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第14話 王者の三拍

「昨日、駅で見たでしょう」


 公開練習試合まで、あと半刻。


 北境市球技場の用具置き場で、ナージャは文治を待っていた。


 窓のない石壁には、革球と乾いた土の匂いが染みついている。外から観客の足音が伝わるたび、天井から細かな砂が落ちた。


 ナージャは壁へ背を預け、両腕を組んでいた。灰色の獣耳が、文治の返事を逃すまいと正面を向いている。


 逃げられない、と文治は思った。


 逃げるつもりもなかった。昨夜から、何度も答えを考えてきた。だが、用意した言葉は彼女の目を見た途端、どれも卑怯な言い訳に変わった。


「見ました」


 文治は答えた。


「どこまで」


「あなたとエルンさんが、明日の試合について話していたところまでです」


「それだけ?」


「……手を握っているところも」


 ナージャの耳がわずかに伏せられた。


 怒鳴られると思った。襟をつかまれても仕方がない。文治は無意識に顎を引いた。


「取材帳には?」


「書きました」


「載せるの」


「載せません」


 即座に答えたはずだった。


 それでもナージャは、文治の顔をじっと見た。


「なぜ」


 問われて、文治は言葉に詰まった。


 私生活だから。競技と無関係だから。本人の同意がないから。


 理由はいくつもある。どれも間違っていない。だが、それだけではなかった。


 ナージャを傷つけたくない。


 北境倶楽部を守りたい。


 エダに材料を渡したくない。


 そこまで口にしてしまえば、自分が記者ではなく、九人の仲間になりたがっているだけだと認めることになる。


「試合の記録ではないからです」


 結局、いちばん整った答えを選んだ。


 ナージャの鼻先が、かすかに動いた。


「嘘の匂いはしない。でも、全部でもないわね」


「獣人は、そこまで分かるんですか」


「匂いで分かるのは、汗をかいていることだけ。あとは顔を見れば分かる」


 文治は額を袖で拭った。本当に汗ばんでいた。


 ナージャは壁から背を離した。


「エルンとは二年前から付き合っている。王都の遠征で知り合った。作戦を渡したことはない。向こうから聞いたこともない。今日も、手加減はしない」


「分かっています。昨日、聞きました」


「聞いたから信じるの?」


「それは……」


「では、私が今日あの人を止め損なったら?」


 胸の奥を指で押されたようだった。


 文治はすぐに答えられなかった。


 その沈黙を、ナージャは見逃さなかった。


「もう考えたのね」


「違います」


「何が違うの。天翼団が来た。恋人同士が敵になった。私が止めを外したら、わざとだと思う者が出る。記者なら考えて当然でしょう」


「当然で済ませたくないんです」


 声が強くなった。


「私は、あなたを疑いたくない。けれど、疑いたくないと思うことと、疑う材料がないことは違う。北境倶楽部が好きだから見ないことにしたら、私はエダの言うとおり、応援文を書いているだけになる」


