第9話 彼と彼女ー女の事情/01 ママじゃねぇし
【Present Day】
HODOの夜が明ける。白い朝光が差すと、街はいきなり息を吹き返した。
悠はチセを探しに、ライノはそれを見送ってから、港の騒然を背に甲板を離れた。
――
外界の遷移とはうらはらに、ジクサーの機関室だけは結界のように常に変わらない。
低い駆動音と「ゴンゴン」というリズム。
防音壁の奥から微かに滲む高周波。
多くには不快なその音も、アジエ・ジンガノには心地よいビートだった。
逆向きにまたいだパイプ椅子に肘を預け、円卓状のコード・ユニットとV字に並ぶ八つのコード・ベースを見つめる。
ここで音を聴く時間は、彼女にとって仕上げであり儀式だった。
整備は終わり、船内はまだ静かだ。
数値上は完璧――。
それでも最後は耳と感覚で判断する。それがアジエの流儀だ。
(チャタ音なし。 ブレなし。 ノイズなし)
計算によって構成される仮想世界で、あえて感覚に委ねる。
カリフォルニア工科大学の同僚なら笑うだろう。
「ロマンチストだ」と。
だが、彼女は知っている。
数値だけでは拾いきれない生きた声があることを。
量子物理の研究者で、結果と数字こそ真実だと信じていた頃、偉大な研究者に言われた言葉がある。
「数字も大事だが、耳で聞き、肌で感じてみなさい。 測定じゃなく、観測が世界を決めるんだ」
その一言で、彼女の人生は研究室から現場へ傾き始めた。
大学が企業や国家のシンクタンクと化した頃には、仮想世界でのフィールドワークの方が性に合っていた。
闘神のメカニックを務め、教授たちの愚痴を黙らせるために書いた論文が特許となった。
いくつかのコード・ユニットの核心技術がカルテック発として既成事実化した。
今も籍だけは残している―― 理由はネームバリューのためだけだ。
特許収入とスポンサーの後ろ盾を得て、彼女は自由気ままに生き、気づけばHODOに腰を落ち着けていた。
そのきっかけを与え、そして突然失われたのが闘神だ。
真相を語らぬ柳橋。
彼を支えるためにスポンサーとしてアルマナックを作ったのはアジエだが、彼が指揮官として優秀だったことだけは完全な誤算だった。
子供のような連中を集め、一流のコード・ライダーとして育ててしまった。
彼女の知る社会病質者の一匹狼だった柳橋とは別人のようだった。
アルマナックは今や彼女にとって居場所となり、十代の子供たちを守る責任も抱えた。
面倒を見すぎてママと陰で呼ばれているのは心外だが、否定できない。
今日も全力でジクサーを整備し、その足が確かであることを確認する。
そして視線はV字のコアの奥――。
巻貝のような“心臓”へと移った。
コード・ユニットと太いパイプで繋がれた、アジエが未発表の理論をもとに実装した実験装置。
これこそジクサーの奥の手。
カルテックにも、他の誰にも知られていない。
その装置を見ているうちに、ふと一人の子供の顔が浮かんだ。
チセだ。
(……ちょっとは頭冷えたかな)
唯一コード・ライダーでないチセは、事情あってアジエが預かることになった。
世間知らずで危なっかしく、放っておけるはずがなかった。
そして彼女の才能。
データ処理能力、多言語能力、そしてバイナリを直観で解剖する異常なセンス。
彼女がさらっと行った再構築は、量子干渉的モデルに近い――。
理論上の可能性を、まるで呼吸のようにやってのける。
人類がまだ量子の世界を想像する段階にいる中で、コード・ベースというブラックボックスを前に、その核心へ手を伸ばせる者が現実に存在するなど、本来はありえない。
(あれを見て、黙っていられるはずがない……)
アジエは体感時間として一年間、チセの能力を見守り続けてきた。
これは悪用されれば破滅的で、安易に外へ出してはならない力だ。
アジエは椅子から立ち上がる。
才能は異能でも、中身はただの思春期の小娘。
最近は色気づいてきて、そっちも心配だ。
しかも、無自覚に悠を転がしているのだからたいしたものだ。
「……いやいや、ママじゃねぇし。 せめて姉だっての」
娘―― ではなく、気まぐれな妹を探すためにアジエは機関室の扉へと向かった。
唸るような音に包まれていた機関室から廊下に出ると、嘘のような静けさだった。
鈍いベージュの壁と緑色のタイルの廊下。
船底に近い機関区画の廊下は、港にいる間はひっそりとしている。
さてはて、筋肉ダルマ言うところのプリンセスはどこで拗ねているのやら。
「姫ねぇ……。 確かにみてくれだけは姫だわ」
アジエは独りごちながら、映像の光に照らされた、あの緑色の瞳を思い出していた。
そして、その時にチセのセンスを確信したあの言葉もだ――。
チセは言ったのだ。
「それ、見るヒトがいないんだよ」
知識ではなく、ごく自然に、チセはあの理論の不備を言ってのけた。
「測定じゃなく、観測が世界を決める」
