い上げられた。


     ◇


 最初の試技は、正面からの一対一だった。


 球を持つリオが二十間先へ立つ。


「本気で来てください」


 ヨナが言った。


「死ぬぞ」


「止められなければ、あなたが進むだけです」


「後悔するなよ」


 開始の声と同時に、リオが走った。


 土を蹴る音が近づく。肩を低くし、球を胸へ抱え、ヨナの正面へ入った。


 ヨナも腰を落とした。


 衝突した。


 鈍い音がして、小さな身体が宙へ浮いた。


「ヨナさん!」


 文治は門を越えていた。


 ヨナは背中から土へ落ち、二度転がった。肩当てがずれ、口の端に泥がついている。


 リオは四間ほど先で止まり、振り返った。


「だから言った」


 ヨナは肘をつき、起き上がった。


「もう一度」


「無理だ」


 オルガが止めた。


「いまので分かった。正面では受けられない」


「正面から受けろと言われたので、受けました」


「壁役の試しだ」


「壁役は、正面から飛ばされる試しをするんですか」


 ヨナは肩当ての紐を締め直した。


「次は、私のやり方で」


 オルガは迷った。


「やらせて」


 ナージャが言った。


「失敗の形が一つしかないなら、成功する形も一つしか見つからない」


 キリクがナージャを見た。


 その言葉が、エルンを止め損なった一歩から出たものだと分かったのだろう。


「もう一度だ」


 オルガが告げた。


 ヨナは、先ほどより二間だけ右へ立った。


「そこでは中央が空く」


 リオが言った。


「空けています」


 開始。


 リオが同じように走る。


 ヨナは正面に入らなかった。


 リオの右足が土へ着く瞬間、左前へ半歩出た。肩を当てるのではなく、次に伸びる左脚の先へ自分の身体を置く。


 リオは踏み込めない。


 避けて右へ回った。


 そこにはセラがいた。


 横から腰を抱えられ、リオが倒れる。球が後ろへ置かれ、ミロが掘り出した。


「私が止めていない」


 ヨナは言った。


「進む場所を一つにしただけです」


 リオが土を払いながら立った。


「俺が、わざと右へ行った」


「では、次は左へどうぞ」


 三度目。


 リオは左へ切り返した。


 ヨナは追わなかった。


 左にはカヤが待っていた。


「どちらへ行っても、誰かいるじゃないか!」


「九人でやる競技ですから」


 今度は、誰も笑わなかった。


 文治は黒い取材帳を開いた。


 一度目、ヨナは正面から受け、五間後退。


 二度目、接触なし。リオ、右へ三間移動。セラが停止。


 三度目、接触なし。リオ、左へ二間半移動。カヤが停止。


「記者」


 オルガに呼ばれた。


 文治の心臓が跳ねた。


「はい」


「いまの二度目。ヨナが動いたのは、リオがどこまで来たときだ」


 取材帳を見る。


「残り五間です。リオさんの右足が着く直前」


「三度目は」


「残り四間半。今度は一歩も動いていません。最初から、カヤさんへ行く道だけを空けていました」


 オルガが地面の跡を見た。


「ヨナ。お前は、相手を止められない」


「はい」


「一人では」


「はい」


 ヨナの黒い瞳に、初めて強い光が宿った。


「一人で止める壁役が欲しいなら、ガドさんが戻るまで待ってください」


 空気が張った。


「九人で止める壁役が要るなら、もう一度試してください」


     ◇


 次に前へ出たのはキリクだった。


「俺を止めてみろ」


 翼をいっぱいに開いている。


「止めません」


「できないの間違いだろう」


「空を飛んでいる間は」


 ヨナはキリクの翼ではなく、足を見た。


「誰か、拍子木を」


 ドニが練習用の拍子木を構えた。


 キリクが球を抱え、助走を始める。