「それで?」


「だから、試合を見ます。あなたが何歩進んだか、何度止めたか、どこで足が遅れたかを見る。エルンさんも同じように見る。二人の関係ではなく、今日の競技で判断します」


 言い切ると、喉の奥がひりついた。


 正しそうな言葉だった。


 だが、昨日の待合所で二人の指が重なるのを見た自分が、本当に関係を忘れて試合だけを見られるのか。自信はなかった。


 ナージャはしばらく黙っていた。


 外で歓声が上がった。天翼団が競技場へ入ったらしい。分厚い石壁を通してなお、白銀旗を振る音が雨のように聞こえた。


「私は、誰を好きかで紙面に載りたいんじゃない」


 ナージャは言った。


「何間進んだかで載りたい。何人抜いたか、何度止めたか、どこで球を失ったか。それを書いて」


「約束します」


「いまの私にではなく、試合が終わったあとの私に約束して」


 文治は息を呑んだ。


「試合が終わっても、同じように書きます」


 ナージャは頷かなかった。


「覚えておく」


 それだけ言って、用具置き場を出ていった。


 扉が閉まると、文治は壁へ手をついた。


 冷たい石の感触が、掌から腕へ染み込んでくる。


「疑うな。決めつけるな。見ろ」


 自分へ言い聞かせた。


 だが、見たものが自分の望んだ形でなかったとき、書けるのか。


 ナージャの問いは、答えを得るためではない。文治が逃げられないよう、胸へ打ち込まれた杭だった。


     ◇


 二十分間の公開練習試合に、観客席はほとんど埋まっていた。


 公式戦績には残らない。勝っても一勝にはならず、負けても一敗にはならない。それでも観客にとっては、王都の名門を間近で見られる試合だった。


 白銀旗が競技場の半分を覆っている。


 北境倶楽部の灰白旗は、その端で小さく揺れていた。


 文治は記者席へ座り、三冊の取材帳を膝の上へ並べた。


 黒は事実。


 赤は未確認。


 薄茶は感想。


 黒い帳面の最初の頁には、今日の九人の名を書いた。


 オルガ。ガド。セラ。ドニ。ミロ。リオ。ナージャ。カヤ。キリク。


 昨日と同じ九人だ。


 けれど、並び方が違っていた。


 北境倶楽部は互いの肩や背に触れ、立つ位置を確かめている。ガドの片腕の長さに合わせてセラが半歩下がり、ミロがその陰へ入る。九つの異なる身体を、声と手でつながなければ一つになれない。


 王都天翼団は、声を交わさない。


 九人の翼が一度だけ開き、同時に畳まれた。白、灰、褐色、黒。羽色は違っても、動きは一枚の大きな翼のように揃っている。


 見物人のために合わせたのではない。


 あれが、彼らの呼吸なのだ。


 文治の胃が縮んだ。


 昨日の勝利を見たときとは別の震えが、指へ来た。興奮ではない。これから自分の大切なものが壊されるのを、席に座って見届けなければならない恐怖だった。


「随分と青いお顔ですね」


 右隣の席に、エダ・モーンが座った。


 濃紺の上着。銀縁の眼鏡。机には白い紙が一束と、先を揃えて削られた鉛筆が三本。文治の乱雑な取材帳とは違い、すべてが定規を当てたように整っている。


「あなたこそ、楽しそうですね」


「仕事の前ですから」


「誰かが傷つく記事を見つけたときだけ、仕事熱心になるんですか」


「傷つくかどうかを決めるのは、記事ではなく事実です」


 エダの視線が、文治の黒い取材帳へ落ちた。


「昨夜、駅では何をお書きになったのです?」


 心臓が一度、大きく打った。


「列車の到着時刻です」


「それだけなら、取材帳を閉じながら泣きそうな顔をする必要はありませんね」


「私がどんな顔で記事を書くかまで、あなたの紙面に載せるつもりですか」


「読者が興味を持つなら」


 開始の鐘が鳴った。


 文治はエダから顔を背けた。


「試合を見てください。あなたは競技部の記者でしょう」


「ええ。ですから、競技に影響する秘密を探しています」


 もう一度鐘が鳴り、両倶楽部が配置についた。


 返す言葉を失った文治の前で、球が高く蹴り上げられた。


     ◇


 最初の球を取ったのは、天翼団だった。


 高く弾んだ楕円球の落下点へ、白い翼が三枚集まった。中央の一人が捕ると見せ、右の一人が翼の陰から腕を伸ばす。北境のカヤが中央へ寄った瞬間、球は後ろへ弾かれ、すでに走り出していた別の選手の胸へ収まった。


