第9話 彼と彼女ー女の事情/05 オベントウ
【Flashback】
検証終了――。
私は残ったログと結果の仕分けルーチンを走らせた。
テーブルの冷えたマグカップを手に取る。
半分以上残るコーヒーの表面に、わずかな波が立つ。
どうやら、手が震えている。
「Damn it…… やりすぎだ、これは」
両手でカップを支え、コーヒーを啜る。
冷めた酸味が広がり、少しだけ落ち着きを取り戻す。
とはいえ、確認してしまった事実は重い。
学者の端くれとして、見た以上は認めざるを得ない。
都合の悪い結果を黙殺できるほど、私は器用じゃない。
都合が悪い?
いや―― 違う。
これは革新的な発明だ。
だが、外に出せば厄介だ。
インター・ヴァーチュアの利権で生きる連中の神経を逆撫でする。
理解できる者は独占を狙い、できない者は消そうとするだろう。
結局、私たちには都合が悪いか……。
本来の想定は、せいぜいコード・ユニットの過処理機構だった。
CFやライナーの性能向上装置――。
かつてのエンジンのターボやスーパーチャージャー程度のつもりだった。
確かに、空間の観測確定移動に追加の距離や干渉を与える発想ではあった。
だが――。
「そもそも、そこかー……」
顔を覆う。
私のやったことは、チセが何気なくやったことの劣化版だ。
チセは、リアルタイムで自分自身を処理に接続した。
知覚の許す限り、処理してしまう。
使い手のスペックに依存する――。
それが、この処理の本来の姿だ。
私はそこに制限を与え、均一化した。
使い手を始点と終点に落とし込み、結果として機体出力依存にした。
道具としての在り方としてはこちらのほうが正しい。
像は結んだ。
O_modelは、あの瞬間に近い演算を再現した。
だが、違う。
チセがやったのは再現じゃない。
もっと―― 本人にしかできない何かだ。
私は、それを理解できていない。
「……本当に、わかってない」
ログは消え、データも失われ、式だけが残った。
組み直しても、あの瞬間は掴めない。
できるのは仮定だけだ。
過去ではなく、未来からああだったはずのOを代入する。
それで世界が動くなら。
それがチセの感覚に由来するなら。
――危険だ。
あの娘が、どこか他所で、誰かに使われたら。
知らない場所で、同じことをしたら。
「……手元に、置いておくしかないか」
才能への期待でも、育成でもない。
ただ、目を離せない――。
それだけの理由だ。
【Present Day】
目を離せないと感じるチセの才能――。
その正体を、アジエはいまだ測りかねている。
コーディングの速度と精度は、出会った頃からアジエ自身を上回っていた。
しかもそれは、単なる実装能力ではなく、情報処理を含む情報科学・計算機科学全般において、専門家と呼んで差し支えない水準の知識に裏打ちされたものだ。
さらに言えば、物理学――。
とりわけ光工学に関しては、専門教育を受けていなければ説明がつかない理解度だ。
孤児だったというバックボーン自体に無理があるのは承知しているが、そこを掘り下げる気はない。
(知識も異常だが、それ以前に天然すぎて意味わかんねぇ)
天然――。
アジエの感覚で言語化できる限界が、その言葉だった。
本来、専門知識というものは分野ごとに学び、蓄積し、必要に応じて切り替えて使う。
アジエ自身もそうだ。
その切り替えには、ほんのわずかなラグが生じる。
それが「使い分けている」という感覚だ。
だが、チセにはその境目がない。
複数の知識や技術が、分解されることなく一続きの感覚として扱われている――。
そんな印象を受ける。
それを言語化できないこと自体が、学者としてのアジエのジレンマであり、同時にチセに対して過保護にならざるを得ない理由でもあった。
――
そんなチセが、狭いトンネルを中腰のまま進み、壁に手をついて坑口から身を滑らせる。
白い光に瞬きをひとつ。
首を左へ、顎を上げる――。
壁に背を預け、アジエがこちらを見下ろしていた。
「こんなとこで、なにしてたんだよ、お前」
目深にかぶったキャップの下から向けられる鋭い視線。
褐色の肌に映える切れ長の目は、やはりチセに黒豹を連想させる。
「気分悪くなったから、風に当たってた」
「気分ねぇ…… 風に当たるなら他にも場所あるだろ。 なんで、わざわざここなわけよ?」
「一人になれるから」
嘘はついていない。
ただ、全部は言えなかった――。
それが、いつものチセとアジエの距離感だ。
アジエは一定の距離を保ち、決して深く踏み込んでこない。
出会った当初、身を守るために混ぜたデタラメな嘘は、今も尾を引いている。
後ろめたさと、誤魔化し続ける煩わしさが、胸の奥に残っていた。
正直、最近はアジエになら話してしまってもいいのではないか、と思うこともある。
しかし――。
「ふーん。 まっ、いいわ」
言葉とは裏腹に、アジエの視線は逸れない。
――あんた、何者だよ?