 翼が風を掴んだ。


 一拍。


 身体が低く浮く。


 ヨナは動かない。


 二拍。


 キリクがヨナの頭上を越える。


 そのとき、ヨナが走った。


 キリクの影を追わず、斜め前へ。


 三拍目の音が鳴る直前、両足の着地点へ滑り込んだ。


 キリクは着地できない。


 翼を一度強く打ち、身体を横へ逃がした。


 三拍。


 左足だけが土へ触れる。体勢が崩れたところへ、ナージャが肩を当てた。


 球が落ちる。


 ヨナが拾った。


「飛行反則だ!」


 キリクが叫んだ。


「三拍目で着いた」


 ドニが答えた。


「片足だけだ!」


「片足でも着地です」


 ヨナが球をミロへ渡した。


「お前は俺を止めていない!」


「はい。空には届きません」


「なら――」


「でも、三拍目には地面へ戻る」


 ヨナは土についた翼跡を指した。


「空に壁は作れません。でも、三拍目には地面へ戻る。そこなら、私にも壁を作れます」


 キリクは言葉を失った。


 ナージャが、口の端を上げた。


「天翼団は、あなたに同じことをした」


「分かっている」


「分かっているなら、この人に教われば」


「俺が?」


「着地点を塞がれても、次の一歩へつなぐ方法を」


 キリクの翼が膨らんだ。


 また怒る、と文治は思った。


 しかしキリクは、ヨナから球を奪い取った。


「もう一度だ」


「次は、右を塞ぎます」


「言うな!」


「言っても同じです」


「だったら、抜いてやる!」


 声に、久しぶりに競技者の熱が戻っていた。


 二度目は、ヨナが負けた。


 キリクは二拍目で高度を捨て、早く着地し、地上の一歩で横を抜いた。


「今度は俺だ!」


「はい」


「悔しくないのか」


「悔しいので、もう一度」


 三度目は、二人とも倒れた。


 四度目は、ナージャが拾った。


 五度目には、全員が次の球の行方を叫んでいた。


     ◇


 昼近くまで試技は続いた。


 ヨナは何度も抜かれた。


 正面から二人に来られると、身体ごと押し込まれた。長い腕で頭上から球を渡されれば届かない。倒れたあとの起き上がりも、ガドより遅かった。


 それでも、抜かれるたびに土へ線を引いた。


「いまは、ここを空けすぎました」


「次は半歩、内へ」


「ミロさん、私が倒れたら右脚の後ろから球を出してください」


「セラさん、相手の肩ではなく腰を見てください。私が肩をずらします」


 自分が勝つためではなく、抜かれた先に味方を置くための指示だった。


 ガドの壁は、ぶつかった相手の勢いを受け止める。


 ヨナの壁は、勢いの向きを変える。


 同じ場所に立っても、同じ競技にはならなかった。


「最後に九人でやる」


 オルガが告げた。


 五人と四人に分かれ、落城線までの二十間を争う。


 ヨナはナージャ、キリク、ミロ、カヤと組んだ。


 開始の球を取ったのは相手側だった。


 リオが中央を走る。


 ヨナは受けず、右を空けた。


 リオがそこへ入る。


 ナージャが待つ。


 球が後ろへ置かれる前に、セラが受け取った。ヨナの頭上へ腕を伸ばし、左へ渡そうとする。


 届かない。


 ヨナは跳ばなかった。


 セラの腰へ入り、身体の向きだけを外へ変えた。


 渡された球が半間ずれた。


 ミロが地面すれすれで掻き取る。


「キリク!」


 球が後ろへ渡った。


 翼が開く。


 一拍。


 相手側の二人が着地点へ走る。


 二拍。


 キリクは早く降りた。


 三拍目を待たず、両足で土を踏む。すぐにナージャへ球を返し、地上を走って追い越す。


 ナージャはまだ全力で走れない。


 カヤへ球を渡す。


 カヤが止められ、後ろへ置く。