 前方へ球を投げてはならない。


 だから天翼団は、球を前へ送らない。球を受ける者の方が、渡される前から前へ出ている。


 一人が半歩下がって球を渡し、二人がその横を追い越す。追い越した二人のどちらへ次の球が移るのか、北境の守備には読めない。


「右だ!」


 オルガが叫んだ。


 ガドが大きな身体を右へ向ける。


 その瞬間、球は左へ戻った。


 天翼団の壁役がガドへ正面から当たった。巨体を押し倒そうとはしない。右肩へ触れ、腰を回させる。それだけで、ガドの背後にミロ一人が隠れるほどの空間ができた。


 白い上着が、そこを抜けた。


 ナージャが横から飛びつく。だが、球は接触の直前に後方へ落とされていた。受け取った選手が、さらに内側の味方へ渡す。


 三度の後方渡し。


 一度も空を飛ばないまま、天翼団は落城線を越えた。


 得点区域へ球が置かれる。


 五点。


 続く門射も、二本の柱のあいだを真っすぐ通った。


 七点。


 競技場が揺れた。


 文治は黒い取材帳へ、球の移動を書きつけた。


 右、左、後方、内。


 単純な線のはずなのに、途中から自分でも追えなくなった。九人の動きが速いのではない。次の位置へ移るのが、北境より一息早いのだ。


「飛ばない……」


 隣でティナが呟いた。増刷の準備を職工へ任せ、試合開始に間に合ったらしい。


「翼の倶楽部なのに、一度も飛ばなかった」


「北境が、空を守ると思っていたからです」


 文治の口の中が乾いた。


「天翼団は、自分たちがどう戦うかではなく、相手が何を恐れているかを使った」


 北境の九人が、落城線の前で立ち尽くしている。


 誰か一人の失敗ではなかった。


 全員が、白い翼を見ていた。


     ◇


 再開後、北境倶楽部はガドへ球を預けた。


 ガドが二人を引きつけ、倒れながら後ろへ置く。ミロが脚のあいだから掘り出し、オルガへ送った。


 昨日、東砦団を破った形だった。


 オルガからリオ。リオからナージャ。横へ、後ろへ、守備を一人ずつ引きつけて球をつなぐ。


 ナージャが低い姿勢で一人目の脇を抜けた。


 十間。


 文治は約束どおり、進んだ距離を書く。


 十二間。


 天翼団の二人目が迫る。ナージャはキリクへ球を返した。


 キリクの翼が開く。


 一拍。


 地面すれすれを滑り、最初の腕を越える。


 二拍。


 昨日なら、ここで観客が立ち上がった。


 三拍。


 キリクの右足が土へ触れた。


 飛行反則ではない。三拍目までに着地している。


 だが、天翼団の選手は、着地点で待っていた。


 足が土を捉え、翼が走るために畳まれる、その一瞬。上から肩を抱かれ、下から腰を払われた。


 キリクの身体が横向きに倒れる。


 球だけは後方へ置いた。しかし、支えに来たリオより、天翼団の掘り手が早い。指先が土を走り、球を奪い出した。


「キリクの三拍を、最初から数えていた……」


 文治は書きながら呟いた。


 東砦団を破った低翔びが、まるで古い手品のように扱われている。


 キリクが立ち上がった。嘴の端に土がつき、胸が激しく上下している。


「もう一度よこせ!」


 叫んだ声には、怒りより焦りが滲んでいた。


 次こそ通じると証明したいのだ。


 だが、オルガは首を振った。


「同じところへ入るな。地上でつなぐ!」


「あいつらに飛び方を決められてたまるか!」


「いまは球を残せ!」


 二人の声がぶつかった。


 ほんの一瞬、北境の足が止まる。


 天翼団は止まらなかった。


 奪った球が、すでにエルンへ渡っていた。


     ◇


 淡い褐色の翼が、低く開いた。


 ナージャが正面へ入る。


 文治の耳から、観客の声が消えた。


 昨日、待合所で聞いた言葉だけが蘇る。


 ――私の前で速度を落としたら、そのときは別れる。


 ――君こそ、俺の翼を心配して止めを外すな。


 エルンは速度を落とさなかった。


 むしろ、ナージャへ向かって真っすぐ加速した。


 ナージャは腰を沈めた。右足をわずかに後ろへ引き、いつでも踏み込める姿勢を取る。


 エルンの左翼が沈んだ。


