第15話 一歩を測る
残り、一刻半。
文治は六邦公報社の質問状を握ったまま、競技場の階段を駆け下りた。
――敵味方に通じる獣と鳥――秘密の逢瀬。
紙に刷られる前の見出しが、もう頭の中で黒々と膨らんでいる。
遅れれば、ナージャがエルンを止め損なった一歩は、失敗ではなく裏切りになる。答えても、交際を知っていた自分の言葉が、疑惑を飾る材料に使われるかもしれない。
何を選んでも、誰かを傷つける。
そう考えた途端、足が止まりそうになった。
「文治!」
背後からティナに腕を引かれた。
「止まるのは、調べ終わってから!」
「分かっています!」
声を返しただけで、胸の中に詰まっていたものが少し動いた。
二人が競技場へ戻ると、整備係がすでに熊手を手にしていた。試合で荒れた土を均し、明朝の貸し出しに備えるのだという。
「待ってください。落城線の手前だけ、まだ触らないでください!」
文治は頭を下げた。
整備係は露骨に顔をしかめたが、ティナが質問状を見せると、熊手を肩へ担ぎ直した。
「鐘が二つ鳴るまでだ。それを過ぎたら、こっちも仕事をする」
「十分です」
本当は、十分かどうか分からなかった。
落城線の四歩手前には、試合の痕が幾重にも残っていた。天翼団の細い靴跡。ガドの深い踏み跡。翼の先が土を払った扇形の筋。その中から、ナージャの一歩だけを見つけなければならない。
文治は膝をつき、黒い取材帳の記録と地面を見比べた。
――エルン、左翼を沈める。
――ナージャ、右へ先行。
――エルン、地上で軸足変更。
「これだ」
右へ滑った靴跡の先に、左足が深く突き刺さった穴がある。土は外側へえぐれ、爪先の向きだけが急に逆を向いていた。
そこから一間ほど先に、エルンが着地した左右二つの跡が残っている。
ティナが紐を張った。
「ナージャが最初から逆へ行くつもりなら、こんな踏み方はしない」
「ええ。一度右へ体重を預けて、それを左脚だけで戻そうとしている」
「だから膝を痛めた?」
「たぶん。ですが、これだけでは、わざとでなかった証明にはなりません」
口にして、自分で嫌になった。
土に残った傷さえ、ナージャを信じる理由としては足りない。文治は何を見つければ満足するのだろう。膝が壊れていれば信じるのか。二度と走れなければ、ようやく本気だったと認めるのか。
そんなものは、確かめることではない。
人を差し出して、自分の疑いを清めることだ。
「文治」
ティナの声で、地面へ落ちていた視線を上げた。
「いま、何を考えたの」
「……彼女がもっとひどい怪我をしていれば、疑う者はいなくなるのかと」
言ってしまうと、吐き気がした。
「最低です。私は」
「最低な考えを、黒い帳面へ書かないで」
ティナは紐の端を引き、靴跡のあいだへ真っすぐな線を作った。
「いま測るのは、あなたの心じゃない。あの人の一歩でしょう」
文治は唇を噛んだ。
そして、距離を書いた。
右への最初の踏み出し、二尺四寸。
左への踏み直し、一尺七寸。
エルンの着地点まで、六尺一寸。
ナージャの指が脚衣へ届き、身体は届かなかった。
そこまでが、土に残った事実だった。
◇
治療室には、ナージャ一人がいた。
左膝へ濡れた布を巻き、寝台の端に腰掛けている。治療係の見立てでは、骨に異状はなく、腱を軽く痛めたらしい。明日の稽古は休ませるが、数日で走れるだろうという。
文治は安堵した。
その安堵にさえ、疑いを晴らす材料が減ったと感じる自分が混じっていないか、確かめずにはいられなかった。
「何を測ってきたの」
ナージャが尋ねた。
「あなたの足跡です」
「何間、恋人を通したか?」
声に怒りはなかった。
怒りより冷たいものがあった。
文治は質問状を差し出した。ナージャは見出しまで読むと、紙を二つに折った。破りはしなかった。
