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電界駆動ブレード- compression  作者: 不治痛
序章 Digital Surrender - 降る世界と委ねる者たち
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第9話 彼と彼女ー女の事情/04 観測のはじまり

    【Flashback】


 規格外なんて言葉は、まだこちらの理解圏にある。


 チセは、基準そのものが違う。

 努力や試行錯誤、検証という過程を、そもそも通っていない。

 だから、痕跡が残らない。

 結果に至るまでの道筋が、丸ごと存在していないのだから。


 すぅっと短く息を吸い込み、ふぅっと吐く。

 意識を切り替え、無理やり平常に戻す。


 チセの贋作の服も、修復されたγも見ていた。


 胸から爆ぜ、コード・ベースを晒したあの骨董品を、私は諦めていた。

 むしろ消えてくれたほうがありがたいとさえ思っていた。


 それを、あの娘は直した。

 何事もなかったかのように。


 事実は明白だ。

 わからないものは、わからない。


 そうやって単純な言語に落とし込み、私は腹に落とす。

 複雑を解きほぐすより、受け入れてしまったほうが早い。

 特に、自分が太刀打ちできないとわかっている相手に、正面から挑むほど私は愚かじゃない。


「ログからトレースできないなら…… 自分でやってみるまでだ」


 式は見ている。

 あの発動の瞬間、黒い画面に踊った数式を思い出す。


 ρ_out(t) = Tr_O [ U_QNN ( |Ψ_in⟩⟨Ψ_in| ⊗ |O⟩⟨O| ) U_QNN† ]


 元々の私の式―― Ψ(t) = f(φ(t), ∫₀^t h(τ)dτ, α(t))。

 量子ニューラルネットの言葉に直せば、Ψ(t) = U_QNN|Ψ_in⟩。閉じた系の時間発展にすぎない。

 チセはそれを密度行列形式に引き上げ、観測者の状態をテンソル積として組み込み、出力からトレースアウトしている。


「……外部系を載せた上で、主系を観測的に射(・)影(・)した、ってことか……」


 理屈はわかる。

 だが、その理解はどこか空虚だった。


 私は人差し指を額に当て、深く息を吐く。


「O(観測者)って…… 誰だ?」


 わからない。

 わからなくて当然だ。


 そもそも、私のモデルは「誰も見ていない」前提で成立していた。

 演算さえ正しければ、結果は出ると信じていた。


 ……まあ、出なかったんだが。


 改めて考えると、この抽象的な存在は、定義していいものなのかすら怪しい。


 仮想世界内のユーザーの意識?

 量子(Q)ニューラル(N)ネットワーク(N)学習時に与えた教師信号?


 それとも―― チセ自身の観測意識?


 違う。

 たぶん、全部違う。


 チセは「観測する」という行為を、特別な操作だと思っていない。

 式を書き換えるのと同じ感覚で、世界を眺めている。


 だから、観測者が誰か、なんて問い自体が成立しない。

 あの娘にとっては、見(・)て(・)い(・)る(・)状(・)態(・)が常態なのだ。


「……ダメだ。 考えても無駄だ」


 とりあえず、私からするとこの式は野生的すぎる。

 あの娘が何を見て、何を前提にしたのかもわからないまま使うのは危険だ。

 下手をすれば、使った本人に逆流が起きる。


 このへんは、オズニアックと決定的に違う。

 あちらは、他人が使うことを想定している。


 一方、チセの式は――。

 本人以外が使うことなど、最初から考慮されていない。


 あれは道具じゃない。

 視点そのものだ。


「……作り、変えるしかねぇな」


 私は端末を起動し、シミュレータのワークスペースを立ち上げた。


 まずはベース。

 チセの式に手を入れる前に、構造まで分解する。


 密度行列で書かれたあの式――。


 ρ_out(t) = Tr_O [ U_QNN ( |Ψ_in⟩⟨Ψ_in| ⊗ |O⟩⟨O| ) U_QNN† ]


