返せ、侍。ありがとう、マサイ。
第三幕 返せ、侍。ありがとう、マサイ。
一 連絡網
四月になった。
信人は昼休みに、オフィスの近くの公園のベンチに座って、スマートフォンを開いた。
桜がまだ少し残っていた。
風が吹くたびに花びらが舞い、スーツの膝に落ちた。
画面には下書きのメールが開いていた。
宛先は、インド支部の担当者、ブラジル支部の担当者、エジプト支部の担当者、中国支部の担当者、アメリカ支部の担当者、メキシコ支部の担当者、ノルウェー支部の担当者。
マリーから連絡先を教えてもらった人間と、キプチョゲの人脈で繋がった人間、合わせて七名だ。
件名は「非公式情報共有の提案」とした。
本文は短くした。
『各国で今起きていることを、非公式に共有したいと思っています。返還を求める動きが日本でも始まっています。おそらく他の国でも同じことが起きているはずです。一度話しませんか。明智信人』
送信ボタンを押す前に、信人はしばらく画面を見た。
これは委員会の方針に反する。
マリーはそう言った。上から怒られる、とも。
でも怒られることと、間違っていることは、別の話だと信人は思った。
それはいつからそう思えるようになったのか、自分でもわからなかった。
気がついたらそう思っていた。
桜の花びらがまた一枚、画面の上に落ちた。
信人は花びらを払って、送信ボタンを押した。
◇
返信は思ったより早く来た。
最初に返信してきたのはメキシコ支部のカルロス・ラミレスだった。
「死者の日がノルウェーに渡って、うちのお婆ちゃんが泣いています。何でもします」
次はノルウェー支部のエリク・ハンセン。
「ヴァイキング文化がケニアに渡って、うちの父親が無口になりました。賛成です」
インド支部のプリヤ・シャルマは少し慎重だった。
「委員会の規定に触れる可能性があります。ただ、私個人の意見としては同じ問題意識を持っています。参加します」
二日で七名全員から返信が来た。全員が賛成だった。
◇
最初のオンライン会議は、十カ国十名の担当者が画面に並んだ。
信人は画面を見て、少し圧倒された。
ナイロビの午後の光の中のキプチョゲ、パリの石造りの建物を背にしたマリー、ムンバイの雑然としたオフィスのプリヤ、メキシコシティの鮮やかな壁画が見えるカルロス。
世界がそのまま画面に並んでいた。
「では始めましょう」
信人は言った。英語で話した。
「今日は自己紹介より先に、各国の状況を共有したいと思います。一国ずつ、今何が起きているかを教えてください」
順番に話が出てきた。
中国では漢字を失ったことで書道の大会が中止になった。
エジプトではピラミッド信仰の儀式が観光業ごと止まりかけている。
ブラジルではカーニバルの開催権を巡って国内で法的紛争が起きている。
ノルウェーでは高齢の語り部がヴァイキングの伝承を語れなくなったと訴えている。
そして日本では、京都の武道具店が閉まり、剣道の道場が稽古の続け方に迷っている。
一時間、ただ状況を聞き合っただけだった。
でも会議が終わった後、信人は胸の奥に静かな確信のようなものを感じた。
みんな、同じことを感じている。
二 キプチョゲが跳んだ日
五月のある夜、キプチョゲから珍しく個人的なメッセージが届いた。
「ノブト、今日アドゥムをやってみた」
信人はすぐに返信した。
「どうでしたか」
「転んだ」
信人は思わず笑った。
「何回跳んで転んだんですか」
「三回跳んで一回転んだ。膝を擦りむいた。四十代の膝には堪えた」
「それで」
「また跳んだ」
信人はしばらく、その短い文章を見ていた。
「なぜ急に」
信人は聞いた。
少し間があって、返信が来た。
「盆マサイの新しい動画を見た。島根の小学生が跳んでいた。六歳くらいの子が、全力で跳んでいた。笑いながら、でも全力で。その顔を見ていたら、急に恥ずかしくなった」
「恥ずかしい?」
「私はマサイの血を引いていて、四十年生きてきて、一度も本気で跳んだことがなかった。六歳の日本の子どもに教えられた気がして」
信人は返す言葉を考えた。
「上手く跳べましたか、最終的に」
「まあまあだ。オフィスの廊下で一人でやったから、同僚に見られて変な顔をされたが」
