序章23話 「行ってきます」
――今まで、ありがとうね――
メシアの言葉を、何度も何度も頭の中で反芻する。
意味が分からなかった。どうしてこの場面でお礼が出てくるのか、今までとはどのような意図からなのか。
そして何よりも、満面の笑みから哀愁を感じさせられるのはなぜなのか。
「もう出てきていいわよ、エレノア」
メシアの呼びかけに、木陰に隠れていたエレノアが駆け寄ってくる。
エレノアも支配はされていないと一瞬だけ安堵するが、ノアは目の当たりにしてしまった。彼女は涙を流していることを。
その涙を見て、全てを察してしまった。
「メシア、まさか君は――!」
「もう、これしかないでしょう? ノア」
制止の言葉を投げかけようにも、もう遅い。
まるで命そのものを費やしているかのような、途方もない力の奔流がメシアから放たれる。
「きさ」
一国の王であろうとも、神に口をはさむことなど許されない。ヨハネと、ユダの時が、メシアによって止められていた。
「三日。それがヨハネの時を止め続けられる、私の限界よ」
「げん、かい……」
彼女の言う限界とは、単に魔力を使い切っての限界ではない。
命の終わり。メシアという神が消滅してしまう制限時間が、あと三日しかないのだ。
「その間に貴方達は王冠中を駆け巡って、今度こそ全国民の支配を浄化するの。私の力がなくても、数十万人の信仰心を得た貴方であれば、エレノアと二人なら問題ないはずよ」
「――――」
「だから行って、ノア、エレノア。これがヨハネ・ケトラルヒを倒せる唯一の方法だから」
「――――」
嫌だ、と、考えなしに喚きたてられれば、気はいささか紛れるだろう。
却下するのであれば、代わりの案を提示しなければいけない。しかし顔を見られた。拠点を、家を離れこの『王冠』のどこに逃げる。
メシアが告げた通り、ここで彼女がヨハネの時を止め続ける、その間に支配を浄化し全ての国民から信仰心を得る。『王冠』の王ヨハネ・ケトラルヒに勝つ手段はもう、これしか残されていないのも事実だった。
こうして躊躇している間にも、メシアは力を使い続けており、消滅の時は刻一刻と迫っている。
早く行かなくては。ヨハネ・ケトラルヒを倒したいのなら。
ただ分かってはいても、体が動かなかった。
ノアにとってメシアとは、一巡目の世界を救った理想の英雄であり、目覚めさせてくれた恩人であり、ずっと支えてくれた心の拠り所だ。
(メシア……僕は君を……)
失いたくない。三日で間に合わなければどうなる、仮に間に合ったとしても、メシアが消滅してしまったのならノアは……。
(ぁ……そう、なんだ)
メシアを失ってしまうことを本気で考え、ノアはあることに気付いた。
……気付いたところでもう、どうしようもないのだが。
「ノア様……メシア様……」
おろおろと、エレノアが二人の顔を交互に見上げている。
どうしたらいいのか、どんな言葉を投げかけたらいいのか……エレノアの心境が痛いほど伝わってきた。
(エレノア……)
ああ、そうだ。
決してノアとメシアだけの問題ではない。ノアの行動の結果にはエレノアや、子供達、支配されている国民の、全員の命運がかかっている。
迷ってもいい、躊躇してもいい。だけど、立ち止まることだけはあってはならない。
「大丈夫だよ、ありがとう」
いつものように頭を撫でると、「はい!」輝く太陽のような、彼女らしい笑顔を見せてくれた。
「ねえ、メシア。初めてノーベン・ヴェルジュに行った時のことを覚えてる?」
「……? ええ、まだ三日しか経っていないのね」
「もうずっと前のように感じられるよね」
クスリと、二人顔を見合わせて笑う。
「君と一緒に食べたクオルジュや、ブリュエールの味は今でも鮮明に覚えているよ。あれは本当に美味しかった」
