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第4.5話(幕間):美濃の麒麟児、栗原山にて戦慄する



1. 目に見えぬ悪魔と、美濃の破滅


美濃国(岐阜県)、稲葉山城。

その最奥にある重臣の間は、かつてない悲鳴と怒号に包まれていた。


義龍よしたつ様! 城下の物価が十倍に跳ね上がってございます! 領民どころか、兵たちの食う米すら事欠く有様にございます!」

「長良川の関所を固めても、尾張からの塩や油が全く入ってきませぬ! 近江や越前の商人どもまで、突如として我が美濃との取引を断りおったのです!」


「なぜだ……! なぜなのだ……ッ!?」


美濃の国主・斎藤義龍は、机を激しく叩き、巨躯を震わせて絶望の声を上げた。

織田家は桶狭間の大勝利のあと、美濃に対して一兵も動かしていない。国境を越えて攻め込んできたわけでもないのだ。それなのに、なぜか国内の物資が完全に干上がり、市場は大混乱に陥っている。


「さらに、出所不明の精巧な永楽通宝が大量に出回っております! 給与として渡そうにも、市場に溢れる銭がクズ鉄同然の価値しか持たず、家臣も兵も受け取りを拒否しておる始末……!」

「おのれ、織田上総介……! 一体、美濃に何をした……ッ!」


目に見えない悪魔に首を絞められているかのような圧倒的な恐怖。

過酷な重税を強いても国は潤わず、焦燥と絶望のあまり、義龍は激しく咳き込んでその場にドッと血を吐き散らした。戦う前に、美濃という国家の命脈は完全に絶たれようとしていた。



2. 栗原山・竹中半兵衛の天才的な分析


稲葉山城が恐怖に揺れるその頃。

山深い栗原山の粗末ないおりの中で、私――竹中半兵衛は、城下から持ち帰らせた一枚の永楽通宝を、油灯の光に透かしてじっと見つめていた。


「……やはり、本物ではないな。恐ろしいほど精巧な偽金だ」


私の一人ごちる声に、激しい咳が混ざる。

肺を病んでいる私の命は、そう長くはない。

だが、己の肉体の衰え以上に、私の背筋を凍らせていたのは、尾張の主――織田上総介の常軌を逸した「知略」の全貌だった。

美濃の喉元である『塩の流通』を差し止め、さらに『織田東インド商会』なる闇の流通網を用いて、近江や越前の裏路まで完璧に封鎖する。

物資を極限まで減らした上で、この精巧な偽金を大量に流し込めば、何が起きるか。


物がないのに金だけが増え、銭の価値はただの金属の塊同然に暴落する――際限なき物価高騰インフレ

兵の恩賞も払えず、民は飢え、戦を起こす組織そのものが内側から自壊していく。


「義龍様では、あの男には絶対に勝てぬ。いや……この日の本の誰一人として、織田上総介には勝てん……」


私がこれまで学んできた『兵法』や『戦術』は、すべて戦場でいかに兵を動かすかという古い時代のものだった。だが、織田信長という男の戦は違う。

刀を一度も交えぬまま、銭と物資の力だけで一つの国を内側から腐らせ、確実に殺すのだ。


さらに、噂に聞く尾張の『三公七民』という超減税。

飢える美濃の民は、「尾張の織田の殿様のもとへ行けば、お上の取り分はわずか三割だ」と噂し、雪崩を打って夜逃げしていく。

民を失った国に、明日の希望などあるはずがない。


「戦の天才ではない。あの男は、時そのものを支配する未来の覇王だ……」


自分の頭脳を遥かに上回る巨大な怪物の存在に、私は病床で、骨の髄まで冷えるような戦慄を覚えていた。



3. 嵐のような覇王の来訪


――バシャァアンッ!!!


静まり返った庵に、突如として粗末な竹編みの扉が荒々しく開け放たれる音が響いた。


「……誰だッ!」


私は驚愕し、激しく咳き込みながらも、枕元にある刀を掴んで引き抜いた。

しかし、現れた二人組の男の姿を見た瞬間、私の思考は完全に停止した。


一人は、仕立ての良い直垂をまといながらも、どこか泥臭い雰囲気を残した、小柄で猿のような顔つきの男。手には和紙の束――手控えを握りしめている。


そして、その前に立つ男。

薄暗い庵の中であるというのに、その男の瞳だけは、すべてを見通すかのように妖しく、圧倒的な輝きを放っていた。全身から立ち上る、理屈を超えた王の威厳。一目で理解できた。私の脳裏を恐怖で支配していた、尾張の主その人だ。