 最後に球を拾ったのは、ヨナだった。


 落城線まで五間。


 正面にはオルガがいる。


 ヨナが真っすぐ走る。


「それでは止まるぞ!」


 リオが叫んだ。


 衝突の直前、ヨナは球を後ろへ落とした。


 自分だけがオルガの足元へ潜り、その進路を半歩、左へずらす。


 ヨナの背後を、キリクが走り抜けた。


 地上のまま球を拾う。


 残り三間。


 翼は開かなかった。


 自分の脚で走り、落城線を越えて球を置いた。


「落城!」


 文治は叫んでいた。


 取材帳を持ったまま、誰より大きな声を出していた。


 九人が振り向く。


 しまったと思った。


 また記者の立場を越えた。


 だが、キリクが笑った。


「うるさいぞ、記者!」


「すみません!」


「点は合ってる!」


 ナージャも笑っていた。


 ガドはいない。


 その事実は消えない。


 ヨナが入ったからといって、昨日までの九人に戻ったわけでもない。


 それでも、球の周りには九人いた。


「ヨナ・ケルム」


 オルガが呼んだ。


「正式登録の書類を出す。三日間は仮参加だ。合わないと思えば、お前から断ってもいい」


「そちらから断ることも?」


「ある」


「分かりました」


「今日のところは、壁役として認める」


 ヨナは頷いた。


 喜んだ顔はしなかった。


 ただ、土の上に残った自分の足跡を、一度だけ見た。


 その横には、ガドよりはるかに小さな空白があった。


 空白は小さい。


 だが、そこから相手の道が曲がっていた。


     ◇


「これを」


 練習が終わると、ヨナが文治へ紙片を差し出した。


 天翼団の公開練習試合で、文治が書いた球の移動を写したものだった。


「どこで手に入れたんです」


「井戸端新聞に載っていました」


「私の記事を読んだ?」


「読みました。二発目の記事も」


 胸が縮んだ。


「ガドさんを追い出した記事だと思いますか」


 尋ねずにはいられなかった。


 ヨナは紙片を畳んだ。


「まだ、それを聞くんですか」


「私には大事なんです」


「私の答えで、書いたことが変わりますか」


「変わりません。でも……」


 その先を言えなかった。


 許されたかった。


 ガドに頼まれて書いた。ヨナが証言した。競技院が処分した。


 誰か一人でも「あなたは悪くない」と言ってくれれば、胸の重さを下ろせる気がした。


 ヨナは、それを見抜いたようだった。


「私は、あなたを許すために北境へ入るのではありません」


「分かっています」


「分かっていない顔です」


「では、どういう顔をすればいいんです!」


 文治の声が荒くなった。


 練習場を出かけていた何人かが、足を止めた。


「私は、何をしても誰かを傷つける。書けば壊し、書かなければ隠したと責められる。取材に入れば仲間のふりをするなと言われ、離れて立てば、見ていなかったのかと言われる! あなたは見たことを話すだけでいいと言った。でも私が書けば、それは紙になって町中へ行く。あなたの一言も、ガドさんの一言も、私が置く場所で意味が変わるんです!」


 止められなかった。


「怖いんです。私はずっと、必要とされたかった。東京では、私の記事なんか夕刊の穴を埋める紙だと思われていた。ここでは、みんなが読んだ。怒っても、紙を破っても、私の書いたものを待ってくれた。だから私は、役に立つ記事を書けば、ここにいていいと思っていた!」


 喉の奥が熱くなった。


「でも、ガドさんの記事は役に立たなかった。あの人を試合から外した。今日、あなたの動きを測ったのだって、本当に競技を知りたいからなのか、チームに必要だと言ってもらいたいからなのか、自分でも分からない! 私は記者でいたいのか、仲間になりたいのか、もう分からないんです!」