「エダには、答えます」
「私とエルンが付き合っていると?」
「私が試合前に知っていたことは、隠せません。手加減があったかという問いには、見た限り、なかったと答えます」
「見た限り」
「断言できるのは、見たところまでです」
「便利な言葉ね」
ナージャの尾が、寝台の脚を一度打った。
「違っていたときは、記者の嘘にならない。合っていたときは、ちゃんと信じた顔ができる」
「そう聞こえるのは分かります」
「分かるなら、もっとましな答えはないの」
文治は黙った。
信じています、と言えば彼女は少し救われるかもしれない。しかし、それは今の文治がいちばん言いたい言葉であると同時に、いちばん疑っている言葉だった。
「私は、あなたを信じたいです」
結局、文治は整えずに口にした。
「北境倶楽部に勝ってほしい。あなたには、誰を好きかではなく、何間進んだかで載ってほしい。だから昨日、見たことを誰にも言わなかった。でも今日、あなたが抜かれた瞬間、私は疑った。ほんの一瞬でも、わざとではないかと思った」
ナージャの耳が、ゆっくり伏せられた。
文治は目を逸らさなかった。
「その疑いを消したくて、足跡を測りました。あなたのためだと言いながら、本当は、自分が正しかったと安心したかったのかもしれない。私はいま、自分があなたを守っているのか、記事を守っているのか、それとも自分を守っているのか、分からないんです」
「それを私に言って、どうしてほしいの」
「何も。許してほしくて言ったんじゃありません」
「嘘。少しは許してほしい顔をしている」
「……はい」
胸の奥を掴まれたようだった。
「許してほしいです。嫌われたくない。あなたにも、みんなにも。私は北境倶楽部の記事を書きたい。勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。けれど、それを認めたら、記者ではいられなくなる気がして、ずっと紙の後ろに隠れていました」
ナージャは返事をしなかった。
廊下の時計が一度鳴った。
残り、一刻。
「記事に、私があの人を好きだと書くの」
「関係の詳細は書きません。ですが、交際を知っていたかと問われた以上、知らなかったとは答えられない」
「そう」
ナージャは包帯の上から膝を撫でた。
「私は、言うべきことを一つ言わなかった」
「何をですか」
「エルンの癖を誰より知っているから、自分に止めさせろとオルガに言った。その理由までは言わなかった」
獣耳が、わずかに震えた。
「恋人がいることを、倶楽部へ差し出す義務はないと思っている。いまも。でも、自分なら止められると言った根拠は、九人の勝敗に関わることだった。そこまで隠していいのかは……分からない」
初めて、ナージャの声に迷いが混じった。
文治は、その迷いを帳面へ書かなかった。
「あなたの記事で、みんなが知るのね」
「六邦公報の記事で、です」
「私には同じよ。あなたの返事が載る」
言い返せなかった。
「行って。時間がないのでしょう」
「ナージャさん」
「一歩を測ったなら、一歩を書いて。あなたが私を信じたいという話で、埋めないで」
文治は深く頭を下げ、治療室を出た。
扉が閉まる直前、ナージャが顔を覆うのが見えた。
戻って謝りたかった。
だが、いま戻ることもまた、自分が許されたいからだと思った。
文治は走った。
◇
天翼団の控室で、エルンは質問に一つずつ答えた。
「踏み切りを変えたのは、二十日前です。右足を軸にする形から、左足を軸にする形へ」
「ナージャさんは、それを知っていましたか」
「知りません」
「あなたが、古い踏み切りを見せたのは」
「彼女が反応すると分かっていたからです」
文治の鉛筆が止まった。
「交際しているから、分かったのですか」
