表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
72/89

外伝・その五(大奥・盛夏編):優良なる夏期休暇のハメ手と、覇王の胃壁を跡形もなく溶かす灼熱の単独育児

織田信長が二一世紀の歴史・地理・福祉の知識を総動員し、日ノ本のすべてを完全なる国営化へと導いてから十数年。元平の御世に暮らす民や官僚たちは、過労死の恐怖から百パーセント解放され、手厚き固定給と完全週休二日制の恩恵を全身で謳歌していた。


しかし、完璧に機能する優良な制度というものは、時に刃となって牙をむく。それも、他ならぬその制度を作り上げた最高権力者、正一位・太政大臣たる織田信長自身に向かってである。


盛夏の陽光が安土城の天守を容赦なく照りつける、ある真夏の朝のことであった。

信長は、広大なる多国籍大奥の広間にて、滝のような冷や汗を流しながら、一枚の書状を手に震えていた。

その書状の最上部には、信長自らが天下に発布した不滅の法度『国営夏期休暇・計画消化令』の印が、一分の狂いも無く鮮やかに押されていたのである。


「ーーというわけでございます、上総介かずさのすけ様」

涼やかな薄衣を身にまとった正室・帰蝶が、扇子で美しく頬を仰ぎながら、極上の笑顔で信長を見下ろしていた。その背後には、内政副総裁の井伊直虎、総裁代行の永高内親王殿下、立花誾千代、そして霧の都ロンドンから輿入れしてきた英国王女、さらには成田家から赴任してきた若き女官・甲斐姫にいたるまで、大奥の主要なる女傑たちが一割の狂いも無い完璧な隊列(包囲網)を組んで並んでいた。


「余が定めた夏期休暇の計画消化令……? いや、確かに日ノ本の全労働者は、真夏の最も暑き盛りに、給与百パーセント保証の五日間の連続休暇を十割完全に取得せねばならぬと法度には書いた。書いたがな、お前たち……」

信長の限界胃壁が、戦う前に不穏な音を立てて軋み始める。

帰蝶はふっと微笑みを深めると、手元の交代制職務シフトの予定表を掲げた。

「はい。大奥の侍女たち、および我ら妻妾一同も、新政庁に登録された立派な『国営保育師』であり、労働者にございます。ゆえに、この真夏の五日間、全員が一斉に有給の夏期休暇を消化することといたしました。一分の狂いも無い完全なる法度の執行にございます」

「な、何だと……!? 全員が一斉に休むだと!? ならば、その間、まだ乳を飲む赤子や、やんちゃ盛りの若君たちの育児は一体誰がこなすのだ!」


信長の悲痛な叫びに対し、内政の鬼である直虎が、懐から一冊の分厚い規律書を取り出して突きつけた。

「当然、太政大臣たる信長様、あなた様にございます。我が国の法度では、職場の全員が休暇を取得した際、最高責任者がその業務を単独職務ワンオペとして一時的に代行せねばならぬと、五百年先を見据えた規則が同期されております。信長様、まさかご自身で作られた完全白化ホワイトの規律を、自ら破るなどという一割の狂いも許されぬ大罪は犯されませぬよね?」

直虎の理路整然としたハメ手の前に、信長はぐうの音も出ない。


追い打ちをかけるように、十五歳に成長した甲斐姫が、手荷物をまとめた風呂敷を抱えながら、いたずらっぽく笑った。

「そういうことでございますので、私たちはこれから全員で、新政庁が全額出資する国営の熱海温泉へと旅行に行ってまいります! 信長様、給与全額保証の単独育児、一から完璧にお励みくださいね?」

英国王女も金髪を揺らしながら、「いってまいります、マジ神仏!」と、覚えたての日本語で完璧な笑顔を見せる。


「待て! 待ってくれお前たち! 余を置いていかないでくれ! 異国をハメ殺すより、この灼熱の大奥で一人で赤子たちをみる方が十割むずかしいわ! 余の限界胃壁が本当に溶けて跡形もなく崩壊しちゃうよーー!!」

覇王の魂からの悲鳴は、熱海への快速馬車へと笑顔で乗り込んでいく多国籍大奥の包囲網には届かなかった。かくして、世界を盤上で詰ませた不滅の天才・織田信長による、地獄の五日間の一人育児合戦の火蓋が切って落とされたのである。


ーー初日から、大奥は戦場と化した。

「ぎゃあぁぁん!」「うわぁぁん!」

真夏の猛暑の中、赤子が同時に火が付いたように泣き叫び始める。

「おのれ、同時に泣くか! だが余の地理・福祉知識を甘くみるな!」

信長は単独職務の面頬マスクを顔に密着させると、二一世紀の最先端保育技術を脳内で同期。一分の狂いも無い正確無比な手際で、おしめを瞬時に剥ぎ取り、新しい国営特製のおしめへと交換していく。その速度、まさに電光石火。


しかし、一難去ってまた一難。今度は調乳である。

「おのれ、粉乳の分量と湯の温度に一割の狂いもあってはならぬ……!」

汗だくになりながら、沸騰した湯を冷まし、二一世紀の基準である『摂氏七十度以上』の湯で一分の狂いも無く乳粥ミルクを調合する。赤子の胃腸に負担をかけぬよう、哺乳瓶を冷水に浸して適温へと冷ますその間にも、背後からは別の若君が「父上、戦ごっこをいたそう!」と、木刀を持って信長の臀部(お尻)に強烈な一撃を叩き込んでくる。


「ふぎゃあ!? 痛い! 痛いわ馬鹿者! 今は戦の最中である! 違う、内政の最中である! ああ、湯加減が、湯加減が一分狂った! 調合し直しじゃあ!!」

昼間は地球規模の盤上を冷徹に操り、明国や南蛮を震撼させている総大総督が、真夏の大奥で髪を振り乱し、おしめと哺乳瓶を両手に持って、嬉しさと緊張の冷や汗を滝のように流して走り回っている。


夕刻五時。本来であれば安土政庁の官僚たちが「定時退勤」の鐘と共に居酒屋へ同期し、「信長様、マジ神仏……!」と涙を流して美味い酒を飲んでいる時刻。

当の信長は、散らかり放題の大奥の畳の上で、ようやく同時に寝付いた赤子たちの横に、文字通り大の字になって倒れ伏していた。


その限界胃壁は、文字通り跡形もなく崩壊し、口からは白い魂が抜け出しかけている。

「ははは……世界をハメ殺すなど、これに比べれば児戯に等しいわ……。だが、民や官僚、そして愛する妻たちが、余の作った制度でこれほど完璧に幸福な夏期休暇を消化できているのだ。太政大臣として、これ以上の名誉はあるまい……」

信長は、ぐっすりと眠る我が子の愛らしい寝顔を見つめ、限界の疲労のなかで、幽かな、しかし最高に幸福なる微笑を浮かべるのだった。

「……いや、しかし、熱海温泉の利潤と税収の同期だけは、後で一文の狂いも無く徹底的に精査してやるからな……!」

覇王の執念の独り言が、静まり返った盛夏の大奥に、寂しくも温かく響き渡るのであった。


(外伝・その五・大奥盛夏編・完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