第9話 彼と彼女ー女の事情/02 アタックラムの上のとこ
時計が21:30を示していた。
「あっ、いけね。 ジーブス、チセは?」
二週間前からγの修理に没頭しているチセは、今や勝手知ったるようにジクサーへ出入りしている。
「ミス・チセはまだお帰りではありません」
再起不能と思われたγを起動寸前まで持っていくとは――。
本当に恐ろしい子だ。
今日も、夢中になりすぎているのかもしれない。
「どこにいるかわかる?」
「ジクサー内です。 会話をお繋ぎしますか?」
「お願い」
呼び出し音のあと、緑の目の少女が浮かび上がった。
「えっと、何?」
「えっとじゃねーよ。 オマエ、何時だと思ってんだ。 まだジクサーなの?」
「う、うん。 そう」
なんだ――?
チセはさっきからチラチラと視線を画面から逸らしていた。
それに、あの見事な髪がときおり、フワフワとなびいているようだった。
「ちょっと、チセ。 あんた何処にいんの?」
「んっ? えっと、ジクサーだよ」
また、髪がふわりとなびく。
風が吹いている?
「いや、だからジクサーの何処よ? あんたそこ外でしょ?」
「あっ…… その…… 気分転換で……」
チセは落ち着かず、頻繁に画面の外へ視線を逃がしている。
「あっ! おっ……」
なんだこいつ、急にウキウキしだした。
「あっ…… あーっ……」
今度はため息に、ガッカリ顔……?
「あんた、ほんとは何してんの?」
「えっ? あ、いや……えっと…… ちょっと、気分転換」
目が全開で泳いでいる。
バレバレの嘘だ。
「だからさ、何処でさ?」
「うーんと。 アタックラムの、上のとこ……」
「えぇ? あっこの見張り台? あんた、そんなとこよく見つけたね……」
本来使われない場所だ。私でさえ忘れていた。
「散歩してたら見つけたんだ。 ここからの景色、結構好きなんだ」
「ふーん……」
たぶん嘘だ。
でも、彼女らしい。
サプライズを極端に嫌うチセが、偶然そんな場所を見つけるとは思えない。
「で、あんたさ、いつ帰るの?」
「あっ……。 うんと、キリのいいとこまでやりたいし、遅くなると思う」
また視線が泳ぐ。
やっぱり、何かに気を取られている。
「オーケー。 遅くなるなら、スミーに送ってもらえよ」
「わかった……」
すでに画面も見ていない。
「はぁー。 あんま、遅くなんなよ。 もう切るよ」
「あー。 うん」
ブチッと、通信が切れた。
「あんにゃろー…… 向こうから切りやがった」
まあ大丈夫だろう。
スミーはジクサー全域を監視できるし、チセのこともよく見ている。
帰る気になれば必ず送ってくれる。
「んじゃ、あたしも気分転換して、もう一回トライすっか」
椅子から立ち上がり、コーヒーの準備をする。
豆を挽く動作で頭を整え、もう一度見直すために備える。
何かが見えるかもしれない期待と、何も出てこないかもしれない不安を抱えながら、私はキッチンへ向かった。
【Present Day】
ブーツの音を響かせながら進むたび、照明がアジエに続くように、明滅を繰り返す。
見た目は古めかしいが、こういったエネルギー消費を抑える機能はしっかり装備されている。
とはいえ、現実の世界の省エネとはいささか理由が違う。
仮想現実世界であるインター・ヴァーチュアではデータとして再現することでエネルギーの供給自体は無限だ。
そもそも、シミュレーションの世界で枯渇する資源などあるわけがない。
それに、コード・ベースと呼ばれる技術は資源すら焼べる必要がない。
周囲の環境データを取り込み、処理反応する――。
現実世界には存在しない、仮想現実世界の永久機関だ。
それでも、現実と同様に、むしろ場合によっては神経質に対策するのは、コード・ベース自体の処理上限対策のためだ。
例を挙げれば、コンセントからタコ足配線し、使いすぎてブレーカーが落ちるのを避けるというのに似ている。
コード・ベースは高負荷が続けば、処理の遅延や停止などが発生し、オーバーヒートのような状態に陥る。
実際にそれは圧と熱という物理演算に置き換えられ、時に破壊というシミュレーションとして仮想の現実となるのだ。
だから無駄な処理を最小限に抑えるようなオートメーションは必然となっている。
そうした照明装置の仕組みに追いかけられるように、前方デッキへと続く階段に向かって歩いているアジエには、チセのいる場所の見当がついていた。
おそらくは、アタックラムにある見張り台だ。
(なんであんな場所を気に入ったんだか……)
チセがアルマナックに入った頃に、何やらそこでコソコソとやっていたようだが、それ以来、何かというとあそこから外を眺めるようになった。
詮索は趣味ではないのだが、そのうち何をしていたのか聞いてみてもいいだろう。
出会う前の過去の話には踏み込まないが、縁がついてから後の話ならバチは当たるまいとアジエは思った。
なんせ、今や、ほぼ姉みたいなものだし……。
気になる理由は他にもある。
アジエ自身がその程度にはチセに深入りするに至ったきっかけ――。
あの才能に気づいたのは、そんなコソコソしていたチセに「いつ帰るんだ」と聞いたあの、後のことだったからだ。
またアジエの脳裏からあの実験の記憶が浮かび上がってきた。
【Flashback】
じっくり淹れたコーヒーをすすり、再び命題に挑む。
だが、現実は相変わらず厳しい。
まずは基礎の検証。
φ(t)、α(t)、履歴項∫₀^t h(τ)dτ――。
従属か独立かを確かめるが、どれも整っている。
分散も連続性も正規性も異常なし。
「違う…… 数式は美しいのに、結果が死んでる」
次に履歴項を再定式化。
重み関数、指数減衰、ラプラス変換……。
どれも収束性は改善するが、崩壊は止まらない。
不安定ではなく、確実な圧壊。
「履歴を変えても、何かが壊してる……」
そこで初期条件。
スクイーズド、コヒーレント、熱分布…… 境界も周期型から吸収型、自由境界まで試した。
だが崩壊点は場所を変えるだけで必ず現れ、逃げ場を塞ぐほど発生は早まった。
「どんな境界でも壊れるって…… 何よこれ」
パラメータを三つに絞り、2D/3Dプロットで特異点を探す。
だが見えるのは平坦な曲面ばかりで、異常は見当たらない。
むしろ一番穏やかな部分で唐突に崩れる。
「爆発でも暴走でもない…… ただ崩れる……?」
次は観測の導入。
本来観測者のいない系に、意図的に第三者的センサ=測定演算子を付加する。
見えない目を置けば何か変わると思った。
結果―― 壊れた。
観測タイミングをずらせばノイズが爆発し、リアルタイムに近づければ結果はランダムウォークのように揺らぐ。
観測の仕方ひとつで世界が震える。
センサも置いた。
観測もした。
反応もあった。
――なのに、決定的に何かが足りない。
物理量?
因果トリガー?
意味の付与?
どれも曖昧で、掴めない。
数式を睨む目が霞み、ディスプレイが歪んだ。
(ファーック…… どこにも進まねぇ……)
濃いカフェインを入れたつもりなのに、思考がまるで再計算されない。
眠気が一気に押し寄せる。
背もたれに身を預けると、チェアはゆっくりと傾き、静かに私を受け止めた。
徒労感が重い。
ここまで堂々巡りなのは初めてだ。
私はそっと目を閉じる。
意識が沈み、過去のノイズが海鳴りのように寄せてくる。
もういいや―― と投げやりな気分が、私を深みに引き込む。
瞼がゆっくり落ちていった。