 ナージャが右へ動く。


 そのとき、エルンの足はまだ地面を離れていなかった。


 翼を開いたのは、飛ぶためではない。ナージャへ、いつもの踏み切りを見せるためだった。


 エルンは地上でもう半歩だけ進み、軸足を入れ替えた。


 ナージャの身体が、空になった右側へ流れる。


 逆へ踏み直そうとした左脚が、土を深く抉った。


 そこで初めて、エルンの身体が浮いた。


 一拍。


 ナージャが伸ばした腕の上を、淡い褐色の翼が通る。


 指先がエルンの脚衣を掠めた。


 二拍。


 エルンは空中で身体をひねり、追ってきたセラの角を避けた。高くはない。旗縄よりはるか下、守備の肩一つ分だけ上を滑る。


 三拍。


 落城線の手前で、両足が地面へ戻った。


 反則ではない。


 エルンは翼を畳み、残る四歩を自分の脚で走った。


 ガドが横から腕を伸ばす。届かない。


 エルンは得点区域へ飛び込まず、最後まで走り切ってから、両手で球を土へ置いた。


 落城。


 五点。


 門射も決まった。


 十四対零。


 歓声が遅れて文治の耳へ戻ってきた。


 その中央で、ナージャだけが膝をついていた。


 左手で土を掴み、右手で左膝を押さえている。立とうとして、一度よろめいた。


 エルンが振り返った。


 駆け寄ろうとしたように見えた。


 だが、一歩目を踏み出す前に止まった。


 敵の翔け手として、仲間の輪へ戻った。


 ナージャも、彼を呼ばなかった。


 その姿を見た瞬間、文治の胸へ、考えたくもない疑いが浮かんだ。


 いまの一歩は、本当に間に合わなかったのか。


 わざとではないのか。


「違う」


 文治は声に出して否定した。


 ナージャは飛びついた。指先はエルンの脚へ届いていた。踏み直した足で膝まで痛めている。


 見た事実は、それだ。


 それでも一度浮かんだ疑いは、黒い染みのように消えなかった。


 約束を聞いた自分でさえ疑った。


 二人の関係だけを知った読者なら、何と思う。


 恐ろしくなった。


 文治は黒い取材帳へ書いた。


 ――ナージャ、右へ先行。エルン、地上で軸足変更。接触は右手指先のみ。着地後、ナージャは左膝を押さえる。


 事実だけを書いた。


 その下へ、手が勝手に続きを書きそうになった。


 ――恋人を通した可能性。


 文治は鉛筆を止めた。


 指へ力を込めすぎて、芯が折れた。


 乾いた音がした。


 隣で、エダの鉛筆だけが止まらずに走っていた。


     ◇


 残り時間、北境倶楽部は得点区域へ近づけなかった。


 ガドが前へ出ようとすれば、天翼団は倒さず、身体の向きだけを変えた。ミロが球を掘り出す場所には先に足が置かれ、キリクが翼を開けば三拍目の着地点を二人に塞がれた。


 ナージャは走り続けた。


 左脚をかばっている。本人は隠しているつもりでも、踏み込むたびに肩がわずかに揺れた。


「替えろ!」


 文治は記者席から叫んだ。


 主将には届かなかった。いや、聞こえていても、部外者の声に従うはずがない。


「ナージャを下げてくれ。もう練習だろう。公式記録にも残らない試合で、膝を壊すな!」


 叫びながら、自分が記者の立場を越えていると分かっていた。


 それでも黙れなかった。


 ナージャは走る。球が来なくても走り、守備へ戻り、エルンが動くたびにその進路へ身体を入れようとする。


 負けたくないのだ。


 恋人に疑われたくないからではない。記者に信じてもらうためでもない。自分が競技者であることを、自分自身へ証明しようとしている。


 その必死さが、文治には痛かった。


 終了の鐘が鳴った。


 十四対零。


 公式記録には残らない敗北だった。


 だが、観客の記憶には残る。


「やはり格が違うな」


「昨日の勝利は、相手が東砦団だったからだ」


「十日後も試合をする必要があるのか」


 白銀旗の下で交わされる言葉が、一つずつ文治の胸へ落ちた。


 北境倶楽部の九人は、互いの肩を抱かなかった。


 キリクは土を払わず、黙って翼を畳んでいる。ガドは何度も口を開きかけ、そのたびに閉じた。オルガは全員を集めようとしたが、誰も目を合わせない。


