序章24話 メシア
ヨハネの時を止めて、一体どのくらいの時間が経ったのだろうか。
一日目を終えた辺りで視力が消えた。力を絶えず使い続けるという疲労は、いつしか身が砕けるほどの苦痛へと変わり果てていた。
時を操作するはずのメシアが、時間の流れを正確に把握できないほどに。
「っすー、はっ、ぜ、はぁぁー、すぅー、はぁー」
呼吸をすることさえ辛い。一瞬でも気を抜こうものなら、必死に繋ぎ留めている意識が途端に途切れそうだった。
(ノアとエレノアは、今、どこで何をしているのかしら……救済は順調かしら)
こんな状況であっても、メシアが思い浮かべるのは二人の顔。
(エレノアは……子供とは思えないほどしっかりしていて、強い子だったわねぇ)
彼女が処刑されそうだったあの日、メシアはノアに「見捨てる」よう忠告していた。
あの時のメシアなりの考えがあったとはいえ、今思い返してみればありえない。
――助けての声から生まれたはずの君が、その声を無視するの?――
ノアに言われたこの言葉は、メシアの心をえぐるように響いていた。
(ノアに一度殺されてでも、価値なき子を助けたいと叫んだあの瞬間は、目を奪われるほど感動したわぁ)
エレノアと子供達の覚悟を見て、メシアは一人何もしていないことに恥を感じていた。
皆が闘っているのにと、焦りと寂しさを抱いていた。
だからこそ勝手にノアを助けに行ったし、そのあとの支配を浄化するため皆と一緒に闘ったことは、メシアの誇りとなっている。
決して忘れることのない。例えここで命が終わることになったとしても、だ。
(ノアは――ふふ、出会った時はあんなに取り乱していたのに、まさか貴方から口づけされるなんてね)
棺の中で眠っていた彼を、口づけで目覚めさせたことは、唇の感触を鮮明に思い出せるほど刻まれている。
(貴方は気持ちが昂ってしまったからって言っていたけど、実は、私もだったのよ?)
二巡目の世界が始まった当初、メシアは愕然としていた。
時を巻き戻したはいいものの、力の九割を使い切った自分ではヨハネの支配を突破できない。信仰心を得る方法も分からない。どうやったら人類を救えるのか、見当もつかなかったのだ。
故に、自分と同じ神の性質の気配を辿り、棺で眠っている神の子を発見した時は心が救われたかのようだった。
もうこの子しかいないと、まだノアは赤子だったから、将来成長した時のため支え続けようと決心した。目覚めるその日を今か今かと待ちわびていた。
(でも貴方ったら、十五年も眠り続けているんだもの……赤ちゃんから成長していたから仕方ないとはいえ、本当に寝坊助なんだから)
いつその日が来るともしれず、待ち続けた十五年は本当に長かった。
そしてあの夜は、それまでは身じろぎ一つしなかったのに、寝言を口にしながら何度か寝がえりを打っていた。やっと起きる! と予感するものの、三十分経っても目を覚ます気配がなく。
(口づけをしたら目を覚ます童話を思い出して、もうこれしかない! って気持ちが昂って、気付いた時には唇を重ねていたのよねぇ)
その結果、メシアは知った。
ノアはずっと長い夢を、一巡目の崩壊する世界を目の当たりにしていたことを。
(私と一緒に人類を助けてほしいって願った時、貴方が手を取ってくれたことがどれだけ嬉しかったか、貴方は知らないでしょう?)
メシアはあの時、断られたらどうしようかと不安だった。
人類を助けてほしいなんて、目覚めたばかりのノアには重すぎる願いだろうと。
でもノアは、迷うことなくメシアの手を取ってくれた。それが嬉しすぎて、あの瞬間メシアは、ノアならやってくれると、ノアなら信じて大丈夫だと確信していた。
(……そう、そうなのね)
過去を振り返っていると、メシアは気付く。
(これは、走馬灯なのね)
死がすぐそこまで迫っている。
(私は――)
メシアは自分に一つ問う。後悔はあるのかどうかと。
(後悔なんてない、そう言いたいけれど……でも、もし一つだけ、わがままを言っていいのなら)
人々の願いから生まれた神は、人々を助けようとするのは当たり前のこと。そのための唯一の鍵であるノアを支え続けていたのは当然のこと。
だけどそんな神としての使命を、役目を無視してもいいのなら、
(ノアと、エレノアと、皆と、もっと一緒にいたかったわぁ)
十五年もの間、メシアはずっと独りで過ごしてきた。
たったの三日間の日々が、皆と一緒に過ごすということが、これほど幸せを与えてくれるのだと初めて知った。
人の温もりを覚えた、だから人は営みを紡ぐのだと理解した。
――全てが終わった時に答えは聞かせて――
走馬灯の最期を飾ったのは、ノアと別れを告げた際の彼の言葉。
(ごめんね、ノア……貴方との約束は、果たせそうにないかも)
今まさに燃え尽きようとしている。命の灯が……。
――いいや、まだだ。
――まだ諦めるのは早い。
「ノ……ア」
別れる瞬間、彼は確かにこうも言っていた。
メシアを助ける方法も見つけて帰ってくると、必ずと。
ノアを信じない、わけがない。自分は他の誰よりも彼のことを信頼している、
それに何よりも、彼の理想は――
「……け、て」
残された力を振り絞って、メシアはその言葉を口にする。
「助けて……ノア……!」
縋るように伸ばした手。とうに感覚は消えかけていたが、それでも握り返してくれた彼の手の感触を、しっかりと捉えていた。
「ただいま、メシア」
聞き馴染んだ声が耳元から聞こえる。
(ああ――やっぱり)
彼の掲げる理想は、他のどんな理想よりも理想的だ。
初めて助けられる立場になったことで、メシアはより深く実感していた。
「おか、えり、ノア」
精一杯笑って返す。彼が今どんな顔をしているか見ることはできないが、自分と同じように笑ってくれているはず。
だって彼の声色は、希望に満ちていたのだから。
「聞こえたよ、君の、助けての声が」