「競技者として、何度も俺を見てきたからです」
「同じことではありません」
「違いません」
エルンの声は穏やかだった。しかし、退かなかった。
「俺たちが互いの競技を見てきた時間と、互いを好きだった時間を、きれいに切り分けることはできない。ナージャは俺の古い癖を知っていた。俺は、彼女がそれを知っていることを利用した。それが今日の競技です」
「あなたは、手加減されていないと証言できますか」
「できます。ただし、俺は疑われる側の人間です。俺の言葉だけで記事を書かないでください」
エルンは一冊の薄い帳面を出した。
天翼団の稽古帳だった。日付ごとに、飛行開始の足、滞空の拍数、着地後の歩数が記されている。二十日前の頁から、エルンの軸足は左に変わっていた。
余白には、指図役の筆で短く書かれていた。
――旧動作を誘いに用いること。
「今日だけ、彼女を欺くために作った動きではない?」
「ええ。王都で二度試しています。競技院にも記録が残っています」
天翼団の指図役も、同じ内容を証言した。
恋人同士の言葉ではない。
日付のある記録と、第三者の証言だった。
文治は必要な箇所を書き写し、立ち上がった。
「浦上さん」
エルンに呼び止められた。
「ナージャの膝は」
「骨に異状はありません。数日は休むようにと」
エルンは目を閉じた。
安堵の息は、ごく短かった。
「それも記事にしますか」
「怪我の程度は。いまのあなたの顔は、書きません」
「なぜです」
「試合の記録ではないからです」
昨日と同じ言葉を口にして、文治は胸が痛んだ。
同じ言葉でも、もう、同じ意味ではなかった。
◇
六邦公報社の受付へ着いたとき、締切の鐘まで四半刻を切っていた。
エダは入口で待っていた。
「間に合いましたね」
「回答します」
文治は清書した紙を差し出した。
一、両選手が交際しているとの事実を、浦上文治は試合前に把握していた。
二、公開練習試合において、ナージャ選手が意図的に止めを外したと示す事実は確認できない。
三、地面の痕跡、負傷の状態、天翼団の稽古記録および複数の証言は、エルン選手が旧来の踏み切りを囮にして守備を誤らせたことを示している。
エダは最後まで読み、紙の端を揃えた。
「よく調べました」
「見出しを替えてください」
「それはできません」
「私の回答を読んだでしょう。通じていたのは作戦ではない。エルンさんは、ナージャさんの知識を逆に利用した」
「その解釈も載せます」
「解釈ではない。記録があります」
「交際関係があり、あなたがそれを知りながら記事にしなかったことも、記録に残る事実です」
エダは声を荒らげなかった。
だからこそ、文治は怒鳴ることもできなかった。
「全文載せますよ。あなたの回答は一字も削りません」
「大きな見出しの下へ、小さく押し込むつもりでしょう」
「紙面には順序があります。何から読むかは、読者が決める」
「あなたが決めている! いちばん大きな文字で何を信じさせるか、あなたが決めているじゃないですか!」
受付にいた職工たちが顔を上げた。
エダだけが、文治をまっすぐ見た。
「では、あなたは何も決めていないのですか」
その問いが、腹の底へ刺さった。
「彼女の秘密を載せないと決めた。疑いは赤い帳面へ入れ、事実だけを黒い帳面へ入れると決めた。誰のどの言葉を大きくするか、あなたも毎日決めている。私と違うと思いたいだけでは?」
「違います」
「どこが」
答えは、喉まで来ていた。
私は人を傷つけたくない。
しかし、それを言えば、傷つけたくない相手だけを選んでいるのではないかと問われる。
東砦団には敗因を突きつけ、天翼団には戦術を明かさせ、北境倶楽部だけは守ろうとしていないか。
文治は拳を握った。
「違わなければならないんです」
ようやく出た声は、弱かった。