自身の人生を変えさせた言葉があれ以来、チセと重なるのだ。
……ふと、かつての夜の記憶が脳裏をよぎった。
【Flashback】
「Damn it…… だめだこりゃ」
風呂上がりのまま、お気に入りの緑の下着姿で作業していた私は、立体投影に映るグチャグチャの鉄塊――。
失敗したシミュレーションに頭を抱えた。
カルテックの教授連中へ一発成果を返して黙らせてやろうと思ったのに、このザマだ。
ガキの面倒見すぎて鈍ったか、と考えてしまい、慌てて振り払う。
「あたしはママじゃねーっての……」
画面の隅には、また届いた説教メール。
このご時世にテキストだけの手紙。
声すら送らない頑固者ばかりだが、根は優しい連中でもある。
「しばらく顔見てねぇな―― たまには里帰りでもしてやるか――」
といっても、半分はかつて自分たちが批判した男――。
ビリー・オズニアックの技術に私が関わっているのが気に食わないだけだ。
「帰らないにしても、論文は送ってやんねーとな」
まったく、気に入らない男に娘を取られた父親じゃあるまいし。
いい歳なんだから子離れしてほしい。
ほんと、もう、こっちは好きな時に、好きなとこに嫁に行くっつーの。
「うっ。 いや…… だめだ、考えるな――」
嫁ってところでなぜか、クソガキどもと、柳橋亮平の顔がよぎった。
「……嫁って単語でなんでバシの顔が浮かぶわけ?」
余計な連想をバシッと頬を叩いて断ち切り、再びディスプレイへ。
左右に手を開き、実行ログと予測画面を呼び出す。
私の研究はもう純粋な量子物理ではない。
この世界の演算は古典物理に従うのに、存在のあり方は波動関数の収束で説明するしかない。
ネクサス・リンクの転送など、太い帯域のLANケーブル扱いしている連中がいるが、実体は位相変換としか思えないような芸当だ。
コード・ベースもネクサス・リンクも、オズニアックの置き土産。
作り方は公開されていても、理論だけは誰にも完全に紐解けない。
完璧すぎて手を加える余地がない完成されたパズルだ。
だから私は、コード・ベースそのものではなく、周囲の環境に目をつけた。
負荷が物理的に表現される現象。
処理圧・処理熱といった物理的負荷に、量子論的な吸気排気の概念を重ねたのだ。
オートバイ好きのオズニアックにならって……。
一定ではない排出エネルギーを定量化し、逆に抵抗を与え、取り込み時には量子ゲート的な位相操作で最適化する。
周囲の環境データを燃料とするコアを触らず、データの吸気と排気を最適化し、効率を上げるというアプローチは教授連中から科学者ではなく、まるで町工場の職人の考えだと散々ケチをつけられたものだが、結果はドンピシャ。
学会では大受けした。
理論は特許となり、仮想世界の「量子処理機関」概念はカルテックが旗振り役となり、マスコミも騒いだ。
材料工学シミュレーションで先行していたMITにも一泡吹かせることができた。
気づけば、量子機関工学なんて新しい分野ができて、私はその第一人者で、カルテックの准教授。
現実では毛ほども役立たない分野を作った張本人になっていた。
しかも大嫌いなオズニアックの遺産を拡張した当人でもある。
そりゃジジイどもも複雑な顔をするわけだ。
それでも今では遊んでるとは言わなくなった。
――親不孝な話だ。
それでも破門せずに、今も研究所の扉を開けてくれている。
だからこそ、たまには成果を返す――。
それが、あの頑固ジジイどもへの義理ってもんだろう。
だが、今回は大苦戦だ……。
「……何が、おかしい?」
投影表示を巻き戻す。
潰れた鉄塊は逆再生で元の形に戻る。
負荷ログを重ねても異常はない。
関節、背部、接地部―― どれも許容範囲内。
「壊れてないのに、なんでだよ?」
センサーフィードも滑らかで、加速度もトルクもジャイロも理論通り。
プログラムは動くはずなのに、あの機体は一歩も踏み出さずに圧壊した。
指が思考より先に、空中へ数式を書き始める。
Ψ(t) = f(φ(t), ∫₀^t h(τ)dτ, α(t))
制御状態ベクトル、過去ログ補正、応力応答――。
すべて正常だ。
理論上は起動する。
なのに、シミュレーションでは潰れる。
「意味わかんね…… あたしの設計でこうなる? なんでよ」
独り言が震えた。
物理演算の破綻ならもっと派手に壊れる。
これは違う―― 意味をなしていない崩壊。
意味。
「……意味って何よ」
起動前に崩れる理由がわからない。
力は伝わっている。
波形も綺麗。
なのに、立ち上がろうとしていないみたいだ。
「ダメだ…… 茶でも入れっか」
指先が震えていた。
気づけばまだ下着姿。
ガウンを引き寄せる。
膝を抱えて鉄塊の残骸を見つめる。
――クソッタレ。
どうして応えてくれない。
投影の中で、潰れたコード・フレームワークは沈黙したままだ。