「それは見たかったです」
「笑うな」
「笑ってないです」
「笑っているだろう」
信人は実際に笑いながら、でも真剣に思った。
キプチョゲが跳んだ。
それは何か大事なことのような気がした。
三 マリーの問い
六月、マリーから珍しく長いメールが届いた。
いつもは事務的な報告か、短い質問メールしか来ない。
なのにその日のメールは、件名が「少し個人的な話です」だった。
信人は少し驚きながら開いた。
『ミスター明智。少し変なことを聞くかもしれませんが、聞かせてください。
私はこの六ヶ月、侍文化を受け取る側の担当として、武士道について調べてきました。最初は義務でした。でも今は、義務ではなくなっています。
武士道の中に「恥を知る」という概念があります。単なる羞恥心ではなく、自分が何者であるかを知り、それに恥じない生き方をするということだと理解しています。
私はフランス人です。フランスはファッション文化をインドに渡しました。インドでフランスのファッションが変容していくのを見て、最初は怒りを感じました。でも今は、別の感情があります。
フランスのファッションの核は何か、私は本当に知っていたのか。インドのデザイナーたちが熱心に研究し、変容させていく様子を見ながら、私は自分がファッションについて何も語れないことに気づきました。父の店が続いていたなら、父はきっと語れた。でも私は聞かなかった。
これは武士道で言う「恥」に近いのではないかと思っています。
あなたは侍文化について、今どう感じていますか。正直に教えてください。マリー・デュボワ』
信人はメールを二度読んだ。
マリーがこういうことを書いてくるとは思っていなかった。
信人は少し考えてから、返信を書いた。
『マリーさん。正直に言います。
半年前、侍文化がフランスに渡ったとき、私はほっとしていました。嫌いな文化が消えると思っていた。でも今は、それが恥ずかしいと思っています。
私が侍文化を嫌いだったのは、文化そのものではなく、文化に付随して自分が傷ついた経験があったからです。でもそれは文化のせいじゃなかった。私が逃げていただけでした。
武士道の核は、逃げないことだと今は思います。誠実であること、恥を知ること、信じるものを持つこと。そのどれも、私が苦手にしていたことです。
あなたが言う「恥」の感覚、私も同じものを感じています。明智信人』
送信してから、信人はしばらくパソコンの前に座っていた。
自分でも少し驚いていた。こんなに素直に書けたのはいつ以来だろうと思った。
◇
翌日、マリーから短い返信が来た。
『ありがとうございます。あなたは正直な人ですね。それは武士道的だと思います。』
その一文を、信人は何度か読んだ。
悪い気はしなかった。というより、かなり嬉しかった。
それを認めるのに少し時間がかかったが、確かに嬉しかった。
深夜の通話のことを思い出した。
あの夜から、マリーのことを考える時間が増えていた。
その感情に、信人はまだ名前をつけていなかった。
でも、つけなければならない時が近づいている気がした。
四 委員会の圧力
七月、事態が動いた。
文化交換委員会の本部から、日本支部に公式な照会が届いた。
「非公式な担当者間のネットワークが形成されているという情報がある。協定の精神に反する活動については、即刻停止するよう勧告する」
橋本課長が信人を会議室に呼んだ。
「明智くん、これ、君だね」
「はい」
信人は迷わず答えた。
橋本課長は眼鏡を外して、テーブルの上に置いた。
疲れた顔をしていた。
「君がやっていることはわかる。理由もわかる。でもね、上からの圧力は本物だ。本部は今、返還運動が広がることを非常に警戒している。協定が崩れると、国際的な信用問題になる」
「課長は、今の状況が正しいと思いますか」
信人は聞いた。
橋本課長はしばらく黙った。
「正しいかどうかと、できるかどうかは別の話だ」
「私はどちらも、やれることをやりたいと思っています」
課長はため息をついた。
「君はいつからそんなに真っ直ぐになったんだ」
「最近です」
課長はしばらく信人を見ていた。
