第9話 彼と彼女ー女の事情/07 がんばれ
【Flashback】
出だしは、そんな醒めた目で眺めていた。
だが、違和感を覚えたのは、それから間もなくだった。
(無駄だなぁ。 飽きもせず、よくやるわ)
最初にパイロンを吹き飛ばしてからも、条件を変える様子はない。
明らかに失敗するだろうスピードのまま、何度もパイロンへ突っ込んでいく。
同じ行動を繰り返したあと、几帳面にパイロンを並べ直し終えた、その時だった。
また突っ込むのかと思った――。
が、違った。
間を取ったのだ。
まただ。
ズンッと、空気の重さが変わったような感覚。
まるで、エイプに周囲の空気が吸い寄せられていくような――。
思わず、パイロットシートに座る九能悠の顔へ視線が向いた。
胸の奥が、キュッと締めつけられる。
前方を見据えるその表情は、静かだった。
だが、穏やかとは違う。
近づけば切り裂かれそうな、鋭い眼差し。
柳橋の凶暴さとは別物だ。
あれは恐怖。
これは―― 飲み込まれそうな感覚。
ドンッ、とエイプのアイドリング音が一段大きくなる。
耳に届く音の周波数も、力の密度も、明らかに違っていた。
わたしは視点を切り替えた。
人の視覚情報ではなく、データとして世界を見る。
(……何よ…… あれ?)
エイプから―― いや、胸に乗り込むパイロットを包むように、コード・ベースの干渉波が立ち上がっている。
空中と地面を貫くように、まっすぐ、ゆらゆらと。
人間の視覚には映らないほど微弱だが、動く前から発生する干渉――。
そんなことがあるのか?
ドルルルッ、と駆動音。
アクセルに合わせ、機体を貫く干渉光が太くなっていく。
データのまま見るのが怖くなり、視点を人間側へ戻した。
数度の空吹かし。
そして、一際大きな音と同時に――。
エイプは、大地を蹴るように前へ飛び出した。
さっきとは比べものにならない速度。
あんなスピード――。
パイロンどころか、どこかに突っ込む。
ブレーキの気配は、ない。
思わず両手で口を覆った。
エイプが、速度ごと宙へ弾けたように見えた。
次の瞬間―― 四肢が路面を蹴り上げる。
水たまりを跳ね散らすような、眩しい霓虹の干渉光が舞った。
スローモーションのように、脚が空中で回転する。
地面と平行になった肩から、身体がしなり、捻り込まれる。
腕が地面を突き、軸が弾む。
パイロンの、ぎりぎり手前。
エイプは再び霓虹を撒き散らしながら着地した。
「……曲がったんじゃない」
覆ったままの口から、言葉がこぼれる。
「――捻った?」
――
そこからずっと、悠というコード・ライダーの駆るエイプを見ていた。
悠はパイロンをいくつかのセクションに分けて配置していた。
最初の直角コーナーなど、ほんの序盤にすぎない。
円を描くように並べられた箇所、十字方向に等間隔の配置、徐々に間隔が狭まる構成――。
一つを越えれば次へ、失敗すれば最初から。
延々とそれを繰り返していた。
しかも、そのすべてが、わたしの演算の範疇外だった。
既知のCF運用理論では、激突を避けられない速度と角度ばかりだ。
成功しない、という結果しか導けないはずなのに……。
それでも悠は、破綻した挑戦を重ね、ひとつずつ達成していった。
機体の背中が路面に触れそうなほど反らし――。
拳を路面に叩きつけ、そこを支点にドーナッツ状に回転し――。
肩から転がるように旋回しながら、空中へと舞い上がる。
わたしの演算では、予測不能な動きだった。
コード・ベース特有の空間演算への介入で、本来存在しない足場や抵抗、摩擦のキャンセルを生み出していることはわかる。
だがそれは、ただの機能使用ではなかった。
出力は一点に集中し、そこから予期しないベクトルとトルクが立ち上がる。
(――綺麗な螺旋――)
そう感じた瞬間、九能悠の横顔が網膜に焼き付いた。
トクン、と胸の奥で何かが鳴った。
心臓という臓器が反応した?