「ナージャ」


 ガドが呼んだ。


 その声には怒りより、怯えがあった。


「エルンの癖を見ていたんじゃなかったのですか」


 ナージャの耳が伏せられた。


「見ていた。だから、前の踏み切りへ反応した」


「前の?」


「あいつは踏み切りを変えていた。私が読み損ねた。それだけよ」


 ガドは返事をしなかった。


 キリクが顔を上げた。


「あいつの前の飛び方を、どこで見た」


 空気が固まった。


 ナージャは答えなかった。


「試合記録で見たのでしょう」


 文治は反射的に割って入った。


 九人の視線が、一斉に文治へ向いた。


 しまった、と思った。


 ナージャが言っていないことを、本人より先に説明しようとした。その振る舞い自体が、二人だけで何かを共有しているように見える。


「なぜ記者が答える」


 オルガの声は低かった。


「私は……」


 続きが出なかった。


 ナージャが文治の前へ出た。


「私の失敗です。エルンの踏み切りが変わっていることを読めなかった。ほかに言うことはない」


「十日後も、お前が止めるのか」


 キリクが尋ねた。


 ナージャは左膝を押さえていた手を離した。


「止める」


「今日、止められなかったのに?」


「次は止める」


 短い言葉が、互いを押すようにぶつかった。


 オルガが間へ入った。


「ここで話すことではない。身体を冷やすな。戻るぞ」


 命令に従って九人は歩き出した。


 しかし、昨日までのような一つの輪にはならなかった。


 ナージャが先を歩き、キリクが離れ、ガドは二人のあいだで何度も視線を動かしている。


 わずかな隙間だった。


 だが、天翼団が作ったどの守備の穴より、文治には深く見えた。


     ◇


「私は疑った」


 観客の去った記者席で、文治は言った。


 ティナは返事をせず、折れた鉛筆を拾い上げた。


「ナージャさんが止めを外した瞬間、わざとではないかと思った。ほんの一瞬です。でも、思った。昨日、二人が本気で戦うと話しているのを聞いたのに。ナージャさんが何間進んだかで書けと、ついさっき私に言ったのに」


 言葉にするたび、自分の中の醜いものを吐き出している気がした。


「私は彼女を信じると言いながら、失敗した途端に恋人の顔を重ねた。エダと何が違うんです。あの女が見出しにする前に、私は頭の中で同じ見出しを作った。『恋人へ道を譲った女』と」


 声が震えた。


 自分を責めたいのか、誰かに否定してほしいのか、それさえ分からなかった。


「記者なんかにならなければよかった」


 口から出た言葉に、胸が裂けるように痛んだ。


「ラウのことを書いた。書いて、あの家族を壊した。今度は同じことをしないと決めた。それなのに、何も変わっていない。人が手を握るのを見れば見出しを考え、転べば理由を疑う。目の前で膝から血を流している人間を見ながら、私は記事になると思ったんだ!」


 文治は机を拳で叩いた。


 三冊の取材帳が跳ねた。


 黒い帳面が開き、ナージャの一歩を記した頁が風にめくれる。


「こんな目なら、なかった方がいい。こんな手なら、鉛筆なんか持てない方がよかった。私は誰かを残したいんじゃない。傷つける材料を集めているだけじゃないか!」


 喉が焼けた。


 息を吸おうとしても、胸が狭くなって入ってこない。


 ティナが、文治の拳を机から持ち上げた。


 指を開くと、爪が掌へ食い込み、四つの赤い跡を残していた。


「疑ったことと、決めつけたことは同じじゃない」


 ティナは静かに言った。


「でも、私は疑った」


「だから確かめるのでしょう」


「確かめる? 膝から血を流した人に、恋人を通したのかと聞くんですか。足跡を測って、何歩遅れたか数えて、それで私だけ正しい顔をするんですか!」


「正しい顔なんかしなくていい!」


 今度はティナが怒鳴った。


 空になった観客席へ、その声が響いた。


「怖がって、泣いて、間違えたかもしれないと思ったまま書けばいい。あなたは何のために三冊も取材帳を持っているの。事実と疑いと感想を、最初から同じものにしないためでしょう!」


