第16話 二発目
ガドの拳が、もう一度持ち上がった。
「やめろ!」
文治は叫んだ。
小人族の女が、右足を半歩引いた。
逃げたのではない。
腰をひねり、ガドの進む先へ肩を差し入れた。巨体を正面から受け止めず、その力を横へ流そうとしたのだ。
だが、ガドの腕は長かった。
女の頭上を越えた拳が、地面へ倒れている男の頬を打った。
最初の一発より、小さな音だった。
それなのに文治には、その音の方が深く聞こえた。
卓も倒れない。瓶も割れない。男の頭が石畳へ落ち、乾いた音が一つ重なっただけだった。
男は動かなくなった。
「あ……」
ガドの口から、声にならない息が漏れた。
太い指が開いた。握り込まれていた六邦公報の切れ端が、血のついた拳から落ちる。
「私は……」
ガドは、自分が何をしたのか確かめるように、倒れた男を見た。
その顔から怒りが消えていた。
残っていたのは、怯えだった。
練習場でキリクに「また倶楽部を追われるのが怖いだけだろう」と言われたときと同じ目をしていた。
「医者を!」
小人族の女が叫んだ。
通りの時間が動き出した。
酒場の主人が店内へ駆け込み、見物人が一斉に後ずさる。誰かが巡吏を呼べと叫び、別の誰かは「半巨人が人を殺した」と、まだ息をしている男を指して叫んだ。
「殺していません!」
文治は反射的に怒鳴った。
「あの男が先に殴ったんです。私は見た。ガドは、私を押し倒した男たちから――」
「二度です」
小人族の女が言った。
文治の言葉が止まった。
女は倒れた男の首筋へ指を当てていた。
「この人たちが先に手を出しました。大きな人の最初の一発は、それを止めるためです。でも、倒れてからもう一度殴りました」
「いま、それを言う必要がありますか」
自分でも信じられない言葉が出た。
女が顔を上げた。
黒い瞳が、真っすぐ文治を見る。
「一度と二度は違います」
「分かっています!」
胸の中で、何かが暴れた。
「分かっているから……いまは、医者を呼ぶ方が先でしょう。どうして、そんな言い方をするんです。まるで最初から、この人だけが悪かったように」
「そうは言っていません」
「同じです!」
女の眉がわずかに寄った。
「違います。一発目を消さないために、二発目も消さないんです」
文治は息を呑んだ。
言い返せなかった。
男が先にガドを殴った。
文治を石壁へ突き飛ばした。
ナージャを雌犬と呼び、ガドを半端な巨人と呼んだ。
そのすべてが事実だった。
そして、倒れた男をガドがもう一度殴ったことも、事実だった。
一つを守ろうとするたび、もう一つが邪魔をする。
いや、邪魔なのではない。
自分が見たくないだけだ。
遠くから笛の音が近づいてきた。
◇
巡吏が三人、市場通りへ駆けつけた。
ガドは逃げなかった。
両手を下ろし、倒れた男から離れて立った。手首へ拘束紐を巻かれるときも、抵抗しなかった。
「待ってください」
文治は巡吏へ詰め寄った。
「先に手を出したのは、倒れている男です。そこの二人も私を壁へ突き飛ばした。ガドが何もしなければ、殴られ続けていたかもしれない」
「話は警舎で聞く」
「ここで聞いてください。見ていた人がいる。いま記録しないと、みんな自分に都合のいい話へ変えてしまう!」
「あんたも見ていたんだろう」
「見ました」
「何発だ」
文治の喉が塞がった。
最初の一発は、はっきり見た。
二発目も、腕が動くところは見た。小人族の女が割って入り、その向こうで拳が落ちた。音を聞き、男の頭が石畳へ当たるのを見た。
だが、拳が頬へ触れたその瞬間だけは、女の身体に隠れていた。
「一発は、確かに」
答えながら、胃が縮んだ。
「もう一発は、腕が動くところまで見ました。殴った瞬間は、見えていません」
「二発です」
女がもう一度言った。
巡吏が手帳を開いた。
「名は」
「ヨナ・ケルム」
「仕事は」
「西坑の荷測り人です」
「この男たちと知り合いか」
「いいえ。昼餉を買いに来ただけです」
「大男とは」
「初めて見ました」
ヨナは淡々と答えた。
ガドが初めて彼女を見た。
「なぜ……」
声が震えていた。
「なぜ、私の前へ入ったんです」
「殴る必要がなかったからです」
「あなたも殴っていたかもしれない」
「そうならない場所へ立ちました」
ヨナは当然のように言った。
ガドは、自分の足元を見た。
小さな女一人を押しのけたつもりはなかったのだろう。それでも、彼女の警告を聞き、彼女が立っている場所を避け、腕だけを伸ばして男を殴った。
止められなかったのではない。
止まらなかった。
