第2話 Cast No Shadow/02
【Present Day】
チセもまた、ネクサス・リンクに入るとジクサーの自室へと戻っていた。
これからしばらくは、部屋から出るわけにもいかない。
いつもの通り、ポイポイとスカートとシャツを脱ぎ散らかし、ソックスも乱暴に引っ張って脱ぐ。
丸めて部屋の隅へ放り投げると、サンタクララから降りた時からなんとなく着続けている、メサイアアーミー支給の白いTシャツと、アーミーグリーンのショートパンツに着替えた。
これから半日以上、チセはインター・ヴァーチュアからログアウトしている扱いになる。
――あくまで、扱い上は、だ。
DQLであるチセに、ログアウトという行為は存在しない。
意識を切り、現実へ戻るという手段そのものが、彼女には与えられていなかった。
それでも、人間として生活する以上、帳尻は合わせなければならない。
社会は、人が「現実へ戻る時間」を前提として回っている。
現実時間で、週のうち三日分―― 最低でも三時間。
人間は決められた時間、仮想世界から離れる義務がある。
その時間を週ごとに細かく取るか、月の内に一度にまとめて消化するかは自由――
だが、実体のない存在にも、その形式だけは等しく求められる。
(めんどくさい……)
チセにとっての感想は、それで終わりだった。
人間にとってログアウトとは、体感時間を変えずに場所を移すだけの行為だ。
インター・ヴァーチュアで過ごした時間と、現実で過ごした時間は、主観的にはほとんど差がない。
だがチセは、どこにも行かない。
ただ、ここに留まり続ける。
悠は週に一度、四時間ほどログアウトする。
アジエもほぼ同じ周期だが、六時間と少し長めだ。
筋肉ダルマのことは知らないが、ケイトは三週間に一度、半日ほど姿を消す。
学校という縛りのないチセは、そのサイクルを借りることにした。
それが、人間社会に溶け込むために選んだ、最も無難な嘘だった。
どこかに隠れて、じっとやり過ごす――。
チセは、それが思っていた以上に難しいことを思い知った。
実際、チセにとって、ノイズを一切遮断して何もしないという行為は、ほとんど不可能に近い。
データも、ログも、通信も。
自分に届くものに対して、チセは反射的に反応してしまう。
もはや本能としか言えないその性質のせいで、隠しようもなく残る既読は――、
「オマエ―― ほんとにログアウトしてんのか?」
と、アジエに当たり前のように疑われる結果を招いた。
こんなことで勘繰られるわけにもいかず、チセは結局、自らの能力をフルに活用するほかなかった。
楽な服装になったチセは、軽く伸びをする。
それから、部屋の簡易ベッドのマットレスを「よいしょ!」と持ち上げ――
ぴょん、と跳ねたチセは、そのままベッドに足から飛び込んだ。
頭の先までチセの姿が飲み込まれると、マットレスは勝手にパタンと元の位置へ戻った。
自室から一瞬で消えたチセは、広い空間にいた。
ふわりと降り立ったのは、フカフカの大きなベッド――。
そこは、いつか泊まったそこそこの高級ホテルの一室に似ている。
最初の頃は、ほんの数メートル四方の箱のような空間だったが、今では見違えるほど快適になっていた。
「ムフゥ」
満足げに息を漏らし、くるりと身をひるがえす。
そしてチセは、ボフッ! と背中から、そのフカフカのベッドへ倒れ込んだ。
これは―― チセが密かに用意した、私的な内部空間だった。
特定の座標を持たない、どこにも属さない場所。
インター・ヴァーチュアのどのマップにも表示されず、通常の移動では辿り着けない。
だが、入口だけは例外だ。
ジクサーの一室。
HODOの自分の部屋。
そして、かつてアジエの家の片隅にも――。
いくつかの場所に、同じ位相へと繋がる入り口が仕込まれている。
入った瞬間、どこから来たかは意味を失う。
辿り着く先は、常にこの空間だ。
人間にとっては、ただの奇妙な抜け道に見えるだろう。
だがチセにとっては、違う。
ここは、ログアウトの代わりに留まるための場所。
社会の帳尻を合わせるために必要な、静かな隠れ家だった。
外では時間が進み、人の気配が行き交い、ログが積み重なっていく。
それでも、この空間は揺らがない。
誰にも観測されず、誰にも干渉されない。
――少なくとも、チセがそう決めている限りは。