「そうねぇ、また一緒に食べたいわね」
「絶対食べよう、今度は僕が奢るから」
「ノア……えっと、気持ちは嬉しいけど、貴方は働いているわけじゃないから、お金、まだ持っていないわよね?」
「そう、だけど……そこはなんとかするよ」
ヨハネとの決戦が終わったら、まずは日雇いの仕事でも見つけよう。ゆくゆくは正規で雇用してもらって、二人で生活できるように稼がなければ。
「あの日、僕は君から、信仰心を使い切ったらどうなるのかを聞いた。そのあと僕が言ったことは、覚えてる?」
「ええ……もちろん! 一言一句覚えているわ」
「そっか、じゃあ」
――君を助ける。その方法も、見つけてみせるから――
あの日ノアは確かにこう言った。
言ったからには実行せねば。一か月以内に、ではなく今から。
「この三日で僕は、ヨハネ・ケトラルヒを倒せるだけの力を手にして、君を助ける方法も見つけて帰ってくるよ。必ず」
「――ええ!」
断言すると、メシアの表情から哀愁が綺麗さっぱり消えていた。
彼女の為にも、そうと決まれば早く行動しなければ。
「それじゃあ、メシア」
「ノア、行ってら――」
破顔しながら手を振り、一時の別れを切り出そうとするメシア。
ノアは……自分の中で、何かが堪え切れなかった。「行ってらっしゃい」と動き出している唇を、唇で塞ぐ。
「――んむっ!?」
突然の口付けに、目を何度も大きく瞬かせ驚いている。
「へ……へふぇ?」
離れると、メシアの頬が朱に染まっていた。
「の……ノア? どうしたの急に、それにっ、こういうのは愛し合う者だけがする行為だから駄目だって、貴方から言ったはずじゃ……」
彼女の反応は、ただ驚いているだけじゃない。自分からは何度も口付けしてきたくせに、相手からされると照れが生じるようだ。
「……君を失うかもしれないって本気で考えて、僕は初めて気付いたんだ」
初めて目の当たりにする照れたメシアの反応に、ノアは心から愛おしさを覚えていた。
「どうやら僕はいつの間にか、君のことが好きになっていたみたいだ」
「えっ!? そ、そうなの?」
「うん。ただ……気持ちが昂ってしまったとはいえ、了承なく口付けしてしまったことについては、本当にごめん」
「ぁ、う、そ、それは別に、私もしてきたことだし、別に気にしてない……わ」
自分の人差し指をツンツンとつつき、もじもじとしているメシアは初めて見る。
気にしていないというのは本心なのか、気を使ってくれているだけなのか……。
聞きたいのは山々だが、キリがなくなる。
「全てが終わった時に答えは聞かせて」
「わ、わかったわ!」
メシアはコクコクと、力強く頷いている。
言いたいことを言いたい放題言い終えたノアは、よし、と気持ちを切り替えた。
「それじゃあ、一緒に行こうか、エレノア」
置いてけぼりにしてしまっていたエレノアに声をかけると、彼女はノアとメシアのやり取りを見ちゃいけないことだと判断したのか、両手で目を覆っていた。
……指の隙間から、しっかりと覗いてはいたが。
(エレノアの前で、口付けはやりすぎたか)
苦笑いを浮かべて、少しだけ反省する。
「は、はい、行きましょう、ノア様」
返事がつまり、気まずそうに視線も右往左往していた。次という機会が与えられたなら、今度は人目がないところですべきだろうと、ノアは一つ学びを得る。
自分の気持ちだけでなく、空気も切り替えるように咳払いをする。
そうしてノアは首を切り裂き、形態王国となって翼を生やした。
移動という一点においては、これが一番効率がいい。『王冠』中を駆け巡る準備をすると、メシアへと振り返り言う。
メシアの命が尽きる前に、必ず戻ってくるという覚悟を込めて。
「それじゃあ、行ってきます」
「ええ、行ってらっしゃい」