「そうでなければ、新聞は、人の傷へ値札をつける商売になる」
エダの瞳が、ほんのわずかに揺れた。
だが、すぐに回答書へ落ちた。
「明朝、紙面でお確かめください」
締切の鐘が鳴った。
◇
翌朝、六邦公報は北境市のいたるところに貼られた。
――敵味方に通じる獣と鳥。
――北境の切り込み、王都天翼団の翔け手と秘密の交際。
――井戸端新聞記者、試合前から把握。
文治の回答は、本当に一字も削られていなかった。
ただし、四段目の囲み記事だった。
見出しだけを読んだ者は、紙面の下まで目を運ばなかった。市場では、ナージャがわざと道を空けたという話になった。井戸端では、北境倶楽部が天翼団へ作戦を売ったという話になった。賭場の前では、昨日の十四対零は初めから決まっていたという話になった。
嘘は、一つも書かれていない。
それでも、事実より速く、嘘に近い何かが町を走った。
北境倶楽部の練習場には、朝から九人が集められていた。
いつもなら用具箱を囲む輪が、今日は二つに割れていた。
ナージャの隣にはセラとカヤが立ち、反対側にはキリクとリオがいる。ドニとミロはどちらにも寄れず、線の引かれていない中央を行き来していた。ガドは、その隙間を巨体で埋めようとするように立っていた。
オルガだけが、誰からも一歩離れていた。
文治とティナが門をくぐると、キリクの翼が強く開いた。
「来たな、記者」
昨日までと同じ呼び方だった。
なのに、今日は名前を取り上げられたように聞こえた。
「記事について、説明します」
「記事なら読んだ。あんたが前から知っていたこともな」
「キリク」
オルガが制した。
「先にナージャへ聞く」
ナージャは包帯を巻いた左脚で、輪の中央へ出た。
「エルンとは二年前から付き合っている。昨日まで誰にも言わなかった」
「なぜだ」
「競技と関係がないと思っていたから」
「昨日は関係した」
キリクが即座に返した。
「お前は、あいつの癖を知っているから自分が止めると言ったんだろう」
「そうよ」
「なら関係していた!」
翼がまた開き、風が土を払った。
「俺が飛べば、三拍を全員に数えられる。三拍目に足が着いたか、つま先一つまで見られる。昨日は、その着地点を九人に狙われた。それでも俺は、知られて困るから数えるなとは言えない。なのに、お前だけは、勝敗に関わることを胸の中へ隠していいのか!」
「誰を好きかまで、九人へ差し出さなければ球を持てないの?」
「恋の話をしているんじゃない!」
「あなたたちがしているのは、最初からその話よ!」
ナージャの牙が覗いた。
「私が昨日、最初に『王都の翔け手の癖を知っている』と言ったら、理由を聞かずに任せた? 相手が恋人だと知っていても、私を正面へ置いた?」
誰も答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「ほら」
「止められなかったんだから、置かない方が正しかった!」
キリクの声が裏返った。
「俺たちは十日後、またあいつらと戦うんだぞ。次も、お前が『信じて』と言えば任せるのか?」
「信じろなんて言っていない。次は止めると言った」
「同じだ!」
「違う!」
ガドが二人のあいだへ腕を入れた。
「やめましょう。こんなふうに言い合っても、天翼団は止まりません」
「では、どうする」
セラが尋ねた。
「何もなかったことにして、昨日と同じ配置へ戻すのか」
「そうは言っていません。ただ、九人で話さないと」
「九人で話すためのことを、二人が隠していたんだ」
リオがナージャと文治を見た。
ガドの腕が下がった。
今度はオルガが口を開いた。
「ナージャ。俺は、お前に恋人の名を報告させたいわけではない」
「分かっている」