 一見すると綺麗だが、正体は完全なブラックボックスだ。

 演算子の順序も、干渉条件も、すべてチセの内部モデル依存。


 こんなもんをそのまま再現したら、使用者の処理が破綻する。

 データ的に一発で脳死、強制排出(イジェクト)だ。


 現実の脳にだって、影響が出かねない。


 ……だから、逆にする。


 私は仮想レジスタ上で数式を再構築し始めた。

 Ψを捨てる。

 |Ψ_in⟩を独立した初期状態として定義。


 |O⟩も独立変数として切り出し、テンソル積を組む。

 QNNによる時間発展を作用させ、そこからOの自由度をトレースアウトする。


 流れは同じだ。

 だが決定的に違う点がある。


 観測者O。


 チセが何(・)を(・)見(・)た(・)か(・)は、私にはわからない。


 だが、彼女が見(・)た(・)結(・)果(・)なら、私は目撃している。


 ならば、逆だ。


 結果が現れたという事実そのものが、そ(・)の(・)と(・)き(・)観(・)測(・)さ(・)れ(・)た(・)状(・)態(・)の存在証明だ。


 つまり―― 観測者Oを、結果から逆算すればいい。


 私はOの状態を、モデル観測者として構築した。

 静的な演算対象として挿入した。


 当然、これはチセのそれとは違う。

 だが、こうしないと、私には現象が説明できない。


 rho_out(t) = Tr_O [ U_QNN ( |Psi_in><Psi_in| ⊗ |O_model><O_model| ) U_QNN† ]


 修正した式をディスプレイに投入する。

 光が走る。


 二つのO_modelへの変数入力を求められた。

 起点と終点――。

 私の知る範囲で、意識から代入する。


 これなら失敗しても、非同期処理だ。

 実行者に影響はない。


 思考に連動して変数が代入され、ディスプレイが像を結ぶ。


 観測の、はじまりだ。


    【Present Day】


 階段の折り返しまで登ると、アジエは足を止めた。

 壁には両開きのハッチがあった。


 腰ほどの高さに斜めに取り付けられた取手は銃把のようだ。

 トリガーめいたレバーが付いている。


 左の扉に手をかけ、人差し指でレバーを引く。

 ガチンと掛け金が外れる音と振動が伝わった。

 上方向に引き上げると、見た目に反して扉は軽く斜め上へ持ち上がる。


 同じように右側も開けた。


 扉の向こうには半円状のトンネルがあった。

 かがんで覗き込むと、スゥーッと空気が流れ込んでくる。


「Bullseye(大当たりだ)――」


 アジエは立ち上がり、手の平を顔の前で開いた。

 ハガキほどのディスプレイが浮かび、コール音が鳴る。


 五回も鳴らないうちに繋がり、見上げるような角度で片肘をついたチセの顔が映った。


「……何?」


 画面からそっぽを向いた不機嫌そうな表情。

 背後には、白い蛍光灯めいたグレート・フラットの空が広がっている。


「オマエー。 ずいぶんとご挨拶だな」


 呆れて、自然とため息が出た。


「いいから、降りてこい」


「イヤだ―― まだここにいる」


「ワガママこいてんじゃねーよ。 今、下来てるからこっち来い」


 チセはブスッと、余計に頬を膨らませる。


「メカニックなんだろ」


 その一言で、ようやくチセは視線を画面に向けた。


「ちゃんと乗り手(ライダー)に状態と注意―― メンドクセー機体の持ち主に伝えないとダメだろ」


 アジエは画面越しに視線を合わせる。

 光っているような緑の瞳が、こちらを覗き込んでいた。


「……わかったよ、降りる……」


 数秒の沈黙のあと、観念したように呟くとコールは切れた。

 ブチンという音と共に、ディスプレイは暗転し、溶けるように消える。


 やがて、トンネルの奥からカンカンとハシゴを下る音が響いた。

 その音を聞きながら、アジエは壁に背を預け、キャップの鍔を引いて目深にかぶる。


 メカニックとしての自覚は十分だ。

 不貞腐れても、存外に職人気質。


 義務に訴えれば、やるべきことは受け入れる。

 結局、この仕事に向いている。


 それに、あの娘なら―― ギルドなど選ばずとも、持てる武器(容姿)で生きる道はいくらでもある。


 その気になればカタギの世界で、アルバイトではなく、本気でモデルだってやれる道筋だってあるのだ。


 そうは思うのだが、チセがアルマナックから去るという想像をすると不安で塗りつぶされる。


 見ていないと、何かをしでかしそうな予感がする。


 異質で、アンバランスな存在。

 チセという娘を、アジエは持て余している。


 その不安こそが、手元に置く理由だ。


 そして、それは―― あの検証結果から始まった。

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