第二章/第五話「wildly unreliable」
昨日の図書館では失敗した。あれから二人で本を読んで好きな本の話をして、いい本を探した。けれどノアは何も借りて帰らなかった。いつものように気になった本の題名をメモすることもなかった。
けれど収穫もあった。俺はノアの悩みのヒントを掴んだ。
ノアには悩みがある、それは家庭内の問題だ。家族が好きでよく兄弟の話をするノアがこの間、一度も家族の話をしていない。もちろん悩んでいると聞いたわけではない、落ち着いて考えてやっと見つけられたヒントだ。
図書館で学校の話を少しした。その時のノアに変化はなかった。
図書館であの音が聞こえたのは一回だけ、それも声を遮らない音量で意識していなければ気づかないようなものだった。音がしたのもノアが本棚を見ていた一瞬だけのことだった。
問題は、家庭内の問題だとしてそれが自分に解決できるものであるかどうかだ。他人の家庭の問題に踏み込むことにいい気はしない。俺は兄貴のことを友人に聞かれても無視を決め込んでいた。誰にも何も言われたくなかった。ノアに対して聞くことすら憚られる。それに、もし俺の想像の範疇を超える問題だった時どうすればいいのかわからない。
俺は大学生になってなお、何も知らないガキだ。
ただ、放っておくこともできない。
会長様の“数学”と書かれた日記を抱きしめる。こうやって会長様がカモフラージュしてやっと書き出せたこの日記があるおかげで、逃げずに向き合える。
俺はノアとの約束の時間までずっと日記に触れていた。
15時半、ノアとの約束のために最寄り駅に向かった。少し早く出てしまったからノアの自宅がある方へ寄り道をする。連絡はしていないが、ノアは俺より駅が近いからまだ家にいるかもしれない。たまたま合流できればいいし、もし家にいるのなら迎えに行って一緒に駅に向かおうと考えた。一応、早く着いたと連絡を入れる。
住宅街を、記憶を頼りにしながら歩いていく。俺はすぐにノアの家を見つけられた。やっぱり少し早く家を出すぎた。ノアにもう一度、連絡を入れる。
チャイムを鳴らすのは急かすようで気が引ける。携帯をいじりながらノアの家の前で待っていると突然、怒号が聞こえた。
“貴方が出て行けば、それでこの子たちはどうなるの”という女性の声に“Well, I guess I will manage it somehow”と女性より少し落ち着いた男性の声が聞こえる。それはノアよりも低い声だった。男性の言った、まあなんとかするという言い訳が女性を更に苛立たせたらしく、ノアの住んでいる青い屋根の綺麗な一軒家から似合わない怒号が聞こえ続ける。
内容に唖然とした。たまに方言のような英語が混じるので訳しづらいが、この男女は離婚の話をしている。“ノアのことはどうするの、解決してあげないの“という言葉が耳に残る。ノアは、悩みを家族に相談しているのだろうか。このことがノアの悩みなのだろうか。
その喧嘩のような怒鳴り合いは続く、何とか出来るだけ意味を追いながら聞いているとノアの声が聞こえた。男女より小さな声だったが、“wildly unreliable”という単語だけを何とか聞き取る。多分、当てにならないという意味だったなと理解した直後、早口な言葉で男女両方が怒鳴った。ガラスのようなものが割れる音がする。ドン、という鈍い音もした。途端、ノアの電子音が頭に流れ込む。爆音のそれに吐き気を催した。急いでお茶を取り出して、口に流し込んでどうにかする。繰り返されるその英語は、耳を刺すような電子音のままとても長く続いた。
その音が止んで少し経ってから俺の携帯が鳴った。急いで家から離れて電話に出るとノアがいつも通りの声で、今日は少し遅れるから近くのファミレスかカフェで話さないか?と言うので、俺のほうが声を震わせながら“わかった、カフェで課題でもして待っているよ”と返した。
ノアがやってきたのは19時前だった。悪い悪いと言いながら手を合わせるノアはさっきとは違って日本語を話している。頭がくらくらした。
席に着いて少ししてから、俺の口数は減っていたらしく静かだとノアに心配された。俺は頼んだカフェオレを一口飲んで、首を横に振った。心配そうな表情はわかるのに、酷い電子音でその言葉が何度も頭に無理やり流し込まれてどうしようもなくて、首を横に振るのが限界だった。ずっとあの音が流れている感覚が耳に残って離れないのだ。意識が何度か遠のいた。
それから、お互い上の空で他愛ない話をした。会話もかみ合ってなかっただろう、横の席でドーナツを食べている女性が気味悪そうに見ていた。
そんな中、ノアがコーヒーを一口飲んでため息を付いた。
「なぁ、ぬぎやま。ぬぎやまは聞いてしまったか」
その言葉は、さっきの声みたく遮られずに聞こえた。意地悪い耳だ。
「カーテンの隙間から、服が見えたよ……」
唾をのんだ。
「盗み聞きする気はなかった」
「ああ、わかっているよ。ぬぎやまはそんなやつじゃない。迎えに来てくれたのだろう、悪かった。嫌な気分に」
これ以上、ノアの謝罪が聞きたくなくて切り出した。
「いい。ノア、俺に相談してみないか」
「そう、だね。そうしてみようかな」
ノアには回り道したって辿り着けないことを思い出した。ずっと素直な言葉でノアとは関わってきた。このやり方しかない、これがチャンスだと思わなければならない。
俺があの荒げられた声に怯むわけにいかない。あの怒号からノアを守らなければならない。
迷わず、まっすぐにノアに問う。曲げずに返してくれることを信じる。




