第9話 彼と彼女ー女の事情/03 見るヒト
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うっすらと閉じた瞼越しに人工的なディスプレイの白い光を感じながら意識が浮上してくるのを感じた。
どうやら寝てしまったらしい。
仮想現実の世界でも睡眠欲求は湧く。
意識を電気信号的に繋いだ、言うなれば眠りの中の夢のような世界の中で、さらに見るものが果たして夢と言えるのかというのは一旦置いて、そんなことを自覚したのは久しぶりだ。
なんで眠ってしまったんだろうか。
近くに気配を感じて、薄っすらと目を開けた。
チェアをリクライニングさせた私の隣にはいつの間にか、チセが化粧台の丸椅子を持ってきて座っていた。
(こいついったい、いつ帰ってきたんだ……)
ちらりと画面の中のデジタル時計を見ると、どうやらあれから三時間ほど寝ていたらしい。
チセといえば、帰ってきて脱ぎ散らかしてそのままここに来たというのが丸わかりの姿だった。
上半身はトレーナーを着ているが、下は下着のまま――。
こっちも下着にガウンなんて姿で、人のことは言えないか……。
そのくせ、靴下は履きっぱなしで丸椅子にあぐらをかいてディスプレイを覗き込んでいた。
しばらく過ごしてわかったがチセは見た目に反して相当にガサツだ。
そして、その手には――。
カップ麺とフォーク……。
仮想現実とはいえこの時間に食う代物か?
この娘は本当に、なぜかよく食べる。
ズルズルと麺を啜ると幸せそうな顔し、直後にまたジーっとディスプレイを凝視する。
たまに手を空中でスワイプさせて何かを確認するとまた麺を啜る。
(何してんだ……)
まだ頭がボーっとする私は薄目でそんなチセを眺めていた。
最後にスープを飲み干すと、カップをデスクの上に置いた。
すると、空中で指を連続で弾きはじめた。
ディスプレイがその指に合わせて綺麗に整列していく。
綺麗にそろったディスプレイを順番に読み解いているかのようだった。
最後のディスプレイを確認すると、チセはそのディスプレイたちを真ん中で押し除けるように手を動かした。
中央に真っ黒で大きなディスプレイが出現した。
「たぶん、コレだよね」
そう一言つぶやくとチセはディスプレイに指を走らせた。
黒光りする仮想スクリーンに、私の数式が浮かび上がる。
チセはそれを見つめる。
艶のない黒に、青白いフォントが静かに浮かぶ――。
静謐な、完成された演算モデル。
Ψ(t) = f(φ(t), ∫₀^t h(τ)dτ, α(t))
私はその式を、削って削って削り抜いてここまで絞り込んだ。
数理的には完璧なはずだった。
でも―― 結果は動かない。
崩れる。
壊れる。
「……」
チセは無言のまま、ディスプレイの余白にそっと指を伸ばした。
静電反応もない、無機質なはずの画面がまるで生きているかのように、波紋を広げる。
チセの指先が描いた軌跡を光の粒子がなぞるように走る――。
その余白に、異質な数式が加わっていく。
ρ_out(t) = Tr_O [ U_QNN ( |Ψ_in⟩⟨Ψ_in| ⊗ |O⟩⟨O| ) U_QNN† ]
トレース演算……。
観測者項だと?
私が最初に切り捨てたはずの外部――。
それが加えられている。
「それ、見るヒトがいないんだよ」
チセの小さな声が、仮想空間に落ちた水滴のように静かに響く。
音もなく、光が生まれた。
静止していたはずの演算対象――。
それが、動き始めたのだ。
「とりあえず―― わたしが見るヒト」
その言葉と同時にシミュレーションが起動する。
ディスプレイに浮かぶのは視覚映像と、そして機体の状態。
どうやらグレート・フラットの景色だ。
「そーれっ。 ポチッとな」
とぼけたセリフで空中に浮かんだボタンのようなオブジェクトをポンと叩くと、視覚映像が一変した。
急速に歪み、一点へと収縮していく――。
崩壊するのか?