それから眼鏡をかけ直して言った。
「私は今日、この話を聞かなかった。でも君が何かしでかして問題になったとき、私は知らなかったと言う。それでいいか」
「はい」
「その代わり、絶対に失敗するな」
「わかりました」
会議室を出ると、廊下で田村が立っていた。
「聞こえてた」
田村は言った。
「え」
「壁、薄いんだよこのビル」
田村はエナジードリンクを一口飲んだ。
「俺も手伝う。できることなら」
信人は少し驚いて、それから頷いた。
「ありがとうございます」
五 京都
八月、信人は有給を取って京都に帰った。
父の工房は、鴨川から少し入った細い路地にある。
築五十年の古い建物で、看板も出ていない。
知っている人間だけが来る店だ。
信人が訪ねると、父は作業台の前に座って、布で何かを磨いていた。
「来たか」
それだけ言って、父は作業を続けた。
信人は工房の中を見回した。
棚に刀が並んでいた。本物と複製が混在している。
父はそれを見極める目を持っている。
何十年もかけて磨いた目だ。
「手紙、読んだよ」
信人は言った。
「曾祖父の話」
「ああ」
「明田から明智に戻したんだって」
「そうだ」
「なんで今まで話してくれなかったの」
父は手を止めた。
布を置いて、振り返った。
「お前が聞かなかったから」
信人は少し黙った。
「……俺が逃げてたから、か」
「そうは言っていない」
「誠にそういうことでしょ」
父はしばらく信人を見ていた。
「座れ」
信人は作業台の横の古い椅子に座った。
父も向かいに座った。
「曾祖父はな」
父は言った。
「明智の名前を取り戻すのに、二十年かかった。書類を集めて、政府を説得して、やっと許可が出た。その日に日記を書いている」
「日記?」
父は棚の奥から、古い帳面を取り出した。
変色した紙に、細かい字が並んでいた。
「読めるか」
信人は帳面を受け取った。
古い仮名遣いで書かれていたが、なんとか読めた。
『今日より明智を名乗る。長き雌伏の時を経て、先祖の名を戻すことができた。これより我が家の者は、明智の名に恥じぬ生き方をせねばならぬ。裏切り者と呼ばれし光秀公の名を継ぐということは、その汚名を背負うということではない。公が信じたものを、我々も信じ続けるということである。信じることをやめた者こそ、本当の裏切り者である』
信人は最後の一行を、二度読んだ。
信じることをやめた者こそ、本当の裏切り者である。
「……これ、おじいちゃんの手紙と同じことを言ってる」
「そうだ」
父は言った。
「家訓みたいなものだ。言葉にはしなかったが、ずっと続いている」
信人は帳面を閉じた。
「俺、ずっと逃げてた」
信人は言った。
「名前から、侍文化から、全部」
「知っている」
「なんで止めなかったの」
「止めても意味がない」
父は言った。
「自分で気づかないと、何も変わらない。お前が気づくのを待っていた」
「ずっと?」
「ずっとだ」
信人は少しの間、古い帳面を手に持ったまま座っていた。
工房の外で、蝉が鳴いていた。
京都の夏の音だった。
「お父さん」
「何だ」
「信人って名前、好きになった」
父は何も言わなかった。
ただ、作業台に向き直って、また布で刀を磨き始めた。
でもその背中が、少し丸みを帯びたような気がした。
六 世界が動いた
九月、世界が動いた。
発端はメキシコだった。
死者の日を失ったメキシコの市民が、ノルウェー大使館前で大規模なデモを行った。
参加者は黒と白のフェイスペイントをして、棺桶を持って歩いた。
静かなデモだった。怒鳴らず、壊さず、ただ歩いた。
その映像が世界に流れた。
翌週、ノルウェーの高校生たちが大使館前のデモを見て、自発的に声明を出した。
「私たちはヴァイキング文化を受け取ったが、メキシコの人たちが死者を弔う権利を奪うことは望んでいない」という内容だった。
それが引き金になった。
各国で、受け取った文化を元の国に戻すべきだという声が、政府ではなく市民から上がり始めた。
SNSには「#ReturnTheCulture」というハッシュタグが広まった。
日本からは「#侍を返して」が、フランスからは「#武士道はあなたたちのもの」が、ケニアからは「#アドゥムは戦士の踊り」が流れた。