そう言われた気がして、チセは思わず目を逸らした。
この視線に射抜かれると、心が縮こまる。
開きかけた扉を閉め、再び警戒という鍵をかけてしまう。
アジエは視線を外し、「よっと!」という軽い掛け声とともに壁から背を離した。
「……そのうちさ。 気が向いたらでいいから、なんでそこが好きになったのか、今度教えてくれよ」
「……あれ?」
違和感が胸に残った。
いつもなら「まっ、いいわ」で終わるはずなのに。
ふとアジエを目で追うと、そこにはいつもの、チセがついていく背中があった。
なんでここが好きになったのか――。
そのくらいなら、話してもいいのかもしれない。
アジエの背を追いながら、チセはあの日のことを思い出していた。
チセの脳裏に、この場所を見つけた頃の記憶が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
【Flashback】
あぐっとわたしは、アジエに渡されたオベントウというものにかぶりついた。
「んー」
柔らかいパンのあとに、サクサクとした衣とジューシーな肉、濃いソースの味が広がる。
一緒に挟まれたキャベツが、後味を不思議なほど軽くしていた。
「カツサンド―― おいしー」
オベントウのカツサンド……。
家から持ち出して外で食べるものを、オベントウというらしい。
だから今日のわたしのオベントウは、これだ。
人間の言葉はまだよくわからない。
装飾が多く、直感的ではないし、種類も多すぎる。
それでも、ほとんどの人はジコクゴという一種類しか使わないらしい。
お風呂での一件のあと、アジエとの会話でそう理解した。
本来なら見た目や設定からしてロシア語が妥当なのだろう。
けれど、アジエが使う英語に固定することにした。
人間たちの間では、いちばん一般的な言語らしい。
固定してみると、意識しない限り全部英語で聞こえる。
それは少し、不思議だった。
まあ、それはいい。
それよりも、オベントウだ。
オベントウはいいものだ。
この体になってから、活動している間は三時間から六時間おきに食べ物が欲しくなる。
「おまえさ…… 燃費悪いって言われね?」
アジエはそう言って、少し引いていた。
理由はよくわからない。
ただ、それ以降、味が濃くてボリュームのある食事を選んでくれるようになった。
「そのドカ食いはインター・ヴァーチュアだけにしろよ」
ドカ食い、という言葉もよくわからない。
そもそも、わたしは人間とは違う存在だ。
調べてみると、現実という場所には、インター・ヴァーチュアから持ち出せない決まりがあるらしい。
人間はデータ化してこちらに来られるが、わたしたちは向こうへ行けない。
正直、あまり実感はなかった。
人間も結局、こちらに居着いているのだから。
現実のものは、インター・ヴァーチュアで体験できる。
そう考えながら、二つ目のカツサンドに手を伸ばしていた。
γのコクピットで、パイロットシートに横座りし、三つ目に取りかかる。
今日もアジエは、やることがあると言って家に残っている。
ジクサーに来て、γの修理を始めてから二週間ほど。
最初の数日は一緒だったが、今は一人だ。
来る時間も、帰る時間も、決まっていない。
やれるところまでやって、帰る。
それを繰り返していた。
最初に一人で来た日、アジエはオベントウを持たせてくれた。
「ほい。 作っといたから」
下着にガウンを引っ掛けた、妙にラフな格好――。
家にいるアジエは驚くほど気を抜いている。
わたしも真似してみたら、少しだけ気持ちが軽くなった。
布に包まれた箱の中身は、既製データではなかった。
素材から手を入れた、手作りの食べ物だ。
同じ材料でも、作り手によって結果は変わる。
データよりも、ずっと不均一で、だからこそ印象に残る。
そのことを、わたしは食べ物で知った。
「おまえ、ほっとくとラーメンばっか食ってそうだろ」
そう言われた。
失礼だと思ったが、否定もしなかった。
アジエのオベントウは、店の料理と同じくらい美味しい。
作業しながらでも食べられる、ちょうどいいものだ。
最後の一口を飲み込んで、端末を起動する。
γのログは、想像以上にひどかった。
前のオーナーは一度大破させ、雑な修理をして手放している。
中核のコード・ベースはほぼ失われ、残っているのは歪んだ痕跡だけだ。
今のオーナー……。
悠、だったか。
その扱いも、正直ひどい。
修理は繰り返されていたが、どれも場当たり的だった。
ログを追うだけで、効率の悪さが伝わってくる。
それでも、やるだけのことはやった。
胸の穴は塞がり、コード・ヘッドも交換した。
耐久度は下がったが、動かすことはできる。
二日前、再始動の目処は立った。
残るのは細かいチェックだけだ。
「今日は、こんなもんかな」
時間は19:30。
食事も済んだ。
最近、わたしはライナーを歩くのが好きだ。
サンタクララより小さいが、このジクサーにも十分な広さがある。
後部デッキはほぼ見終えた。
艦内マップを確認しながら、前方へ向かう。
以前、昇降階段の途中で不自然な区画を見かけたことがある。
船の最前部――。
そこに、大きな扉がある。
「……ああ」
ジクサーの構造図を頭の中に展開する。
この艦は、接舷強襲艦――。
アボルダージュ・クルーザー。
その先にあるのは、戦闘衝角。
「中、入れるんだ」
少し、興味が湧いた。
「おもしろそ――」
わたしはシートから飛び降り、そちらへ向かった。