 息が切れた。


 沈黙の中で、ヨナが紙片をもう一度開いた。


「二度目の試技」


「え?」


「私は、いつ動きましたか」


 文治は黒い取材帳を見た。


「リオさんが残り五間へ来たとき。右足が着く直前です」


「三度目は」


「動いていません。最初から左だけを空けた」


「それが必要でした」


 ヨナは紙片を文治へ戻した。


「あなたが仲間かどうかも、立派な記者かどうかも、私は決めません。今日、必要な数字を持っていた。それだけです」


「それだけ……」


「それだけでは足りませんか」


 文治は答えられなかった。


 足りないと思う自分が、恥ずかしかった。


 事実以上の何かを求めている。


 感謝。信頼。居場所。許し。


 それらを記事の代金として受け取りたがっていた。


「次までに、天翼団が着地後、どちらへ球を置くことが多いか調べてください」


「次?」


「明日も来るのでしょう」


 ヨナは当然のように言った。


 文治の胸が、わずかに軽くなった。


 その軽さを喜んだ瞬間、背中の鞄に入れた手帳の角が当たった。


 東京の日付を書いた手帳だった。


     ◇


 印刷所へ戻り、文治は手帳を開いた。


 東都夕報の『井底通信』は週三回。


 次稿の締切は、明日の正午だった。


 日本側へ戻り、原稿を清書し、新橋の社へ届けなければ間に合わない。連載の原稿料が止まれば、旧宅と井戸を三か月維持するための金も続かない。


 北境に残るために、東京へ帰らなければならない。


 文治は、そのことを分かっていた。


 分かっていたのに、手帳を閉じたままにしていた。


「帰るんでしょう」


 ティナが言った。


「……はい」


「締切だから?」


「はい」


「それだけ?」


 文治は鞄の口を閉じようとした。


 留め金が合わない。何度押しても、金具が滑った。


「それだけです」


「では、私を見て言って」


 顔を上げられなかった。


「違います」


 留め金から手を離した。


「ここにいるのが、苦しいんです」


 言葉が、一度出ると止まらなかった。


「ガドさんのいない場所を見るのが苦しい。皆さんが私の記事を読んだあと、どんな顔で私を見るのか考えるのが怖い。今日、ヨナさんが入って九人に戻ったとき、嬉しかった。でも同時に、私がいなくても立て直せるのだと分かって、寂しかった!」


 文治は自分の胸を掴んだ。


「ひどいでしょう。あの人たちは倶楽部が残るかどうかで苦しんでいるのに、私は自分が必要かどうかばかり考えている。助けたいと言いながら、私がいなければ駄目であってほしいと、どこかで願っていたんです!」


 声が震えた。


「東京なら、締切に遅いと怒鳴られるだけで済む。黒瀬さんに原稿を投げ返され、鷹野に笑われる。それなら役目が分かる。誰かの人生を一発と二発に分けなくていい。だから帰りたい。締切は本当です。でも私は、それを逃げ道にしている!」


 ティナは、しばらく何も言わなかった。


 活字を洗う水の音だけが続いた。


「逃げればいい」


 文治は顔を上げた。


「いいんですか」


「逃げたいのに、逃げていない顔をして残られる方が迷惑」


 ティナは濡れた手を布で拭いた。


「ただし、戻る日を決めてから逃げて」


「天翼団戦の前日までには」


「遅い」


「では、三日後」


「ヨナの仮参加が終わる日ね」


「はい」


「戻れなかったら?」


 文治はすぐに答えられなかった。


「戻ります」


「その返事は、黒い帳面?」


 事実を書く帳面。


 それとも、願いを書く薄茶の帳面か。


 文治は鞄から薄茶の取材帳を出した。


「いまは、こちらです」


 表紙へ、三日後の日付を書いた。


「でも、黒へ移します」


 夕方、二人は北境市の井戸まで歩いた。


 石の縁から下を覗くと、暗闇の奥で縄が揺れている。


 文治は鞄を背負い、縄を握った。


 掌のペンだこへ、硬い繊維が食い込む。


「文治」


 ティナに呼ばれ、振り返った。


「三日後よ」


「はい」


「待つとは言わないから」


「それでいいです」


 本当は、待っていてほしかった。


 戻る場所があると、誰かに保証してほしかった。


 だが、それを記事の代金にも、約束の代金にもしてはいけない。


 文治は縄へ足をかけた。


 北境の灯りが、一段ずつ遠ざかる。


 東京へ帰る。


 逃げるために。


 そして、逃げたままにしないために。

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