その違いを、ガド自身も分かってしまった顔だった。
治療師たちが男を担架へ乗せた。意識はないが、呼吸はある。命に関わるかどうかは、診療所へ運ばなければ分からないという。
見物人の輪の外で、鉛筆の音がした。
文治は振り向いた。
エダ・モーンが立っていた。
誰より早く来たのか。それとも、六邦公報が売られている市場を初めから歩いていたのか。
銀縁の眼鏡の奥で、視線だけが現場を数えている。
倒れた卓。
散った賭け札。
ガドの拳についた血。
文治の背についた石灰。
「何発でしたか」
エダは文治へ尋ねた。
「まだ、治療も始まっていません」
「だから、いま聞いています。あとから記憶が混ざる前に」
「一発は見た。二発目は――」
ヨナを見た。
助けを求めたつもりはなかった。
だが、彼女の口から「見間違いかもしれない」と言ってほしい自分がいた。
「二発です」
ヨナは同じ答えを繰り返した。
エダの鉛筆が動いた。
「最初に暴力を振るったのは」
「倒れている男です」
「二発目のとき、抵抗していましたか」
「いいえ」
「ヨナさん」
文治はたまらず呼んだ。
「その人は、ガドを何度も侮辱したんです。ナージャさんのことも。私も突き飛ばされた。そこまで書かれなければ、二発という数だけが独り歩きする」
「なら、あなたが書いてください」
ヨナは文治の腕抜きと、胸元から覗く三冊の取材帳を見た。
「一発目も、二発目も」
ガドが巡吏に連れていかれる。
文治は追おうとした。
「浦上さん」
ガドは振り返らなかった。
「私のことは、書かないでください」
足音だけが、通りの先へ遠ざかった。
昨日までなら、文治は即座に反発したはずだった。
書くかどうかを決めるのは、記者です、と。
いまは言えなかった。
書けばガドを失うかもしれない。
書かなければ、自分を失わずに済むのか。
その答えも分からなかった。
◇
診療所から知らせが来たのは、昼の鐘のあとだった。
男は意識を取り戻した。頬骨にひびが入り、頭を強く打っているが、命に別状はないという。
安堵した途端、文治は椅子へ座り込んだ。
井戸端新聞の印刷所には、朝刷った紙と油墨の匂いが残っていた。窓の外では、市場を行き交う荷車の音がする。その一つ一つが警舎へ向かっているように聞こえた。
机の上に、黒い取材帳が開いている。
――男、文治を壁へ押す。
――男、ガドの左頬を殴打。
――ガド、一度殴打。男、倒れる。
そこまでは書けた。
次の一行が書けない。
鉛筆の先を紙へつけると、黒い点だけが大きくなった。
「『目撃者は二発と証言』」
向かいで活字を拾っていたティナが言った。
「あなた自身が接触の瞬間を見ていないなら、そう書くしかない」
「分かっています」
「では書いて」
「分かっていると言ったでしょう!」
文治は鉛筆を机へ叩きつけた。
ティナの手が止まった。
活字が一つ、指のあいだから床へ落ちた。
金属の澄んだ音がして、文治は自分の声の大きさに気づいた。
「……すみません」
「私に謝る前に、続きを言って」
「何をです」
「いま、何に怒ったの」
文治は口を閉じた。
問い詰められたからではない。
ティナの声が静かだったから、逃げられなかった。
「一発だったことにしたいんです」
長い沈黙のあと、文治は言った。
「最初の一発なら、ガドは私を守ろうとした。自分を殴った相手を止めようとした。言葉は悪くても、書ける。『仲間を守った壁役』とさえ書けるかもしれない」
唇が震えた。
「でも、二発目は違う。相手は倒れていた。ヨナさんが止めた。私も叫んだ。それでもガドは殴った。あれを書けば、守るためだったとは書けない」
「うん」
「私は、あの人を悪者にしたくない!」
堪えていた声が破れた。
「やっと倶楽部へ入れたと言ったんです。身体が大きいから置かれたんじゃない、ここにいていいと言われたんだって。その直後に、また追い出されるようなことをした。なぜですか。どうして、あと一歩だけ止まれなかったんですか!」
答える者はいない。
「私が追わなければよかったのか。私が記事を書かなければ、あの男たちはナージャさんを侮辱しなかったのか。エダがあんな見出しをつけなければ。キリクがあんなことを言わなければ。誰か一つ違っていれば、二発目はなかった!」
文治は両手で頭を抱えた。
「でも、最後に拳を動かしたのはガドだ。それを認めたら、今度は私があの人を捨てるような気がする。認めなければ、あの人がしたことまで嘘にする。どうすればいいんです。私は、また間に合わなかった。ラウのときも、連れていかれるのを見ているだけだった。今日も目の前にいたのに、声しか出なかった!」