いや違う、機体の状態は圧壊ではなく維持されている。
私の意識はすでにハッキリとしていた。
だが、まるで金縛りにあったように画面に目は吸い寄せられ、その光景を見ることしかできなくなっていた。
(なんだ―― ネクサス・リンク? いや、ちょっと違う――)
光を引いたような―― 粒子の流れるような光景が数秒続いた……。
――そして、その瞬間。
収束していた一点から、フラッシュを焚いたように光が膨張するかのように弾けた。
視界が強烈な光で焼きついた。
目が眩んだ――。
一度、ギュッと目をつむってからゆっくりと再び細く目を開く。
私は、息を呑んだ。
キラキラと輝きを見せる構造物で構成された景色が広がっていた。
「うん、できた」
満足そうに、そう言うとチセは左手でディスプレイを払った。
見たこともない構造物で構成されたその街並みが映るディスプレイは空間に溶け、消えていった。
一仕事終えたという感じでチセはカップ麺の器を握って丸椅子から立ち上がり、ソロソロと部屋から出ていった。
チラリと一瞬、私の顔を覗き込んだが、狸寝入りを決め込んだ。
気配が消えたあと、私はむくりと身を起こした。
愕然とすると共に、今、私は感動すら覚えていた。
「測定じゃなく、観測が世界を決める」
あの男の言葉が頭の中でリフレインしていた。
これまで、この世界にどっぷり浸かってきた。
見てきたつもりだった。
でも私は、結局のところ式と既成の理論に囚われていたと思い知らされた。
誰かが見るという前提なしに、この演算は意味をなさなかった。
意味のない演算は現象に触れることができない。
必要だった、その一項――。
それは観測者の項。
|O⟩⟨O| ――。
誰かがそれを見る状態の導入。
それが、このモデルに世界を与える最後の鍵だった。
しかも、得られた結果は私が考えていた以上の内容だった。
チセは瞬時にそれを見抜いて書き加えた。
それがごく自然に、まるで当たり前のように。
結果すらわかっていた。
私はたらりと胸元に冷たい汗が流れたのを感じた。
【Present Day】
ジクサーの廊下で歩みを止めず、あの流れた一筋の冷たい汗――。
アジエはあの出来事でチセに感じた自分との差を思い返していた。
チセは見事にアジエの理論の欠陥を埋めて見せた。
アジエ自身も、それに深く感動した。
だが、その時に最も大きく感じたのは、むしろ驚愕だった。
いったい何に?
アジエにも説明は難しい。
強いて言えば、チセがあまりにも自然だったことだろう。
あの結論の導き方を知識差とは感じられなかった。
むしろ感覚…… 生き方…… 習慣……。
そんな根源的な――。
なんというか生物としての差というようなものを感じたのだ。
説明ができないので気持ち悪くて仕方なく、アジエは暫定的にそれを才能と定義することにした。
(まあ、そうやって何かを言語化しないと納得できないのが、私の限界ってやつかな……)
結局のところ、アジエも教授連中と同様に実証主義と機構主義が骨身に染み込んでいると思い知らされる。
どうしても自然現象に第三者の意識が介入することを拒んでしまうのだ。
観測者の意識が関与しなくても、環境との相互作用――。
つまり外部との情報の交換によって、量子的な重ね合わせは自然に崩れる。
それが現実世界の在り方であり、物理法則の姿なのだと信じてきた。
もし人によって結果の質が変わるとすれば、それは理論の限界を意味する。
どれだけ精密にモデルを組んでも、誰が扱うかで結果が揺れるなら、それは科学ではなく芸術だ。
どこまで行ってもアジエは科学者だ。
それを認めることは自らの根幹を否定するようで、恐ろしかった。
それでもチセが見せた、あの考え方と、導き出した式はとても美しかった。
とても自然で、吹き抜けるように、流れる水のように。
そしてチセは本当に当たり前のように観測いた。
階段を登りながらアジエはその観測結果がこの仮想現実で、どれほどの奇跡か――。
アジエが知る限り、それはビリー・オズニアック以来、初のインター・ヴァーチュアでの量子的発明だった。
再びアジエは回想する。
チセがやってのけたことを検証し、その危うさを確認した時のことを……。
【Flashback】
「……たった、腕の一振りでこれかよ?」
まったく、いったいあのジェスチャーアクションだけでどうしてこうなる。
チセが部屋から去った後、私は処理結果のログを漁った。
だが、跡形もなかった。
これでも、研究者だしメカニックだ。
ただのちょっとした削除ぐらいなら復元なんぞいくらでもできる。
――できるのだが、そんなバカな話があるか。
呆れるぐらいに、綺麗さっぱり消えていた。
あの娘が作った贋作のブランド服――。
タグを見れば一発でバレるはずが、そこだけが完璧に消えている。
あの時もそうだった。
中身がないのに、見た目だけが完璧だった。
今回も、それと同じ――。
がらんどうだ。
腕の一振りでかき消えたディスプレイと共に、あのシミュレーションのログも完全に失われていた。
「なんだこりゃ…… 痕跡一つ残ってねぇ」
違う。
これは消したんじゃない。
最初から、存在していなかった。
そう言うほうが、よほど正確だ。
頬が引き攣るのを感じた。
そして無意識に、唇を噛み、舌打ちをしていた。
――ああ、まいった。
どうやら私は、自分より優秀な存在というのに慣れていないらしい。
ファーック……。
こいつが、規格外ってやつか。
規格外?
いや、少し違う――。