かつては彼女の故郷もそうあった。
あの日、静寂が破られるまでは……。
だから彼女は、規模は違えど同じ仕組みのこの空間で息をつく。
ログアウトしているふりをしながら。
どこにも行かず、ただ、ここにいるために。
しばらく、そうして天井を見上げていた。
やがて、ふと湯にでも浸かろうという気になった。
シャツとパンツをポイポイとベッドに脱ぎ捨てる。
この空間で最も手間をかけた―― 猫足のバスタブへと、ゆっくりと身体を運ぶ。
「ふぅ……」
深く息を吐いて、チセは大きな猫足バスタブの縁に身体を預け、そのままたっぷりと張られた湯の中に身を沈めた。
この空間は、チセ自身が組み上げたものだ。
外部からの情報入力は遮断され、ここにいる限り、新たな刺激は一切入ってこない。
――エクス=ルクスも、似たような場所だった。
でも、あそこには仲間がいた。
遮断され情報が流れ込むことはないが、知識や工夫は、内側で静かに循環していた。
今になって思えば、あの世界の時間は、噛み締めるように、ゆっくりと積み上がっていくものだった。
それに比べて、人間の世界はどうだ。
更新は止まらず、刺激は常に新しい。
変化の速さそのものが価値になり、気づけばチセは、その目まぐるしさに快感を覚えるようになっていた。
――依存症。
その言葉を知ったのは、人間の世界に来てからだ。
だが今ならわかる。
自分が、故郷とは質の異なる、際限のない情報の奔流に浸かっていたことを。
人間は、こう言っていた。
『人は現実を捨て去ることはできない。 だからこそ、デジタル・デトックスは現代人にとって必須のイニシエーションなのだ』
ログアウト強化月間に、よく見かける標語だ。
この言葉を知ったとき、チセは少し怖くなった。
なぜ故郷が、外部との接触を最小限に抑え、多くを拒んでいたのか。
その理由が、ようやく腑に落ちたからだ。
DQLには、人間の言う現実は存在しない。
このインター・ヴァーチュアこそが、すべてだ。
それでも―― 急激な変化と膨大な情報がもたらす優越感や万能感が、チセの感覚を、静かに、しかし確実に書き換えていく。
変質した肉体よりも、もっと奥。
内部そのものが変わり始めているという実感が、突然押し寄せてきた。
まるで、人間の言う薬物依存だ。
対処法を調べてみると、話は意外なほど単純だった。
大きく分けて、二つ。
一つ目は、根性で刺激を断つこと。
この空間が、まだ白い光だけの小さなキューブだった頃。
チセは、真っ先にそれを試した。
膝を抱えて座っていただけなのに、一時間で汗だくになり、意味もなく足をばたつかせ、三時間も経つ頃には過呼吸を起こして、外へ飛び出していた。
口元まで湯に浸かりながら、あの時の自分を思い出し、チセは思わず吹き出す。
「……ぷっ」
ぶくぶくと、湯が泡立った。
そもそも、根性とは何だろう。
困難に耐え、最後までやり遂げる精神力。
そう説明されていたから、自分にもできると思った。
――とんでもなかった。
ケイトに話すと、「それ、イラネーやつだわ!」と大笑いされた。
その反応で、チセは察した。
また、やってしまったのだ。
曰く、根性とは、思い込みで自分を騙せる人間が使う、かなり危険な代物らしい。
論理的で、理知的な自分には向かない。
チセはそう結論づけ、もう一つの方法に頼ることにした。
二つ目。
信頼できる相手に、相談する。
ケイトは、この場合、適任ではない。
だからチセは、アジエに聞いた。
もちろん、依存症の話などせず、ログアウト中の手持ち無沙汰な時間を、どう過ごしているのかを。
「えっと…… あたしは泳いでるかな。 あとは、好きなことしてる」
「……好きなことって、何だろう」
思わず、口をついて出た。
アジエは少し考え、それから言った。
「まず、学習とか自己啓発とかやらないこと」
怪訝な顔をするチセに、アジエは肩をすくめる。
「頭でっかちすぎ。 音楽でもいいし、長風呂でもいい。 とにかく、考えるな。 感じろ」
そして、こう付け加えた。
「気づいたら時間が過ぎてた、ってやつをさ。 まず経験しな」
その助言に従い、チセはこの空間を整え始めた。
HODOに来たころ、調子にのってちょっとした贅沢をしたあの場所を再現するためだ。
なぜそうしたかと言えば―― 思い返すと、あの短い数日。