喉の奥が引きつった。
十五年前の井戸端が、目の前の印刷所へ重なった。
縄を打つ音。
ラウの母の叫び。
自分が書いた「低翔び」の文字。
そして今日、石畳へ落ちた男の頭。
どちらにも、紙があった。
「私は書くたびに遅いんです。傷つく前には何もできない。全部終わってから数えて、名前をつけて、紙へ残す。それで何になるんですか。私の鉛筆は、人が倒れたあとにしか届かない!」
目から涙が落ちた。
黒い取材帳の上ではなく、両手の甲へ落ちた。
ティナはすぐに慰めなかった。
床へ落ちた活字を拾い、机へ戻した。
「間に合わなかったから、なかったことにするの?」
「できません」
「二発目を書けば、ガドを捨てることになる?」
「分かりません」
「では、本人に聞くしかない」
「答えてくれません」
「一度で諦めるの?」
文治は顔を上げた。
「あなたが人を救えるかどうかは、私は知らない」
ティナは言った。
「新聞にそんな力があるとも思わない。でも、誰かを好きだから一発に減らす紙と、嫌いだから三発に増やす紙なら、どちらも井戸端新聞ではない」
その言葉は優しくなかった。
だから、立ち上がるために使えた。
文治は涙を袖で拭い、黒い取材帳を閉じた。
「警舎へ行きます」
「その前に、練習場へ」
ティナが一枚の通知書を差し出した。
地方競技院の印が押されていた。
――登録選手ガドについて、市中での傷害嫌疑により、査問終了まで出場および倶楽部稽古への参加を停止する。
正式試合まで、あと九日だった。
◇
練習場には、七人しかいなかった。
ナージャは外され、ガドは警舎にいる。
それでもオルガは球を一つ、中央へ置いていた。
誰も触れようとしない。
「ガドは、どうなる」
ミロが文治へ尋ねた。
「まだ分かりません。相手の命に別状はありません。ただ、競技院は査問まで出場停止にしました」
「九日で終わるのか」
「分かりません」
「そればかりだな」
リオが吐き捨てた。
「記者なら、何か知っているんじゃなかったのか」
文治の胸が痛んだ。
だが、言い返さなかった。
「俺のせいだ」
キリクが言った。
翼を固く畳み、地面を見ていた。
「俺が、また追われるのが怖いだけだなんて言わなければ、ガドは一人で出ていかなかった」
「言葉を投げたのはお前だ」
セラの声は冷たかった。
「でも、拳を投げたのはガドだ」
キリクが顔を上げた。
「俺にどうしろと言うんだ。殴ったのも自分のせいだと認めればいいのか。だったらナージャを責めたのも、俺が飛べなかったのも、全部俺のせいにすればいい!」
「誰も全部とは言っていない」
「みんな、そういう目で見ている!」
翼が開いた。
カヤが後ろへ下がる。
その一歩を見て、キリクの顔が歪んだ。
「お前まで、俺を怖がるのか」
「違う。翼が当たりそうだったから」
「同じだ!」
「同じじゃない!」
また、同じ言葉がぶつかった。
昨日はナージャとキリクだった。
今日はキリクとカヤだった。
亀裂は、一人が抜けた穴で止まらない。空いた場所から、別の者の足元へ伸びていく。
「もうやめろ!」
オルガが球を蹴った。
楕円球は真っすぐ転ばず、誰もいない場所へ曲がった。
「昨日、八人で九人のふりはできないと言った。今日は七人だ。明日は六人になるのか。誰かを責めるたびに一人減らして、それで天翼団へ何を見せる!」
「では、ガドを戻すのか」
セラが尋ねた。
「戻すかどうかを、俺たちだけでは決められない」
「ナージャは」
カヤの問いに、オルガの顎が強張った。
「明日、来るように伝えた」
「昨日は外しただろう」
キリクが言った。
「状況が変わった」
「壁役がいなくなったから、疑っていた切り込みを戻すのか。勝つためなら、今度は秘密もどうでもいいのか」
「違う!」
オルガの声が割れた。
主将の怒鳴り声を、文治は初めて聞いた。
「俺だって分からないんだ!」
オルガは両拳を震わせていた。
「九人をまとめろと言われた。誰をどこへ置くか決めろと言われた。だが、誰かの恋人をどこまで聞けばいい。誰かの怒りを、いつまで疑えばいい。勝つために秘密を吐かせるのか。守るために暴力を見逃すのか。俺は主将だが、そんなことまで決められる人間じゃない!」
言い切ったあと、オルガは顔を背けた。
「それでも、決めなければならない。俺が決めるたび、誰かがここからいなくなる」
七人は黙った。
文治は、オルガもまた孤立していたことを初めて知った。
輪の外に立っていたのではない。
全員を見られる場所へ、自分から離れていただけだった。