「だが、お前がエルンを知っていると言ったとき、俺は競技者として調べたのだと思った。その判断で配置を決めた。お前が言わなかったことは、俺の指図にも関わる」
「……分かっている」
さっきより、小さな声だった。
「膝が戻るまで、稽古から外れろ。その後の配置は、全員で決める」
ナージャの尾が止まった。
「怪我のため?」
オルガは、すぐには答えなかった。
「怪我だけなら、そう言って」
「いまは、怪我だけとは言えない」
ナージャの顔から、表情が消えた。
その方が、怒鳴られるより痛そうだった。
「分かった」
ナージャは包帯をかばわず、用具箱へ歩いた。自分の水筒を取り、誰も見ずに門へ向かう。
カヤが追おうとして、一歩目で止まった。
追えば、どちら側に立ったか決まってしまう。
その迷いをナージャは背中で感じ取ったらしい。
「来なくていい」
門が閉まった。
いつも九人で立っていた場所に、八人が残った。
「これで満足か」
キリクが文治へ言った。
「何がです」
「一歩を測って、手加減はなかったと書いた。だから自分は正しい記者だと証明できた。あとは俺たちが壊れても、記事が一つ増えるだけだろう」
「違います」
「何が違う!」
「私は、正しい記者なんかじゃない!」
文治の声が、練習場の石壁へぶつかった。
誰も動かなかった。
「私は知っていた。知っていて黙った。ナージャさんの秘密を守るためだと思っていました。でも、それだけじゃない。ここに居続けたかったんです。皆さんに嫌われず、輪のそばで、勝つところを見ていたかった!」
止めようとしても、言葉が溢れた。
「私は皆さんの味方になりたかった。勝てば一緒に喜び、負ければ一緒に悔しがりたかった。なのに記者席へ戻れば、部外者の顔をして、失敗を数えた。仲間なら秘密を守れ、記者なら事実を知らせろ。私はその両方にいい顔をしようとしたんです。都合がよすぎた!」
胸が痛んだ。
息を吸うたび、肋骨の内側へ何かが刺さるようだった。
「昨日、ナージャさんが抜かれたとき、私は疑いました。わざとではないかと。信じたいと言ったその口で疑った。疑った自分が怖くて、証拠を集めた。彼女の名誉のためだと自分に言い聞かせながら、本当は、自分が間違っていないと証明したかった!」
目の奥が熱くなった。
泣くなと思った。
泣けば、責められている自分を被害者にできる。いま傷ついているのは、自分ではない。
それでも声は震えた。
「皆さんに嫌われたくない。でも、嫌われないために、見たものを曲げるのはもっと嫌だ。ナージャさんが手加減したという証拠はない。私はそう書きます。交際を知っていたことも、知っていたと書く。私が卑怯だったことも、必要なら書く。それでここへ入れてもらえなくなっても――」
そこで言葉が切れた。
本当は、入れてもらえなくなるのが怖かった。
井戸を渡って初めて、自分の記事を待つ人がいた。文治ではなく「記者さん」と呼ぶ声でも、東京で売れ残る夕刊より温かかった。その場所を失う覚悟など、できていない。
「嫌です」
文治は吐き出した。
「本当は嫌だ。ここから追い出されたくない。皆さんが戦うところを、最後まで見たい。次に勝つところも、負けて立てなくなるところも、見届けたい。記事を読んで怒られても、翌日また取材に来たい。そんな勝手が許されないのは分かっています。でも、それでも――私は逃げたくないんです!」
静まり返った練習場に、荒い呼吸だけが残った。
オルガは文治を見ていた。
許すとも、出ていけとも言わなかった。
「今日は稽古をしない」
やがて、主将として告げた。
「八人で九人のふりをしても意味がない。明日の夕刻、もう一度集まる。それまでに、十日後も北境倶楽部として立つのか、一人ずつ考えろ」
「俺は立つ」
ガドが言った。
「九人で立ちます。ナージャもです」