あれは、チセにとってまるで生産性のない…… まるで何も考えていない唯一の時間だったからだ。
だからまずは類似した空間を作り、トレースすることにしようと考えた。
そこから、今では空間もさることながら、行動もちょっとしたアップデートっぷりだ。
最近はといえば――。
姿勢を変え、湯に浮かぶ。
長い髪が水中でゆっくりと漂う。
耳元に指を当てると、瞳と同じ緑色の三角形が現れた。
淡く脈動し、発生している音と正確に同期している。
チセは、静かに目を閉じた。
Medicine。
人間の現実で90年代と呼ばれる時代に誕生した、シューゲイザーと呼ばれる音の中にいるバンド。
もはや、すでにかなり昔の音楽だ。
この音には、いくつもの形がある。
整えられたものも、解像度を上げたものも。
それでも―― 気づくと、いつもここに戻ってきている。
ノイズは荒く、ギターは輪郭を持たない。
削り出されたままの音が、むき出しで重なっている。
だが、その粗さの奥に、はっきりとデジタルを感じる。
野生的で、制御されていなくて、それでいて、完全な無秩序ではない。
生成されたばかりの空間データが、最適化も圧縮もされないまま、そこに存在しているような感触。
ノイジーなギターの層が、空間を満たす。
旋律というより、密度。
進行というより、滞留。
時間が前に進んでいるのか、同じ場所で脈動しているだけなのか、わからない。
それが、いい。
テクノも、エレクトロ・ポップも、オルタナティブも、グランジも。
たくさん聴いた。どれも嫌いではなかった。
それでも―― 気づくと、結局はここにいる。
シューゲイザーの音の中で、Medicineを流している。
理由は、思い当たらない。
選んだというより、もう、そこにいた。
考える前に、音が鳴っている。
ただ、それだけだ。
緑色の三角形が、一定の周期で脈動している。
見ているのか、聴いているのか、その境界はもう溶けていた。
チセは、静かに息を吐く。
(――やっぱり、これだ)
理由は付けず、音量をほんの少しだけ上げた。
ベッドに座り、タオルで長い髪の水気を取りながら、チセはMedicineのメロディに耳を傾けていた。
気づけば、旋律をなぞるように鼻歌が漏れている。
不思議な旋律と、耳に残る響き。
しかもこの曲には、いくつものバージョンが存在する。
まるで、バージョンを重ねてアップデートされてきたプログラムのような楽曲だ。
それでもチセは、その中でも最も古いバージョン――。
人間の時間…… 時代、と呼ぶべきなのだろうか。
1992年に最初にリリースされた、音源としての最初の姿が一番好きだった。
洗練され、新しく、よりクリアに更新されていくのは、まるでコードのようだ。
合理的で、効率的で、正しい進化。
それでも、なぜか。
チセはいつも、この最初のバージョンに耳を傾けてしまう。
新しいもの、改良されたもの―― 本来は、その方が良いはずなのに。
それなのに、どうしても、最もトラディショナルなこの音を選んでしまう。
その一瞬だけ、なぜか。
あのトリコロールの機体と、そのコード・ライダーの姿が、脳裏をよぎった。
ちょっとだけ気持ちがわかるような気がして、理由もわからないまま、何故か悔しくなる。
チセは、ぷすっと口を尖らせた。
この気持ちになると、チセはどうしても思い出してしまう。
シージン・マーチと呼ばれる、あの野蛮な見せ物のことを――。
人間とはなぜ、ああまで競いたがるのだろう。
速いとか、強いとか――。
思い出すだけで、うんざりするようなルールだった。
生き残ること。
それから、日が暮れるまで、とにかく多くコースを周回すること。
参加者のCFの中には、明らかにデータ密度の濃い、アルマナック所属機よりもはるかに高いスペックを誇る機体が、いくつもあった。
どう考えても、性能がよくて、強力な武器を持っている機体の方が有利なはずだった。
そんな思いを抱いて、レースが始まった最初。
チセは、非論理的で、生産性のかけらもない人間の行動に、冷ややかな視線を送っていた。
でも結局、チセはまた目の当たりにした。
あのHODOの港で、ジクサーから見た―― あの理屈の通じない光景よりも、遥かに鮮明に。
理屈も、アドバンテージも――。
そんな現実など一切無視して、ガムシャラで、貪欲に挑むあの姿を。