「初めまして、だな。竹中半兵衛」


織田信長様は、他国の山奥であるというのに、護衛の兵も連れず、丸腰のまま不敵な笑みを浮かべて私の前にドカッとあぐらをかいた。


「お、織田……上総介様……!? なぜ、丸腰でこのような場所に……!」


「お前を余の陣営に引き抜きにきた。半兵衛、美濃の古い枠組みで燻っている時間は余らにはない。余が目指すのは、海の向こうの世界だ。お前のその傑出した頭脳を、我が織田の『最高総参謀長』として使え。働きに応じた破格の恩賞も出す。何より――」


信長様は、その懐から一本の奇妙なガラスの小瓶を、私の前に差し出した。


「我が織田家では『六日に二日の休み』を厳守してもらう。まずはその肺の病を、余の持ってきた未来の特効薬で治し、温泉にでも行って英気を養え。有能な身内を過労や病で死なせることなど、余の自尊心が許さんのでな」


私の病気すら、最初からすべて知っていたかのような底知れぬ『覇王の器』。

そして、提示された条件は、武士を消耗品としてしか扱わない斎藤家とは月とすっぽんほどの、驚くべきホワイトな環境だった。



4. 麒麟児の決意


私は、差し出されたガラスの小瓶と、信長様の瞳を交互に見つめた。


この男なら、本当に古い日の本のルールをすべて破壊し、新たなる世界を創り上げてしまうだろう。その旅路の『最高総参謀長』という特等席が、今、私の目の前に用意されているのだ。


「週休二日……成果に応じた恩賞ボーナス……」


半兵衛は書状に並ぶ奇妙な未来の言葉をなぞり、それからゆっくりと顔を上げた。

その瞳には、単なる驚きを超えた、鋭い知性の光が戻っている 。


「上総介様。戦わずして国を切り従える魔道の如き知略、そしてこの壮大な海の帝国の構想。確かに見事なり 。……なればこそ、一つ、不躾な問いをお許しいただきたい 」


半兵衛はあえて信長の目を真っ向から見据え、試すように口元を歪めた 。美濃の麒麟児としてのプライドが、この男の底の深さを、最後に直に測れと叫んでいた 。


「我が美濃を銭で干上がらせた上総介様だ。なれば……美濃の次に立ち塞がるであろう、最大にして最古の権威 。――京都の『足利将軍家』という巨大な神輿を、どのように料理なさるおつもりか? 担いで操るか、それとも」


室内の空気が、一瞬で凍りついた 。

隣で平伏していた秀吉の肩が、びくりと強張る 。戦国時代の誰もが触れるのを恐れる、日ノ本の中央権力 。その扱いをどうするかという、これ以上ない意地悪な問いだった 。


だが、信長は怯むどころか、待っていましたとばかりに声を放って笑った 。


「ハハハハ! 将軍だと? 十兵衛にも同じような顔をされたな!」


信長はあぐらをかいたまま、半兵衛の鼻先を扇子でぴしゃりと指した 。その眼光は、室内の温度を数度下げるほどの、圧倒的な冷徹さに満ちている 。


「あんな時代遅れの役立たずになった室町幕府という仕組みなんぞ、神輿として担ぐ気は毛頭ない。担いだ瞬間、周囲の大名どもに嫉っておのれを囲まれるのがオチだ 。余が創るのは、そんなカビの生えた古い国じゃねえ」


信長は立ち上がり、庵の窓から広がる遥かな空を見つめた 。


「将軍なんぞ無視だ。余は、この『東インド会社』がもたらす富と海を武器に、日ノ本すべての富と流通が織田の手を借りねば回らぬような、全く新しい『仕組み(基盤)』を創る 。……どうだ半兵衛 。お前のその頭脳、古い神輿の担ぎ合いで擦り減らすか、それとも俺と一緒に、世界を驚かせる『新しい世』を創るために使い潰すか?」


「……ッ」

半兵衛は息を呑み、そして、腹の底から湧き上がるような激しい高揚感に包まれた 。

将軍の権威すら一蹴し、その先にある誰も見たことのない世界を見据えている 。この男は、本物の狂人か、さもなくば―― 。


「……ククッ、ハハハハ!」


半兵衛の口から、乾いた笑いが漏れた 。刀からそっと手を離し、満面の笑みを浮かべてその場に平伏する 。


「戦う前に国を滅ぼす底の知れぬ御方が、古い神輿を叩き壊して新しい海を往くと言い出すか 。……面白い。織田信長公、その『清らかなる新世界ホワイト』とやら、竹中半兵衛が特等席で見極めさせていただこう」


竹中半兵衛が栗原山を降り、織田家の『経営企画室長』としてその牙を研ぎ始めたのは、美濃が完全に織田の銭に屈する、わずか数日前のことであった 。


【織田政権の最強の頭脳陣、ここに集結。】(第5話「美濃無血開城と、日の本初となる近代常備軍の誕生」へ続く)

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