恐怖や不安の時とは違う。走るのではなく、打つような高鳴り。
その瞬間から、わたしは動きではなく、悠という人間そのものから目を離せなくなっていた。
虚空を射抜くような鋭い眼差し。
固く結ばれた口元から、細く強い息が吐き出される。
ジクサーのハンガーで見た、情けない顔の少年とは別人だった。
またパイロンを跳ね飛ばし、挑戦は失敗に終わる。
膝をつくエイプの上で、悠は肩で息をしていた。
数秒後、顔を上げ、両手で自分の頬をバチンと打つ。
ここまで聞こえるほどの音だった。
手を下ろしたその目は、鋭く光っていた。
「……が…… がんばれ……」
胸の前で両手を組み、わたしはそう呟いていた。
次の瞬間、端末の呼び出し音が鳴った。
アジエからだ。
慌てて応答し、五回目のコールでようやく繋がる。
悠がエイプの上で辺りを見回しているのが視界に入った。
(ふー、アブナイ、アブナイ……)
手のひらのディスプレイに、アジエが映る。
ガウンを羽織った下着姿に、今日は赤いセルのメガネ。
アジエがメガネをかけている姿を初めて見る。
けっこう似合っていて、少し意外だった。
「えっと、何?」
ぶっきらぼうになった声に、アジエの表情が曇る。
「えっとじゃねーよ。 オマエ、何時だと思ってんだ。 まだジクサーなの?」
「う、うん。 そう」
時計は21:30。
二時間近く、ここで見続けていたらしい。
風が頬を撫で、光の飛沫が視界を横切る。
悠が、次の挑戦を始めていた。
「ちょっと、チセ。 あんた何処にいんの?」
「んっ? えっと、ジクサーだよ」
「いや、だからジクサーの何処よ? あんたそこ外でしょ?」
「あっ…… その…… 気分転換で……」
金属音が擦れる。
視線は自然と、再びエイプへ。
左右にカウンターを当て、滑るように円を抜ける。
さっきの配置を、越えた。
次は、最後――。
放射状に狭まる扇形配置。
悠は減速せず、そのまま突っ込んでいく。
機体を沈め、低重心で一段目、二段目を抜ける。
「あっ! おっ……」
あと三段。
だが次の瞬間、エイプの腕が三段目の赤いレーザーに触れた。
「あっ…… あーっ……」
失敗だ。
悠は機体を止め、天を仰ぐ。
「あんた、ほんとは何してんの?」
「えっ? あ、いや……えっと…… ちょっと、気分転換」
「だからさ、何処でさ?」
「うーんと。 アタックラムの、上のとこ……」
「えぇ? あっこの見張り台? あんた、そんなとこよく見つけたね……」
「散歩してたら見つけたんだ。 ここからの景色、結構好きなんだ」
「ふーん……」
嘘ではない。
ただ、全部は言っていないだけだ。
「で、あんたさ、いつ帰るの?」
「あっ……。 うんと、キリのいいとこまでやりたいし、遅くなると思う」
見届けずにはいられない。
悠はまた、スタート地点へ戻っていく。
「オーケー。 遅くなるなら、スミーに送ってもらえよ」
「わかった……」
「はぁー。 あんま、遅くなんなよ。 もう切るよ」
「あー。 うん」
正直、反射的に返事をしていただけだった。
言われたことの半分も頭に入ってはいないが、どうやらもういいらしい。
わたしはすぐに、コールを終了した。
それから間もなく、悠はパイロンコースを制覇した。
結局、四時間近くも見続けていたことになる。
すべてを終え、エイプから降りた悠の眼光は消えていた。
そこにあったのは、無邪気に跳ねる、眩しい笑顔だった。
【Present Day】
苛立ち、鼓動、そして胸を撃ち抜くような温かさ。
そのすべてが、一度に押し寄せる。
(や、やっぱり言えない―― よくわからないけど、無理だ――)
頬が熱い。
振り返ったアジエが、不思議そうに見ている。
「ちょっと、顔赤いよ? 具合でも悪い?」
「大丈夫、なんでもない――。 いこう」
「オイオイ! なんだっ! あぶねって!」
チセは下を向いたまま、アジエの背中を両手で押した。




