序章22話 「今までありがとうね」
始まりは、いつもと変わらぬ朝だった。
ノアは寝起きが悪い。最悪と言っても過言ではないほどだ。放っておけば昼過ぎまで眠っているため、メシアが起こしに行くというのが日常になっていた。
「ほら、起きてノア」
昨夜ユースティスが用意してくれた、簡易的なテントの中でノアは眠っている。体を揺すられ目を開けると、ゆっくりと体を起こした。
「メシア……おはよう」
と言いつつも、言葉とは反して体が再び横になっていた。
「あ! 寝ちゃダメよ! もう皆朝食の用意を始めているのよ!?」
「うん……そうだね、僕も手伝わなきゃ」
「分かっているなら目を開けて! 口だけ動かさないで!」
「……あと」
「あと?」
「五分……十分……三十分だけ寝かせて」
「なんで増えるのよ! いいから早く起きなさい!!」
メシアに腕を引っ張られ、強制的にテントの外に引きずり出される。しかしそれでもノアは、強烈な眠気に抗えずにいた。
「エレノア!」
「はい! ノア様申し訳ありません!」
「ん……? 冷たっ!」
籠に入った冷水を顔面に浴びせられることで、ノアはようやく目を覚ました。
顔を振って水を飛ばすと、抗議の視線をメシアに向ける。
「力技にもほどがありすぎない?」
「すぐ起きない貴方が悪いのよ」
「それは……ごもっとも」
ぐうの音も出ない。明日こそはちゃんと起きようと決心する。
「メシアの言っていた通り、すぐに起きなかった僕が悪いんだから、気にしなくていいよエレノア。むしろ、起こしてくれてありがとうね」
彼女の中で大きな罪にでもなっているのだろうか、エレノアはずっと委縮していた。ふわりと笑うと、彼女はほっと一息つく。
「じゃあ僕は、魚か獣か……とにかく、タンパク質になるような食材を獲ってくるね」
「ええ、お願い」
ここにいる子供達は今や二十五人と、大所帯になってきた。ユースティスからの支援があるとはいえ、食料の消耗が激しい。
それに皆成長盛りだ。ノアは空腹を感じさせるわけにはいかないと、張り切って大型の獣を二頭狩って皆の元に戻る。
「皆もど……った、よ」
それはいつもと変わらない朝に思えた。
しかし日常の終わりは、既に目の前にまで迫っていた。
「皆……?」
昨夜から食卓となった、長机の周りの椅子に座っている。それだけなら日常の光景に過ぎないが、まるで電池の抜かれた機械のように、一点を見つめ微動だにしていなかった。
(まさか――)
この光景には見覚えがある。あれは確か、初めて乱入した処刑場の観客と同じだ。
ありえない、あってほしくないと沸き上がる絶望を無視しようとする。だがノアがいつも座っている席に、誰かがいる。
それが誰なのか、見て見ぬふりをするなどできなかった。
「ふっ。最後の晩餐は楽しめたか? 神の子ノアよ」
「――――」
「ふっ。はは! なんだその間抜けな顔は! ははは!」
「――な、ぜ……」
「ん?」
「なぜ、ここにいる……」
『王冠』の王、ヨハネ・ケトラルヒ。奴が襲来してくるなど、いくらなんでも、昨日の今日でこうなるなど、ノアは全く想定できていなかった。
脂汗が滲む。頭が真っ白になりかける。心臓の鼓動が一つ高鳴ったと思えば、止まりそうなほどの衝撃を受けていた。
「聞いたところで何になる……だがまあ、よかろう。無様なその間抜け顔を見せてくれた礼だ。教えてやる」
つまらなさそうに言う奴の言葉に、意識が強制的に現実へと戻される。
ヨハネは指を鳴らすと、示し合わせたかのように森の中からその人物は現れた。
「貴様らの中に、私の伝者が紛れていた……つまらん種明かしだ。なあ、ユダ」
ユダと呼ばれた――ユースティス・ダリアン――は、ヨハネの背後に控えうやうやしく一礼をしていた。
「ユースティス、さん……」
ヨハネに従う彼の姿を見て、なぜヨハネがここに現れたのか答えは示されたのだが……それでもノアは信じられなかった。
「なぜ、あなたが」
「これが私の役目だからです、ノア殿」
ゾッと背筋が凍るような、返ってきたのは冷たい回答。
昨日までとは別人すぎるユースティスの姿に、ノアはまさかとヨハネを見やる。
奴に支配されているから、だからこうなっているのだと、ノアは初めて〝支配されているから〟という理由付けを望んでいた。
「ふっ。こやつはもう、支配されてなどおらんよ。他ならぬ自らの意思で、貴様らの情報を私に流したのだ」
なあ? とヨハネはユースティスを流し見る。
ユースティスは無表情のまま顎を引いて、
「私は元々、他国の情報を集めヨハネ王に流すスパイでした」
「…………」
「価値なき子を貴方は助ける。であれば、価値なき子の父としてなら貴方の懐に潜り込めるはず。娘を価値なき子に仕立て上げた、それがヨハネ王から受けた命令です」
「…………」
「支配を浄化されたあとも、その役目は私に刻まれたままでした。だから私は、私の役目を果たしたまでです」
「…………」
一つだけ、とノアは呟いた――つもりだった。
口だけが動いただけ。言葉になっていなかった。
唾を呑み込み、震えながら訊ねる。
「一つだけ、聞かせてほしい。貴方は騎士の攻撃から、ユリエルを守ったと聞いた……あの行動は……」
「貴方から信用を得るため。ただそれだけです」
「――――」
どれだけ認められなくても、どれほど否定したくとも、もう、受け入れるしかなかった。
ユースティスは――否、ユダは、最初からヨハネの側についており、決定的にノアの敵だったということを。
そして、何よりも、
「ふっ。質問はこれで終わりか? なら、もういいな?」
――『王冠』の王ヨハネ・ケトラルヒとの、決戦の火蓋が切って落とされようとしているのを――
「よくないわよ、全然。これっぽっちもよくないわ」
その時聞こえた彼女の声は、まさしく救世主のそれだった。
「二人で勝手に盛り上がらないでほしいわね」
「メシア……!」
ユダからの裏切りを受けた今、最も信頼する人物の登場に、ノアは心が救われるかのような思いだった。
メシアはヨハネと対峙するように、もはや定位置となったノアの横に並ぶ。
「ノア」
続けて彼女はこう告げた。いつもと変わらぬ、満面の笑みを浮かべて。
「今まで、ありがとうね」