委員会の本部は当初、これを「協定への反逆」として強く牽制した。
しかし牽制すればするほど、動きは大きくなった。
◇
十月、信人たちの非公式ネットワークが、初めて公開の場に出た。
十カ国の担当者連名で、文化交換委員会本部に「文化返還に関する緊急提言書」を提出したのだ。
提言書の内容は、信人とマリーとキプチョゲの三人で夜を徹して作った。
明け方近く、マリーが画面の前で目をこすった。
「疲れましたね」
信人は言った。
「でも、やめたくない」
マリーは言った。目が赤かった。
でもその目が、信人には少し眩しかった。
信人はキーボードに向き直りながら、心の中でやっと認めた。
この人のことが、好きだ。
初めてはっきりそう思った。
でも今はそれを言う場面じゃない。
まず、やるべきことがある。
核心はこうだった。
『文化の移転は、所有権の移転ではない。文化はその担い手とともに存在するものであり、法的な帰属を変えることで文化の本質を移転することはできない。この六ヶ月の経験が示したことは、文化は受け取った側によって新たな価値を発見されうるということ、そして同時に、元の担い手が文化を失うことで取り返しのつかない喪失が生じるということである。文化の共有は、奪取によってではなく、対話によってのみ実現する』
提言書は十カ国語に翻訳され、同日にメディアにも公開された。
信人が退庁しようとすると、橋本課長が声をかけた。
「見たよ、提言書」
「怒りますか」
信人は聞いた。
「怒るかどうかの前に」
課長は言った。
「いい文章だった」
それだけ言って、課長はエレベーターに乗った。
七 返還
十一月、世界文化共有協定は、発令から一年で事実上の停止に追い込まれた。
委員会本部は「協定の第一フェーズを終了し、結果を検証する期間に入る」という発表をした。
婉曲な表現だったが、実質的な白旗だと各国メディアは報じた。
文化の返還が始まった。
各国の担当者が、受け取った文化を元の国に送り返す手続きを進めた。
資料、映像、実物。それぞれが丁寧に梱包され、発送された。
日本への侍文化の返還手続きをフランス側で担当したのは、マリーだった。
最後の確認通話で、マリーは珍しく少し緊張した顔をしていた。
「全部、送りました」
彼女は言った。
「資料も、映像も、アントワーヌのコレクションのアーカイブも」
「ありがとうございます」
「一つだけ、確認したいことがあります」
「何ですか」
「武士道クチュールのコレクション、あれは間違っていましたか」
信人は少し考えた。
「間違っていた部分はあると思います。武士道を死の哲学と定義したのは、一面的すぎた」
「ではすべて間違っていた?」
「そうは思いません」
信人は言った。
「あのコレクションがきっかけで、武士道に興味を持ったフランスの若者がいた。入り口は間違っていても、そこから本質に近づいた人がいた。それは本物だと思う」
マリーはしばらく黙っていた。
「……私も、そう思います」
「マリーさん」
「何ですか」
「フランスが侍文化を受け取ったこと、結果的には良かったと思っています」
「なぜですか」
「あなたが武士道を外から見たから、私が気づけなかったことに気づけた。あなたが一番、武士道の本質を正確に見ていたと思う」
マリーがまた黙った。
今度は少し長い沈黙だった。
「……それは」
彼女はゆっくりと言った。
「今まで言われた中で、一番嬉しい言葉です」
◇
ケニアへのマサイ文化の返還手続きは、信人が担当した。
梱包した段ボール箱に送り状を貼りながら、信人はシュカを最後にもう一度手に取った。
鮮やかな赤と青の格子模様。
初めて手にしたとき、東京の銀杏と合わないと思った布だ。
でも今は、そう思わなかった。
赤いシュカと黄色い銀杏。
それはそれで、悪くない組み合わせだと思った。
最後の確認通話で、キプチョゲは穏やかな顔をしていた。
「全部、受け取った」
キプチョゲは言った。
「ありがとう、ノブト」
「大切に使ってもらえましたか、マサイ文化」
「盆マサイになったけどな」
「すみません」