 文治は開いた帳面を見た。


 黒い頁には、ナージャが右へ動いたこと。エルンが軸足を変えたこと。指先が脚衣へ触れたこと。左膝を押さえたこと。


 赤い帳面には、まだ何も書いていない。


「疑ったなら赤に書く。見たことは黒に書く。どちらを紙へ載せるかは、全部確かめてから決める」


 ティナの声も震えていた。


「あなたが嫌な人間かどうかなんて、私は知らない。でも、嫌な考えが一度浮かんだだけで鉛筆を捨てるなら、残される側はたまらないわ。私たちは、きれいな人に書いてほしいんじゃない。最後まで逃げない人に書いてほしいの」


 文治は俯いた。


 涙が一滴、黒い取材帳へ落ちた。慌てて袖で吸い取る。文字は滲まなかった。


「……逃げたくない」


 声にすると、子どもの願いのように頼りなかった。


「怖いです。もう誰も傷つけたくない。でも、怖いから黙るのも嫌だ。私は、ナージャさんの一歩を、恋人への裏切りにも、美しい愛情にもしたくない。ただ、何が起きたのか知りたい」


「なら、最初に調べることは?」


 文治は目元を拭い、取材帳を引き寄せた。


「エルンさんの踏み切りです。以前の試合では、どちらの足を軸にしていたか。今日はいつ変えたのか。ナージャさんの反応が遅れたのではなく、先に反応させられた可能性がある」


「次は?」


「地面の跡。まだ踏み荒らされていなければ残っている。それから、別の位置で見ていた者の証言。ナージャさんの膝も、競技院の治療係に状態を確認する」


 言葉を重ねるうち、乱れていた呼吸が少しずつ戻ってきた。


 立ち上がろうとしたとき、競技場の入口から一人の少年が走ってきた。


「『井戸端新聞』の浦上さんはいますか!」


 手に、細長い封筒を持っている。


「私です」


「六邦公報社からです。今夜の鐘が鳴るまでに回答が欲しいと」


 文治とティナは顔を見合わせた。


 封筒を開く。


 中には、明朝発行予定の記事についての質問状が入っていた。


 一行目を読んだだけで、指先から血の気が引いた。


 ――北境倶楽部ナージャ選手と、王都天翼団エルン選手が交際関係にあるとの証言を得た。


 その下には、質問が二つ並んでいた。


 ――ナージャ選手は、交際相手との試合で競技上の手加減を行ったか。


 ――浦上文治氏は、試合開始前から両選手の関係を把握していたか。


 文治は最後まで読めなかった。


 紙を握る手が震える。


「私を狙っていたんじゃない」


 掠れた声が漏れた。


 エダは、文治が書かなかったことを探すと言った。


 見つければ文治を責めるのだと思っていた。


 違う。


 文治を切れば、その後ろにいる選手まで刃が届く。


「あの女は、ナージャさんを見出しにするつもりだ」


 質問状の下部には、回答がない場合も予定どおり掲載すると記されていた。


 仮見出しまで添えられている。


 ――敵味方に通じる獣と鳥――秘密の逢瀬。


「ふざけるな」


 文治は紙を握り潰しかけた。


「あの人は十四対零で負けた選手だ。止めを外し、膝を痛め、それでも最後まで走った。書くべきことなら、いくらでもある。それを、誰を好きかの一行ですべて塗り潰すのか!」


 ティナが質問状を机へ広げ直した。


「今夜の鐘まで、どれくらい?」


 文治は競技場の時計を見た。


 残り、一刻半。


 地面の踏み跡を調べ、過去の試合記録を探し、ナージャとエルンへ確認しなければならない。


 そのすべてを、一刻半で。


 遠くで、印刷所の始業を告げる鐘が鳴った。


 朝になれば、ナージャの一歩は失敗ではなく、裏切りとして北境中へ配られる。

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