「私が、ガドさんに聞きます」
文治は言った。
「何発だったのか。なぜ二発目を振ったのか。聞いて、見たことと分けて書きます」
「書けば、戻れなくなるかもしれない」
オルガが文治を見た。
「はい」
「書かなければ、戻れるかもしれない」
喉が痛んだ。
「はい」
「それでも書くのか」
答えるまでに、時間がかかった。
「まだ、怖いです」
文治は正直に言った。
「ガドさんを失いたくない。皆さんに、また私のせいだと思われたくない。できるなら、あれは一発だったと書きたい。でも、二発目を消して戻ってきたガドさんを、私は前と同じようには見られない。それは戻ったことにならないと思います」
オルガは長く文治を見た。
「行け」
それだけ言った。
◇
警舎の待合には、ヨナがいた。
長椅子へ座っても足が床へ届かず、踵がわずかに浮いている。だが、背筋は石柱のように真っすぐだった。
「まだいたんですか」
「調書が終わっていません」
「何度も同じことを聞かれたでしょう」
「何度聞かれても、同じことを答えます」
二発です、と続ける声が聞こえた気がした。
文治は隣へ座った。
「市場で、あなたの構えを見ました」
ヨナが横目を向けた。
「陣球をするんですか」
「します」
「掘り手ですか」
「壁役です」
文治は聞き返しかけ、やめた。
小人族の壁役。
常識では考えられない。密集の正面で相手を受け、道を塞ぎ、近距離の突破を支える役だ。半巨人のガドでさえ、体格級の確認を何度も受けた。
小人族は低い身体を生かし、足元の球へ潜る掘り手になる。それが、この町では疑われることさえない決まりだった。
「笑わないんですね」
ヨナが言った。
「驚いています」
「同じです」
「違います。見たことがないから、驚いている。できないと決めるのは、見てからです」
「見ても、みんな同じことを言います」
「何と?」
「小さい。軽い。潰される。掘り手へ行け」
ヨナの声には、怒りがなかった。
繰り返されすぎて、もう傷として見せることさえやめた言葉なのだと、文治には思えた。
「でも、あなたはガドさんの前へ立った」
「押し返してはいません」
「足を止めた」
「止まっていません。あの人は私を避けて、殴りました」
容赦のない答えだった。
「壁役は、大きければいいと思われています。正面から受けて、相手より強く押せばいいと。でも、相手が次に足を置く場所をなくせば、身体を受ける必要はありません」
ヨナは短い脚を前へ伸ばし、石床の一点をつま先で示した。
「市場では、ここを消しました。あの人は別の道を選んだ。だから私は、止められなかった」
「自分のせいだと思っているんですか」
「いいえ。殴ったのはあの人です」
「では、なぜまだここにいるんです」
ヨナはしばらく答えなかった。
「一発目まで悪かったことにされたくないからです」
その言葉に、文治は顔を上げた。
「先に殴られたことも、あなたが壁へ押されたことも、私は話しました。二発目を見たからといって、一発目まで暴力好きの大男が振ったことにはしません」
「でも、二発目は消さない」
「消しません」
「それでガドさんが倶楽部を追われても?」
「私が黙って戻れる倶楽部なら、戻ってもまた壊れます」
ヨナは黒い取材帳を指した。
「あなたも、そう思ったから来たのではないんですか」
文治は帳面を押さえた。
「私は、まだ迷っています」
「迷えば、一発減りますか」
「減りません」
「なら、迷ったまま聞けばいい」
取調室の扉が開いた。
巡吏が顔を出す。
「浦上文治はいるか」
文治は立ち上がった。
「私です」
「ガドが、もう一度あんたと話したいと言っている」
狭い取調室で、ガドは椅子へ座っていた。
大きな身体に合う椅子がなく、膝が机の裏へつかえている。拘束紐は外されていたが、両手は太腿の上へ置かれたままだった。
右の拳には、乾いた血が黒く残っている。
文治は向かいへ座った。
「ガドさん」
「さっき、書かないでほしいと言いました」
「聞きました」
「あれは、取り消します」
ガドは拳を裏返した。
掌には、自分の爪が食い込んだ跡が四つあった。
「浦上さん。あなたは、何発見ましたか」
「一発目は見ました。二発目は、拳が動くところまでです」
「ヨナさんは」
「二発だったと証言しています」
ガドは頷いた。
その動きは、とても小さかった。
「では、あの人が正しいです」
文治の胸が強く鳴った。
鉛筆を持つ。
指が震えた。
ガドは、逃げ場を一つずつ自分で塞ぐように、ゆっくり顔を上げた。
「私は、二発目を覚えています」