「お前が決めることじゃない」
キリクの言葉が、鋭く返った。
「分かっています。でも、ここで一人ずついなくなったら――」
「あんたは怖いだけだろう」
「何がですか」
「また倶楽部を追われるのが」
ガドの顔が動かなくなった。
半巨人の大きな手が、ゆっくり握られる。
キリク自身も、言ってはいけないことを言ったと分かったらしい。嘴を開きかけたが、謝罪は出なかった。
「……そうです」
ガドは拳を開いた。
「怖いですよ。やっと入れたんです。身体が大きいからではなく、ここにいていいと言われた。だから、なくしたくない。それの何が悪いんですか」
返事はなかった。
「もういいです」
ガドは自分の外套を掴んだ。
狭い門で肩をぶつけ、石の粉を落とした。それでも振り返らなかった。
二人目が出ていったあと、残された空間は、ナージャのときより大きく見えた。
◇
文治は、ガドを追った。
謝るためではない。
いまの自分が追いついて何を言っても、許しを乞う言葉になる。それでも、一人で行かせてはいけない気がした。
市場通りには、六邦公報の売り子の声が響いていた。
「北境、敵と内通! 王都の男へ道を譲った獣人女!」
記事にない言葉まで、呼び声には足されていた。
ガドは顔を上げずに歩いた。
人々が道を空ける。昨日までは、東砦団を倒した壁役に触れようと、子どもたちまで寄ってきた道だった。
今日は誰も近づかなかった。
代わりに、酒場の軒下から声が飛んだ。
「おい、北境の壁!」
三人の男がいた。昼前から酒瓶を回し、足元には賭け札が散らばっている。
「十四対零だってな。ずいぶん綺麗に道を空けたじゃないか」
ガドは通り過ぎようとした。
「半巨人は、いくらもらった?」
足が止まった。
文治は追いつき、外套の裾を掴んだ。
「行きましょう」
ガドの肩が、大きく上下した。
「私は、何ももらっていません」
「お前じゃないなら、あの雌犬か。王都の鳥に尻尾を振って――」
「その人のことを、そう呼ばないでください」
低い声だった。
男は笑い、丸めた六邦公報でガドの胸を叩いた。
「負け犬を負け犬と呼んで、何が悪い」
「やめろ!」
文治が割って入ろうとした。
別の男に肩を押され、石壁へ背中を打ちつけた。息が詰まり、膝が落ちる。
「記者も一枚噛んでたんだろ。次はどっちが売る? 鳥か、半端な巨人か」
男の拳が、ガドの頬を打った。
鈍い音がした。
ガドの顔が横を向く。
次の瞬間、太い右腕が動いた。
一発だった。
殴った男の身体が、酒場の卓を巻き込み、地面へ倒れた。瓶が割れ、酒と血の匂いが混じった。
通りの声が、一斉に消えた。
ガドは立ち尽くしていた。
自分の拳を、知らない物のように見ている。
「ガド」
文治は壁へ手をつき、立ち上がった。
「もういい。終わりました」
倒れた男が、血の混じった唾を吐いた。
「やっぱり化け物だ。女に売られた腹いせか」
ガドの目が、男へ戻った。
右足が、一歩進んだ。
その前へ、小さな影が入った。
小人族の女だった。
煤けた仕事着に、短く切った黒髪。ガドの胸にも届かない背丈なのに、逃げる者とは逆向きに立っていた。
「もう終わっています」
女は両足を開き、腰を低く落とした。
巨体を押し返そうとはしない。ただ、ガドが次に置こうとした足の先を、半歩だけ塞いでいる。
小人族は、低い身体で密集へ潜り、球を掻き出す掘り手になる。それが陣球の常識だった。
だが、その女の構えは、どう見ても壁役のものだった。
「どいてください」
「どきません」
女はガドの拳を見た。
「最初の一発は、その人を止めるためでした」
それから、倒れた男を一度だけ見た。
「次は、この人を守るための一発ではなくなります」
文治は息を呑んだ。
ガドの拳が、もう一度持ち上がった。