「謝るな」
キプチョゲは笑った。
「島根の子供たちが全力で跳んでいた。それは本物だった。本物の何かが、国境を越えた。それで十分だ」
信人は少し間を置いた。
「キプチョゲさん、また跳びましたか」
「毎朝跳んでいる」
「膝は」
「慣れた」
二人は少し笑った。
八 翌年の春
協定が停止されてから半年後の春、東京で小さなイベントが開かれた。
主催者は信人たちの非公式ネットワークだった。
正式な名称はなく、「文化対話の場」とだけ呼ばれた。
十カ国の担当者が東京に集まり、この一年で起きたことを市民に向けて話す、という趣旨だった。
会場は代々木公園の野外ステージだった。
信人はステージに上がる前、袖で待機しながら、隣に立つマリーを見た。
パリから直接来たマリーは、グレーのジャケットの代わりに、春らしい薄いコートを着ていた。
初めて見たときの張り詰めた表情はなく、少し緊張しながらも柔らかい顔をしていた。
「緊張しますか」
信人は聞いた。
「します」
マリーは言った。
「日本語で話す練習をしてきたんですが」
「え、日本語で?」
「少しだけ。最初の挨拶くらいなら」
信人は少し驚いた。
「いつ覚えたんですか」
「この半年で。武士道の本を日本語で読みたくて、勉強し始めて」
信人はしばらくマリーを見た。
「……すごいですね」
「あなたの苗字の意味も調べました」
「え」
「明智、というのは、明らかな知恵、という意味ですね。良い名前だと思います」
信人は少し黙った。
「……ありがとうございます」
それだけしか言えなかった。でもそれで十分だった。
◇
ステージの上で、信人はマイクの前に立った。
会場には思ったより多くの人が集まっていた。
家族連れもいた。学生もいた。外国人の姿もあった。
信人は客席を見渡してから、話し始めた。
「一年前、私はこの仕事が嫌いでした」
正直に言うことにした。
「文化を渡す仕事も、受け取る仕事も、どちらも意味がわからなかった。でもこの一年で、少し変わりました」
客席が静かに聞いていた。
「文化は、持っている人間より、受け取った人間の方が価値に気づくことがある。これは、私より十歳年上の、ケニアの友人が教えてくれた言葉です」
袖でキプチョゲが頷いているのが見えた。
「私は侍文化が嫌いでした。でも一年かけて、フランスの同僚が外から侍文化を見ている姿を見て、初めて気づいたことがあります。文化とは何か、ではなく、なぜその文化が生まれたのかを考えること。それが文化を本当に持つということだと思います」
信人は少し間を置いた。
「世界文化共有協定は、強引でした。乱暴でした。誰も得しないように見えた。でも結果的に、世界中の人が自分の文化について考えた。受け取った文化について考えた。それはこれまでなかったことだと思います」
風が吹いた。
桜の花びらが、ステージの上を流れた。
「文化は戻りました。でも、この一年で人の心の中に生まれた何かは、戻りません。それが、世界をほんの少し、変えたと思っています」
◇
イベントが終わった後、十カ国の担当者たちは代々木公園の芝生の上で、思い思いに話していた。
カルロスがギターを持ってきていて、メキシコの曲を弾き始めた。
エリクがそれに合わせて、ノルウェーの民謡の節回しで口ずさんだ。
プリヤが笑いながらリズムを刻んだ。
キプチョゲが立ち上がった。
そして静かに、垂直に跳んだ。
一回。また一回。
誰も笑わなかった。
ただ見ていた。
やがてカルロスが跳んだ。
エリクが跳んだ。
プリヤが跳んだ。
信人も跳んだ。
全力で。
マリーが少し躊躇してから、跳んだ。
ヒールだったので着地がよろめいた。
信人は考えるより先に腕を出していた。
温かかった。
それだけのことなのに、信人は少し心拍が上がった。
マリーはその腕を掴んで、笑った。
「もう一回」
マリーは言った。
「靴が」
「もう一回」
二人で跳んだ。
東京の春の空に向かって。
◇
その夜遅く、信人は実家の父にメッセージを送った。
「今日、全力で跳んだ」
しばらくして返信が来た。
「そうか」
それだけだった。
でも信人にはわかった。
それで十分だった。




